相互批評の饗宴――幻想史学と仲間たち

 これは幻想史学の提唱から15年経った仲間たちとの相互批評と詩と写真による饗宴である。

書評―古田武彦著『俾弥呼』(ミネルヴァー書房)―室伏志畔

2011年11月09日 | 書評
   九州王朝説の明日のために①         室伏志畔
       
 9月22日付けの西日本新聞に福岡市西区の元岡G6号墳から、銘文入り鉄製太刀が出土したとの報道記事を友人が届けてくれた。そんな記事が載っていたかと産経新聞を広げて見るが、畿内版の新聞には何の痕跡もない。それを確認し送って貰った記事を読むと、その鉄製太刀を「大和朝廷の下賜品」としている。しかし、奥野正男はその元岡の古代製鉄遺跡について200メートルほどの狭い谷に二十八基の製鉄溶鉱炉が並ぶ特筆すべきものとしている。その現地の鉄との成分分析の比較無しに、相変わらず、学者は大和朝廷に関連づけるのに忙しい。
 その一方、九州王朝説関係の冊子を見ると、倭国から日本国への転換について、一昨年来の「禅譲・放伐論争」の延長戦にあり、大化の改新や壬申の乱について、通説と変わらぬ天智と天武の皇統争奪戦をあれこれしている。そこには九州王朝・倭国の影はすでに無い。しかし、白村江の倭国敗戦後の壬申の乱とは、唐によって一度は解体を見た倭国権力が、唐に通じ覚え目出度い明日の日本国権力と、明日をめぐる決死の戦いにあったというのに。それは九州を溢れ畿内へ場所を移し戦われたが、九州王朝説論者がことごとく倭国権力を見失い、皇統メガネを愛用し論じているのだから笑わせる。この状況は、九州王朝説のここ二十年の凋落と無関係でなかろう。そうした中、九州王朝説の提唱者・古田武彦が、その四十年に及ぶ古代史研究の「畢生の一冊」とし、『俾弥呼』を提示する。多くを教えられ報いること少なかった私は、今後、氏に話しかける機会がそうあるとは思えないので、少しく述べてみたいと思う。
     1.九州王朝説と市民の歴史研究運動
 氏の古代史研究の前提に親鸞研究がある。その史料批判から浮き彫りにされた親鸞思想は、本願寺教学からの親鸞の解放と別でなかった。この方法をもって氏は古代史に相渉り「魏志倭人伝」記載の邪馬壹国について、これまでの邪馬台国論は、それを大和と繋ぐために邪馬臺(台)国とした曲学でしかないと断じ、『三国志』全体の「壹」86個と「臺」56個に当たり、そこに一切の誤用がないことを確かめ、邪馬壹国の表記に誤りなしとした。それは大和一元史観からの邪馬壹国の解放と別でなかった。氏はそれを『「邪馬台国」はなかった』(1971年)にまとめ、華々しく70年代初頭に古代史界にデビューした。それに続く『失われた九州王朝』(1973年)は、漢籍に載る倭国は近畿王朝・大和朝廷ではなく、それに先在する九州王朝であったとし、倭国を日本国のかつての亦の名としてきた通説を排し、大和中心の皇統史観の外に九州王朝を屹立させた。これに続く『盗まれた神話』(1975年)は、記紀神話の多くを九州王朝からの盗用とし、天孫降臨神話を対馬海流上の島々からの九州侵攻とし、その天孫降臨地を北九州の高祖山の日向(ひなた)周辺に比定し、そこに倭国の起原を置き、神話を歴史に奪回した。この初期三部作における瞠目すべき発見の連鎖は、大和中心の歴史しか知らない日本人にとって事件であった。
この大和朝廷に先在する九州王朝の提唱は、皇統の枠組みを越えた王権論の提起にほかならない。それは皇統枠内に歴史学を閉じ込めてきた学界との軋轢を生む一方、戦後史学に飽き足らなかった市民の関心を集め、各地で「古田武彦と共に」学ぶ市民の歴史運動が組織されたことは、やはり特筆に値する。それらを全国的な「市民の古代の会」へ組織したのは藤田友治であった。かくして九州王朝説は、氏を頭脳に藤田を組織者にもつことで70年代後半から80年代を席巻し、一時、会員は八百名、非会員シンパはその10倍に及ぶ侮れぬ勢力をもった。この背景に70年代後半に始まった大学闘争が、72年の浅間山荘事件を引き起こすまでに退化し、行き場を失った学生や市民の受け皿として九州王朝説があったことは否めない。その組織者・藤田が学生運動家上がりであったのは偶然ではない。
     2.九州王朝説潰しの謀略
本書は、この初期三部作の嚆矢を成す邪馬壹国の女王・俾弥呼(ヒミカ)についての評伝で、氏の四〇年に渉るさらなる論理の到達点を示すものである。そこで言い残すまいとする氏の踏み込みは時に薄氷を踏み危うさと表裏してあるかに見えるが、私は急ぐまい。
 その九州王朝説は90年代に入ると一転し冬の時代をえる。2004年に藤田と私が「九州王朝説の現在」を「季刊・唯物論研究」87号で特集したとき、「まだ九州王朝説を云う人がいますか」と左翼知識人から云われたことを想い出す。そのため、近時、久しく出版されること少なかった氏の、それから七年した本書が、発売後、一ヶ月余にしてすでに5千部を売り、すでに第2刷に入ったと聞くのは嬉しい。その本書を刊行したミネルヴァー書房が一昨年から復刊した氏の第一期著作集もよいらしく、第二期著作集の復刊も間近いと聞く。この古田武彦リバイバルの兆しは、90年代に九州王朝説離れを来したが、大和中心の歴史学では何事も始まらないため、それに対し最もトータルな批判をもった九州王朝説の見直しにあるのかも知れない。現在の歴史学の閉塞状況の打開のために古田武彦の著作は、その基礎文献としてもっと読まれる必要があろう。
 ところで、私は古田武彦リバイバルの兆しと書いた。7、80年代、向かうところ敵なしの感があった九州王朝説が、なぜ急に90年代に入り冬の時代を迎えたかの反省は、もっとなされる必要がある。それをあらぬ「偽書疑惑」をかけられために起こった不幸な出来事ですますなら、それは大きなまちがいで、そこに思想としての九州王朝説の脆さがあったことの自覚なしに明日の九州王朝説もまたないのだ。
 江戸寛政期の再写本『東日流外三郡誌』を持ち上げた氏に、「歴史を贋造する人たち」と悪罵を投げたのは、「季刊・邪馬台国」の編集長で、数理歴史学を説く安本美典であった。その告発にも似た提起は学問的に争われることなく裁判沙汰になる背景に右翼の影も見られた。それは皇国に九州王朝を先在させたことへの反発にあるが、マスコミによる情報操作は、「市民の古代」の会幹部を浮き足立たせ、反対派の機関誌で論を張る体たらくを生んだ。そのことは、それが仕組まれた政治的な九州王朝説潰しであったことを語る。それは今も、この再写文書の中身を検討するのではなく、和田家文書の保管者であった故和田喜八郎の怪しげな手つきをあげつらい、その手の本がジャーナリズム大賞を受けるところに、この問題の根深さある。その賞のバックに戦後史学の屋台骨を築いた津田左右吉を擁する早稲田大学があり、多くの名だたる文化人がこの書を推し、歴史物を売り物にする出版社が、その後押しをしているのもまた事実なのだ。九州王朝説はこれらを向こうに回す歴史思想として足腰を鍛えることなしに、情報操作による袋叩きは、今後も繰り返されないという保障はどこにもない。
 この騒動の発端を成す氏の『真実の東北王朝』(駿々堂)が発刊されたのは1990年であった。これと前後するように昭和は終焉し、ベルリンの壁の崩壊を序曲としてドミノ倒しのごとく東欧社会主義国家が倒れ、ついに1991年12月にソ連邦も崩壊する。これらの終焉と九州王朝説は何ら関係ないとはいえ、その組織論が古田本による外部意識の注入論であることは、マルクス・レーニン本による左翼組織論と同じで、それにマスコミが疑惑のキャンペーンを張ると会がひとたまりもなく吹っ飛んだことは、90年代を前後する終焉に重なる一面を持つ。そのことは九州王朝説の再編は、それぞれが九州王朝説を内在化させる道を通してしか保持できないことを教えるが、現状は今も氏の本のオウム返しで、その組織的再編もまたその域をでなかったところに、かつてと違う九州王朝説の苦渋のこの20年が刻まれたのだ。
     3.神武東征論と記紀史観
 「偽書疑惑」の中でその払拭に敢然と一人、氏は抗する中で、その再編を安易に古田枠で処理しようとしたことは、「君が代」論の新展開の契機を創った「多元的古代・九州支部」(現・九州古代史の会)等の排除を結果し、氏は自ら九州王朝説の情報源の梯子を外す逆説を結果した。そうした中、氏は九州王朝から近畿王朝への架橋を、神武の畿内大和東征論をする中で、かつて多くの者がはまった記紀史観の迷路に分け入った。それはかつての『三国志』を中心とした漢籍から記紀文献への史料分析の移行を意味する。しかし、そこに内外文献の越えがたい位相差があることを氏は見ることなくたやすく二つを繋いだ。
 神武東征の出発地を記紀の説く南九州から北九州へ、氏は自ら発見した天孫降臨地に改めたものの、東征地を疑うことなく畿内大和に踏み行った。それは戦後史学の神武架空説に対し、記紀の神武東征説にお墨付きを与えることになった。この逆説は大和を疑わずに、そこを大和と信じ踏み込むものでしかない。ここにある欠落は、神武に先立ち大倭(やまと)に降った饒速日命の天神降臨の無視にあった。対馬海流上の島々である天国(あまくに)からの天孫降臨が北九州への侵攻であるなら、それに先立つ天神降臨が北九州を差し置き、瀬戸内海の奥にある畿内大和へ侵攻したと誰が信じえよう。実際、饒速日命の足跡は、今も畿内河内にあるとはいえ、それに先在し、九州の遠賀川流域周辺に今も見ることができる。それは神武東征の前後に刻まれた饒速日命族の大倭(やまと)侵攻と追放の二つの足跡にほかならない。この意味を押さえることなく、氏は記紀の畿内大和への神武東征を首肯したため、これを境に、氏は九州王朝と近畿王朝との二朝並立論へ移行し、九州王朝説は焦点ボケする。それは結果として九州王朝の陰にあった倭国皇統を見失わせ、九州王朝の影の半分を記紀が造作した畿内大和に丸投げした。そのため、氏はその後、倭をある時はチクシと訓み、ヤマトと訓む二元論を強いられる。のみならず、この神武皇統以前の饒速日命皇統の見落としは、『東日流外三郡誌』出現の幻想的背景がそこにあることさえ見ないのだ。ここにある氏の致命的な欠落は九州王朝・倭国の故郷が、倭(やまと)を淵源とすることの見落としにある。換言すれば、原大和としての倭(やまと)が倭国の共同幻想の淵源にあることに気づかないことにある。それなくして、畿内での大和の復活もまたありえない。

書評ー古田武彦著『俾弥呼』(ミネルヴァー書房)  室伏志畔

2011年11月09日 | 書評
九州王朝説の明日のために②      室伏志畔

4.一大国と邪馬壹国の表記について
 本書を論じようとして私はいささか遠回りし過ぎたのだろうか。しかし、この前提なしに、『俾弥呼』について述べることはできない。九州王朝を発見し、その原初の観念を与え、列島王権の隠された秘密に参内する道を切り拓いた名誉は、ひとえに古田武彦に帰する。そのことを認めた上で、私は大急ぎで、九州王朝の明日のために、いくつかの愚見を呈し、書評に代えたいと思う。
一つは、氏は本書を新たな三命題に始め、『三国志』全体の「陳寿の序文」の発見を目玉として本書を押し出す。そこにさらなる一歩を進めようとする氏の八十歳半ばにしての気概に私は敬服するほかないが、批評としての志を通すことこそ氏への礼儀と信ずる。そこに命題の一つが、こう語られる。
《「壱岐のような゛ちっぽけな゛島を、中国側が『一大国』などと表記するはずがない」
と。道理だった。わたしは直ちに「承服する」旨の御返事を書いたのである。》
と氏は書くのだが、すでに一大は天の分け字であることは、二昔前に林俊彦が『諸橋大漢和辞典』から引き出している。その意味は、当時の壱岐の倭名は天国(あまくに)であったが、天子の天をはばかり、陳寿はそれを一大国と中国側表記に改めたとする「常識」がそこに生まれたことが忘れ去られている。それを踏まえて敢えて云うなら、『三国志』の表記が邪馬壹国であったことに疑いはない。しかし、氏が倭国三十国の表記が倭語の漢字表記とするのは、韓伝の五十余国に同系の表記を見、「馬」や「烏」や「狗」の表記の重なりを知るとき、それらは中国側の戦時に備えての民族表記の符丁としてあるかに見える。その中の列島と半島に渉る「狗」表記国を糾合して委奴国は海峡国家として倭国を形成していたかに見える。問題は一大国の表記が「天」をはばかるものであったなら、「臺」が天子の宮殿を指すなら、邪馬臺国の倭語をはばかり中国側表記として陳寿は邪馬壹国を案出したとする疑問は依然として残るのだ。
     5.卑弥呼の共立と天孫降臨
二つは、邪馬壹国の大夫・難升米と共に魏を訪れた次使・都市牛利を分析し、氏は松浦水軍を引き出す。それは俾弥呼の共立に含意されるものとして理解してきた私には今さらの感があった。俾弥呼の邪馬壹国の成立は、旧委奴国系権力と一大率が率いる天国(あまくに)の海士族、つまり天孫族との共闘の成立と私は理解してきたからである。そのとき、「魏志倭人伝」行路分析と出土文物を重ね、邪馬壹国の成立を博多湾岸に置く、氏の分析の手並みは鮮やかだが、それはかつての委奴国に重なっても邪馬壹国に重なるかという私の疑問に氏との齟齬がある。委奴国から邪馬壹国への国名変更は、継承ですまない転換なしにはありえない。その謎を解く鍵が卑弥呼の「共立」にほかならない。そこに委奴国→邪馬壹国→倭の五王(藤王朝)→俀国と連続した九州王朝・倭国史を重ねるとき、倭国名の変動につれ順次、筑前から筑後、筑後から肥前へと中心移動した歴史をもったことは否めない。とするなら、委奴国と邪馬壹国の位置を区別なく扱う氏にその区別の自覚は薄い。
「其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為し」と邪馬壹国の歴史が略記されている。それは委奴国の後を受け、邪馬壹国は男王支配の七・八十年(二倍年歴)をもつが、そこに国名転換に伴う平和的な変質があったが、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」したことは、変質に伴う内部矛盾が激化したことを意味し、その調停策が俾弥呼の共立であったことを意味しよう。そこに記紀文献を重ねるなら、「倭国乱」の原因として、そこに氏の発見した天孫降臨を置くべきで、それは「弥生前期後半・中期初頭」の昔の話でなく、そこに縁戚関係を深めつつ侵攻を準備した天孫族を私は見たいと想う。しかし、それは成功したものの倭国の簒奪にまでいかなかったところに、巫女・俾弥呼を共立しての手打ちが生まれたのだ。そしてこの筑紫での妥協に満足しない天孫族傍流が、倭国支配の手薄な豊前への侵攻として神武東征が生まれたのではないのか。これとは逆に旧委奴国系の狗奴国は俾弥呼の邪馬壹国に和すことなく、その南で邪馬壹国に対したのだ。
三つは、本書で氏は任那からの崇神の侵攻を述べ、韓半島に皇統を初めて開いているのは興味深いが、それを任那とし伽耶とするのをはばかる。しかし、すでに倭国自体が「もう一つの伽耶」でしかないのだ。そのためらいは中国南朝が深くつきあった倭王・多利思北孤を女帝推古と見まちがうはずはがないと氏はしながら、その歴代南朝の『晋書』と『梁書』が一致して、「倭は呉の太伯の後」とするのを見ない。しかし、そこに誤認があろうはずがないのに氏はそれに一切、触れず、倭国を天孫降臨に始まるとするのは、大いなる矛盾ではないのか。かつて江上波夫の騎馬民族王朝説が一世風靡したとき、民俗学の両巨頭がこう語りあった姿が想い出される。
柳田国男 (騎馬民族征服王朝説は)いったいありうることでしょうか。あなたのご意見はどうです。つまり「倭国は大王=天皇族」に横取りされたということを国民に教える形になりますが。
折口信夫 われわれは、そういう考えを信じていないという立場を、はっきり示していったらいいのではないでしょうか。
氏は何も語らないことによって、漢籍が証言する倭王の出自を「呉の太伯の後」(周の末裔)とする見解に与したくないかに見えるが、それは歴史家としてフェアとは思えない。この長江下流の呉王権は、それが船文明に属すことから私はそれを南船系王権と呼び、それが集団稲作をもたらし倭国の礎を築いたとしてきた。その南船系稲作国家に、韓半島を南下した北方系騎馬民族が、対馬・壱岐を橋頭堡としての侵攻が、記紀の記す天神降臨や天孫降臨にほかならない。この南船北馬の興亡こそが倭国の基本矛盾とし、私は列島史を東アジア民族移動史の内に位置づけてきた。一大率である天率はこの降臨の司令官で、その治下に置かれた伊都国王は、かつての委奴国王の現在の姿にほかならない。そこに倭国の盟主であった委奴国王の自立性を失った姿を見るなら、委奴国から邪馬壹国への転換の必然性は明らかである。
  6.異論の九州王朝説の進展
四つは、氏の三十国の比定に関わるが、唯一、卑弥呼に「和せず」と記された狗奴国について大芝英雄が、七世紀成立の『翰苑』に、『三国志』と同時代の『廣志』の引用断片を発見し、女王国のその南の邪馬嘉国に到る記事を見出し、狗奴国=邪馬嘉国とし、現在の山鹿市に比定した。その隣に菊池市を見るとき、そこに狗古智卑狗があったとするほかない。私はその狗奴国をはじめ諸国を氏が何処に比定したかは云うまい。ただこの大芝英雄の発見の延長に、私は井真成を朝敵・熊襲と見て、その故郷・産山村を熊襲の地・熊本に発見する。それは井氏=倭氏で、狗奴国こそ、かつての委奴国の淵源で、倭(やまと)の起源に関わったがために、後に朝敵として追われたとするほかなかったことによる。
五つは、その上で原大和としての倭(やまと)に戻るなら、立岩遺跡のある飯塚が注目されよう。飯塚は井塚で、倭塚となるからで、そこが集団稲作に関係する石包丁の生産地であるのは偶然と思えない。その王が大型甕棺墓に前漢鏡と思しき鏡に剣と玉を備え埋葬され、その滅亡と共に箱式石棺が席巻していくのは、そこに天神降臨にあったからで、そこにある熊野神社の境内に、その征服を誇る天磐立の巨石があり、八体の猿田彦大神の石碑を鳥居横に見ることができる。明治神社史料の八割強が、猿田彦をサダヒコ、サタヒコとルビし、出雲の二の神・佐太彦大神を呼び出している。その誕生が太陽に黄金の矢に射貫かれたことにあったとする加賀の潜戸の伝承は、饒羽矢日命の名に重なり、天神降臨が出雲王朝の了解の下に成されたことを知るが、記紀はそれを秘してきた。
記紀の神武東征譚は、その饒速日命の天神降臨を取り込んで書かれており、神武の妻子を饒速日命に奪回するなら、なぜ欠史八代の葛城王朝が置かれたかは、それが饒速日命皇統史であったからで、そこに倭国皇統の発生があったことによる。その葛城王朝の地は北九州市八幡西区の香月の地で、杉守神社のある岡が葛城山で、その神社の境内下から八個の金銀銅の卵形の玉が戦国時代に出現し、騎馬民族特有の卵生神話を伝える。それを伝える「香月家譜」を先年、私は、実見させていただいた。それは今、香月家の母系の井原家に所蔵されている。それに「松野連〈倭王〉系図」を重ねるとき、井原は倭原で倭氏の本家を意味し、飯塚は井塚で、倭塚となり、私の云う南船系初期倭王墓となろう。このことは委奴国に天神降臨があり、さらにその上に神武東征が重なるのを見るなら、倭(やまと)は神武東征に遡る列島王権の争奪の興亡地であったことを知るのだ。その飯塚近くに、卑弥呼が生まれたという伊川の地名があるのは偶然とは思えない。
六つは、その饒速日命が垂涎した倭(やまと)の地に、原・委奴国があったが、饒速日命の天神降臨によって追われ、博多湾岸で委奴国を再興したのが「松野連系図」から幻視できる。それこそが金印国家・委奴国にほかならない。これが九州王朝・倭国王統で、「呉の太伯の後」が南船系王統を営む陰で、筑豊で饒速日命に始まり、それを簒奪した神武の倭国皇統が胚胎し、次第に豊前を支配下に治めた。それが「隋書俀国伝」に記された秦王国で、その帝記に出現した倭国にほかならない。この倭国王統と倭国皇統の対立が倭国の基本矛盾で、ついに六世紀初頭の磐井の乱を惹起し、倭国皇統は白村江の戦いで、唐に通謀し、倭国王統を敗退させ、日本国へ道をつけた。その白村江の敗戦後に登場する筑紫都督府は、明らかに唐制の占領政府であったのは、唐が百済征服後に熊津都督府を置いたのに倣うもので、氏の説く筑紫都督府はそれ以前のものである。
     7.皇統メガネをかけた九州王朝説の現状
663年の白村江の戦いから701年の日本国の立ち上げまでに、空白があったのではなく、そこに滅びなんとする倭国勢力と、新興の日本国勢力との生死を賭けた興亡があったのだ。672年の壬申の乱を、通説も九州王朝説も兄・天智の近江朝と弟・天武の皇統内のコップの中の嵐とするが、天武は解体を見た倭国王統側に属したことは、この乱が唐の郭務悰の離倭を見届け、親唐勢力の倭国皇統の天智の近江朝を襲ったことに明らかである。その天武のバックに新羅の客使・金王実があったことは、乱後に船一艘の礼を取ったことで知れよう。その前段階に白村江戦後の朝倉宮の変があったので、それを重複記事から661年から667年に奪回し、この変が668年の新羅による半島統一に至る唐との新たな鞘当てを千載一遇の機会と捉え、朝倉宮の変から壬申の乱に至る意味を、東アジアの再編地図を背景に理解しなければならない。朝倉宮の変で斉明を失い、天智は九州から命からがら近江に逃げたので、畿内大和から近江に668年に遷都したのではない。乱は敵・唐に通じた倭国皇統の天智勢力が、唐の列島撤退を機に倭国王統の天武が引導をくれるものであった。それゆえ、これに勝利した天武の大和入りに、畿内での大和朝廷の誕生があったので、それは畿内大和における九州王朝・倭国の再興以外ではなかったのだ。この畿内での倭国の復活を、天武崩御直後の686年の大津皇子の変によって覆すことによって、倭国皇統は701年の日本国へ道をつけることに成功する。それを『日本書紀』は三十余人を捕らえるが、二人を流罪にしたといった小さなものに描いたが、真実はその末尾の「是年、蛇と犬が相交めり、俄ありて倶に死ぬ」が、この変が大和勢力の出雲系物部氏(蛇)と委奴国系天武勢力(委奴=犬)の粛清であったことを今に伝えている。その完全勝利後、倭国の復活である天武による大和朝廷の誕生を打ち消すために、『日本書紀』は九州での倭(やまと)での皇統史を神武東征に一行の瀬戸内海経路を足すことで畿内大和への神武東征を造作することで、神武に始まる倭国皇統史を畿内大和に取り込み造作し、天武の大和での倭国王統復興の偉業をかき消し、遠い昔から畿内大和にそそり立つ万世一系の天皇制神話をそそり立たせた。その陰に真実の畿内大和史は隠されているんだ。
この倭国での旧勢力・倭国(倭国王統)と新勢力・日本国(倭国皇統)の基本矛盾を見失ったところで、白村江戦後の倭国から日本国への転換について、古田史学会の「禅譲・放伐論争」が行われ、壬申の乱を見ながら禅譲論に傾く無惨な展開をしている。それは木を見て森を見ないもので、壬申の乱が倭国側と日本国側の戦いであることを、九州王朝説を忘れ、皇統史観内で蘊蓄をこらしているというわけだ。それは神武東征による倭国皇統の変質を見ずに畿内皇統の発生を見たことにあろう。
      8.結語
長々と失礼を顧みず愚見を述べたのは、九州王朝説の明日のためを思ってのことである。というのは、かつての90年代の九州王朝説への魔女狩りを想い、再びそれが襲うとき、敢然と一人戦った氏がいない日は、明日にも始まるかもしれない危機感が私にはある。九州王朝説を氏と共に葬むらしては断じてならないのだ。そのために敢えて述べたので、氏を批判しようとしてのことではない。
ところで、近時どこかで氏の梅原猛批判を拝したが、そこで出雲王朝架空説に始まった梅原日本学の誤謬が論じられている。確かにその論旨にまちがいはない。しかし、批評は鞍部ではなく高見に対して放たるべきであるなら、梅原猛が格闘した律令国家の隠れたデザイナー・藤原不比等に一言あって然るべきかと思う。のみならず、その梅原猛がかつてのまちがいについて出雲を訪ねる謝罪の旅をし、『葬られた王朝』を上梓し、自己批判している現在を見ないのは、批評として公平を欠こう。
むしろ氏が成すべきは、そうした他者の瑕疵をあげつらうのではなく、氏の九州王朝説に九州王朝を閉じ込めるところがあった罪を、明日のために開く道を指し示すことではないのか。書くべき時間は、残り少ないとはいえ残されていないわけではない。
我々が思索し格闘した九州王朝は、氏の説く九州王朝説より広く深かったことに、近年の氏と我々のねじれの原因があったので、我々は九州王朝説に異を唱えたのではなく、氏に負けず劣らずそれを深く解明せんとしてきたことが、共立できない理由となっているのは、明日の九州王朝説にとって不幸なことだと私は想っている。果たして、氏は自らをしか信じないというなら、それは余りに淋しすぎるというものだ。(2011.10.26)