ウォーキング・レボリューション

地に足を付けて、自然と伝統文化に寄り添いながら、日々の生活を丁寧に送っていく。そんな暮らしの革命です。

生活としての農

2006-02-07 23:52:20 | 生き方

「ふるさと回帰・里山帰農塾 2003」第3回集中講座に参加した時(2003年9月27日)に書いた感想です。今も基本的な考え方は変わっていないので、投稿します。
今回の里山帰農塾に参加して一番感じたことは「生活としての農・生活の場としての里山」の大切さです。「生活としての農」とは、現代農業即ちビジネスとして収入を得るための機械化、工業化された農ではなく、自らが生きていくために必要な野菜やお米や果物を作り出していく農である。また「生活の場としての里山」とは、保存や環境問題解決としての里山ではなく、自らが生きていくために必要な木材や薪炭や水を生み出す場として里山である。次に感じたことは、気候風土、特に土の違いである。稲刈りや畑作業をとおして、この地域の土が粘土質であることを実感した。また、大山千枚田の棚田のなだらなか斜面と天水を生かした水田と地元青梅の丘陵部になる谷津田と大きく異なることを知った。やはり自分には住み慣れた青梅で農的暮らしを実践していきたいという思いをあらたにした。農的生活とは、エネルギーや水や資源を地域の中で循環していく仕組みを作り出していかない限り永続できないと思う。そしてその地域は当事者でいられる範囲である必要があり、内山節さんの言う「小さな世界に還る」ということにもつながるはずだ。循環型の生活とは、加藤登紀子さんの言う「0から生まれて0に帰っていく」ことであり、今のいい方で言えば環境負荷をかけないということである。今回の帰農塾を通して、様々な人と知り合えたことも大きな収穫だった。これからの時代を生き抜くためには、年齢や性別を超えた多様な経験を持った人々とつながって、柔軟なネットワークを創っていくことが必要だと思う。また「労働価値付けをお金以外の方法でいかに表現し、共有するか」という問いをこれからも考えつづけていくことが大切だと感じた。いかにお金をかけずに生きていくかということが農的暮らしと直結していると自分の中で考えている。


中村敦夫さん講演「南方熊楠と現代」

2006-01-28 09:44:00 | 生き方

今日は、「青梅の水とごみを考える会」と「たまあじさいの会」による「南方熊楠と現代」と題する講演会に参加しました。講師は前「みどりの会議」代表の中村敦夫さん。熊楠を「近代日本におけるエコロジーの先駆者」とみなす理由は、世界を因果関係だけで説明し尽くす近代科学のあり方に異を唱えたところにあります。科学的思考に慣れた私達は、いつの間にか木を木として見なくなっているのではないでしょうか。明治末、神社合祀令により日本各地の御神木が次々と切り倒されました。これに乗じて木材業者達は巨木をお金に変えていきました。近代科学という眼鏡を外し、木を生命を支える私達の親しい友達として見直してみることが必要だと思いました。中村さんは、政治を動かすには地方から変えていく必要があると言っていました。身近なところから自然を守っていくことが世の中を動かす力になっていくのかもしれません。近著『ゴミを食う男』も楽しみです。


映画『ザ・コーポレーション』

2006-01-02 10:13:00 | 生き方

今日は、『ザ・コーポレーション』という映画を渋谷UPLINKで観てきました。株式会社の誕生から、グローバル化し国家を超える力を持つまでに至った企業の実体を、マイケル・ムーア、ノーム・チョムスキー、ヴァンダナ・シヴァを始めとする総勢40人の証言や発言を基に描いたドキュメンタリー映画です。現在の法人としての企業は、精神分析を行なうとサイコパス(反社会性人格障害)ということになるそうです。サイコパスの特徴は極端に自己中心的で、慢性的な嘘つきで後悔や罪悪感が無く、冷淡で共感が無く、加えて自分の行動に責任が取れないことだそうです。環境問題への取り組みを行なう先進企業インターフェイス社のCEOレイ・アンダーソンは、自社も含めて全ての企業は持続可能ではありえないと語っています。しかし、これは企業だけに当てはまることではなく、現代の社会を受け入れ、その恩恵を享受している自分についても言えるのではないかと思いました。多かれ少なかれ自分もサイコパスであるのです。日々の何気ない一つひとつの行動が地球規模の環境破壊と南の国々の貧困と飢餓に結びついているからです。あらゆる物事がつながったグローバル化した世界を変えるには、ローカルな解決策を一人ひとりが実践していく以外にないと信じています。国や国連が決めたルールに従うのではなく、一人ひとりの内なる声に従って行動していくことが求められてるのです。日々の生活の一つひとつに対して、いかに地球規模で考え、自分を変えていけるかが問われているのだと思います。映画の中である人が「富は私有をすることによって初めて生まれる」というようなことを言っていました。確かにその通りだと思いましたが、今すぐ自分の財産を全て捨てる勇気はありません。でも少しずつ自分の持ち物を減らしていけたらと思っています。これらの実践を無理なく、楽しく(持続可能に)行なっていくかを考えつつ、実践していけたらと思っています。
インターフェイス社については、『自然資本の経済?「成長の限界」を突破する新産業革命』の7章と8章で紹介されています。


ホームレスの人達の生き方

2005-12-02 13:27:01 | 生き方
ここ数日ホームレスの人達の生き方についてあれこれ想像している。ホームレスの人達は、社会的弱者というイメージでいたが、実は、人間的にみてともて強い人達なのではないかと思う。リストラなどで会社をクビになった時、ある人は転職し今までと同じような生活をし、ある人は退職金でのんびり暮らし、ある人は追い詰められて自殺(今年も自殺者が3万人を越えたらしい)をし、ある人は病気に逃げ込んで鬱になり、そしてある人はホームレスになる。ホームレスの人達は、今までの社会的地位や名声、家族や友人とのつながり、冷暖房が完備され安眠できる家、年金や健康保険や失業保険を始めとする様々な生活支援サービス、水道や電気やガス、こういった現代人が生きていくのに必要な諸々の物やサービスを自らの意思で拒絶し、一方で自分の力で一から作り上げていく人達なのではないかと思う。行政や企業の力を借りなくても、一銭のお金を持っていなくても、携帯電話やインターネットなどの情報インフラを使わなくても、自分の等身大の身体と知恵だけを使って、生き延びていく術を創造していく人達ではないかと。都市生活者が生み出したゴミをリサイクルし、家を作り、服を集め、食べ物を確保し、お金に変えられるものを見つけ出し、さらには余暇の楽しみまで生み出す。都会の公園のテント村にはホームレスが集い、自然とコミュニティが生まれる。必要な物を交換しあい、互いに助け合い、喜びや楽しみを共にする。もちろんそれなりの掟や仕来りはあるのだろうが、憲法や法律などのように自分と関係なしに決められた押し付けのルールでなく、自分達で作り出したものだし、必要とあらば変えていくこともできる。もちろんこれは想像なので、全てのホームレスの人達がこんな理想的な生活を送っているとは思えない。けれども、朝日とともに目覚め、日々の気温の変化を体感し、四季の移ろいを味わう、どんな物であれ食べられることに感謝して食べる(日本では毎日300万食分の食料が捨てられているらしい)、人の温もりや優しさに触れられることに心からありがとうと言える、お天道さまに顔向けできる自然に対して真っ当な生き方、生き物として当り前の生き方、そんな生き方に都市生活者である自分よりはずっと近いのではないかと思う。相手のことをよく理解せず、自分のことは棚に上げ、人のためと思って余計なお節介をする前に、自ら考え、選び取り、一つ一つ実践していく、そういった姿勢を学ぶことができるのではないかと思う。見方を変えれば、お金なしでは何一つできない、お金にシャブ漬けになった都市生活者こそ、もっとも哀れな社会的弱者なのかもしれない。自らの力で明日を切り開いていく力強さを自分も身に着けたいと思う。


地域通貨

2005-09-07 17:11:54 | 生き方
p9071177今日の写真は、ニラの花です。シジミ蝶の一種がペアで止まっていたので、思わず写しました。
今日は、使っている地域通貨についてお伝えします。
一番使っているのは、全国区で通帳型の「レインボーリング」です。 2002年9月11日に入会して以来、32回の取引があります。ほとんどは、アリエルダイナ-、カフェスロー、アンプリュウド、エクリュなどでの飲食代の割引に利用しています。かなりのマイナスで、稼いだのはパソコンの使い方を教えたことくらいです。少し稼がなくてはと思いレインボーリングの会員ページの「Give you」に「DOS/VパソコンへのLinuxのインストール」を追加しました。これまでもメールやワープロ・表計算ソフトの使い方教えます、オーガニックスイート売ります、を「Give you」に載せていたのですが、一度も連絡はありませんでした。自分も初対面の人には頼みづらく、会員ページ経由で取り引きしたことはありません。逆に親しくなり過ぎてしまうと、地域通貨では物足りないのではという気使いが働いてしまいます。先日もウィルスに侵されたパソコンの再インストールを引き受けたのですが、電車賃の他に食事などいろいろもらってしまいました。
地域通貨の本質は、信頼に基づく交換だから、信頼関係が築ければ、バーター取引(物々交換)でも目的は果たせるのだと思います。繁雑な事務手続きをするよりも、取引が「心の通帳」に記録される方がいいと思います。
2つ目は、ナマケモノ倶楽部が作った「ナマケ」です。「ナマケ」は、購入代金が、エクアドルでの環境保全活動へと役立てられるシステムになっています。また紙幣には、エクアドルのバイア・デ・カラケスで作られているリサイクル紙が、硬貨には、タグアという象牙ヤシの実が使われています。
3つ目は、BeGood Cafeの「Good Money Union」という投資プロジェクトの原型になった映画製作プロジェクトで使われた紙幣型の「Word」です。『Opinions』と『Spoken Word ! 』の映画制作費の一部を寄付すると、「Word」という紙幣がもらえ、BeGood Cafeの入場などに使用できました。2004年9月18日(土)に行われた上映会、BeGood Cafe Tokyo Vol.69 「市民マネーで映画ができた!」で、残った「Word」と引き換えに配給収益の一部が戻ってきました。
4つ目は、「2005年度パーマカルチャーギャザリング」で使われ始めた紙幣型の「パーマ」です。「パーマ」については、2005年8月6日(土)の記事で少し紹介していますので、参照して下さい。
まだ使ったことのない借用証書式清算システムの地域通貨「ワット」を友達の間で使おうと思います。このWAT(ワット)清算システムは、運営にそれなりのコストが発生する通帳型(口座変動形式」)の問題点、発行基準を整備したり流通量管理をしなくてはならない紙券を発行するシステムの問題点を解決するものだそうです。この仕組みは、あべよしひろさんが書いた『ボクらの街のボクらのお金』という本の中で分かりやすく描かれています。自分が振り出したワット券が人の間をあちこちと旅して、自分の手元に帰ってくることを想像しただけで、何だかとってもワクワクします。


私流ファシリテーションの8ヶ条

2005-09-05 16:58:00 | 生き方

p9051172今日の写真は、2005年06月21日(火)に仕込んだ梅のみりん漬です。まだ少し早いですが、待ち切れなくて飲んでしまいました。この分だとすぐになくなってしまいそうです。
今日は、「私流ファシリテーションの8ヶ条」を紹介します。これは以前受講したBe-Nature Schoolの「第1期ファシリテーション基礎講座」の課題としてまとめたものです。あらためて読み返してみて、昨日実践できたこと、できなかったこと、いろいろあったことに気づきました。次回は事前に読んでから臨むことにしようと思います。
大きな絵を持ち全体を構成。予備の引出しも忘れずに。
プログラムデザインは、全体の構成を考えてしっかり準備しよう。参加者や場の雰囲気に合わせて対応できるよう、普段から柔軟な発想を身につけよう。(準備と対応)
どっしり構えて、自信を持って。もしものときは深呼吸。
ファシリテーターが不安だと場も動揺する。失敗を恐れずに、自信を持ってどっしり構えよう。焦ったときは、まず深呼吸して落ち着けよう。困ったときこそ参加者を信頼し、場に任せよう。解決策はその場にあるはず。(自信と信頼)
一人ひとりのエネルギーを結びつけ、創造の流れを呼び起せ。
参加者全員が作曲しながら演奏している、そんなムードを醸し出そう。そのために一人ひとりの個性を生かした参加を促そう。何気ない質問で、輪の中に溶け込む工夫をしてみよう。(場づくり)
まずは自分が楽しもう。頼れる人はすぐそばに。
緊張や不安はつきものだけど、無理せず自分がリラックスできるスタイルで進めよう。足りない要素は周りの人の力を借りよう。(スタイルと協働)
指示は簡潔明瞭、過不足なく。
指示は、デモンストレーションを交えて具体的に伝えよう。でも参加者の反応が思った通りにならなくても、流れに任せて見守ろう。きっと予想もつかないアイデアが生まれてくるはず。(指示と反応)
タイムキープはさりげなく。でもメリハリはきっちりと。
創造の流れを止めずに、プログラムを再構成しよう。でも要所要所では、きっちりけじめをつけよう。(時間管理)
しっかり耳を傾ける。その人にとっての真実を大切に。
その人の感じたこと、考えたことを誠実にそのまま受け止めよう。特に自分とは違う思いや考えを持っている人に対しては、一歩引いて謙虚な気持ちで学びとろう。(傾聴と受け止め)
驚き、悩み、勇気と共に学ぶ場に。
習慣効果で鈍っている感覚をハッとさせる驚きを与えよう。創造性を刺激し、疑問や熟考を促す問いを投げかけよう。リスクを恐れずなんでも言ってみる勇気を呼び覚まそう。人と人が直接出会って語り合えば、大きな学びが生まれるはず。(創造と学び)


2005-09-01 09:32:00 | 生き方
p8311155今日の写真は、以前フォトアルバムで紹介した「白山吹」の実です。2005年4月28日(木)に書いた通り八重の山吹は実をつけませんが、この白山吹は一重なのでちゃんと実をつけました。
今朝は悪夢で目が覚めた。いつの頃からか繰り返し見るようになったあの夢だ。大学4年生で単位をあと少し取れば卒業というシチュエーション。なぜか授業に真面目に出ていなくて、欠席数が多く単位を落としそう。このままいけば、留年だ。でも待てよ。自分は大学を卒業してるはずなのに。これは何かの間違いに違いない。よくよく考える。夢だということに気づき、ホッとして目が覚める。
普通ならこれでお仕舞だが、今回はもう一波乱。夢の中で大学は卒業したことに気づいたけど、今度は会社に行くのを忘れていたと知り、慌てて会社に行こうとする。でも待てよ。自分は今失業中なのだ。やっぱり夢だと気づき、ホッとして目が覚める。
以前こんな夢を見ました。エアコンの冷房のスイッチを入れると雪女がスーッと出て襲ってきたのです。夏の間は暑いので、エアコンに身を隠していたんだと妙に納得。でも今考えてみると、スイッチを入れないエアコンはとっても暑いはず。まあ夢だからいいか。その後、一反木綿も出てきて、すごいことに。一反=約千平米なので、やたら大きかったです。しかし今調べたら、一反木綿の「反」は、土地の広さを表す単位ではなく、綿や麻布などの大きさを表す単位だそうで、一反=大人一人分の服に必要な量だそうです。ちなみに、小泉八雲の「雪女」は、青梅が舞台だそうです。「雪女サイダー」なるものも作られて売っているそうですが、いまだに飲んだことはありません。
それからこんな夢も。ある人を馬鹿にしていて、いざ走って逃げようとしたら、突然体がスローモーションのようにゆっくりとしか動かなくなってしまう。後ろから段々とその人が迫ってくる。捕まりそうになった瞬間、自分の上げた悲鳴に驚いて目が覚める。
よく見る楽しい夢に虫取りの夢があります。コナラの木の樹液に集まったカブトムシやクワガタを取っています。木の皮をはぐと、何と10匹、20匹、いや50匹ぐらいいるではありませんか。こんなにたくさん捕まえられない。どうしよう。と困っていると、目が覚めます。残念。


森の哲学者 メイナク族

2005-08-31 22:30:00 | 生き方
幸福を考える上で、宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福は
あり得ない」という言葉は忘れることができません。先日、Local Futures日本語版
の出資者の一人でもある森谷博さんがディレクターとして作ったテレビ番組「森の哲
学者 メイナク族」のビデオを見ていて、メイナク族の村長さんも同じようなことを
言っているのに、気づきました。ビデオの中では、こんなエピソードが紹介されてい
ました。ある青年が川で鋭い歯を持つ魚に足を噛まれてしまい、血だらけになって家
まで運ばれました。村中大騒ぎになり、人々が次々とその青年の家に集ってきます。
まるで自分が噛まれたかのように泣き出す人もいます。そしてシャーマンたちが傷が
早く治るようにと祈り、踊り始めます。一人の痛みは、村全体の痛みなのです。
もう一つ興味深いのは、メイナク族は、「幸せ」「不幸せ」「自然」「宗教」「芸
術」などの言葉を持っていないそうです。言葉を持たないのは、それらが当たり前に
存在するので、わざわざ意識して求める必要がないからなのかも知れません。ビデオ
の最後の方で、村長の娘が「幸せ」をあえて表現するとしたら、「病気もせず、誰に
も迷惑をかけずに、仕事をして、家族を食べさせていけるということ」だというシー
ンがあります。全くその通りだと思うのですが、今のグローバリゼーションの世の中
では、「誰にも迷惑をかけずに」生きるということがほとんど不可能なのではないで
しょうか。働いて収入を得ても、何かを買っても、貯金をしても、税金や年金を納め
ても、そうパソコンを使ってインターネットでメールを出したりしても、どこかでつ
ながりグローバリゼーション(=環境と文化の破壊、貧困と飢餓の拡大)に加担し、
第三世界の人々と将来世代の人々と地球から未来を奪っているといえるのです。そん
な絶望的な状況にあっても、希望への光を見出すヒントをメイナク族の生き方は、与
えてくれていると思います。メイナク族の村は、たった140人ですが、そこには、エ
ネルギーや水や資源を持続的に利用し、あらゆる社会サービスを満たす仕組みが備
わっています。ある意味で究極的なローカリゼーションの形といえます。そして人が
大地とつながり直し、人々とつながり直し、自分自身ともつながり直すことは可能で
あることを示しています。人は元々、自然の恵みによって生かされていると同時に、
自然に働きかけて自然を豊かにする大地のケアテイカーなのだから。
森の哲学者 メイナク族の紹介文
http://home.hiroshima-u.ac.jp/yiwa/moriya.html

絶対的貧困や戦争状態にあるのでない限り、幸福は外から与えられるものではなく、
自分の内から生まれるものであるというのは、真実のように思えます。誰が考えても
不幸と思える状況にありながら、セラピストと自然の力を借りて、回りの人々との関
係を修復し、その人なりの幸せを見つけ出す奇跡のような実話を集めた本がありま
す。バースセラピストの志村 季世恵さんが書いた『いのちのバトン』(岩崎書店)
です。とても感動的な本なので、皆さんも是非読んでみて下さい。
この本にあるように、不幸への対症療法的なアプローチが必要であると同時に、予防
的なアプローチというか、家族とかコミュニティの中で不幸に感じないようにするた
めの仕組みもやはり必要だと思います。幸福についても、ヘレナさんのいうように個
人と社会の両方のレベルで同時に取り組む必要があるようです。




『知恵の三つ編み』

2005-08-31 17:43:52 | 生き方
p83111575月21日(土)に種を蒔いたミニ田んぼの稲が花を咲かせ、実をつけ始めました。去年はプロの方から苗をもらったせいなのか、種を蒔く時期が遅かったせいなのか、今年はあまり分けつしていません。このままだと来年のしめ縄が作れるかちょっと心配です。
今日は、ポーラ・アンダーウッド著『知恵の三つ編み』を読みました。この本の著者は、2005年7月28日(木)に紹介した星川淳さんの『環太平洋インナーネット紀行?モンゴロイド系先住民の叡智』の第3章で紹介されているイロコイ連邦の構成部族の一つオナイダ族の出身です。
この本を読んで学んだことは、自分が何歳でも、どんな状況に置かれていても、どんな人からも、常に学ぶべきことがあるということです。たとえ自分達を殺そうとする敵であろうと、自分達の食べ物を奪おうとする人達であろうともです。また現代の社会や教育システムが、いかに先人の知恵を伝えることを怠り、同じ過ちを何度となく繰り返してしまっているかということも学びました。そして学びには忍耐が必要です。伝えたいことがあれば、態度で示し、自ら学ぼうとするまで、根気よく待つ必要があるのです。
学びについての物語は決して固定化したものではありません。物語そのものの中に新たな学びにつながる仕掛けがいたるところに織り込まれています。先人の知恵に学びながらも、その時代や環境に応じた知恵が次々と積み重ねられていくものなのです。そんな大いなる学びの物語を今こそ一人ひとりが受け継いで、語り広めていく必要があると思います。
残念ながらこの本は、「品切れ」のため、現在書店では手入できません。図書館で借りたり、古本を買って読んでみて、気に入った人がいたら、ぜひ「復刊ドットコム」で「投票」して下さい。よろしくお願いします。


人のケアテイカー

2005-08-29 09:38:40 | 生き方
p8291153今日の写真は、サルスベリの花です。
以前、自分は「地球のケアテイカー」になりたいと書きましたが、もう一つ「人のケアテイカー」にもなりたいと思っています。これは、パーマカルチャーの第2の倫理、「人々に対する配慮」のことでもあります。
宮大工の口伝に「塔組みは木組み、木組みは木のくせ組み、木のくせ組みは人組み、人組みは人の心組み」というのがあります。昔は家を建てるのに近くの山にある木だけしか利用できませんでした。もちろん今のように集成材を作る技術もありませんでした。そのため棟梁は一つひとつの木の癖を読んで、組み合わせを考えなければなりません。木の癖が読めても、実際に木を組む際には、大工たちの息が一つに合う必要があります。大工たちの息を一つにするには、それぞれの大工の性格や癖を読み取って、心をつなぎ合わせる作業が求められるのです。
こうしてできた家は、現代の工場でプレカットされた集成材をまるでプラモデルのようにして作った家よりも丈夫で長持ちするそうです。癖のある木が組み合わさることによって、逆にお互いの木を支え合いしっかりとつながり合うからです。家族やコミュニティもデコボコのある人がお互いに支えあうことで強くなると思います。今の社会や教育は、一人ひとりが規格品の木になることを強いているのではないでしょうか。アイデンティティの確立や自己実現をするための個性ではなく、あるがままのデコボコな存在を受け止めてくれる家族やコミュニティが今必要なのだと思います。
どうすれば集成材化され、規格品となった自分を解き放ち、お互いが生かされる関係を創り出していけるのか。具体的な方法論はまだ見つかっていません。けれども「関係性の問題」でも少し触れたように、家族+αから始めていけばいいのだと思います。それがコミュニティへの第一歩。どのようなαを加えればいいのか。試行錯誤は続きます。