帰ってきたドリアン長野の海外旅行記

長期休暇もない有給休暇もないリーマン・ パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず、海外を旅したお笑いエッセイ

#88

2024-04-26 | 日記
ドリアン長野のカンボジア旅行記
2018-03-12 | Weblog

カンボジア再びその1   カンボジア再びその3   カンボジア再びその5


ドリアン長野のカンボジア旅行記 
カンボジア~ その1

「い、いっでぇ~っ!」 
腹痛で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の5時前だ。シェムリアップのホテルでついに下痢に襲われてしまった。原因は分かっている。昨日、アンコール・トムを見物したあと、ホテル近くの屋台に夕飯を食べに行った。そこは広場に立ち並ぶ屋台のうちの一つで、母と娘が切り盛りしていた。昼に食事した時、彼女たちが親切にしてくれたのだ。広場にはゴミ捨て場もあって、ハエを追っ払いながらメシを食うのも難儀だったがな。行ってみると、昼間は汚れた顔をしていた娘が化粧して着飾っている。夜は営業用の顔か? ともかく、フルーツを何種類かミキサーに入れてジュースにしてくれたので、飲んだ。それがいかんかったようだ。しかし、その時点では大したことがなかったので、早朝にホテルをチェックアウトした。「フリーダム」という名のそのホテルはホテルといっても、ゲストハウスに毛が生えた程度だ。モーニング・コールを頼んだはいいが、部屋に入ってみると電話がない。はて、どうすんだ?と思っていたら、翌朝、フロントの人がその時刻に部屋のドアを叩きに来たのであった。このホテルはプノンペンの空港で客引きのにいちゃんに勧められた。バイクの送迎付きで一泊15ドルのはずなのに、二泊で40ドルだとぬかしやがった。(もちろん30ドルにさせたけど)行きは飛行機だったが、帰りの便が満席だったので、スピード・ボート(という名の渡し船)にした。
 ボートは強盗に襲われるので危険なのだそうだが、地元の人や観光客が大勢乗っていてのんびりしたものだ。5時間かけて、プノンペンに着く。ううっ、いかん、小腸及び肛門周辺に緊急事態発令~っ。船着き場からダッシュでホテルにチェックインして、トイレに駆け込む。軟便というよりは水である。ああっ、フラフラする。3時間ほど横になったが、眠れない。今日はゆっくり静養しようと思ったが、せっかくカンボジアまで来て無為に過ごすのはもったいない。なんとか病身を起こし、ピーピーのヘロヘロ状態でホテルを出て、バイク・タクシーをつかまえた。郵便局に行ってハガキを出してから、情報省に行く。ここでパスポートと写真を提出し、書類に必要事項を記入すれば、ジャーナリスト・カードを5ドルで発行してくれるのだ。その間、わずか10分。カオサンあたりで売っているぱっちもん(ニセモンのことです)とはわけが違う。何に使うのかというと、これが大いに役に立つ。日本に帰国する際、税関職員の目につくようにパスポートにはさんでおくのだ。職員がパスポートをめくりながら言う。 「これは何ですか?」 「ジャーナリスト・カードです」 「すると、今回はお仕事で?」 「ええ、まあ、取材でね」 とかなんとか言って楽しむわけだ、これが。(うっ、書いてて涙が.....)ともかくだなっ、それだけをやり終えるとシアヌーク通りにあるコンビニ、「Tokyo store」でパンとジュースとミネラルウオーターを買い、ホテルに戻った。まだ6時前だが、今日の行動は全て終了! ベッドに倒れ込む。
 それから翌朝までベッドとトイレを20往復はした。食欲はないが、脱水症状になるのでこまめに水分を補給する。買っておいたパンにはとうとう手をつけなかった。下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。その間、ず~っとお尻はピーピーさ。その3日後、仕事から帰ると保健所から留守電が入っていた。
 「あなたの乗っていた帰国便の乗客の中からコレラ患者が出ました。追跡調査をしたいので連絡して下さい」ってな!
 げげ~っ! あわてて夕刊を読むと、インド帰りの男性がコレラを発病。インドで食べた乳製品が原因らしい。今年始めてのコレラ患者。という記事が載っていた。その男はラッシーを飲んで感染したに違いない。そういえば、飛行機の中で私の隣に座った男は青い顔をして機内食も食べずに(私も無理して食べたが、残してしまった。機内食を残したのはそれが始めてだ)、頻繁にトイレに行ってたぞ。うぬぬ、まさか、そやつが.......。
 あくる日、保健所に電話して、体にはなにも異常なし、と答えておいた。「お尻がピーピーですう~」などと正直に申告するといろいろと面倒だ。昔、インドから帰った時に懲りてるからな。 
ドリアン長野のインド旅行記

その日に病院に行って、薬をもらってきた。医者からは「3日以上、下痢が続いたら危険ですよ」とあきれられたけど。薬を飲んだら、お尻は沈静化した。それだけで済んだのならよかったが、私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。  オマケ

カンボジア~その2

アンコール・ワットやアンコール・トムにはカメラのフィルムや絵葉書や笛や扇子を売りつける少女がごまんといる。観光客を見つけると、「お兄さん、お兄さん」と雲霞の如く寄ってくるのだ。彼女たちをかきわけ、かきわけ遺跡を見ているうちに、ふと思った。プノンペン市内ではほとんどお金を使うことはなかったが、遺跡を見るためにシェムリアップに来てからは予想外に散財した。まず、プノンペンからシェムリアップ間の航空券が55ドルに、帰りのスピード・ボート代が25ドル。アンコール・ワットに一回入場するたびに20ドル必要だ。あと、バイクタクシーやホテル代も結構使ったし、出国税もいるから、その分だけ所持金から引いてみるとだな........。があ~ん! 今日のホテル代を払ったらすかんぴんやあ~っ! 困ったあ~、どうすんねん、と遺跡の中で一人、頭を抱える私であった。
 ともかくホテルに戻り、リュックをかき回してみると、ベトナム紙幣が5万ドンほど見つかった。すぐに中国人経営の両替商で両替してもらうと、9ドルになった。う~、ありがたや、これでご飯が食べられる。あとは日本円の硬貨をかき集めると2000円ほどになったが、硬貨は両替できない。日本人のツアー客をアンコール・ワットの前で待ち構えて、紙幣に両替してもらおうか等と思案しながらもう一度ホテルに戻ると、フロントで日本人らしき男が二人、話をしている。そう思うやいなや私は一目散に駆け寄り、彼らに話しかけていた。
 「すいません、日本のかたですか?」 「そうですよ」
 事情を話すと、心良く両替してくれた。のみならず、ホテル内にある中華レストランでご飯をおごってくれ、1万円も貸してくれた。いい人やあ~。聞くと、これからバンコクからネパールへ行き、帰国するのは二か月後だそうだ。あとから考えると、二か月もの間、2000円も使えない硬貨を持ち歩くのはさぞかし邪魔だったであろう。川原様、ありがとうございました。おかげで私は生きて日本に帰ることができました。
 さっそく、二日間世話になったバイクタクシーのソーウオッポにガイド料を払う。大金が入って気が大きくなっていたので奮発して20ドル渡した。とたんに彼の顔がだらしなくデヘヘ~となったので、しまった、払い過ぎたなと思った。初日にガイド料を聞いたら、「It depends on you 」(お任せします) と言われていたので少なかったら悪いと思っちゃうんだよな。敵も人の心理をよく心得てるよ。いかん、いかん。せっかくのお金を大事に使わんとな。それからは出費をできる限り押さえた。ずっと頭を洗ってなかったのでシャンプーを買いにコンビニに行った時も、5ドル(!)もしたので30分迷って結局、買うのをやめたくらいだ。(頭がかゆい)
 だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。空港まで 350バーツだというので「バーツの持ち合わせがない」と財布の中身を見せた。運ちゃんはその中にあったドル紙幣を目ざとく見つけ、空港で5ドルを両替すればいいと提案し、運賃も300バーツに負けてくれた。空港の銀行で5ドル出すと、両替は最低10ドルからだと言う。仕方なくボロボロの5ドル札をもう一枚差し出すと、古いお札は受け取れん、とぬかす。きしょーめ、ビンボー人だと思ってなめんなよ。今度は1ドル札を5枚取り出すと、それも駄目だと拒絶! ふぎーっ! どないせいっちゅうねんっ!! 結局、最初の5ドルだけ両替してもらった。(なら、最初からそうしろよな)
 ドンムアン空港の出国税は250バーツ(現在は500)。出国審査を終えるともう外国の通貨は必要ない。手持ちのお金を日本円に換金し、この時点で所持金が1000円と9ドルと5・5バーツ。  
 なんとか帰国して自宅にたどり着いた時の所持金は1133円だった。昔、「がっちり買いまショー」というテレビ番組があったが(知ってるか?)、その海外版があったとしたらわしの優勝やあ~っ! _

管理人マーキュリーマークからの伝言
現在はドリアン長野が執筆した平成十年代と違い増税されたことから実質的に出国税の値上げはあり得るので詳細は各自で調べて下さい。

カンボジア再び その1

at 2005 10/21 00:09 編集

Conquer your passion and you conquer the whole world.
己の欲望を征服できれば全世界を征服できる。(ヒンドゥーの諺)
暑さで眼が覚めた。天井の扇風機が視界に入る。ここはどこだ? と覚醒していない頭で一瞬、考える。少しづつ脳が現実を把握し始める。シアヌーク通りはプノンペン市内でも最先端の通りだ。独立記念塔を中心に伸びるこの通りにはカフェ・バー、ハンバーガーショップ、ディスコ、日本料理店、スーパーマーケット、ベトナム航空の事務所等が点在する。二日前に国内線でシェムリアップまで飛び、アンコールワットやアンコールトムを見てまわった。そんなに散財したつもりはなかったのに、所持金がほとんどないことに遺跡の中で気がついた。
財布には日本の硬貨が二、三千円あったが、紙幣でないとリエルに両替もできない。僕は一日や二日なら飲まず食わずに野宿なら辛抱できるのだが、昨夜のホテル代や現地で雇ったバイクタクシーのソーウォッポに払うガイド料もない。ツアーで来ている日本人観光客に両替を頼もうかと思ったが、それもためらわれた。バックパッカーは堅気のツーリストを恃んではいけないという矜持みたいなものがあった。と言えば聞こえはいいが、要するに観光客の立場に自身を置き換えてみれば、人品卑しきバックパッカーが近寄ってくれば、これはと身構えるのが当然だろう。結局、同じゲストハウスに投宿していた二人組の日本人旅行者を見かけ、地獄に仏とばかりに両替を持ちかけた。武士は相身互いですからと快く両替してもらったばかりでなく、夕食までご馳走になってしまった。四十代と思しき二人組の年長の人は 「私もバングラデシュでお金がなくなったことがありましてね。気持ちはよくわかりますよ」と言われた時には、自分だったら見ず知らずの他人にこんなにもできるのだろうかと反省しきりであった。(続く)

カンボジア再び その2

at 2005 10/24 23:05 編集

彼らに礼を言って別れたあと、近くの広場に蝟集している屋台へ出かけた。昼間その屋台の一つで食事をした。母娘でやっているらしい。清潔とはいい難いが、ハエを追い払いながら食べたその小松菜と豚肉の炒め物に大根のスープはしみじみとうまかった。
「チュガン」(おいしい)と言うと、母親がにこっと笑う。外国人は珍しいのだろう、しきりに水を持ってきてくれたり、懸命にハエをうちわで追ってくれたり、おかわりはいらないかと何度も訊いてきた。その屋台に行ってみると、その時の娘が昼間とは見間違うほど化粧をし、着飾っている。勧められるままにフルーツと生ジュースを飲み、片言のクメール語で話した。近くの屋台からも人が集まってきて話がはずんだ。が、それがいけなかった。話題も尽きてしまったので、切りのいい時間に腰を上げる。何十メートルか歩くと、もう辺りは漆黒の闇だ。光の無い闇がこんなにも恐ろしいものだとは久しく思ってもみなかった。後ろを振り返ると屋台の一角が亡霊のように闇の中に浮かび上がっていた。僕は逃げるようにゲストハウスに帰った。
未明に腹痛が来た。痛みは間欠的に激しさを増してくる。そのまま、まんじりともしないで耐え、夜が明けるのを待ってゲストハウスを引き払う。地元民と白人バックパッカーでひしめくスピード・ボートに乗り込み、五時間半かけてプノンペンに戻った。船着き場からバイクタクシーでこのシアヌーク通りにある「レックス・イン」にチェックインした。部屋に入るとベッドに倒れ込む。こんなひどい下痢はインド以来だ。
「なんでこんな国に来てしまったんだろう」
天井を見つめながら自問してみる。すると突然、記憶の彼方に押しやっていたジョン・ダンの詩が天啓のように脳裏をかすめ、それは次第に実体となって現われた。
「奇なる眼を持ち生まれしならば
視えざる物も見にいくべし
一万の昼と夜を越え
時が君を白髪に変えるまで」
ベッドの上で苦笑する。僕は視えざる物を見ることを欲して、こうしてここまでやって来たのではなかったのか。体は重い。食欲は無い。近くにあるスーパー、「TOKYO INTERNATIONAL」でパンとジュースとミネラルウォーターを買ってはいたが、固形物はのどを通らない。それでも気力を振り絞り、ベッドから起き上がった。限られたわずかな滞在時間である。カンボジアまで来て一日中寝ているわけにはいかない。ふらつく足でホテルを出ると、通りは血液が沸騰しそうなほど暑かった。独立記念塔からノロドム通りを三キロほど北上するとワット・プノンという寺に突き当たる。この寺は十四世紀末にペン夫人が建立し、それがプノンペンという名前の由来となった。手前の道を右折すると、トレンサップ川沿いに中央郵便局がある。ここで日本の友人に手紙を出すために切手を買う。隣の窓口では葉書の束を持った中年の日本人女性が、まさに必死という感じのクメール語で職員としきりに何かを交渉している。ちらっと盗み見ると、日本語で書かれた年賀状だった。声を掛けようと思ったが、言葉を飲み込んだ。彼女がどのくらいの年月をプノンペンで過ごしているかはもちろん知らないが、僕には彼女が何かと闘っているように思えたからだ。僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。(続く)
「OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら

Roll It Over https://t.co/hJW13ImjVj @YouTubeより

— ドリアン長野(紹介用) (@duriannagano) December 19, 2020

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カンボジア再び その3

at 2005 11/02 23:09 編集

プノンペン滞在の最後の日。午後にはバンコク行きの便に乗らなければならない。もうこの国には再び来ることはないかもしれない。そう思った僕はこの街に最後の別れをしようと、「キャピトルゲストハウス」へと足を向けた。市内を南北に貫くメインストリート、モニボン通りは多くのホテル、旅行会社、レストラン等が立ち並び、ひっきりなしに流れる車とバイクの喧噪にあふれている。文化芸術省を右手に見て左折すると、バックパッカー御用達の「キャピトル」がある。シャワーとトイレ共同で三ドルで泊まることができる。一階には吹き抜けの食堂があり、日本人や欧米人旅行者のたまり場となっている。
「ハロー、キリングフィールドに行ってみないか。往復五ドルでどうだ?」
バイクタクシーのにいちゃんが声をかけてくる。
「友人を待ってるんだ」
うっとうしくなった僕はそう言って彼を追い払い、外のテーブル席に腰をおろした。この周辺は日没になると強盗が多発し、治安が悪い。それにもかかわらず、ここには様々な人間が集まってくる。旅の情報を求め、たむろする者。それを目当てに客引きをするバイクタクシー。アジアを放浪したあげく、「キャピトル」の狭く汚い独房のような一室でずるずると何か月も沈没する者もいた。そういった連中は一様に目つきが悪かった。社会に適応できず、日本を飛び出しアジア的寛容さに安住し、各地を放浪する。旅が五、六年と続くと(実際には十年以上旅を続けている者もいる)、それはもはや旅とは言えなくなる。非日常が日常となり、感覚が麻痺し、ついには摩滅してしまう。そうなれば日本に帰ろうと思っても帰れなくなる。いや、帰りたいといった気持ちさえ起こらなくなるといった方が正しい。別に帰らなくても本人の意志であれば他人が口を挟むことではないし、それはそれで僕なんかは尊敬の念さえ起きるのだが、この「キャピトル」にたむるする連中は重い沈殿物の如く怠惰で人生の貴重な時間を無為に食いつぶしているように思えた。(続く)

カンボジア再び その4

at 2005 11/11 23:21 編集

頭上に大きな盆をのせ、そこにピーナッツの袋を山ほど置いた物売りの少女が入ってきた。テーブルの間をまわりながら声をかけてゆく。一人の白人が立ち上がって1ドルを少女に渡した。少女はピーナッツの袋を渡そうとするが、彼は「いいよ、そのお金は取っておきなさい」と言うように頭を振る。僕は通りをぼんやりと眺める。バイク、屋台、物売り、往来で遊ぶ子供たち、賭けトランプに興じる男たち、それを店の前に出した椅子に座って日がな一日、眺めている老人。こんな光景はアジアのどの街でも見た。カルカッタでもホーチミンでもバンコクでも上海でも。喧噪と倦怠。無気力と熱気。全く暑い。インドネシアの強烈な陽と熱風を受けて座っていると、アジアの大地に溶けていくような、怠惰な世界に埋もれていくような、そんな自虐的な感覚に引きずり込まれるような昼下がりの。リヤカーを引く人夫。午睡する褐色の肌。暑い。行き来する褐色のカンボジア。渦巻き、交差する人、人、人。眼を閉じると旅の断片的な思い出が浮かんでは消える。
たとえば、プノンペン市内は街灯が極端に少ないので、午後六時にもなるとバイクや車のオレンジ色のテールランプが通りに浮かび上がる。それは息を飲むような幻想的な美しさであり、僕は黄昏が闇に変わってしまうまで飽かず眺めていた。
たとえば、半日、市内の観光案内をしてくれたバイクタクシーのダリー。イスラム教徒の彼はラマダーン中だった。年に一度、一か月のラマダーン期間は日の出から日没まで飲食はおろか、唾を飲み込むことも禁じられている。ダリーは日中の暑さの中でひっきりなしに唾を吐きながら市内を案内してくれた。二人で小高い丘にあるワットプノンに登り、そこから市内を一望した。ダリーは言う。
「UNTAC(カンボジア暫定統治機構)ができた頃はすごかった。アメリカからヨーロッパからアジアからいろいろな人間がやって来た。通りはそういう人たちでいっぱいだったよ」。僕は国内外の政治的な思惑に翻弄されたこの国の悲劇を思いつつ、通りをあふれる彼らの姿が目に見えるようだった。(続く) _

カンボジア再び その5

at 2006 01/07 01:21 編集

たとえば、プサートゥールトンポン。通称「ロシアンマーケット」と呼ばれるこの骨董市場。一歩足を踏み入れると陽の射さない暗い市場に所狭しと骨董品の店が並ぶ。中は入り組んでいて迷路のようだ。大半は偽物なのだが、無数の金銀製品、民芸品、陶磁器等が無言の案内人のように招き入れる。奥へ進んで行くほど外世界の喧噪は消え、どこをどう歩いているのかも分からなくなる。店先にいる老婆たち。何百年も前からそこに居るかのように泰然と僕を見据える。僕は人が営み、延々と続く生活に想いを馳せ、慄然となる。
たとえば、アンコールトムで遭った子供たち。少年は勝手にガイドを始め、少女はフィルムやガイドブックを売りつけようとする。どこの遺跡に行っても子供たちは狙撃兵のように次から次へと姿を現わす。十二、三歳くらいの少年がとても流暢な英語で説明を始めた。プノンペンは英語熱が盛んで英語塾が乱立しているのだが、それにしても彼の語学力は驚異的だ。生きるために、家族に食べさせるために必死で学んだのだろう。ガイド料として二ドルを渡すと、「ありがとう」と受け取り、消えるようにどこかへ行ってしまった。
そして元高校の校舎を転用したトゥールスレン博物館。かつてポルポト政権下に約二万人が収容され、生還できたのはわずかに六人だけだという。反革命分子と見なされた人々は家族とともに捕われ拷問を加えられた後、処刑されていった。文革と同様、多くは罪なき人たちであり、子供や老人、女性も数多く含まれていた。ポルポトの残虐行為を伝える博物館として一般公開されている。独房にはマットのないベッドが置かれ、タイル張りの床には血痕が今でも染みとなって残っている。あとは排泄用の小さな箱があるだけで、犠牲者は手足を鎖で繋がれ殺されていった。別の校舎、C棟の一階と二階には窓のない部屋に煉瓦を無造作に積み上げられて作った一畳ほどの独房がある。水も食事も与えられずに閉じ込められた彼らは何を思い、死んでいったのか。死の恐怖や苦痛とどのように闘ったのか。もし彼らが僕だったら? 彼らはあの時代にカンボジアに生まれ、僕は日本に生まれた。ただそれだけのことだった。僕と女性の係員の他は見学者は誰もいない。あたりは気味が悪いほど静まりかえっている。B棟にはおびただしい数の顔写真が壁一面に貼付けてあった。処刑前に収容者を撮影していたのだ。何のために死にゆく者たちの記録を残していたのかポルポトが死んだ今となっては謎のままだ。どれも恐怖に引きつったという顔ではなく、全てを諦めたような、諦観したような表情だった。
案内の女性は大学生かと思っていたが、高校生だそうだ。
「大学には行くつもりですか」と聞くと、「いいえ」とだけ言って悲しそうに顔を伏せたが、最後に「カンボジアは暗黒の時代を経て、復興に向かって進んでいます。未来は明るいでしょう」と答えてくれた。
大晦日の前日にぶらぶらと歩いていると、学校に突き当たった。校庭には制服を着た何百人という子供たちが集まっている。小学生から高校生まで同じ校舎で授業を受けているらしい。少しすると彼らの下校時間にぶつかった。バイクで帰宅する高校生やシクロに乗って帰る小学生たち。屋台で買い食いする子供たち。その熱気を捉えようと夢中でカメラのシャッターを押した。
「裏(うち)に向かい外に向かって逢著せば便(すなわ)ち殺せ
仏に逢うては仏を殺し
祖に逢うては祖を殺し
羅漢に逢うては羅漢を殺し
父母に逢うては父母を殺し
親眷に逢うては親眷を殺して
始めて解脱を得ん
物と拘(かか)わらず透脱自在なり」
(臨済宗 示衆の章)

皆様への伝達事項
カンボジアで下痢をした後、大学中退に至った旅行記です。
ドリアン長野は平成10年代に半ば勢いだけで非常に乱雑かつ順不同な投稿をしてたので整理整頓は絶対必要でした。そして、過去と違って現在gooブログでは3万文字の投稿が行えるようになったのでドリアン長野の海外旅行記を再編集した上で再発表します。
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。
皆さん、ドリアン長野は学生でしたが帰国後に体調不良の影響か中退しました。感染源こと病原菌の運び屋はご法度です。病院で予防接種を済ませてから渡航する人はいます。昨今、カンボジア製の商品は市販されてます。現在は過去と違い各種料金(出国税等)の値上げはあり得るので詳細は各自で調べて下さい。旅には時ばかりか金銭の余裕が必要です。帰宅の為の交通費や使う予定の物品等も用意して下さい。特筆すべきは心優しき日本人。一万円を見ず知らずの他人に貸しません。旅に行くのは良いが他人に迷惑をかけないようにしましょう。平成十年代と違い2010年代には写真店は減りました。カンボジアとタイでは国境紛争が発生してます。日本も今後、無秩序にならないような社会を形成する必要がございます。

紹介した二種類の動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

トゥール・スレン博物館 Tuol Sleng 2.MP4


カンボジア、シェムリアップのアンコールワット遺跡群を訪れてみた。 ~Angkor Wat,Cambodia,Siem Reap

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 オマケ
 以下はgoo簡単ホームページが存在してた時の掲示板の質問とその返答です。

From アハハハハ To durian-nagano@goo at 2003 08/23 18:01 編集 返信

爆笑

けども、病欠の場合には特別に試験を受けさせてくれるのではないのでしょうか? 

To at 2003 08/24 22:52 編集 返信

RE:爆笑

そうですね。でも、その日に試験が行われたことを知ったのは「不可」になった成績表を受け取ったあとでした(ガックシ)。
東南アジア主要空港の空港税を比較 一番高いのはどの空港? https://t.co/hIQ2TKP1Rz

— ドリアン長野(紹介用) (@duriannagano) February 6, 2021
 ~出国税について~
 ドリアン長野の海外旅行記は2010年以前に執筆されたので商品の価格や税金等は昨今の価格とは異なるようです。
本文で紹介されてた海外の出国税は増税されました。もしも、皆様が本当に渡航されるなら各自で前もって価格や税金等は調べて下さい。
 2019年8月29日時点でドンムアン空港の出国税はドンムアン空港(バンコク)空港使用料700バーツ、事前旅客情報システム費35バーツ、国際線利用税15バーツを合算し750バーツだそうです。
 2019年8月29日時点でプノンペン国際空港(旧名 ポチェントン国際空港)の出国税は空港使用料25ドル、民間空港税5ドルだそうです。
日本国内でも出国税は徴収されるようになりました。
2019年1月から導入される「出国税」とは? | スカイスキャナー www.skyscanner.jp/news/departure… posted at 06:51:05
価格改定や増税等の連絡は今回で最後とさせていただきます。 
令和三年二月 追記

ドリアン長野のカンボジア旅行記

ドリアン長野のフィリピン旅行記
2018-03-12 | Weblog

ドリアン長野のフィリピン旅行記

#17 マニラのスラム

夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。
「スラムは特別な地区にあるのではない。メトロ・マニラ(マニラ首都圏)のいたるところにある。例えば、あなたがニノイ・アキノ国際空港を降りてタクシーに乗り、マカティの5ツ星ホテルに泊まり(そこまで気張らなくても安ホテルでも同じなのだが)、日中は車で移動して夜は繁華街で過ごすとなると、「タイやシンガポールほどではないが、フィリピンもずいぶんと経済発展しているんだなあ」と思うだろう。ところが、一歩、メインストリートをはずれて体重を右足でも左足でもいいから、どっちかに傾けて薄暗い路地を折れてみるがいい。
 そこには、ああっ、と驚く光景が広がっている。」 
 
 とそれから浜氏はスラムの様子を描写し、
「しかし、わたしにとってスラムは混沌という名の・楽園″であり、生命力溢れる根元的な場所である。
  (略) ある意味で、最も俗なるところが聖に通じ、最も醜いものが清らかなものに近く、最も単純なものが真実に迫るという逆説を痛感できる、哲学的な場所でもある。」
 
 と続けている。私はこの文章を読むたびに、うひゃひゃと体が弾むような感覚になるのだ。私はスラムが大好きだ。電車に乗っていて、線路沿いにあるスラムを見つけると途中の駅で降りてしまうくらいだ。そんなに好きなら一生スラムに住みついたらどうだ、と言われると困るけどな。
 マニラには観光名所らしき場所はあまりないが、私にはどうしても見ておきたい所があった。東南アジア最大のスラムといわれるスモーキー・マウンテンだ。夢の島のようなゴミの集積所にバラックを建て、人が住み始めた。ゴミが自然醗酵し、煙がたなびいているのでスモーキー・マウンテンと呼ばれるようになった。スモーキー・マウンテンのあるトンド地区には無用な立ち入りは絶対に厳禁、とガイドブックには書いてある。それでもどお~しても行ってみたい。私は覚悟を決めた。海外旅行保険に加入してないのが残念だ。アバト・サントス駅でタクシーを止め、ドライバーに聞いてみる。 「あんたは悪人か、それとも善人か?」 (マニラのタクシー・ドライバーはボる奴が多いからな) 「なぜ、そんなことを聞く? もちろん俺はグッドマンだ」 交渉して、スモーキー・マウンテンをぐるっとひと回り、300ペソで行ってくれることになった。ドライバーのソシモは気のいい人で、運転中もずっとしゃべりっぱなしだ。 「人生で大切なのはお金よりも友だち、神様、家族だと俺は思うね」 「香港に研修で行ったことがあるよ。外国に行ったのはそれっきりだ」 「トンドなんかになぜ行きたいんだ? あんた、ジャーナリストか? トンドで警官がナイフで刺されたことがあるし、タクシーだって石を投げつけられたこともあるんだぜ」等と話を聞いているうちに、車はいつしか迷路のような細い路地に入り込んだ。一見してスラムと知れる、その住民たちが車を取り囲むようにしてじろじろとこちらをねめるように歩いている。ソシモの言葉を思い出して、こちらとしては気が気ではない。やがてマニラ湾沿いの道路に出た。う~ん、と思わず私は目を見張った。なにしろトタン屋根とありあわせの木造で建てられたバラックが何キロにも渡って延々と続いているのだ。それは今まで訪れたアジアのどの国でも見たことがなかった、圧倒的な光景だった。電気は引いているが、水道はないとソシモは言う。
 スモーキー・マウンテンには以前、人が住んでいたが現在は政府によって強制撤去させられて家はない。気が遠くなるほどの広大なただのゴミの山だ。少し行くと、今にも崩れ落ちそうな五階建てくらいのアパートが密集していたので、その前の広場に車を止めてもらう。広場にいる大勢の大人たちや子供たちが何事かとこちらを注視してきた。
 ソシモに「外に出ても大丈夫か?」と聞く。 「ああ、大丈夫だ」 「ここで待っていてくれ」 あたりを窺うようにしてゆっくりと車から出て、一番近くにあったアパートの階段をのぼる。そこで私は自分の目を疑ったね。各部屋のドアはなぜか全てなくて、中がまる見え。室内には所狭しと何人もの人間が住んでいるのだが、住んでいるのは人間だけではなかった。猫や犬に数羽の鶏までもが同居しているのだ。一軒家ならともかく、アパートの一室で人が家畜と暮らしている光景は異様だ。それは、まるで家畜小屋に住人が住まわさせてもらってますって感じなのだ。もしかして、あれはペットなのか? いや、そうではあるまい。スラムの住人にそんな余裕があるはずがない。現金収入を得るため、もしくは自給自足の食料として飼って、いや、同居しているのだろう。上の階まで行きたかったが、住人の眼光が鋭くなり危険を感じたので車まで戻る。
 「一緒にアパートの上まで行ってくれないか?」とソシモに頼むと、「駄目だ。危険だよ」と言う。あとから考えてみると、危険なのは我々だけでなく、もし車を残しておけばその車だってどうなっていたか分からない。仕方なくトンドを離れ、リーサル公園で降ろしてもらった。歩いて駅まで行こうとしたら、一人のフィリピーノに時間を聞かれた。そのままついてきて、歩きながら自己紹介を始めた。年は29歳。父は日本人、母はフィリピン人。何年か前に離婚し、父は香港にいるが母は行方不明。彼には子供が二人いて、ミルクを欲しがっていると何度も言う。ふ~ん、なるほどね。案の定、「セブン・イレブン」で粉ミルクの缶を二つ買わされた。自分のためにお金をくれ、というのならともかく、小さな子供がおなかを空かしているという言葉に断ることができなかった。願わくはだな、あとでその粉ミルクを換金して、お人好しの日本人はちょろいもんだと舌を出さんように願っているぞ。
 その男は粉ミルクを受け取り、ホテルの所在地を尋ねるとお礼のつもりなのか「案内するよ」と歩き出した。おい、ちょっと待ってくれい。わしはLRT(高架鉄道)に乗って帰るからいいんだ。と言ってもそいつは先頭に立ってどんどん歩いて行く。待てっちゅうねん、お願いだ~、頼むから待ってくれ~。ここからホテルのあるエドゥーサ駅まで6キロはあるぞ。 「心配しなくても大丈夫だよ」 いや、だからそういう問題じゃなくてえ。男は黙々と歩く。薄暗い夜道をひたすら歩く。月がきれいだった。一時間歩いてホテルに着く。えっ、本当に着いたのか? 初めは着いたのが信じられんほどだった。リキというその男は妻子のためにお金が欲しいと言う。 「いくら欲しいんだ?」 「200ペソ」 ありがとう、リキ。案内してくれてよっ!私は彼に50ペソ渡した。リキは少し不服そうだが礼を言って帰っていった。また一時間かけて。
 それから私はホテルでイタリア料理を食べた。500ペソほどだった。近くにカジノがあるというので行ってみたが、カラーのないシャツを着用している人は入場できません、と断られた。帰り道でぼろぼろの服を着た6歳くらいの女の子が右手を突き出してきた。小銭を1ペソしか持ってなかったのでそれを渡すと、女の子は無言で首を振った。でも、どうすることもできんのでそのまま帰った。私は人権主義者じゃないけど、つくづく人間は不平等だとその夜は思った。

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皆様への伝達事項
フィリピン旅行記と言ってもセブとマニラは同じ位の人気があるようですがマニラ旅行記です。
ドリアン長野は平成10年代に半ば勢いだけで非常に乱雑かつ順不同な投稿をしてたので整理整頓は絶対必要でした。そして、過去と違って現在gooブログでは3万文字の投稿が行えるようになったのでドリアン長野の海外旅行記を再編集した上で再発表します。
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。
皆さん、ドリアン長野は冷やかしが好きなのでしょうか?今回の旅行記は相手の気持ちが読めないから仕事が出来ない労働者や小銭が欲しい女の子が紹介されてました。スモーキーマウンテンは実質的に移転しパヤタス・ダンプサイトことスモーキーバレーとして存在してるそうです。詳しくは各自でお調べ下さい。時間を尋ねるのを踏み台にして金を要求するのは悪質な詐欺師です。強要とはした方ではなくされた方が判断するものです。
2010年以降は減ったようですが日本でも署名の後に寄付金を求めた人はいました。他にも日本国内でもロクな説明も無しに生活費を求める日本人がいたので拒否しました。強要や搾取はされたくないです。
私は海外旅行保険に加入してからカナダのブリティッシュコロンビア州に旅行に行きましたので、皆様にも海外旅行保険の加入を推奨します。
すでに理解されてるとは思いますがフィリピン旅行記といってもセブ旅行記ではなくマニラ旅行記です。

アジア的生活 honto.jp/netstore/pd-bo… posted at 23:09:22


紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

ニノイ・アキノ国際空港
Ninoy Aquino International Airport NAIA ナイア terminal3

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ドリアン長野の台湾旅行記
2018-03-12 | Weblog

ドリアン長野の台湾旅行記
シャオエン 
1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。赤レンガの荘重な建物の前には警察官と憲兵(機動隊員)が集まって、何だか物々しい雰囲気だ。
 「ん? 何だ? 何だ?」と足を止めて眺めていると、警察官に職務質問されそうになったのであわてて立ち去る。官庁街であるただっ広い道路の交差点にも市民が集まり始めた。その中にはテレビ局の中継車がスタンバっている。向こうの道路からはデモ隊が何かをシュプレヒコールしながら近づいてきた。一体、何が?  中華人民共和国でも攻めてきたのか?前年には台湾史上初の民間による直接選挙で李登輝が選出された。台湾独立派を恐れる中華人民共和国は大規模の軍事演習を行なったり、台湾海峡にミサイルをぶち込んだりと威嚇を続けていたのだ。
 「何があったんですか?」 近くにいたテレビ局のスタッフらしき人に聞いてみる。
 「テレビ・スターが殺されたんだ」 彼は詳細を説明する英語力がなかったのか、それだけ言うと黙ってしまった。俳優が殺されたぐらいでこんな騒ぎにはならないだろう。警官隊と機動隊が見守る中、デモ隊とそれに呼応した市民が気炎を上げていた。
 その夜は「華西街観光夜市」に行った。長い商店街は地元の人や観光客でごった返し、店の人たち、特に包丁片手にヘビやスッポンの生き血を売るおじさんの口上で賑わっていた。中にはヘビの頭を噛みちぎり、尻尾をくわえて振り回すという猟奇的おじさんもいた。不思議なのは生き血や漢方薬を売る店にはテレビが置いてあって、そのどれもが日本のプロレスを映していたことだ。やっぱり、精力がつくということをプロレスに託して表現したかったんだろうか。しかし、店先に繋がれていたオランウータンはどういうことだ。
 こんなにもヘビ屋やスッポン屋があるのにはわけがある。裏通りに売春街があるからだ。そこに行ってみた。売春宿は外から覗くことができ、ピンクの灯りの下で女性が立っている。その前の道路には怪し気な男たちが列を作って座っていた。
 
 ホテルに戻り、「あっ、そうか、あれは」と気がついた。三週間前に劇画作家の梶原一騎と歌手、女優のパイピンピンの娘が誘拐され、殺害されたのだ。犯人たちはその時点でも逃亡中で、さらに凶悪な事件を繰り返していた。後に5万人もの市民が治安改善のための法律改正や政府官僚の辞任を求めてデモを行ない、内閣は総辞職に追い込まれた。そのデモだったのだ。当時は日本のみならず、世界中にそのニュースが連日のように報道されていた。私はその事件の残虐さを知り、誇張ではなく、犯人たちへの激しい怒りと殺された17歳の少女への思いで胸がつぶされそうになっていた。
 少女の小指を切断し、母親へ送りつけるという行為。食事も与えず五日間に渡って暴行を加え続け、最後には遺体を全裸で排水溝に捨てるという行為。肝臓の五か所が破裂。胸部や腹部等に夥しい量の内出血。死因はロープで首を絞められたための窒息死。
 少女が味わった地獄のような恐怖と苦痛。私には懸命に想像してみることしかできない。そして犯人たちのこと。パイピンピンと犯人たちは経済発展を遂げる以前の貧しい台湾を共に生きた、同世代の人間だった。主犯格三人のうち、二人は警官との銃撃戦中に自殺。あとの一人はなおも逃亡し、南アフリカ大使館武官官邸に立て籠ったが、ついに投降した。パイピンピンはその後、台湾の治安の改善を目指し、ボランティア活動を精力的に行なっている。犯罪のない社会作りを世界にアピールするため、長野オリンピックには聖火リレーに台湾代表として参加した。
 せめて私は自分の命が続く限り、17歳で殺された少女のことを忘れないようにしようと思う。そうすれば彼女は生きる。私たちの記憶の中に彼女は生き続ける。
 
参考文献 「燕よ、空へ」 パイピンピン著 木村光一訳 / ルー出版

燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて 白 冰冰 https://t.co/phlNCoT4mt @amazonJPさんから
— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年6月9日 ">

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皆様への伝達事項
重犯罪が無い社会を希望するべきです。
ドリアン長野が1997年(平成9年)五月に体験した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。過去と違って現在gooブログでは3万文字の投稿が行えるようになったのでドリアン長野の海外旅行記を再編集した上で再発表します。
皆さん、治安の悪化は現在も継続してます。平成9年五月に台湾では17歳の女性が殺された。万人の命は平等で殺人の無い社会作りが必要で政府の対策は重要です。多くの親御さんは苦労して子育てされてる。それを水の泡にするような犯罪者達はどの国であっても否定されます。日本、台湾そして南アフリカ共和国で注目を浴びた事件でした。被害者の母が治安改善運動をしているのは必然です。昨今、悲劇が発生しており個人の力では対応出来ない問題が発生してます。スマホ等でSNSが地球上で円滑に行える影響は大きいです。海外の犯罪組織とつながりがある日本人が海外旅行中の日本人に詰問する可能性もあり得るので対テロ対策の一環からも警戒してください。
紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

台湾旅行 台北 「総統府」

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ドリアン長野のネパール旅行記
2018-03-12 | Weblog

ドリアン長野のネパール旅行記

カラテ イン ネパール編

カトマンズの朝は早い。そして寒い。ここ、バサンタプルの広場でも早朝から何することもなく人々がたむろしている。
オーストラリアから来たという少女が物乞いをする少年に仏心を出し、パンケーキを買ってやった。
それを他のガキどもが見逃すわけはない。「僕にも、僕にも」 と彼女を取り囲む。
困惑顔の彼女はしかし、近くにいた大人がたしなめたおかげで事なきを得た。
ああくわばら、くわばら、桑原和○。それにしても遅い。さっきから誰も来ない。
なぜ私がこんな所で待ちぼうけを食っているかというと、今からさかのぼること昨日のことだ。
タメルで一泊した私はジョッチェンに投宿しようと昼前にここにたどり着いた。
そして広場の入口にある貸し自転車屋の前の絵看板に目が釘付けになってしまったのだ。
こっ、この一見ヘタだがよく見るとやっぱりヘタな絵は極真会館の松井館長ではないかっ。ほれっ、その証拠に極真マークもちゃんと描いてあるぞ。
なにを隠そう、私は極真空手家オタクだ。夢はムエタイ・ボクサーとルンピニー・スタジアムで戦うことだ(嘘ぴょ~ん)。
ちなみに子安慎悟?(あれっ?)のファンだ。ここってもしかしなくてもネパール支部じゃん。これも何かのお導き。天国の大山総裁、
ありがとうございます、押忍っ。カラテ道場を知らないかとそこら辺の人に聞いてまわったが、誰も知らん。
そうしている内に六十歳くらいの油すましみたいなお爺がいつの間にか出て来て、のたもうた。
「道場なら閉鎖して去年ニューヨークに引っ越したよ」
はあ~っ? 何でネパールの道場がニューヨークに引っ越すんじゃい、ワレ。こうなったら戦争じゃけん。止めんでつかあさい、オジキ!  
と今ならつっこむところだが、生憎その時の私は冷静さを失っていたので心底、落胆した。せめて閉鎖した道場でも見たいと所在地を聞くと、
このじっさま知らんとぬかしよる。何でやねん! 筋が通らへんやないけ! ワシは筋の通らんことは嫌いじゃ。タマ取ったりますけん、止めんでつかあさい、
オジキ! と今ならつっこむところだが、私はあせって平常心を失っていた。しばらくすると、じっさまはまわりの人に何ごとかを尋ね、郵便局に行こうと促すのだ。
何でやぁ~~っっ?!
しかし、頼みの綱はこのじっさましかおらん。大人しくついて行くと、うしろからガタイのいい男が追っかけて来た。 
「僕の弟は黒帯で指導員をしてたんだ。僕自身は結婚して忙しくなったので茶帯でやめてしまったけど」

そうか、そうか。君がそうなのか。会いたかったぞ。我々は再会を約束し、そこで別れた。聞きたい話はたくさんあるが、
まずホテルを確保しとかんとな。
ホテルにチェックインする時もなぜかじっさまはついて来て街を案内してくれた(とはいっても広場とショッピング・センターだけだったが)。
バサンタプルに戻り、さきほどの男と話をしていると彼の弟の黒帯空手男(クマルという名前)と奥さんがやって来た。
奥さんは台湾人で、ネパール旅行中にクマルと知り合ったそうだ。二人はこの広場で露店商として土産物を売っているのだ。
私とクマルはカラテについて飽くことなく、何時間も語り合った。奥さんは傍らに座っていて、うんうんと時おり会話に加わる。
そうこうしていると、 じっさまが再び現われて、「あっちで待ってるから」 と言った。このたわけた子泣きじじいめ。わしが何のために世界中で何度も何度も何度も(泣)
騙され続け、何回も何回も何回も(号泣)金をまきあげられたと思うてけつかんねん! てめえの悪だくみなんぞ、こちとらお見通しでい!(もっと早く気いつかんか~い)
無視するとじっさまはいつの間にかいなくなった。あまりクマルの商売の邪魔をしては悪い。 
「またあとでね」 と腰を上げ、近くのガキんちょたちにババぬきを教えて遊んでいたら、今度は見るからに怪しそうな男に肩を叩かれ、ついてこいと声をかけられた。
てめえ、じじいの仲間か、と警戒心を抱きながらもついていった。この男はとてもとても人相が悪い。凶悪といっても過言ではない。
逃げ出したほうがよいのではないだろうかとビビりながらついていくと、五、六人の男女がたむろしている場所へ連れてこられた。なによっ、あんたたち、変なことしたら大声だすわよっ。すると中の一人が言った。 
「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 
なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~、思わずヒザがかっくんとなっちゃったじゃないの。でも良かったわ、
会えて。みんなに連れられてすぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。
先生は八畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁という壁の至る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。
私(ドリアン)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)
一週間後に試合があるからビザを四日間延長してカラテを教えてくれと懇願されたが、私は真面目なリーマン・パッカーだ。出勤日から四日間無断欠勤したら即刻、馘首じゃないか。
家賃はどうやって払うんだ。残念ながら断ると、それじゃあ、明日道場生とピクニックに行くから一緒に行きましょうと誘われたのだ。
七時の予定が結局八時半に出発した(ネパールタイムだそうです)。八人が幌付きのトラックの荷台に押し込められた。
みんなの顔を見ると何だかヤクザの出入りか自衛隊の演習って感じだ。着いたダクシンカリはヒンズー教の寺院で祭りには神サマに捧げるためにヤギの首をはねるそうである。
ピクニックといってもネパール人は弁当なんぞ持っていかん。材料を持参して現地で女性たちが料理してカレーを作る。
トラックに積んでいたバカでかいインド製のカセットとスピーカーでダンス大会をするつもりだったらしいが、シャイなネパール人は誰も踊ろうとしないのだ。
ここでも私が得意のダンスを披露して、皆の尊敬を一身に集めたのはいうまでもない。
翌朝、バサンタプルを歩いていると誰かに聞いたのか、「僕もキョクシンカイです」と佃煮にできるほどのガキんちょ、いや少年たちに声をかけられた。
そういうわけで朝からこの広場にはあっちこっちで気合いがこだまするのであった。オ~~スッ!

カトマンズの夜

http://amzn.asia/26Eq8As

中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。著者はインドネシアを旅していたのだが、「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」
僕は、ああ、分かるなあと思った。僕もカトマンズのタメル地区にある古本屋の二階で日本語と英語のペーパーバックを眺めていたら、ラジオからビョークが聞こえてきたことがある。曲名は思い出せないが、ネパールでビョークという取り合わせも妙なもので、年の暮れということも相俟って、異国で独りという寂寥感が身に染みた。
カトマンズに行こうと思い立ったのは、タメルという場所がバンコクのカオサンと同じように世界中のバックパッカーで賑わっていることを本で読んだからだ。ネパール人と異国のバックパッカーが交錯しながら食事をしたり、土産物を売ったり買ったりしている光景を思い描くと居ても立ってもいられなくなった。
夕刻にネパール空港に到着。ロッジのようなイミグレーションを通過し、外に出てタクシーを拾う。数十分走ったが、王宮の前で突然、エンストした。運転手に聞くと、何とガス欠らしい。彼は車外に出て、通りを見つめている。どうするのかと思って見ていると、やがて通りがかったタクシー仲間を捕まえてガソリンを分けてもらっていた。タメルに着いた頃には辺りはすっかり暗くなっていたが、なるほど土産物やホテルや食堂が櫛比し、賑わっている。適当な安宿にバックパックを下ろし、街に出てみた。タメルはカトマンズにおいても異質な場所だと思う。ニューヨークがアメリカにとって特異な都市であると同じ意味で。外国人と牛と地元の人間で賑わっている往来をぶらぶらと歩いていると、小さなスーパーマーケットがあった。そこが気に入って、タメル滞在中は日課のように通った。外国人に混じって食料品を買っていると、不思議と心が安らいだ。多分、一人であっても一人じゃない距離感が好きだったからだろう。食堂では、よくモモ(水牛肉の餃子)とチョウメン(焼きそば)を食べた。席に着いてから最初のお茶が出てくるまで20分、最後の食事が出るまで一時間かかった。白人の客が「ネパールタイムだ」と言うと、他の客はあきらめのような、連帯感のような笑いを洩らした。
ひょんなことから、あるネパール人夫婦と意気投合し、彼らの知り合いの家へ招待されることになった。その家は日本大使館のすぐ側にあり、門扉から玄関まで歩いていくような、ネパールの生活水準からすれば充分すぎるほどの大豪邸だった。主人のチャンさんは台湾出身で、台湾の電化製品をネパールに輸入して成功した人だ。熱心な仏教徒でもあり、広い居間の一角にしつらえた祭壇へのお祈りは毎日かかさない。チャンさんは言う。「あなたが今日ここに来たのは、あなたが生前ネパール人だったからだ。今度ネパールに来た時はホテルに泊まらず、うちに泊まりなさい。いっそのこと、ネパール女性を紹介するから結婚してこっちに住んだらどうですか」。帰りは夫婦にタクシーでホテルの近くまで送ってもらった。食堂に入り、3人でチョウメンを食べた。縁って不思議だね。そう言って3人で笑った。ネパールに来てから三日目だった。
知り合いから知り合いに紹介され、滞在中は数珠つなぎに知人が増えていった。誰もが親切にしてくれた。ネパール人は日本人に似ているところがある。控えめで内気で、外国人に対しては親切にせざるをえない。それに加えて男たちは眉間のあたりに矜持といったものを漂わせていた。彼らの信仰する神のせいなのか、それとも貧しさによって自らを恃みにしなくてはならないからだろうか。勇猛果敢なネパール人はグルカ兵としてイギリスの傭兵になったこともある。僕は日本のサムライと彼らを重ねあわせることもしばしばだった。
たとえば、こういうことがあった。ジョッチェンの広場で少年たちにババ抜きを教えて遊んでいた。しばらくトランプをしていると、後ろから肩を叩かれ、知り合いの大人たちから「メシを食べに行こう」と誘われる。「すぐ戻ってくるから」と中座し、彼らとしゃべっているうちにトランプのことは忘れてしまっていた。あくる日、その広場に行くと、昨日の少年が近づいてきて、「忘れ物だよ」とトランプを差し出した。些細なことだが、アジアで未だこのような正直さに出会ったことはなかった。
帰国日、最後に広場に行ってみた。顔見知りの少年を見つけ、これから帰るからと告げる。何かを言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばない。「ダンニャワード(さようなら)」と言って歩き出したが、写真を撮っておこうと思いついた。ついでに周りの連中も記念に写しておこう。「写真を撮るよー!」とあたりに声を掛けると、20人くらいが集まった。笑顔の彼らをファインダー越しに覗いていると涙が出そうになった。
タクシーを拾い、空港に向かう。しばらくすると今度はパンクした。車外に出ると、来た時と同じような満月だった。

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皆様への伝達事項
空手家のドリアン長野はネパールでも空手をしてきました。
ドリアン長野は平成10年代に半ば勢いだけで非常に乱雑かつ順不同な投稿をしてたので整理整頓は絶対必要でした。そして、過去と違って現在gooブログでは3万文字の投稿が行えるようになったのでドリアン長野の海外旅行記を再編集した上で再発表します。
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。
ドリアン長野自身が平成10年代に発表した旅行記を後(平成18年)に再編集して再発表した前例がカラテ イン ネパール編(ネパール編 加筆訂正 2006 04/07 22:18)でした。 2006年は平成18年です。NO45 カトマンズの夜は2004 04/27 23:23に発表されました。

ネパール旅行記は順番を前後させた方が良いだけでなく一元化も遂行しました。

ネパールとチベットは隣接してますので似通った料理が食べられるようです。

ドリアン長野は空手家です。海外に赴き同じ志を持つ人に出会って嬉しかったそうです。色々と生活習慣等で違う点は多いが共通点が存在すると話が合います。ネパールと言えば政変がありました。平成十年代は、王政でしたが平成20年からはそうではなくなりました。詳細は各自で調べてください。「どこに行きたいか?」についてですが、今(平成22年こと2010年以降)となってはタブレットやスマホで円滑に情報が得られる時代になりました。帰り道についても調べておくことを推奨します。理由は迷子になる可能性があるからです。私はカナダ(ブリティッシュコロンビア州)のホテルの室内で私物の整理整頓をしてる時にラジオ番組を聞きながら行ってました。日本国内でも洋楽を聞く機会が多いから普段と大差なく行えたのを連想しました。音楽は国境を超える。

特別に参考として日本国内のネパール料理店で食べてきた野菜チョウメンの画像を紹介します。管理人マーキュリーマーク


紹介した二種類の動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。
カトマンズ・バサンタプル広場


ネパール カトマンズ (タメル地区からダルバール広場へ)


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ドリアン長野のベトナム旅行記
2018-03-12 | Weblog

ドリアン長野のベトナム旅行記
#5 ホーチミン市のディスコ
「今晩、ディスコに行かないか?」 
バイク・タクシーのヒューはメコン・クルーズのボートの中で聞いてきた。今日はニューイヤーズ・イブだし、社会主義国のディスコってのも気になるしな。古めかしい建物の二階にあるディスコにヒューと行くと、彼の奥さん(ディスコで知り合ったそうだ)が二人の日本人女性を連れてきていた。彼女達と自己紹介をし、初めはおそるおそるっていう感じで踊っていたのだが、そのうち脳内にエンドルフィンとドーパミンが放出されたのだろう、体内メーターがレッド・ゾーン に入った。こうなると止めることなど不可能、私は我を忘れて踊りまくった。私の踊りは太極拳にブレイク・ダンスをミックスしたオリジナルだ。踊り始めると 周りには人がいなくなるという危険なダンスだ。ふっ、お嬢さん、気をつけなせえ。俺に惚れるなよ。この時も無我夢中でキープ・オン・ダンシング、気がつけ ばみんな、私の周りを遠巻きに見物している。もっ、もしかしてこれって奇異の.....、いや違うね!(なぜかきっぱり) 羨望の眼に決まっとる。(とむりやり納得)
 見て見て、もっと見て~。快感だわ。そのうち、輪の中から一人のベトナム少女が踊りながら出て来た。そうなの、私と一対一で日越ダンス対決をするつもり なのね。わかったわ。受けてたってあげる。私たちは我を忘れて踊った。離れては近づき、近づいては離れ、相手の差し出す一挙手一投足に呼応し、互いのリズ ムを感じ取りながら。歓声が上がり、拍手が起こる。誰かがタオルを差し出した。汗を拭いて観衆に投げ返すと、我先にと奪い合う。オーホッホッホッ。私はスターよ。今宵のディスコ・キングなのよ~。 
ひと休みして外のソファーに座っていると、通りがかった人が「かっこよかったよ」と言って握手を求めてくる。ふっふっふっ。ホーチミンのディスコは最高だ ぜい! よしっ、来年まで踊り続けるぜい、ベイビー、と腰を上げるとヒューが「もう帰ろう」とつまらなさそうに言う。えっ? まだ11時ですぜ、だんな。   
 「ベトナムのディスコは深夜まで営業できないんだよ」 
そうか、さては私のあまりの人気を妬んでるな。仕方なく私たちは帰った。こうしてホーチミンの長く暑い夜は更けていくのであった。
そんでもってこの前、スクンビットにあるディスコ、「ナルシサス」に行った。行ってみて驚いたぜ。最先端のハウスやトランスはいいんだけどさ、みんな下半 身だけ揺らしながら踊っているのだ。何だ何だ、その金魚踊りは? やる気あんのかっ。踊りっちゅうのは、なんちゅうかこうもっと情熱的に踊るもんちゃうんかいっ! こんなんやったらグレース・ホテルのエスニック・ダンスのほうが100倍ましやっちゅうねん。かくなるうえはわしが乗り込んで踊りの基本を教えたるわっ、 とフロアに出て行こうとすると連れの女に必死に止められた。(なんでやねん) 
 私は日本ではクラブに行かないので分からんが、ハウスはああやって金魚踊りをするのが主流なのか? 誰か教えてくれ~。こうなれば次に狙うのはゲイエリアで有名なシーロム通りのソイ4じゃい。金魚野郎ども、首を洗って待っとけ! ドリアン長野のタイランド旅行記

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皆様への伝達事項
社会主義国ベトナムのディスコの営業時間は午後11時迄。
ドリアン長野が2010年以前に作成し発表した海外旅行記ですので現在とは状況が異なる部分が多々あるかと思います。影響を与える事が出来ても責任は取れませんので参考にしてもらう分には構いませんが模倣は不可能になってるやもしれません。
皆さん、ディスコに行った事がありますか?私は全然行く気がありませんし行ったことはありません。私はバンクーバーでチーズケーキエトセトラという基本的に夜だけ営業してるお店で食事をしたことが良い思い出になってます。海外では赴いても良いが日本国内では行きたくない場所があったりするんですね。今回はディスコ。世の中の人々の中にはホーチミン市のディスコの方が理解しやすかったかもしれない。少なくとも彼(ホーチミン)は死去している。従って区分けするためにホーチミンシティーと言われているようです。社会主義国家らしくエネルギー不足による停電の問題があるからかもしれないが深夜営業をしないディスコというのも日本の1970年代のようですね。 周知の事実ですが平成20年代の日本ではディスコ(クラブ)ばかりか多くの小売店が深夜営業している時代です。
ドリアン長野の気分が高揚していても私は一秒以内になえさせる自信があります。例えばVeryという名のクラブ(ディスコ)って有名ですよね。なぜならば、Discovery。ね、一秒以内になえるでしょ?平成10年代に作成されたお笑い海外旅行記なので過去の出来事だと考慮してからこれからもお読み下さい。現在は、状況が違うかもしれません。一番の疑問は、題名をサイゴンのディスコにしなかった理由だが・・・今となっては過去の名称になっているからかもしれない。ナルシサスに限っては、タイランドのディスコ(クラブ)です。 従って、8割ベトナム2割タイランドのディスコ(クラブ)の海外旅行記だと捉えていただきたい。
周知というよりも羞恥な事実だが、続く(バンコクのディスコ)。
紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

サハラ・クラブ・ホーチミンsahara [disco vietnam saigon club]ディスコ・サイゴン
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