帰ってきたドリアン長野の海外旅行記

長期休暇もない有給休暇もないリーマン・ パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず、海外を旅したお笑いエッセイ

海外旅行記

                   

順不同。タイランド(バンコク) カンボジア(プノンペン、シェムリアップ等) 
メキシコ (ティフアナ) 英国(ロンドン) インド(デリー、西ベンガル州等) 
米国(ニューヨーク州、ニュージャージー州、ミシガン州とロサンゼルス
フィリピン (マニラ) 台湾(台北) マレーシア(クアラルンプール等) 
ベトナム(ホーチミン) ネパール(カトマンズ) ミャンマー(ヤンゴン等) 
香港と中国(上海と北京) オーストラリア(ケアンズ

海外旅行記とご連絡2024   コラム 2024 

令和六年にドリアン長野は親子でオーストラリアのケアンズを旅行されました。 ドリアン長野の海外旅行記は15か国を旅したお話で私が整理整頓し再発表しました。外国語ですが挨拶位は学びましょう。旅行記内の内容ですが出入国の法規制を始め現状とは異なる部分が存在します。渡航されるなら最新の海外旅行案内書を読んで下さい。 現在、問い合わせは受け付けてません。
anzen.mofa.go.jp 治安が悪い街へ赴くのは危険なので辞めましょう。
 海外旅行保険の加入は必須です。 kaigairyokouhoken.com
私はドリアン長野から頼まれ平成19年に終了したgoo簡単ホームページの開設を平成15年に手伝いました。 昨今は複数のブログを利用してます。
平成29年の夏に頻繁な投稿については難しい本音を伝えた所、「無理しなくて良いから。」と返答されました。
今後は月の初日から14日迄に一度、14日から月末迄に一回は投稿する予定です。ドリアン長野が管理人をしてるホームページのみ閲覧されても構いません。

ノート版ドリアン長野 ドリアン長野フェイスブック ドリアン長野の読書三昧

海外旅行記の内容はドリアン長野が渡航した時の状況です。海外では町名が言語によって異なりますので旅行記内において日本では一般的ではない町名が存在します。予算やお薬は多めに用意して下さい。複数の時計を利用し時差に対応しましょう。準備してから旅行代理店、航空会社(又は、船会社)、ホテル等に予約と支払をしましょう。出入国に関わる法規制や価格等は過去と現在で異なるので渡航前に各自で確認下さい。 カナダ コロンビーブリタニーキ旅行記 その1
 私は平成27年十月にカナダのブリティッシュコロンビア州を旅行しました。
嫌がらせは、辞めてもらいたい。フェイスブックのタイムラインに詰問してきたストーカーがいたので大変でした。   敬具 マーキュリーマーク

海外旅行記とご連絡2024

2024-07-01 | 日記
平成21年以前にドリアン長野は何度も海外旅行しました。
長期間の空白が経過した後、令和六年に親子で渡航されました。

順不同。 タイランド(バンコク)  オーストラリア(ケアンズ

フィリピン(マニラ) カンボジア(シェムリアップ等)

メキシコ(ティフアナ) インド(デリー、ウェストベンガル州等)

米国(ニューヨーク州、NJ、MIとロサンゼルス
NJはニュージャージー州の略称。MIはミシガン州の略称。
ミャンマー(ヤンゴン等) マレーシア(クアラルンプール等)

ベトナム(ホーチミン) ネパール(カトマンズ)

台湾(台北) 英国 (ロンドン) 香港と中国(北京と上海

 ミディアムパープルは抜粋で利用します。
 ダークグリーンは特筆すべき内容で利用します。 
 ドジャーブルーは題名で利用します。

 ドリアン長野はいつ頃、旅したか?
 可能な範囲で推察し時系列順に順序立てたが間違えてるかもしれないので参考程度にしてもらいたい。 ドリアン長野にとって最初の渡航はインド旅行ですが初めての発表はバンコク旅行記です。
赴いた時はドリアン長野本人しか分かりません。 順番は前後してるし幾つかの海外旅行記は渡航した時が不明確です。 
 略歴
 昭和62年の年末から昭和63年の年始はインド旅行。
デリー、ウェストベンガル州等を旅されました。
 平成元年の年末から平成二年の年始は米国のニューヨーク旅行。
この時、ミシガン州デトロイト市だけではなくニュージャージー州も訪問されてます。
 平成六年の年末から平成七年の年始は英国のロンドン旅行。
平成七年の年末から平成八年の年始もしくは、平成八年の年末から平成九年の年始に米国のロサンゼルスとメキシコのティフアナを旅したようです。 平成八年の海外旅行記か?
ティフアナへの訪問を含むロサンゼルス旅行記については時期を明確化するのは不可能でした。
 平成九年の五月は台湾の台北旅行。
平成九年七月以前に返還前の香港を旅したそうです。
平成十年四月から平成16年四月以前はネパールのカトマンズ旅行。
ネパール旅行記については時期を明確化するのは不可能でした。
平成12年の大晦日にベトナムのホーチミンを旅したようです。
平成13年にドリアン長野はタイランドのバンコクへ三回渡航してます。 内訳は一月(年始)、夏と年末です。 
平成13年12月にカンボジア(プノンペン、シェムリアップ)、平成13年12月30日から平成14年の元日はタイランドのバンコク(カオサン)、平成14年の元日から一月二日頃にフィリピンのマニラを旅して日本への帰国便に搭乗したようです。

 平成15年3月から平成19年の夏迄はgoo簡単ホームページを通じてドリアン長野は海外旅行記を発表されてました。

 北京旅行記を発表したのは平成15年十月ですが渡航した時期は不明です。 北京を旅行した後で上海旅行(第一回目)されたようです。
平成八年から営業してる上海のローソンを利用した最初の上海旅行記を発表したのは平成15年ですが渡航した時期は不明です。北京旅行並びに第一回目の上海旅行について時期を明確化するのは不可能でした。
 マレーシア旅行記(クアラルンプール、ヌグリ・スンビラン)を発表したのは平成16年ですが渡航したのは平成十年から平成16年のようです。
このマレーシア旅行記についても時期を明確化するのは不可能でした。
 平成16年の五月以前は香港旅行。
 平成16年の年末から平成17年の年始はドリアン長野にとって二回目の上海旅行。
 ミャンマー旅行記(ヤンゴン、チャイティーヨー・パゴダ等)を発表したのは平成18年一月から四月ですが平成13年以後という部分以外は渡航した時期は不明です。
 平成18年四月から九月には独身の時に海外旅行した時を振り返って再投稿されてました。
 平成19年の年末から平成20年の年始はご夫婦で香港とタイランド(バンコク)へ新婚旅行されました。
 ドリアン長野は平成19年11月に結婚し平成25年にフェイスブック上で新婚旅行記を投稿しました。
 一度の海外旅行で複数の外国を訪問した旅行記は存在します。
 各旅行記毎の備考
 昭和62年の年末から昭和63年の年始はインド旅行。
インド編その1
私がインドに行ったのは26歳の時、それが初めての海外旅行だった。

ドリアン長野は1961年生まれ。 1961+26=1987
年末年始旅行ならば1987年から1988年にインド旅行したに違いありません。
インド編その8 早朝、カルカッタのハウラー駅に着く。
よりも「早朝、西ベンガル州のハウラー駅に着く。」の方が適切な表現になるようです。
理由はコルカタ(カルカッタ)とハウラーの両者は西ベンガル州内の街なんですが対岸の街であって別個です。
それでは「ベンガルの東部は?」と質問されたら「バングラデシュとして1971年に独立しました。」と返答致します。

 平成元年の年末は米国のニューヨーク旅行。
 旅費について支払先を選ぶのは自由です。渡航前に航空会社、又は船会社並びにホテルの予約、海外旅行保険等の旅費の支払について各企業毎に行うか否かは各自で御決断下さい。私は海外旅行の為に地元の旅行代理店でフリープランと海外旅行保険の料金を支払いました。フリープランとは交通費、宿泊費、税金等の料金を一括した旅行商品です。 詳細は各自で調べて下さい。渡米するなら電子渡航認証(ESTA)は必須です。
ニューヨークの地下鉄は1980年代と2010年以降を比較すると支払方法ばかりか乗車賃も大違いと言われてます。法規制や金額等は現状とは異なります。 詳細は各自でお調べ下さい。
NYタイムズ・スクエア編
1989年12月31日午後10時。タイムズ・スクエア。気温マイナス2度。ぽつぽつと降っていた雨はついにどしゃ降りになった。
NY地下鉄編
地下鉄は楽しい。メタリックでアーバンである地下鉄は輸送手段に徹していて媚びないところがクールでもある。私は地下鉄が大好きだ。地下鉄のある都市に行けば必ず乗る。用がなくてもとにかく乗る。今までいろいろな国で乗った。香港ではなぜか下駄履きで乗った。肩を叩かれたので振り向くと、若い男が私の下半身を無言で指差している。見るとズボンのジッパーが全開していて恥ずかしい思いをした。ソウルではおじいさんに声を掛けられた。私が日本人だと分かると日本語で身の上話を始め、それが延々と続いて閉口した(今思い出したけど、何で地下鉄の便所内にコンドームの販売機があるとですか?)。
NYホテル編
とにかく、そんなこんなでようやくたどり着いたホテルのフロントは言った。 「満室です」 があ~ん! こんな夜中からホテル探しか~い。


 旅行するなら、旅費の大半を旅行代理店で支払うか、必要経費を企業毎に支払うかの二択です。残念ながら、旅行代理店が経営破綻した前例はございます。 王侯貴族や政治家は例外か?
 旅費については未払いではなく支払先や支払方法が選べるという主張です。 現地に到着してから宿を探すより日本で予約です。


 平成六年の年末から平成七年の年始は英国のロンドン旅行。
昭和の1970年代と平成の1990年代は大違い。皆さん、渡航前に海外旅行案内書等で最新情報を得ておきましょう。 uk-eta.jp
ロンドン・コーリング
ロンドンといえば、僕にとってはパンクなんですよね。
その時は1994年でした。
(中略)
えっと、あと年末だったんで、トラファルガー・スクエアのカウントダウンにも行ったんですけどね、なんだかんだ言っても、イギリスはヨーロッパの中心だと思ったのはね、僕の分かる限りでも、スペイン人、ドイツ人、スウェーデン人、イタリア人、ポーランド人、フランス人、スイス人、あとインド人と中国人と日本人がいたことですね。ええ、4時間その広場をうろついてましたから。


平成七年の年末から平成八年の年始か、平成八年の年末から平成九年の年始はロサンゼルスとティフアナ旅行。旅行記を発表したのは平成16年。ヤオハンは平成九年の夏迄は営業したようです。平成六年の年末から平成七年の年始に渡航した英国でジョイスさんと会われた後に米国で年末年始に再会したので平成八年?陸路で米国からメキシコへ行くのは複雑化したそうです。店舗や出入国の法律は過去と現在で異なる事がございます。 渡米するには電子渡航認証のESTA等が求められます。
 メキシコへの渡航については各自で調べてもらいたい。
申し訳ないがgoo簡単ホームページの内容を転載する期間は60日未満だったので幾つかの作品は欠落してます。

 バハ・カリフォルニア州のティフアナはトヨタの工場が操業しているだけでなく治安が悪いので有名です。
 平成18年から平成26年にアエロメヒコが成田からティフアナへの直行便を運航してましたがドリアン長野はそれを利用しないで渡米後にメキシコを旅行したので日本からメキシコへ直行していません。
米国のロサンゼルスとメキシコのティフアナ旅行記からの引用
のっけから何だが、私はロサンゼルスが嫌いだ。それはなにも私が九時間以上も飛行機に乗ってやっと到着した空港をボ~ッと歩いていた
(中略)リトル東京で「ヤオハン」の場所を尋ねた日系の老人には、「夜は独りで歩かないほうがいい。巡査は外国人に偏見を持っているからな」と忠告された。
(中略)夕食はチャイナタウンに食べに行った。今日は大晦日なので閉まっている店がほとんどだ。
(中略)メトロのブルーラインに乗ればサウス・セントラル地区まで行くことができるのだが、私もそこまで無謀ではない。
(中略) ユニオン・ステーションで21時発サンディエゴ行きのアムトラックに乗る。ロンドンで知り合ったジョイスに会うためだ。彼女は元看護婦のおばあさんで、今は離婚してロサンゼルスとサンディエゴの中間ほどにあるオーシャンサイドに独りで住んでいる。
(中略)我々はバスを乗り継ぎ、トラムに乗り、何時間もかけて国境のティフアナに到着した。


 平成九年の五月は台湾の台北旅行。台湾旅行記は悲しい短編です。
ゴールデンウイークに快晴でも、悲しい事件が発生しました。
シャオエン
1997年5月、日本の首相官邸に当たる総統府の前を歩いていた。
日曜日の昼下がり、空は透き通るような快晴だった。


 ネパール旅行記については時期を明確化するのは不可能でした。憶測ですが平成十年の夏以降か平成11年頃はあり得ます。
 平成十年四月から平成16年四月以前にネパール旅行か?
 中山可穂先生が執筆した熱帯感傷紀行の初版本は平成十年四月に発売。 ネパール旅行記は「カトマンズの夜」と「カラテ イン ネパール編」の二部構成です。両者共に平成16年四月以前です。
平成15年9月以前にネパールとして発表した旅行記を後に再編集したカラテ イン ネパール編に限っては平成18年四月に発表。
平成16年四月にカトマンズの夜を発表。
 ドリアン長野は海外に長期間滞在した訳ではありません。
 国境越えを果たした極真空手。日本と海外の比較は楽しめます。
nepaliport.immigration.gov.np
カトマンズの夜
中山可穂の「熱帯感傷紀行ーアジア・センチメンタル・ロードー」を読んでいたら、次のような文章にぶつかった。
著者はインドネシアを旅していたのだが、「店内のラジオからは、マントヴァーニ楽団の『ブルー・タンゴ』が流れていた。まさかこんなところで、アメリカ製タンゴの名曲を聞けるとは思わなかった。」

カラテ イン ネパール編
「私たちはキョクシンカラテのメンバーです。オス!」 
なんだ~、びっくりさせんじゃないわよ~、思わずヒザがかっくんとなっちゃったじゃないの。でも良かったわ、会えて。みんなに連れられてすぐ近くにある彼らの先生(三段)のアパートまで案内してもらった。
先生は八畳ほどの部屋に妻子と住んでいるのだが、壁という壁の至る所にカラテの賞状が飾られている。何冊もあるアルバムは稽古や試合の写真ばかりだ。
私(ドリアン)は猛烈に感動した! この地でこんなにも極真カラテを愛している男がいたことに!! (梶原一騎調でお読みください)


ベトナム、タイランドを旅行後にカンボジア、タイランド、フィリピンに渡航したお話の解釈は難しかった。


 マニラ旅行記(マニラのスラム)の作中で取り上げられてた浜なつ子先生が執筆されたアジア的生活(書名)は平成12年八月に発売されました。
 ホーチミン市のディスコ
「今晩、ディスコに行かないか?」バイク・タクシーのヒューはメコン・クルーズのボートの中で聞いてきた。今日はニューイヤーズ・イブだし、社会主義国のディスコってのも気になるしな。
(中略)私は日本ではクラブに行かないので分からんが、ハウスはああやって金魚踊りをするのが主流なのか? 誰か教えてくれ~。こうなれば次に狙うのは〇〇エリアで有名なシーロム通りのソイ4じゃい。金魚野郎ども、首を洗って待っとけ!
 テーメー・カフェ
2001年の1月、ソイ・カウボーイに行こうと友人とスクンビットを歩いていたら、怪しいネオンサインに縁取られた看板が目に入った。その看板に書かれていた文字を読んで私は思わず息を飲んだのであった。「テーメー・コーヒーハウス」 思えばこれがテーメーに集う怪しくもしたたかな人々と私とのハートウオーミングな交流の始まりであった(嘘)。 (中略)
半年後、私は別の友人とテーメーにいた。人生はどこで何が起きるか分からんもんである。
 カオサンの大晦日
カオサン通りでのニューイヤーズ・イブは一体どうなっておるのだ、という素朴な疑問を抱いた私はその実態を解明すべく、2001年12月30日と31日にカオサンに宿をとった。

 カンボジア旅行記
下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。
(中略)だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。
(中略)僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。 「OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら

 マニラのスラム
夜の9時前にニノイ・アキノ空港に到着。ロビーに出ると熱気、じゃないなこれは、殺気を感じる。なんだか誰かに狙われているような気がして、少しびびる。ホテルを予約して、米軍用のジープを乗り合いバスに改造したジプニーに乗り込んだ。窓から通りを眺めていると、浜 なつ子の「アジア的生活」(講談社文庫)の文章を思い出してきた。


ドリアン長野がタイランドに行く予告をしたベトナム旅行記を発表したのは平成15年です。
 ホーチミンに赴いたのは平成12年の大晦日(ニューイヤーズイブ)のようです。その後、バンコクのシーロム通りに赴いてます。
平成13年(2001年)だけでバンコクへ少なくとも三回は渡航してます。内訳は一月(年始)、夏と年末です。 カオサンはタイランドのバンコクに存在する街です。
 平成13年の夏に限ってはタイランドの首都バンコクのみ旅行したようです。 2001年一月の半年後は平成13年の夏です。
 平成13年12月28日頃にカンボジア、平成13年12月30日から平成14年の元旦頃はタイランドのバンコク(カオサン)、平成14年の元旦か一月二日頃にフィリピンのマニラに到着し帰国便に搭乗したようです。
 カンボジア旅行記内で平成12年に発売されたOASISのROLL IT OVERについて語られてました。
 渡航した時が明確な旅行記はともかくですが旅行記の内容で渡航した時期を推察した旅行記はございます。
乗継便は存在するので一度の旅で複数の国々を旅行した人はおられます。人によっては同じ日に異なる外国にいますし期間がまたがるのは仕方ないです。

続 北京の床屋
諸君、北京に来たら安心して調髪してもらえよ。その前に料金はちゃんと聞いておくように。体はきれいだったが、お金もきれいになくなった。ふっ、私の思い過ごしだったようだな。疑って悪かったぜ。
だけど中国人、ぼるなよおおおおお~っ!!(魂の叫び)
しかし、中国はこれで終わるほどまだまだ甘くはなかった。(というわけで上海編につづく)

飛んで上海
夜の8時に上海虹橋空港着。飛行機の中で今夜泊まるホテルを決めていたので、予約しようとうろうろしていると、「タクシー?」 と小説家の猪瀬直樹にそっくりの男が寄ってきた。(中略)
これで用は済んだと思ったが、極悪人の猪瀬はその後、信じられないことを言ったのだ。
 「ハイウエイ代の100元とタクシー代の100元を払ってくれ」
てめ~、空港でタクシー代はホテル代込みだと言ったじゃね~か。そう言うと 「サービス込みだと言ったが、料金込みだと言った覚えはない」 とわけの分からんことをぬかしやがる。渋々100元だけは渡したが、あとの100元は絶対に払えんっ! と長い間言い争った。(中略)
どうやらここは上海のはずれのようだ。
 その夜はローソンでハンバーガーとジュースを買ってホテルに帰る。


 北京旅行並びに最初の上海旅行(飛んで上海)について発表したのは両者共に平成15年ですけど渡航した時期を明確化するのは不可能でした。 大雑把な時期を伝えるのが関の山です。
 平成八年から営業してる上海のローソンは平成15年には百店舗以上出店してたそうで旅行中に利用したそうです。
誤解の無いように伝達しますがドリアン長野は海外に長期間滞在した訳ではないです。 観光旅行と政冷経熱は大違いでしょうか?
渡航者によっては一度の旅で複数の町や国々を訪問されます。
海外では日本の景品表示法が存在しておりません。
上海虹橋国際空港からホテルへの移動は不良タクシーを選んだので艱難辛苦だったようです。 空港連絡鉄道の役割は大きい。 nankai.co.jp
 自分は過ぐる夏、マレーシアに旅した。わが朝のポップスは亜細亜市場を席巻している。街をうろついて聞こえてくるのは宇多田ヒカルだ。自分はクアラルンプールの「タワー・レコード」で宇多田のテープを邦貨、六百円で購った。そしてセレンバンという街を目指し、列車に乗った。

ドリアン長野がマレーシア旅行記(ほぼエッセイ)を発表したのは平成16年四月です。 渡航した時期を明確化するのは不可能でした。
 宇多田ヒカルは平成十年に歌手活動を始めました。平成十年から平成16年に渡航したようです。憶測ですが平成14年か15年の夏はあり得ます。 過去の渡航を懐古してるのである意味において異質です。多くの海外旅行記を執筆したので例外的な作品は不可避だったようです。
食品方面は人それぞれ方針があります。食品アレルギーや宗教上の理由で避けてる飲食品はございます。 無理強いは辞めましょう。
マレーシアのヌグリ・スンビラン州のスレンバンはセレンバンとも言われているそうです。 街の説明は時に難しいです。

香港には返還前にツアーで行ったことがあるだけだ。(中略)
ここは既に満室で、15階の「オーシャン・ゲストハウス」を紹介された。(中略)
エアコン、ホットシャワー、TV付きで130HKD(1HKD≒16円。2004年当時)。(中略)
「えーっと、いくらだっけ?」と店のオヤジに聞くと、「199(HKD)だ」と言うので払って出てきた。
近くの通りにある「スタバ」でぼーっとしていると、はっとした。待てよ、199いうたら、めちゃめちゃ高くないか? あわててレシートを確かめてみると、99HKDになっとるやんけ。あーっ! やられたーっ! 100ぼられたやんけーっ!けど、 わっかっとる、悪いのはこのおれやあっ。おれがあほやったんやあー。騙されたんが悪いんや。今からその店にねじりこみに行ってもレシートに書いてあるさかい、どもならんわ。しかし、腹立つからその店の名を書いておこう。チョンキン二階にある「マハラジャ・プロビジョン・ストア」だ。


単体の香港旅行記として成立してるのは平成16年五月以前の香港旅行記のみです。ドリアン長野は三回香港旅行されました。内訳は中国返還前(平成九年七月以前)、前述した平成16年五月以前と平成19年の年末から平成20年の年始にかけての新婚旅行です。
皆様、お店の請求金額は気を付けましょう。

 上海日記 1日目
12月19日
年下の友人K君から何年か振りに電話があった。四方山話のうちに彼が言った。
「ドリアンさん、僕今年パスポート取ったんですけど、一緒に海外旅行行きませんか」
「そりゃいいけど、年末まで10日しかないで。もうチケットは残ってへんで。あったら奇跡やわ」
(中略)
 年末のチケットいうたら二か月前から予約すんで、フツー。
 上海日記 4日目(続々々)
 2005年の始まりは上海だったかと感慨にふけりながら歩いていると、途中で浦江飯店に宿泊していたバックパッカーたちと出会う。


 平成16年の年末から平成17年の年始はドリアン長野にとって二回目の上海旅行(上海日記)。相談から始まってる旅行記ですが現在は渡航の相談は受け付けてません。渡航にはパスポートが必須です。
私はKさんではありません。平成27年八月に旅費を支払ってから十月にカナダのバンクーバーを一人旅したが上海には訪問してません。
「飛んで上海」に限っては平成15年十月に発表。「上海日記」は平成17年一月から九月に発表した長編です。提案が悪い旅行商品は買えません。余裕を持って行動しましょう。 緊急に渡航する人の為に販売するならまだしも告知した日に催行日が50日未満だとおかしいです。

 ドリアン長野は平成18年にミャンマー旅行記を発表しました。
その翌年に取材中のジャーナリストが殺害される悲劇が発生しました。
ビルマの休日 その1
フライトは11時半だ。もう間に合わない......。がっくりと肩を落し家路につく。これは大使館のやつらの怠慢に違いない。チケット代を弁償させてやる。九時になるのを待って電話した(何回電話さすねん)。
「ビザ来てませんがっ!」
「送りましたけど。ゆうパックで」
「えっ?」
「料金が不足していたので着払いで送りました」
「あっ、そ、そうですか。どもどもども」
郵便局に確認すると確かに来ていると言う。フライトまで二時間しかない。俺はあわてて部屋を飛び出し、自転車に胯がった。

ビルマの休日 その12からの抜粋
どうやら違う路線に乗ってしまったらしい。今晩は野宿かなと思っていると、しばらくして終点に着いたらしく、みんな降りていく。さて、どうしたもんかなと、とりあえずにぎやかそうな方向に歩いて行ってみる。そこはゲストハウスと看板が掲げられていて、一階はゲーセンになっている建物だった。入口に立っている若者に聞いてみると、なんだかんだと他の若者が集まってきて協議を始め、近くのホテルにバイクで送ってくれることになった。ここに泊めてくれればいいと思うのだが、ライセンスがないので外国人は泊めることができないらしい。

ビルマの休日 その14からの抜粋
明日がイギリスからの独立記念日だということで遊戯場のような所で小学生がダンスを練習していた。
「この教室は日本政府と民間団体からの寄付で2001年に建てられました。寄付金が一番多いのは日本です」
チョウチョウさんがひときわ大きな教室を指差す。


この旅行記について時期を明確化するのは不可能でした。旅行記内で平成13年(2001年)に建築された教室のお話がございました。 ドリアン長野がミャンマー旅行記(ヤンゴン等)を発表したのは平成18年です。大雑把な時期を伝えるのが関の山です。誤解の無いように伝達しますがドリアン長野は海外に長期間滞在した訳ではありません。 恐らく渡航したのは平成17年の年末から平成18年の年始のように思います。 平成29年よりバングラデシュから陸路でミャンマー旅行するのは政情不安で不可能ですので推奨しません。 観光ビザ等の手続きは余裕を持って行いましょう。
 平和であった時期の旅行記です。海外でのバスの利用は日本より難しいです。 


 2010年に空港連絡鉄道がバンコクで開通。

 2007年の年末から2008年の年始はご夫婦でタイランド(バンコク)と香港へ新婚旅行されました。 ドリアン長野は平成19年11月に結婚し平成25年にフェイスブックで新婚旅行記を投稿しました。 2006年9月28日に開港したスワンナプーム国際空港。長野夫妻はその翌年に利用しました。単なる提案ですが「2007年に新婚旅行した。早朝の6時半に家を出て夕方の4時過ぎにバンコクのスワンナプーム空港に着いた。この空港は夫婦で訪れる前年(2006年)に開港したばかりだ。」と言った文面でも悪くないです。試練はありますが2012年には一人娘もおられ良きご家庭を作られてます。

【夏が来れば思い出す】その3より引用
 早朝の6時半に家を出て夕方の4時過ぎにバンコクのスワンナプーム空港に着いた。 この新空港は去年開港したばかりだ。
旧空港のドンムアンに比べると物凄く近代的だ。

【夏が来れば思い出す】その4
夜も遅いので仕方なくタクシーを拾ったのだが、大通りを飛ばし、裏通りを抜け、ものすごく遠回りをして目的地に着いたのだった。道路工事や一方通行規制もあって一概には言えないけど、ぼったくりだな。230円だったけど。

 回顧を兼ねた書評 令和二年三月より引用
新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。
バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。

 旅支度について
パスポートの入手、渡航先の選定、旅先の海外旅行案内書を購入して読んで予習、必要なら電子渡航認証等の申請や観光ビザの所得、外国語の学習、旅費と休暇の捻出、複数存在する旅に必要な商品の購入、外貨の保有、交通費、宿泊費、海外旅行保険の支払い等を済ませないとお気楽に海外旅行は行えません。

 特例的に時計並びに渡航について伝えます
 チョンキンの夜は更けて
話のネタにと、ニセ・ブランド時計の客引きに声を掛けたら、ここに連れてこられた。
(中略) 
 ちなみに私は腕時計は持ってない。ケータイの時間表示で充分だし、海外に行くときは電池で動く、ちっこい目覚まし時計を持って行く。
 オリエンタル・ホテル
時計が紛失していたのでクレジットカードからその代金を引き落とさせていただきますってな。それがなんで2000バーツになるんじゃい!


 タイランドのホテルの時計を盗むと2000バーツ請求されるので不正は辞めましょう。 当時の為替相場は1バーツ約¥2.7で¥5400。 平成30年に私はセイコーの置時計を¥1900で購入。時計は日本国内で普通に買うべきです。 海外旅行中は日付変更線を考慮した上での行動も必要になってきます。

 ドリアン長野はケータイと置時計を利用しました。
 私は置時計、懐中時計、腕時計を利用しました。
 渡航先の時間に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を各一個は利用すべきです。組み合わせは自由ですが渡航するなら時計を二個以上は用意しましょう。 そうしなければ出発便や帰国便に乗り遅れます。 帰国後は日本時間に適合させました。 置時計は電子音を鳴らさない為に乾電池を入れず時計の外側にテープで張り付けてカナダのホテルの部屋の中でiPadの世界時計を見ながら日付や時刻を設定して利用し帰国日には乾電池を時計から抜きました。
 渡航中に時計一つで犯罪の被害にあうと挽回が難しいです。
 置時計用の腕時計を用意するのも有効かな?


平成27年のカナダ旅行前に旅行代理店の店員から「単純な時計を二個利用して下さい。」と言われました。組み合わせは自由です。電波時計は利用不可の外国が存在しますし長袖を着用してると太陽光発電は不可能で安価な電池式の時計の存在は大きい。
スマートウォッチは頻繁に充電しないといけないので推奨しかねます。海外で腕時計の電池交換をするよりも日本国内ですべきです。
 香港で偽造時計を買うよりも日本で正規品の購入です。

補足説明。
ドリアン長野は、2009年以前の海外旅行ではセイコーの小さい置時計とケータイで済ませてましたが2024年のケアンズ旅行の際には腕時計も利用されました。
置時計の代わりに音が鳴らない腕時計を日本国内で購入して日付と曜日も含めて現地時間に調整し海外で利用するか否かは各自で御決断下さい。

 直行便、経由便、乗継便はそれぞれ異なる
 直行便を利用して目的地に到着する旅行者はおられますがそれだけではありません。経由便や乗継便を利用して渡航される旅行者はおられます。航路がまるでくかへを描くような移動をされた旅行者はおられたやもしれません。距離によっては燃料補給が必須なんです。 毒蛇ではないがハブ空港の存在は大きい。
経由便の乗客は到着した空港内で別の飛行機に乗り換える時は別として基本的に乗り続けるのみですが乗継便の乗客は途中降機が行えるそうです。 逆説的には、途中降機をして別の飛行機(別の航空会社も含む)を利用される人はおられるようです。

 国境越えについての見解
 過去に国境越えが行えても後に出入国の法律が変更したなら行えるか否かは不透明です。海外旅行中に国境越えするにしても陸路、海路、そして空路に大別されます。空路の場合は経由便や乗継便を利用された旅行者は多いです。 私は関空から直行便に搭乗し空港近辺の町のみ滞在したので陸路で国境越えはしてません。 一度の渡航で複数の国々を旅した人はいます。ドリアン長野は渡米してからメキシコへ陸路で国境越えをしました。パスポート、観光ビザ、電子渡航認証よりも重視されているのは公衆衛生か? コロナウイルスの悪影響は大きかったです。出国税の支払いは日本政府に対しても必要です。各自で渡航の為にどういった行動が必要かはお調べ下さい。


 入国審査が終わった後にどうすべきか?
 出国前に空港からホテルへ行く方法は調べましょう。
 私は海外旅行する約二か月前に保険料、航空運賃、宿泊費、送迎バス等の代金を旅行代理店で支払いました。
 航空会社、ホテル、海外旅行保険等の企業に直接依頼する旅人はおります。宿の予約をしなかったら渡航先で宿を探す旅になるので推奨出来ません。

荷物を借りた部屋の中に置いてから真っ先に目的地に行くのも悪くありません。 だが、ホテルで販売されてるミネラルウォーターは高値なので近所のお店でご購入されるのを提案します。滞在先の時を考慮した時計の時刻調整とお水の用意は重要です。
 実行すると幾分は安心ですが旅行の期間等で賛否は大別か?
 自宅の冷蔵庫に飲み物を入れて出国も重要?

【スシローペロペロ事件】6700万円の損害賠償請求へ!支払うのは少年?親?
フィリピンから強制送還された「ルフィ」は死刑!?弁護士解説!  詰問するストーカーは犯罪のほう助が目的なのでブロックすべき
 平成23年に嫌がらせの連絡をされました。 某ホームページを紹介してたからです。 gooブログは事前承認制が導入されてる。
平成24年にドリアン長野と再会した時に紹介を辞める提案をして黙認されました。
災害級の苦難は同情するが不要な共闘はしません。私がカナダ旅行中に毎日フェイスブックを通じ詰問されて防犯の問題があり困りました。 言い訳は役人並に上手だと確認したので某月刊誌も買うの辞めました。紹介の再開を目的に弱みを握りたかったか?共同不法行為も知らずに令和になってからも別人から連絡があり辛いです。
 レインクーバーが語れるようになったので「渡航した事ない人が海外旅行のブログをしてる。」と言われなくなりました。
「あいつ、カナダ旅行する時に絶対に不正行為をやらかすに違いない。それを踏み台にして紹介を再開させたいので毎日フェイスブックのタイムラインに詰問して。」といった依頼を受けた人がいたので返答しても損をすることはあっても得することがない書き込みをされて防犯上の問題があり大変困りました。
 マトメ
 ドリアン長野の海外旅行記は2009年以前に何度も海外旅行した話で私が整理整頓して再発表しました。 出入国の法規制を始め多くの部分において過去と現在は異なるので渡航前に各自でご確認下さい。 外務省海外安全ホームページ
 海外でタクシーやレンタカーの利用は推奨しません。治安が悪い街へ赴く事は危険なので辞めましょう。 
 事前に渡航先の海外旅行案内書を読んで下さい。
 上海旅行は友人からの相談で始まってますが現在は問い合わせを受け付けてません。 外国語ですが挨拶位は学びましょう。
 海外旅行保険の加入は必須です。 kaigairyokouhoken.com
 具体的に渡航した日は明確にして旅先を述べてほしいです。
 旅行記毎の伝達事項ですが日本との時差、電子渡航認証、区分け等については見直しました。平成29年の夏に頻繁な投稿をするのは難しい状況を伝えた所、「無理しなくて良いから。」とドリアン長野から返答されました。 今後は月の初日から14日迄に一度は投稿と14日から月末迄に私からの連絡をする予定です。
 ドリアン長野が管理人をしているホームページのみ楽しんでもらっても構いません。

ドリアン長野の読書三昧   ドリアン長野フェイスブック

ドリアン長野ツイッター   ノート版ドリアン長野



出入国に関わる法規制は激変してます。米国がメキシコに壁を作る計画があるそうです。 出国税は日本でも課税されます。電子渡航認証は注目されてます。
 為替相場ですが1バーツは平成十年代には¥3以下でしたが令和六年三月には¥4を上回ってます。
 公衆衛生も問われています。コロナの悪影響は大きい。

私はドリアン長野から頼まれ平成19年に終了したgoo簡単ホームページの開設を平成15年に手伝いました。転載出来ずに欠落してる海外旅行記は存在します。
yahooブログの代替としてブロガーとはてなブログを利用します。ドリアン長野は配偶者の発病で困ってますので不要な質問は控えています。


令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。 コラム 2024
敬具 マーキュリーマーク

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ドリアン長野のオーストラリア旅行記 令和六年五月並びに六月編

2024-07-01 | 日記
ケアンズへの道 1 2024年5月28日
娘は小学生の頃から海外に連れて行けと連呼していた。いつだったか、先生が「海外に行ったことのある人?」と聞いたら、クラスのほとんどの児童が手を挙げたと言う。
ほとんどっていうのは普通少なくとも8割だろう。まさか4割じゃないだろうな。水増ししてんじゃねぇだろうな。この地域は割と富裕層が多い。だからか。
言っとくけど、うちは富裕層じゃないからな。たまたま中古マンションが安かったから買っただけだけど、それが15年で1.5倍に跳ね上がった。
マンション自体は古いが、立地場所がよかったのでラッキーだった。定年になってもまだローンは残ってるが。何の話だっけ。
とにかく先生も嫌なことを児童に聞くねえ。
中学に入学しても娘の海外熱は冷めない。

「うちはビンボーなの?」と娘。
映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」でミッキーローク扮するホワイト警部が妻に「君は本当の貧しさを知らない」って言うシーンがあるが、 ポーランド出身のホワイト警部はニューヨークに来てからも苦労したんだろう。

そんなことを思い出したが、娘に言っても「それがどうした」と言うのに決まっている。
あんたの塾代にどんだけ注ぎ込んだと思ってんの?
という妻の正論もeastern window blows into the ears of horse.だ。
中学受験に合格したら、アメリカに連れてってな、と言っていたが不合格で良かった、いや、良くないが。
中学生になっても娘の海外熱は下がるどころか強固になるばかりである。
連日の執拗な攻撃にさすがの旅順港も陥落した。妻が折れたのである。
乃木将軍、万歳。

いやいやいや、いいのか。傍らで聞いていた私は驚いた。実は妻は癌治療をしていて、今は再発予防の治療をしているのだが、癌保険がおりた。
それを将来の大学進学のためにプールしておこうとの算段だったのだが、堅実で心配症の妻がいいと言うのなら異論はない。
それでも三人分の旅費を捻出することは厳しく、妻は抗がん剤の副作用で下痢が頻出するので私と娘だけが行くことになった。
近場ならいい、という妻の言葉に従って娘はタイかフィリピン、どちらがいいかなと言っていたが、そのうちアジア以外の国に行きたいと言い出した。
おい、要求のエスカレーションかよ。
都知事三選を目指す小池百合子かよ(意味不明)。
「それじゃあ、ケアンズはどう?」と妻。
え、ケアンズってどこだよ。

ケアンズへの道 2 2024年5月29日
ケアンズってオーストラリアの都市なのか。今の今まで知らなかった。
私は結婚するまでアジアの国をフラフラとリーマンパッカーをしていたが、オーストラリアは眼中になかった。
娘は大喜びである。はっきり言って私はあまり乗り気ではなかった。大自然とかカンガルーとかコアラとかあまり興味ないしな〜。
映画「クロコダイル・ダンディー」はよかったけど。ラストのニューヨークの地下鉄のシーンはよかったよな。何十年も前に見たのにまだ覚えているくらいだ。
その映画がきっかけで主演の二人は結婚したんだ(のちに離婚)。
妻が言うには日本からケアンズまで7時間で行けるし、時差も1時間しかない。
木曜日に退社して21時のジェットスターに搭乗すれば金曜日だけ有給をとって日曜日の夜には帰国できるんだそうだ。
実質、ケアンズにいるのは二日間だ。
さっそくメルカリで『地球の歩き方 オーストラリア編』を購入(定額の半額)。去年のだけど、去年も今年も変わりないだろう。
まずはパスポートを用意しなければならない。私にとっては四冊目のパスポートだ。スーパー「ライフ」の傍にあるフォトスタンドで顔写真を撮ると一人1000円もする。
なのでスマホで妻に撮ってもらい、お試しの写真加工アプリをダウンロードして背景を白くする。それをコンビニでプリントアウトしたら80円で済んだ。
五年用のパスポートは二人で22000円。申請は妻がしたが、受け取りは本人しかできない。
 日曜日(もやっているのだ。でも土曜日は休み)に娘とパスポートセンターに行ってきた。
今はICチップが入っているのか。パスポートを手にすると娘は興奮。地下鉄代を節約するために歩いて帰ろう、と言うので(さすが、なにわ生まれのなにわ育ちよのお)40分歩いて帰宅。
目的がある節約って楽しいなあ。
それにパスポートを手にしたことで徐々にアゲアゲになってきた。

ケアンズへの道 3 2024年6月12日
「豪雨ってオーストラリアに降る雨のことですよね」とは知人のT君の名言だが、ケアンズ観光と言えば熱帯雨林とキュランダ鉄道である。熱帯雨林は世界最古らしい。
調べてみたらアマゾンのジャングルより八百万年古いという。
現地のツアーは熱帯雨林を上空から眺めるスカイレールと観光列車のキュランダ鉄道がセットになっている。
これに乗らないのは熱海で温泉に入らずに帰ってくるようなもんではないか。
さらにキュランダ鉄道はあの「世界の車窓から」というテレビ番組のオープニングを飾っていたという。

どうせならと日本語ツアーに申し込んだ。結構な値段だが、一生に一度のこと。 セに原は変えられない(私は野球は見ないがアンチ巨人)。
これを娘に言うと、ちょっとした事件が起こった。
「そのお金があったらシドニーに行けるんじゃないの」
娘はケアンズのような田舎より都会に行きたかったらしい。

「あんた、英語圏に行きたいゆうたやんか。せやから一生懸命調べてかケアンズはどう?って言ったやんか。
ネットでポチるときもあんたに何度も確認したら、それでいいゆうたやろ」

妻は感情的になって、「なんでそんなこと言うん?腹立つわ」と半べそになる。
もういいわ。航空券今からキャンセルしたらいくら返ってくるか調べる!と激高。
これはキャンセル寸前まで事態が深刻化してきた。まるでキューバ危機だ。キューバの急場である。これは回避しなくてはならない。
世界の平和、いやわが家の平和のために。

そこで私は一計を講じた。それは全米興行収入第一位に君臨するジェームズ・キャメロン監督「アバター」はロケ地をケアンズの熱帯雨林にしたと聞いた。
もちろん世界遺産なのでCGも駆使しているだろう。
「アバター」を娘と二人で観ることにした。
そうすれば大自然に感動する→熱帯雨林すごい→なにがなんでもケアンズ行く→ケアンズすごい→ママありがとう!となるはずだ。
娘と「アバター」を観た。

ケアンズへの道 4 2024年6月19日
「アバター」って3時間半もあるのか。ちょっとしたランナーなら32.195キロを走れるんじゃないの。プライムビデオで娘と一緒に観た。惑星のジャングルのなんと美しいことか。
あのような景色をスカイレールから見れるのか、と胸を踊らせていると、娘は開始40分で「つまらない」とリタイヤ。

おい、なんだよ、「ターミネーター2」は面白いって最後まで観てたじゃないか。仕方なく一人で最後まで観た。ストーリーはいたってシンプルだ。
ベトナム戦争や湾岸戦争を想起する人も多いだろう。
そういえば関係ないが、『美味しんぼ』の作者、雁屋哲は山岡さんに「梅雨さえなければ日本はいい国なんだが」と言わせている。
オーストラリアに移住したのもそれが一因だろう。

ともあれ、あまりにも旅行先を急いで決めてしまった、もっと話し合うべきだった、と妻も反省する。娘に聞いた。
「選択肢は二択。ケアンズ行きをキャンセルするか、それとも行くか」。

娘は「行きたい」と言った。
それからシドニーのことは口にしなくなった。
現地滞在は二日間だけだけど、楽しい旅にしなくては。
やるべきことはたくさんある。eSIMの購入(これはHolaflyで買った。三日間、使い放題で1400円弱という破格の値段。疑問点をメールしたらすぐに日本語で返信してくれた)。

ETA(電子版ビザ)は一人2000円。項目の中に「あなたは家庭内暴力の加害者ですか」とあり、もちろん「いいえ」にチェック。正直に申告する加害者がいるだろうか。
ホテルは様々な体験をしてほしいと思い、効率は悪いが1日目と2日目は別々のホテルを予約した。バックパッカーが泊まるようなホテルだが、さすがにドミトリーではなく個室にした。
シャワーとトイレは共同。それでも一泊一万円以上する。二泊とも吟味して宿泊者の評価が高いホテルにした。難波から関空までは奮発してラピートを予約。

時差は1時間だが、現地時間を勘違いしないようにメルカリで腕時計(2000円)を購入。
その他メルカリで購入した物は変換プラグ(500円)、首掛けスマホストラップ(300円)。旅の記録用のトラベルノートとリュック(1000円!)はAmazonで買う。
リュックに付ける鍵と機内で安眠するための空気枕は百均で買った。


 皆様への伝達事項
 今回は特別に令和六年五月並びに六月の投稿を転載します。
 2012年に生まれた人は2010年代末期に渡航したのか?
 富裕層の高齢者が好む行動はお孫さんと一緒に海外旅行です。
哀しい事情がありましたが親子でケアンズ旅行されました。 ドリアン長野にしたら一度も行った事が無い南半球の豪州旅行です。
過去は書籍を読んだ後に旅されてましたが今回は娘を愛する奥さんの提案でした。古本は買えるか否かが不明なので高額な地球の歩き方より安価な海外旅行案内書のarucoを提案します。有名な観光地に行くか行かないかは各自の自由ですけれど読んでから訪問先を決めるべきです。 帰国便に乗り遅れる恐れも低減出来ます。
 毎週土曜日が定休日の大阪府パスポートセンターは日曜日は受け取りだけで申請は平日に行えます。 オーストラリア政府はETAを電子渡航許可と表明してます。一人旅でも自由妨害をする人はおります。 メルカリよりヨドバシを私は推奨します。
皆様、次回にご期待下さい。 敬具 管理人マーキュリーマーク
gooブログ版 ドリアン長野のオーストラリア旅行記
令和六年七月編

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カンボジア旅行記 2024

2024-07-01 | 日記
 ドリアン長野のカンボジア旅行記 カンボジア~ その1
「い、いっでぇ~っ!」 腹痛で目が覚めた。時計を見ると、まだ朝の5時前だ。シェムリアップのホテルでついに下痢に襲われてしまった。原因は分かっている。昨日、アンコール・トムを見物したあと、ホテル近くの屋台に夕飯を食べに行った。そこは広場に立ち並ぶ屋台のうちの一つで、母と娘が切り盛りしていた。昼に食事した時、彼女たちが親切にしてくれたのだ。広場にはゴミ捨て場もあって、ハエを追っ払いながらメシを食うのも難儀だったがな。行ってみると、昼間は汚れた顔をしていた娘が化粧して着飾っている。夜は営業用の顔か? ともかく、フルーツを何種類かミキサーに入れてジュースにしてくれたので、飲んだ。それがいかんかったようだ。しかし、その時点では大したことがなかったので、早朝にホテルをチェックアウトした。「フリーダム」という名のそのホテルはホテルといっても、ゲストハウスに毛が生えた程度だ。モーニング・コールを頼んだはいいが、部屋に入ってみると電話がない。はて、どうすんだ?と思っていたら、翌朝、フロントの人がその時刻に部屋のドアを叩きに来たのであった。このホテルはプノンペンの空港で客引きのにいちゃんに勧められた。バイクの送迎付きで一泊15ドルのはずなのに、二泊で40ドルだとぬかしやがった。(もちろん30ドルにさせたけど)行きは飛行機だったが、帰りの便が満席だったので、スピード・ボート(という名の渡し船)にした。 ボートは強盗に襲われるので危険なのだそうだが、地元の人や観光客が大勢乗っていてのんびりしたものだ。5時間かけて、プノンペンに着く。ううっ、いかん、小腸及び肛門周辺に緊急事態発令~っ。船着き場からダッシュでホテルにチェックインして、トイレに駆け込む。軟便というよりは水である。ああっ、フラフラする。3時間ほど横になったが、眠れない。今日はゆっくり静養しようと思ったが、せっかくカンボジアまで来て無為に過ごすのはもったいない。なんとか病身を起こし、ピーピーのヘロヘロ状態でホテルを出て、バイク・タクシーをつかまえた。郵便局に行ってハガキを出してから、情報省に行く。ここでパスポートと写真を提出し、書類に必要事項を記入すれば、ジャーナリスト・カードを5ドルで発行してくれるのだ。その間、わずか10分。カオサンあたりで売っているぱっちもん(ニセモンのことです)とはわけが違う。何に使うのかというと、これが大いに役に立つ。日本に帰国する際、税関職員の目につくようにパスポートにはさんでおくのだ。職員がパスポートをめくりながら言う。 「これは何ですか?」 「ジャーナリスト・カードです」 「すると、今回はお仕事で?」 「ええ、まあ、取材でね」 とかなんとか言って楽しむわけだ、これが。(うっ、書いてて涙が.....)ともかくだなっ、それだけをやり終えるとシアヌーク通りにあるコンビニ、「Tokyo store」でパンとジュースとミネラルウオーターを買い、ホテルに戻った。まだ6時前だが、今日の行動は全て終了! ベッドに倒れ込む。 それから翌朝までベッドとトイレを20往復はした。食欲はないが、脱水症状になるのでこまめに水分を補給する。買っておいたパンにはとうとう手をつけなかった。下痢と寝不足でヨタヨタと空港までたどり着き、なんとかバンコク行きの便に乗ることができた。その日はカオサンのホテルに泊まり、次の日にマニラ経由でやっと帰国した。その間、ず~っとお尻はピーピーさ。その3日後、仕事から帰ると保健所から留守電が入っていた。 「あなたの乗っていた帰国便の乗客の中からコレラ患者が出ました。追跡調査をしたいので連絡して下さい」ってな! げげ~っ! あわてて夕刊を読むと、インド帰りの男性がコレラを発病。インドで食べた乳製品が原因らしい。今年始めてのコレラ患者。という記事が載っていた。その男はラッシーを飲んで感染したに違いない。そういえば、飛行機の中で私の隣に座った男は青い顔をして機内食も食べずに(私も無理して食べたが、残してしまった。機内食を残したのはそれが始めてだ)、頻繁にトイレに行ってたぞ。うぬぬ、まさか、そやつが.......。 あくる日、保健所に電話して、体にはなにも異常なし、と答えておいた。「お尻がピーピーですう~」などと正直に申告するといろいろと面倒だ。昔、インドから帰った時に懲りてるからな。その日に病院に行って、薬をもらってきた。医者からは「3日以上、下痢が続いたら危険ですよ」とあきれられたけど。薬を飲んだら、お尻は沈静化した。それだけで済んだのならよかったが、私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。

 カンボジア~その2
 アンコール・ワットやアンコール・トムにはカメラのフィルムや絵葉書や笛や扇子を売りつける少女がごまんといる。観光客を見つけると、「お兄さん、お兄さん」と雲霞の如く寄ってくるのだ。彼女たちをかきわけ、かきわけ遺跡を見ているうちに、ふと思った。プノンペン市内ではほとんどお金を使うことはなかったが、遺跡を見るためにシェムリアップに来てからは予想外に散財した。まず、プノンペンからシェムリアップ間の航空券が55ドルに、帰りのスピード・ボート代が25ドル。アンコール・ワットに一回入場するたびに20ドル必要だ。あと、バイクタクシーやホテル代も結構使ったし、出国税もいるから、その分だけ所持金から引いてみるとだな........。があ~ん! 今日のホテル代を払ったらすかんぴんやあ~っ! 困ったあ~、どうすんねん、と遺跡の中で一人、頭を抱える私であった。 ともかくホテルに戻り、リュックをかき回してみると、ベトナム紙幣が5万ドンほど見つかった。すぐに中国人経営の両替商で両替してもらうと、9ドルになった。う~、ありがたや、これでご飯が食べられる。あとは日本円の硬貨をかき集めると2000円ほどになったが、硬貨は両替できない。日本人のツアー客をアンコール・ワットの前で待ち構えて、紙幣に両替してもらおうか等と思案しながらもう一度ホテルに戻ると、フロントで日本人らしき男が二人、話をしている。そう思うやいなや私は一目散に駆け寄り、彼らに話しかけていた。 「すいません、日本のかたですか?」 「そうですよ」 事情を話すと、心良く両替してくれた。のみならず、ホテル内にある中華レストランでご飯をおごってくれ、1万円も貸してくれた。いい人やあ~。聞くと、これからバンコクからネパールへ行き、帰国するのは二か月後だそうだ。あとから考えると、二か月もの間、2000円も使えない硬貨を持ち歩くのはさぞかし邪魔だったであろう。川原様、ありがとうございました。おかげで私は生きて日本に帰ることができました。 さっそく、二日間世話になったバイクタクシーのソーウオッポにガイド料を払う。大金が入って気が大きくなっていたので奮発して20ドル渡した。とたんに彼の顔がだらしなくデヘヘ~となったので、しまった、払い過ぎたなと思った。初日にガイド料を聞いたら、「It depends on you 」(お任せします) と言われていたので少なかったら悪いと思っちゃうんだよな。敵も人の心理をよく心得てるよ。いかん、いかん。せっかくのお金を大事に使わんとな。それからは出費をできる限り押さえた。ずっと頭を洗ってなかったのでシャンプーを買いにコンビニに行った時も、5ドル(!)もしたので30分迷って結局、買うのをやめたくらいだ。(頭がかゆい) だけどプノンペン・ポチェントン空港の出国税が20ドルだったのは痛かったぞ。その日はバンコクで一泊し、翌朝ホテルの前でタクシーを拾う。空港まで 350バーツだというので「バーツの持ち合わせがない」と財布の中身を見せた。運ちゃんはその中にあったドル紙幣を目ざとく見つけ、空港で5ドルを両替すればいいと提案し、運賃も300バーツに負けてくれた。空港の銀行で5ドル出すと、両替は最低10ドルからだと言う。仕方なくボロボロの5ドル札をもう一枚差し出すと、古いお札は受け取れん、とぬかす。きしょーめ、ビンボー人だと思ってなめんなよ。今度は1ドル札を5枚取り出すと、それも駄目だと拒絶! ふぎーっ! どないせいっちゅうねんっ!! 結局、最初の5ドルだけ両替してもらった。(なら、最初からそうしろよな) ドンムアン空港の出国税は250バーツ(現在は500)。出国審査を終えるともう外国の通貨は必要ない。手持ちのお金を日本円に換金し、この時点で所持金が1000円と9ドルと5・5バーツ。   なんとか帰国して自宅にたどり着いた時の所持金は1133円だった。昔、「がっちり買いまショー」というテレビ番組があったが(知ってるか?)、その海外版があったとしたらわしの優勝やあ~っ!

 カンボジア再び その1 at 2005 10/21 00:09 編集
 Conquer your passion and you conquer the whole world.己の欲望を征服できれば全世界を征服できる。(ヒンドゥーの諺)暑さで眼が覚めた。天井の扇風機が視界に入る。ここはどこだ? と覚醒していない頭で一瞬、考える。少しづつ脳が現実を把握し始める。シアヌーク通りはプノンペン市内でも最先端の通りだ。独立記念塔を中心に伸びるこの通りにはカフェ・バー、ハンバーガーショップ、ディスコ、日本料理店、スーパーマーケット、ベトナム航空の事務所等が点在する。二日前に国内線でシェムリアップまで飛び、アンコールワットやアンコールトムを見てまわった。そんなに散財したつもりはなかったのに、所持金がほとんどないことに遺跡の中で気がついた。財布には日本の硬貨が二、三千円あったが、紙幣でないとリエルに両替もできない。僕は一日や二日なら飲まず食わずに野宿なら辛抱できるのだが、昨夜のホテル代や現地で雇ったバイクタクシーのソーウォッポに払うガイド料もない。ツアーで来ている日本人観光客に両替を頼もうかと思ったが、それもためらわれた。バックパッカーは堅気のツーリストを恃んではいけないという矜持みたいなものがあった。と言えば聞こえはいいが、要するに観光客の立場に自身を置き換えてみれば、人品卑しきバックパッカーが近寄ってくれば、これはと身構えるのが当然だろう。結局、同じゲストハウスに投宿していた二人組の日本人旅行者を見かけ、地獄に仏とばかりに両替を持ちかけた。武士は相身互いですからと快く両替してもらったばかりでなく、夕食までご馳走になってしまった。四十代と思しき二人組の年長の人は 「私もバングラデシュでお金がなくなったことがありましてね。気持ちはよくわかりますよ」と言われた時には、自分だったら見ず知らずの他人にこんなにもできるのだろうかと反省しきりであった。(続く)

 カンボジア再び その2 at 2005 10/24 23:05 編集
 彼らに礼を言って別れたあと、近くの広場に蝟集している屋台へ出かけた。昼間その屋台の一つで食事をした。母娘でやっているらしい。清潔とはいい難いが、ハエを追い払いながら食べたその小松菜と豚肉の炒め物に大根のスープはしみじみとうまかった。「チュガン」(おいしい)と言うと、母親がにこっと笑う。外国人は珍しいのだろう、しきりに水を持ってきてくれたり、懸命にハエをうちわで追ってくれたり、おかわりはいらないかと何度も訊いてきた。その屋台に行ってみると、その時の娘が昼間とは見間違うほど化粧をし、着飾っている。勧められるままにフルーツと生ジュースを飲み、片言のクメール語で話した。近くの屋台からも人が集まってきて話がはずんだ。が、それがいけなかった。話題も尽きてしまったので、切りのいい時間に腰を上げる。何十メートルか歩くと、もう辺りは漆黒の闇だ。光の無い闇がこんなにも恐ろしいものだとは久しく思ってもみなかった。後ろを振り返ると屋台の一角が亡霊のように闇の中に浮かび上がっていた。僕は逃げるようにゲストハウスに帰った。未明に腹痛が来た。痛みは間欠的に激しさを増してくる。そのまま、まんじりともしないで耐え、夜が明けるのを待ってゲストハウスを引き払う。地元民と白人バックパッカーでひしめくスピード・ボートに乗り込み、五時間半かけてプノンペンに戻った。船着き場からバイクタクシーでこのシアヌーク通りにある「レックス・イン」にチェックインした。部屋に入るとベッドに倒れ込む。こんなひどい下痢はインド以来だ。「なんでこんな国に来てしまったんだろう」天井を見つめながら自問してみる。すると突然、記憶の彼方に押しやっていたジョン・ダンの詩が天啓のように脳裏をかすめ、それは次第に実体となって現われた。「奇なる眼を持ち生まれしならば視えざる物も見にいくべし一万の昼と夜を越え時が君を白髪に変えるまで」ベッドの上で苦笑する。僕は視えざる物を見ることを欲して、こうしてここまでやって来たのではなかったのか。体は重い。食欲は無い。近くにあるスーパー、「TOKYO INTERNATIONAL」でパンとジュースとミネラルウォーターを買ってはいたが、固形物はのどを通らない。それでも気力を振り絞り、ベッドから起き上がった。限られたわずかな滞在時間である。カンボジアまで来て一日中寝ているわけにはいかない。ふらつく足でホテルを出ると、通りは血液が沸騰しそうなほど暑かった。独立記念塔からノロドム通りを三キロほど北上するとワット・プノンという寺に突き当たる。この寺は十四世紀末にペン夫人が建立し、それがプノンペンという名前の由来となった。手前の道を右折すると、トレンサップ川沿いに中央郵便局がある。ここで日本の友人に手紙を出すために切手を買う。隣の窓口では葉書の束を持った中年の日本人女性が、まさに必死という感じのクメール語で職員としきりに何かを交渉している。ちらっと盗み見ると、日本語で書かれた年賀状だった。声を掛けようと思ったが、言葉を飲み込んだ。彼女がどのくらいの年月をプノンペンで過ごしているかはもちろん知らないが、僕には彼女が何かと闘っているように思えたからだ。僕がいくら何かを見ようと血眼になっていたとしても、物見遊山の旅行者に過ぎない。僕はただ通り過ぎて行くだけなのだ。(続く)「OASIS」の「ROLL IT OVER」を聴きながら  カンボジア再び その3 at 2005 11/02 23:09 編集
 プノンペン滞在の最後の日。午後にはバンコク行きの便に乗らなければならない。もうこの国には再び来ることはないかもしれない。そう思った僕はこの街に最後の別れをしようと、「キャピトルゲストハウス」へと足を向けた。市内を南北に貫くメインストリート、モニボン通りは多くのホテル、旅行会社、レストラン等が立ち並び、ひっきりなしに流れる車とバイクの喧噪にあふれている。文化芸術省を右手に見て左折すると、バックパッカー御用達の「キャピトル」がある。シャワーとトイレ共同で三ドルで泊まることができる。一階には吹き抜けの食堂があり、日本人や欧米人旅行者のたまり場となっている。「ハロー、キリングフィールドに行ってみないか。往復五ドルでどうだ?」バイクタクシーのにいちゃんが声をかけてくる。「友人を待ってるんだ」うっとうしくなった僕はそう言って彼を追い払い、外のテーブル席に腰をおろした。この周辺は日没になると強盗が多発し、治安が悪い。それにもかかわらず、ここには様々な人間が集まってくる。旅の情報を求め、たむろする者。それを目当てに客引きをするバイクタクシー。アジアを放浪したあげく、「キャピトル」の狭く汚い独房のような一室でずるずると何か月も沈没する者もいた。そういった連中は一様に目つきが悪かった。社会に適応できず、日本を飛び出しアジア的寛容さに安住し、各地を放浪する。旅が五、六年と続くと(実際には十年以上旅を続けている者もいる)、それはもはや旅とは言えなくなる。非日常が日常となり、感覚が麻痺し、ついには摩滅してしまう。そうなれば日本に帰ろうと思っても帰れなくなる。いや、帰りたいといった気持ちさえ起こらなくなるといった方が正しい。別に帰らなくても本人の意志であれば他人が口を挟むことではないし、それはそれで僕なんかは尊敬の念さえ起きるのだが、この「キャピトル」にたむるする連中は重い沈殿物の如く怠惰で人生の貴重な時間を無為に食いつぶしているように思えた。(続く)

 カンボジア再び その4 at 2005 11/11 23:21 編集
 頭上に大きな盆をのせ、そこにピーナッツの袋を山ほど置いた物売りの少女が入ってきた。テーブルの間をまわりながら声をかけてゆく。一人の白人が立ち上がって1ドルを少女に渡した。少女はピーナッツの袋を渡そうとするが、彼は「いいよ、そのお金は取っておきなさい」と言うように頭を振る。僕は通りをぼんやりと眺める。バイク、屋台、物売り、往来で遊ぶ子供たち、賭けトランプに興じる男たち、それを店の前に出した椅子に座って日がな一日、眺めている老人。こんな光景はアジアのどの街でも見た。カルカッタでもホーチミンでもバンコクでも上海でも。喧噪と倦怠。無気力と熱気。全く暑い。インドネシアの強烈な陽と熱風を受けて座っていると、アジアの大地に溶けていくような、怠惰な世界に埋もれていくような、そんな自虐的な感覚に引きずり込まれるような昼下がりの。リヤカーを引く人夫。午睡する褐色の肌。暑い。行き来する褐色のカンボジア。渦巻き、交差する人、人、人。眼を閉じると旅の断片的な思い出が浮かんでは消える。たとえば、プノンペン市内は街灯が極端に少ないので、午後六時にもなるとバイクや車のオレンジ色のテールランプが通りに浮かび上がる。それは息を飲むような幻想的な美しさであり、僕は黄昏が闇に変わってしまうまで飽かず眺めていた。たとえば、半日、市内の観光案内をしてくれたバイクタクシーのダリー。イスラム教徒の彼はラマダーン中だった。年に一度、一か月のラマダーン期間は日の出から日没まで飲食はおろか、唾を飲み込むことも禁じられている。ダリーは日中の暑さの中でひっきりなしに唾を吐きながら市内を案内してくれた。二人で小高い丘にあるワットプノンに登り、そこから市内を一望した。ダリーは言う。「UNTAC(カンボジア暫定統治機構)ができた頃はすごかった。アメリカからヨーロッパからアジアからいろいろな人間がやって来た。通りはそういう人たちでいっぱいだったよ」。僕は国内外の政治的な思惑に翻弄されたこの国の悲劇を思いつつ、通りをあふれる彼らの姿が目に見えるようだった。(続く)

 カンボジア再び その5 at 2006 01/07 01:21 編集
たとえば、プサートゥールトンポン。通称「ロシアンマーケット」と呼ばれるこの骨董市場。一歩足を踏み入れると陽の射さない暗い市場に所狭しと骨董品の店が並ぶ。中は入り組んでいて迷路のようだ。大半は偽物なのだが、無数の金銀製品、民芸品、陶磁器等が無言の案内人のように招き入れる。奥へ進んで行くほど外世界の喧噪は消え、どこをどう歩いているのかも分からなくなる。店先にいる老婆たち。何百年も前からそこに居るかのように泰然と僕を見据える。僕は人が営み、延々と続く生活に想いを馳せ、慄然となる。たとえば、アンコールトムで遭った子供たち。少年は勝手にガイドを始め、少女はフィルムやガイドブックを売りつけようとする。どこの遺跡に行っても子供たちは狙撃兵のように次から次へと姿を現わす。十二、三歳くらいの少年がとても流暢な英語で説明を始めた。プノンペンは英語熱が盛んで英語塾が乱立しているのだが、それにしても彼の語学力は驚異的だ。生きるために、家族に食べさせるために必死で学んだのだろう。ガイド料として二ドルを渡すと、「ありがとう」と受け取り、消えるようにどこかへ行ってしまった。そして元高校の校舎を転用したトゥールスレン博物館。かつてポルポト政権下に約二万人が収容され、生還できたのはわずかに六人だけだという。反革命分子と見なされた人々は家族とともに捕われ拷問を加えられた後、処刑されていった。文革と同様、多くは罪なき人たちであり、子供や老人、女性も数多く含まれていた。ポルポトの残虐行為を伝える博物館として一般公開されている。独房にはマットのないベッドが置かれ、タイル張りの床には血痕が今でも染みとなって残っている。あとは排泄用の小さな箱があるだけで、犠牲者は手足を鎖で繋がれ殺されていった。別の校舎、C棟の一階と二階には窓のない部屋に煉瓦を無造作に積み上げられて作った一畳ほどの独房がある。水も食事も与えられずに閉じ込められた彼らは何を思い、死んでいったのか。死の恐怖や苦痛とどのように闘ったのか。もし彼らが僕だったら? 彼らはあの時代にカンボジアに生まれ、僕は日本に生まれた。ただそれだけのことだった。僕と女性の係員の他は見学者は誰もいない。あたりは気味が悪いほど静まりかえっている。B棟にはおびただしい数の顔写真が壁一面に貼付けてあった。処刑前に収容者を撮影していたのだ。何のために死にゆく者たちの記録を残していたのかポルポトが死んだ今となっては謎のままだ。どれも恐怖に引きつったという顔ではなく、全てを諦めたような、諦観したような表情だった。案内の女性は大学生かと思っていたが、高校生だそうだ。「大学には行くつもりですか」と聞くと、「いいえ」とだけ言って悲しそうに顔を伏せたが、最後に「カンボジアは暗黒の時代を経て、復興に向かって進んでいます。未来は明るいでしょう」と答えてくれた。大晦日の前日にぶらぶらと歩いていると、学校に突き当たった。校庭には制服を着た何百人という子供たちが集まっている。小学生から高校生まで同じ校舎で授業を受けているらしい。少しすると彼らの下校時間にぶつかった。バイクで帰宅する高校生やシクロに乗って帰る小学生たち。屋台で買い食いする子供たち。その熱気を捉えようと夢中でカメラのシャッターを押した。「裏(うち)に向かい外に向かって逢著せば便(すなわ)ち殺せ仏に逢うては仏を殺し祖に逢うては祖を殺し羅漢に逢うては羅漢を殺し父母に逢うては父母を殺し親眷に逢うては親眷を殺して始めて解脱を得ん物と拘(かか)わらず透脱自在なり」(臨済宗 示衆の章)

 皆様への伝達事項
 ~注目してもらいたい部分~
私は当時、夜間大学に通っていたのだ。何日間かは薬を飲んでいたのだが、ある日、下痢が再発し講議を休んだ。しかし、その日は期末試験が行なわれていたのだったぁ~っ。知らなかったんだよぉ~。大事な必修科目を落とした私は結局、大学を中退することになってしまったのだ。ううっ、カンボジア~。

以下はgoo簡単ホームページが存在してた時の掲示板の質問とその返答です。
 From アハハハハ To durian-nagano@goo at 2003 08/23 18:01 編集 返信 爆笑
 けども、病欠の場合には特別に試験を受けさせてくれるのではないのでしょうか? 

 To at 2003 08/24 22:52 編集 返信 RE:爆笑
 そうですね。でも、その日に試験が行われたことを知ったのは「不可」になった成績表を受け取ったあとでした(ガックシ)。


 平成13年12月にドリアン長野はカンボジア旅行中に発病後、大学中退に至りました。
 胃薬は必須ですね。旅には時と金銭の余裕が必要です。日本国内でも出国税は徴収されます。 旅行記内で発表された金額や税額は現状とは異なるようです。値上げ(増税)については後述します。 フリープラン等の旅行商品は各種税金、往復の交通費(航空券等)、宿泊費等を組み合わせてるので推奨します。
 旅先で利用する予定の物品は日本国内で購入しましょう。
日本も今後、無秩序にならないような社会を形成する必要がございます。特筆すべきは心優しき日本人。一万円を見ず知らずの他人に貸しません。旅行に行くのは良いが他人に迷惑をかけないようにしましょう。

紹介した二種類の動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。
トゥール・スレン博物館 Tuol Sleng 2.MP4カンボジア、シェムリアップのアンコールワット遺跡群を訪れてみた。 ~Angkor Wat,Cambodia,Siem Reap
 平成十年代にgoo簡単ホームページ上でドリアン長野が発表した文面は改変していません。
2019年の時点でドンムアン空港の空港税は空港使用料700バーツ、事前旅客情報システム費35バーツ、国際線利用税15バーツで合計750バーツです。
将来的な値上げ(増税)はあり得ますので各自でお調べ下さい。 電子渡航認証のカンボジアe-visaについては各自で調べて下さい。evisa.gov.kh

タイランド旅行記 夏が来れば思い出す 2024

フィリピン旅行記 2024

~渡航先との時差が日本と大差が無くても腕時計と置時計は必須~
 私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。 日本で午後11時でも旅先は午前7時。日本時間の正午はカンボジアの午前十時。 目覚ましを利用したら扉は叩かれないか? 時間に遅れないように複数の時計を利用すべき。
 日付変更線を超えないなら置時計はアナログでも良いか?
time-j.net
海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。
移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
敬具 マーキュリーマーク

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ミャンマー旅行記 2024

2024-07-01 | 日記
ドリアン長野のミャンマー旅行記 NO88 ビルマの休日 その1

at 2006 01/09 01:15 編集

ミャンマーのビザの申請書に記入していたら、「complexion」という項目があった。肌の色、である。う~ん、whiteというほど俺の顔は白くないしな。yellowには侮蔑的な意味があるし.....。自分の顔を鏡に写してしげしげと見てみた。darkというほど松崎し〇るじゃないし。「遠い夜明け」というアパルトヘイトを描いた映画で「君たちはなぜ自分たちのことをblackと呼ぶのかね。むしろbrownじゃないか」と聞く白人に対し、主人公のビーコが「あなたたち白人はなぜ自分のことをwhiteというんですか? むしろpinkだ」とやり返す場面を思い出した。アメリカだったらこんな質問には慣れているんだろうなと思いつつ、三十分考えて無難なところでwhiteと記入した。
そのビザがなかなか来ない。さすがにやきもきして、出発三日前に大使館に電話した。
「明日送ります」
ミャンマー人の職員はこう言った。まだ送ってなかったんかい。翌日になってもまだ来ない。また電話した。
「まで来てませんがっ!」
「もう出ましたから」
そば屋の出前かい、と思ったがぎりぎりには来るだろうと高を括っていた。しかし、出発当日になっても敵は沈黙したままである。その日の早朝に郵便局におもむき、「速達便は来てませんか」と聞く。
「来てませんねえ」と郵便局員。フライトは11時半だ。もう間に合わない......。がっくりと肩を落し家路につく。これは大使館のやつらの怠慢に違いない。チケット代を弁償させてやる。九時になるのを待って電話した(何回電話さすねん)。
「ビザ来てませんがっ!」
「送りましたけど。ゆうパックで」
「えっ?」
「料金が不足していたので着払いで送りました」
「あっ、そ、そうですか。どもどもども」
郵便局に確認すると確かに来ていると言う。フライトまで二時間しかない。俺はあわてて部屋を飛び出し、自転車に胯がった。10メートル走るとチェーンがはずれた。あわわ、何でこんな時に。直そうとするがあせってうまくいかない。自転車を打ち捨て、走る。バックパックをかついで走るのはつらい。すぐ息切れがする。この時ほど自分が高橋尚子だったらと願ったことはない。大通りにタクシーが停まっていた。バスを待っている暇はない。
「ハァ,ハァ、ハァ、関空までフルスピードでお願いします。そ,その前に郵便局に寄ってください」
年輩の運転手さんは猛スピードで高速道路を飛ばし、俺が乗る予定だった空港バスを追い抜いた。これでもとを取った(取ってないだろ)。タクシー代は一万円を越えてしまった。ミャンマー人の半年分の収入だ。(続く)

NO89 ビルマの休日 その2

at 2006 01/11 23:23 編集

ミャンマーは軍事政権だ。入国審査に手間どるんじゃないだろうか。大使館のやつらが年末のやっつけ仕事で作成した(偏見)ビザに不備があり、係員にちょっとこちらまでと別室に連れていかれ袖の下を渡せば今回は特別に入国させてやると言われるがそれを拒否したらお前は不審人物だから持ち物を改めるとバックパックを調べられて持っていたスーチーさんの著作を見つけられてお前は反体制派かと軍の上層部に連絡されおまけにパスパートにはさんでいたカンボジアでたわむれに取ったメディアパスまで見つけられてお前はジャーナリストだなとあらぬ嫌疑をかけられ監禁され三日三晩不眠不休で取り調べを受けたあげく罰金三百ドルを徴収された上にもう二度とミャンマーには入国いたしませんと誓約書を書かされてやっと釈放されたということは全くなくあっけなく入国できた。
タクシーで市内に向かう。乾いた日射しと土埃が車窓から入ってくる。ロンジーをはいた人々が歩いている。何てのびのびとゆったりと歩いているんだろう。服装も質素だが清潔だ。貧しいかもしれないが、誰もが満たされているような顔つきだ。この印象は滞在中、一度も変わることがなかった。
ヤンゴンでの第一泊は京都でいえば京都タワーのような、街歩きのときの目印になるスーレーパゴダの目の前のゲストハウスに泊まることにした。パゴダというのは黄金の仏塔でミャンマー人の篤き信仰の対象となっている。早朝から夜遅くまでひっきりなしに参拝者が訪れ、瞑想したりお祈りしたりしている。市内でもいくつかパゴダがあるが、中でもスーレーパゴダはここを中心に市街が設計されたというありがたいパゴダである。日中はもちろんきんきらきんに輝いているが、夜になればなったでライトアップされ、何か所かある入口はまるでキャバレーの呼び込みのようである。(続く)

NO90 ビルマの休日 その3

at 2006 01/12 23:29 編集

歩いているとひっきりなしに、「ハロー、チェンジマネー?」と声がかかる。通貨のチャットと同じくらい米ドルが流通しており、しかも外国人旅行者はホテル代や鉄道料金等は米ドルしか使えない。しかし注意しなければならないのは、ミャンマーでは古びたドル紙幣は受けとってくれないことだ。少しでもよれよれのドルを渡すと、「交換してくれ」と言われる。帰りに空港で出国税の十ドルを出したときにも職員に「新しい紙幣と交換してくれ」と言われ、たまがった。もし新しい紙幣を持ってなかったらどうすんだ? 「日本人、古いドル紙幣のためにミャンマーから出国できず」なんて新聞に書かれたらずいぶんとおまぬけではないか。
市内を犬のようにうろつく。どこの国に行っても中国人街とインド人街が一番にぎやかでぐちゃぐちゃで暑苦しい。サイケなヒンズー寺院の前にはなぜか何匹も野良犬がうろついていた。腹が減ったので食堂に入ってチェッター・ヒン(チキンカレー)を注文。西原理恵子が「アジアではビルマ料理が一番おいしかった」と言っていたが、ガイドブックには「非常に油っこくて旅行者は必ずお腹をこわす」と書いてある。どっちなんだ。出てきたカレーはインドカレー以上にさらっとしているが、表面は古い油を浮かしたようだ。油の中にチキンが泳いでいるといった方がいい。食べてみて驚いた。うまい。うまいじゃないか。香辛料はそんなに入っているようには思えないのに、複雑で奥深い味だ。油っぽさは感じない。チキンは噛み締めるとしっかりとしたうま味が出てくる。私はミャンマーでカレーを食いまくった。ビーフカレー、フィッシュカレー、茄子カレー、鹿肉カレー。一番うまかったのはやっぱりチキンカレー。ビルマ語で覚えたのは「チェッター・ヒン」と「タミン」(ライス)と「エインター」(トイレ)だけだ。「ありがとう」も「こんにちわ」も「おいしい」も未だに何て言うのか知らない。(続く)

NO91 ビルマの休日 その4

at 2006 01/17 22:51 編集

夜はすることがないので十時には寝るから、毎朝五時に目が覚める。バンコクで二時までディスコで踊り狂って夜更かしするのとはえらい違いである。早朝の散歩がこれまた気持ちがいい。独立記念塔がある近くの公園に行くともう善男善女が太極拳やらダンスの練習をしているので、私もカラテの型をやる。六時半になればもう充分に明るい。そこからヤンゴン川に向かって歩いていくとイギリス植民地時代に建てられた、創業百年以上の老舗アンド高級ホテルのストランド・ホテルがある。一番高い部屋で一泊十万円、安い部屋でも五万円もするというクレージーなホテルだ。せっかくだからトイレを借りに入ってみると、何だか調度品やら骨董品やらがごちゃごちゃと置いてある。おしっこしたついでにレセプションで両替してみるとレートがものすごく悪い。私の泊まっている安宿の方がはるかにいい。(勝った!)と内心優越感を覚える。ここらあたりは税関やイギリス大使館や今は使われていないデパートや貨物列車が運行していたであろうレールが残っていたりしていて、植民地時代の残滓が色濃く漂っている。朝から対岸行きのフェリーに乗る人や降りてきた人でごった返している。川を眺めながら食べた露店のモヒンガー(魚のダシで作った麺)はストランド・ホテルで食べる豪華なディナーよりおいしかったと思う。これは別に負け惜しみではない(こともないこともない)。
市街にはバッタもんの外食店もある。「マック・バーガー」とか「ミスター・Jドーナッツ」とか「フライド・チキン・トーキョー」とか。カレーより高いけど結構はやっている。ファーストフードは嫌いだが、ためしにフライドチキン・ディナーセットを購入。味に関しての感想は控えたい。ただ日本だったら三時間でつぶれるだろう。
三時間で市内を一周する環状線に乗ってみた。外国人は乗車券を購入する窓口が違っていたり、パスポートの提示を求められたりとややこしく、おまけに料金はミャンマー人は二十円だが外国人は1ドルである。発車時間ギリギリだったので、ホームを走って最後尾の車両に飛び乗った。乗客から不思議そうにじろじろ見られた。(続く)

NO92 ビルマの休日 その5
at 2006 01/20 23:44 編集
対面式の座席の後部には縄が張ってあり、その内側には制服を着た人相の悪い輩が四、五人座っている。一人は車掌であとは警察と軍の関係者らしい。乗客の安寧を保つためだそうだ。列車はゆっくりと走っていく。物売りや行商のおばちゃんたちもどこどこ乗ってくる。水売り少年の水はコップ一杯が五円だった。停車駅に近づくたびに、線路の上で寝ている大人や遊んでいる子供たちを見かける。アジアの人たちっていうのは野良犬みたいだ。好きな時に好きな所に寝っころがって、気に入った場所にはどんどん入っていく。そういえば、バンコクでは線路の上に市場があった。列車が通過する時間になると商売道具をどかしていく。マニラでは列車が運行してない時間を利用して手作りのトロッコを走らせ、お金をとっている人たちがいた。もちろん違法だが、こういうのを見ると、いいよなあと思うのは野良犬の生活に少し憧れているからだろう。
ヤンゴン中央駅に戻り、スーレーパゴダの周りを歩いていると、子供たちがこちらにバタバタと駆けつけてきた。年長の十二歳くらいの女の子が持っていた絵はがきを突きつけ、
「ミャンマーの絵はがき買ってよ。言っとくけど、これは複写じゃないからね。他の店では絶対売ってないよ。二十枚セットで一万チャット! お買得だよ。わたしより安いところなんかどこにもないからね!」
と、まくしたてる。アジアの国のどこにでもいる子供の物売りだ。彼らの英語は生活のためだから、たとえブロークンであってもリズムがあってスピードもある。平均的な日本人の英語学習者が一生かかっても彼らのようには喋れないだろう。それはそれで日本人は幸福だなと思うけど。
「一万は高いよ」
「高くないってば! しかたないわね、それじゃあ大負けに負けて八千!」
「それでも高いよ」
女の子は、はぁ~っとため息をつく。
「あのね、一体いくらなら買うの?」
「う~ん、五千だな」
びっくりしたように目をむいて、
「冗談じゃないわ。わかった、ラスト・プライスを言うから絶対、文句言わないでよ!」
「言うよ」
「六千!」
「きみ、英語うまいね」
「あたりまえでしょ、何年も勉強してきたんだから。今でも週に二回学校で英語の授業があるけど、わたし一番なんだからね。いいわ、特別に五千でいい」
女の子は右手を差し出した。商談成立だ。五千チャット(五百円)渡すと、
「あなた、かわいいね」と言われた。きみにかわいいと言われてもな~。(続く)

NO93 ビルマの休日 その6

at 2006 01/21 22:52 編集

列車に乗っていたら隣に七歳くらいの女の子が座った
顔にタナカを塗りたくって
口紅を引いて
マニキュアをして
とっておきのワンピース
お母さんに連れられて
今日はお正月だから
にこっと笑うと齒が欠けていた
ああ、ビルマの子供
アジアの子供たちよ
バゴーのパゴダで
五歳くらいの女の子が
お金をくれと手を出す
お金はやれないよと首を振ると
実に悲しそうな顔をした
せめて 
さようならと手を振ると
顔をくしゃくしゃにして笑った
齒の欠けた口を開けて
クアラルンプールの空港で見た
白人の家族連れ
その子供たちは
貧しさというものを
死ぬまで知らないですむだろう
こんな光景は
こんな光景は何度も見たはずなのに
この炎天下に
汗と一緒に涙までにじむのはなぜだ
子供たちは
たじろぐほどの真剣な面持ちで
俺から金を巻き上げようとする
私は学校に行きたいんだ
弟においしい物を食べさせてやりたいんだ
父さんと母さんに楽をさせてやりたいんだ
俺はいつもお前たちに負けてばかり
最初から勝ち目のない闘いだ
ああ、ビルマの子供
アジアの子供たちよ
俺もアジアの子供だ
いつかはこのアジアの黄色い土に還る
そのときには
神様に頼んでやる
天国でアジアの子供たちと
一緒に住ませてくださいって
毎日話してくれないか
父さんと母さんは
お前たちを愛してくれたのか
貧しくても幸せな日々だったのか
隣でお前たちが
齒の欠けた口を開けて
笑ってくれれば
そう思えば
死ぬことなんて怖くない
そんな気がするんだ
ああ、ビルマの子供
アジアの子供たちよ
観光地では物売りの女の子が同じ絵はがきを二ドルで売っていた。やっぱりまたボラれてた。(続く)

NO94 ビルマの休日 その7

at 2006 01/26 23:13 編集

ミャンマー人は温厚で親切で素朴な人が多いと思う。道を尋ねた人が英語がわからなくても、わかる人をどこかから連れてきてくれるし、何かを買ってお釣りをごまかされたということもなかった。それでも人を騙してあぶく銭を稼ごうとするよからぬやつはどこの国にもいる。ミャンマーに着いた初日の夜に街を歩いていると日本語で声をかけられた。
「こんばんわー、日本人ですか? どこ行きますか?」
歩いていて日本語で声をかけてくるのはお金を騙しとろうというやつに決まっている。話に応じると、日本が大好きだ、日本に知り合いがいる等と言い出す。そして私は学生だとか教師をしていると言って、観光案内をしてあげると持ちかけ、最後に法外な報酬を要求するという古典的な手口である。他の国なら無視するのだが、ミャンマーということで少しだけ気を許した。
「僕は日本に恋人がいますね。日本、大好きです。明日はお正月ですから、たくさんの人がチャイティヨーパゴダにお参り行きますですね。僕の知り合いが車持ってますから案内しますよ。150ドルでどうですか」
その時はそいつの知り合いが日本円をドルに両替できるというので、一万円を換金してもらった。ミャンマーでは日本円を両替するのは難しいんである。
翌日、歩いていると別の男に声をかけられた。
「あなた、ビルマ人に似てますね。日本人ですか。ビルマ人かと思った」
今度は英語である。
「私は大学生です。どこに行きますか? 私の友だちが車を持っていますから、チャイティヨーパゴダに行きませんか。特別に150ドルで行ってくれますよ」
とてもわかりやすい。マニュアルそのままである。さすがに軍事政権では情報が制限されているので、手口も画一化している。こんなんで旅ずれした個人旅行者を騙すことができるんだろうか。
その男と歩いていると、昨日の男(ミャンマー人A 。名前は秘す、っていうか忘れた)と出会った。世界は狭い。
「ちょっと、ちょっと」
Aは私を脇道に呼んで聞いた。
「あの人、誰ですか」
なんだか自分が二股かけたプレイガールのような気がしてきた。(続く)  

NO95 ビルマの休日 その8

at 2006 01/30 23:14 編集


「あの人、とても悪い人ですね。マフィアですね。気をつけてください。あなたにちょっと話あります。今晩六時にあなたのホテル行きますから待っていてください」
と言ってAは去っていった。自称大学生の男(ミャンマー人B。名前は秘す、っていうか忘れた)はすかさず、「あの男、知ってますよ。ここら辺では誰も知らない人はいません。最近まで刑務所に入っていました」と言う。
(お前ら、二人ともあやしいんじゃ~っ)
Bと別れてから、MTT(ミャンマー国営旅行社)に行って聞いてみる。
「チャイティヨーパゴダなら往復のタクシーをチャーターして、100ドルですよ」
思わず値切るのも忘れて予約した。
Aは六時きっかりにホテルに現われた。悪人なのに時間には正確だ。
「あの人、外国人を騙してお金とりますね。騙すところ見たことあります。とても悪い人ですね。ところで、昨日の話どうしますか。150ドルって言いましたけど、友だちに相談したら130にしてくれるそうです。日本人は友だちですから特別ですね」
Bも全く同じことを言っていた。この国には騙しのテクニック講座があって、同じレッスンを同じ教科書で学んでいるに違いない。
「ふ~ん、もし旅行会社に頼んだら、いくらになるの?」
「そうですねえ、日本のお金で二万円にはなると思います」
私はもちろん、その話を断った。その前にもう一万円を両替してもらった。
チャイティヨーパゴダというのは別名、ゴールデンロックといって、金箔を張りつけた巨大な岩が山頂の崖の端に落ちそうで落ちないという微妙なバランスで鎮座しているというミャンマー人が一生に一度はお詣りに行くパゴダである。行くつもりはなかったのに、何だか行くはめになってしまったのはこれも仏様の導きか。早朝六時にタクシーに乗り、五時間かかって山のふもとに到着。そこからトラックの荷台に五十人ほどのミャンマー人とすし詰めにされ、どこかにしがみついていなければ振り落とされるほどの急勾配&曲がりくねった山道を四十分かけて中腹に着いた。しかし、本当の苦行はここから始まるということを神ならぬ私は知る由もなかった。(続く)

NO96 ビルマの休日 その9

at 2006 02/02 23:03 編集

トラックを降りないうちに、すさまじい攻勢だ。運び屋は私のバックパックを勝手につかんでかごに入れようとするし、茶店のおばさんは私の袖をつかんで離さない。
「ひと休みしてコーラ飲んでいきなさい」
「ひと休みって、これから登るところ.....」
「コーラ!」
「またねー」
彼らを振り切って、山道を駆け登る。下を見ると、熟れ寿司のように一緒に荷台でみちみちになっていたミャンマー人たちはまだ到着地点でうろうろしている。
「ふっ、やる気のないやつらだぜ。日本人のど根性を見せてやるわっ!」と張り切って登り始めたのだが、鬼のように勾配がきつい。一時間あれば山頂に着くらしいのだが、そんなことのできるやつは誰なんだ。植村直己か、野口健かっ。要所要所にかつぎ屋さんがいて、「乗らないか」と声をかけてくる。彼らは四人一組で台座に人を乗せて五百円くらいで山頂まで運ぶのだが、こんな過酷な仕事がまたとあろうか。その仕事に敬意は表するものの、自らの脚で登頂してこそ御利益もあろうというもの。ああ、ありがたや、ありがたや。声をかけられるたびに「ノープロブレム!」と言い放ち、全力ダッシュを繰り返す。三回続けたらマジで心臓が止まるかと思った。アホや。混じりっけなしのアホや。あちらこちらに茶店があるのだが、一旦休憩したらそこに根付いてしまいそうで恐い。脱水症状でふらふらと登っていくと、遥か彼方に陽光にきらめくゴールデンロックが見えた。それを目にしたら逆に気分が萎え萎え。無理や、あんなところまでたどり着くのはずぇったい無理やああああ。責任者出てこ~い!(こればっかし)。
かつぎ屋に乗った日本人や白人が次々と私を追いこしていく。おまえらなあ、金さえあれば何でもできるという先進国の驕りといったもの、かつ人間の努力と尊厳というものをいったいどのように考えて.......、ああ、それにしても私はなぜミャンマーくんだりまで来て、こんな辛い思いをしてまで山に登っているのだろうかという根源的なしかし決して考えてはいけない疑念が浮かんできたのだが、酸欠なのでそれ以上は脳が拒否。あのミャンマー人のAとB、今度出会ったらグーで殴っちゃるう~(逆恨み)。(続く) 

NO97 ビルマの休日 その10

at 2006 02/06 23:48 編集

思えば苦しい道のりであった。山頂付近では息が異常に苦しくなり、高山病かと疑ったり(なわけねーだろ)、いつ着くかともしれぬゴールにくじけそうになった時はアントニオ猪木の「恐れず一歩を踏み出せ。そこが道になる。お前の後ろに道はなく、お前の前に道がある。天上天下唯我独尊」という言葉を思い出して頑張った(ウソ。しかもテキトー)。しかし、朝の来ない夜はない。借金取りの来ない消費者金融はない。永遠に続くかと思われた苦行もいつしか終わりを告げ、はっと思ったらそこは山頂だったのだ。私は無寄港(茶店)単独登頂、しかも杖(茶店で売っていた)なしという偉業を成し遂げたのだ。この偉業はミャンマーの歴史には燦然と輝かないかもしれないが、私の歴史には燦然と輝くであろう。万歳、 自分。誉めたたえよ、自分(by 三代目魚武濱田成夫)。
境内には何百人という登頂者がまぐろのように息も絶え絶えに横たわっていた。まさに野戦病院さながらである。気持ちはわかるぞ、同志よ。そして本尊のゴールデンロックはその黄金色を輝かせ、傾斜のついた崖っぷちに絶妙なバランスで屹立していた。地震か台風でもあったら、転げ落ちそうだ。参拝者が金箔を買って、その岩にぺたぺたと貼付けている。日本だったら危険だからといって立ち入り禁止だろーな。崖の下を覗くと、神聖な場所のはずなのに菓子の包み紙とかがいっぱい散乱していて、ちっとも地球に優しくないミャンマー人なのだった。十分も見ていると、苦労して見にきた金箔岩なのにもう飽きてきた。今晩は早めに寝て日の出を拝もうと思い、外国人が予約なしで泊まれる唯一のホテル(これがろくな設備はないくせに宿泊費だけはバカ高いんだよな)に行ったら満室だとゆわれた。仕方ないので中腹まで下山することにした。あとはトラックでふもとまで行けば安宿があるはずだ。(続く)

NO98 ビルマの休日 その11

at 2006 02/13 23:07 編集

中腹に着くと参拝者を満載したトラックが次々とやってくる。かつぎ屋や運び屋は大忙しだ。こけつまろびつ駆けつけては交渉してどんどん山に登っていく。小柄な少年がかごの中に五人分の荷物を詰め込み、その上にばかでかいスーツケースを括りつけて黙々と登っていった光景を見たときにゃあ、彼の後ろ姿に男を感じたね。町工場のシャチョーさんが見たら「えらい! あんな年端もいかない子供が文句も言わんと....。それにひきかえ最近の日本の若いやつらときたらっ」と思わず事務所のスチールデスクを叩き、感涙にむせびそうだ。定員五十人の荷台に十人の日本人ツアー客を乗せたトラックが到着。五倍の運賃を払ったな。すかさず運び屋が群がる。おばさんが「わたし、自分で歩くよ」と肩をそびやかして腕を振る。日本人のおばさん独特のしぐさだ。とはいっても結局全員がかつぎ屋に運ばれていった。
とまあ、こっちもいつまでも見とれているわけにはいかないので、最終便に乗り込む。定員になるのを待って、ようやくトラックは日没の中を走り出した。夜になるとTシャツだけでは肌寒いほどだ。荷台には茶店の茶器を積んだ大きなバケツを抱え込んでいるおねいさんや売り物の駄菓子やら干物を持って帰る少年といった仕事帰りの人たち、私のとなりには僧侶が二人座っている。相変わらず身動きもできない。時おり話し声が聞こえてくるが、もちろん一言もわからない。見上げると満天の星と下弦の月。トラックは月明かりの下で険しい山道を疾走してゆく。いつ横転してもおかしくないほどだが、彼らと一緒に揺られていると不思議と恐くはなかった。実はミャンマーに来て一番よかったと思える瞬間がこの時だった。私はきっと十年後もこの時のことをまばゆいほどの星と月とともに懐かしく思い出すに違いない。(続く)

NO99 ビルマの休日 その12

at 2006 02/17 23:42 編集

トラックは山道から平地に入っていった。あれ? 来たときはこんな道はなかったはずだけど。この平地に入る前にトラックはいきなり停止し、別のトラックが横付けしてきた。みんながわれもわれもとそちらに乗り換えるので、わけがわからないままに私も移ったのだ。見ると半分くらいの人数を元のトラックに残したまま出発した。どうやら違う路線に乗ってしまったらしい。今晩は野宿かなと思っていると、しばらくして終点に着いたらしく、みんな降りていく。さて、どうしたもんかなと、とりあえずにぎやかそうな方向に歩いて行ってみる。そこはゲストハウスと看板が掲げられていて、一階はゲーセンになっている建物だった。入口に立っている若者に聞いてみると、なんだかんだと他の若者が集まってきて協議を始め、近くのホテルにバイクで送ってくれることになった。ここに泊めてくれればいいと思うのだが、ライセンスがないので外国人は泊めることができないらしい。バイクのうしろに乗って漆黒の闇の中を走る。街灯も民家もないから、とにかくもう鼻をつままれてもわからないほど真っ暗。
十分ほど走って連れてこられたのは門から建物まで百メートルはある広大な敷地に建てられたリゾートのようなホテルであった。連れてくんのはいいけどよ、この格好見て判断してくれよな。どう考えても金持ちの旅行者には見えんだろう。恐る恐る値段を聞くと、一番安い部屋が15ドルだそうだ。
「こんばんわ。日本人ですか」と日本語で声をかけてきたのは、五十歳くらいで一見日本人かと思うような人だった。
「私はこのホテルのマネージャーをしています。チョウチョウといいます」
チョウチョウさんは東京の寿司屋や喫茶店や居酒屋などで十年間働き、その時に貯めたお金で友だちと十年前にこのホテルを建てたそうだ。
「その友だちはホテルの経営をやめてお坊さんになりました。面白い人でしょう?」
う~ん、何だかこのホテルは当たりみたいだなあ。(続く)

NO100 ビルマの休日 その13

at 2006 03/01 22:34 編集

ロビー兼ダイニングには壁がなく、様々な木々が生い茂っているのが夜目にもわかる。テレビでしか見たことないような二十人は座れるような細長いテーブルに一人で食事をするが、チョウチョウさんやボーイが何かと世話をしてくれ恐縮するほどだ。ロビーにいるのは年輩の男女の白人グループと若い日本人のカップル。談笑している白人のグループの話し声に聞き耳を立てると、英語に似ているが英語ではない。不思議に思って翌朝彼らの一人に聞いてみるとオランダ人だった。チョウチョウさんが説明してくれたところによると、この広大な敷地にはゴムの木、黒胡椒、ザボン、マンゴー、パパイヤ、ココナッツが栽培されていて、ゴムの製造工場まであるそうだ。彼の友人であるオーナーが知人をもてなすために最初に小さなバンガローを建て、それが好評で次々と増設していくうちに今では二十三室になったそうである。案内された部屋は充分に広く、民芸品の家具で統一されていてこれがリゾートホテルだ、文句あっか! という感じで恐れ入って昼間の疲れもあり、ベッドに入ると三十秒で前後不覚になる。
翌朝はいつものように五時に起き、敷地内を散歩する。暗闇の中でちらちらと光るものがあるので近づいてみると、ゴムの木から樹液を採取している人の懐中電灯だった。朝食をとるためにダイニングに行くと、昨夜の日本人カップルがいた。彼らも道に迷ってこのホテルに連れてこられたそうである。二人とも見た目はフツーなのだが、大学生の頃から年期の入ったバックパッカーらしい。話を聞いてみると、バラナシの超有名な「クミコハウス」に長期滞在している牢名主のような日本人のこと、ラオスで大晦日にバスに乗っていると運転手が急に休憩だと言って、毛布を取り出してきて本格的に寝てしまい、新年をそのバスの中で迎えてしまったこと、通りすがりのトラックの荷台に乗せてもらったが、なぜかおがくずが敷き詰められていて、トラックが止まったらその中から生きた鶏が何羽も出てきてびっくりしたこと、ロンドンで罰金を取られてしまい、所持金が無くなってしまったのでロンドン橋が上がったり下がったりするのを一日中、二人で眺めていたこと(北野武監督の映画のワンシーンのようないい風景だなあ)。私は涙が出るほど笑わせてもらった。(続く) 

NO101 ビルマの休日 その14

at 2006 03/09 23:39 編集

朝食もそこそこに二人は慌ただしくチェックアウトしていった。これからゴールデンロックに登頂しに行くそうだ。健闘を祈る。新たな伝説を作って欲しい。
「どうですか、昨日はよく眠れましたか」とチョウチョウさん。
「はい、ぐっすりと。ところでホテルのパンフレットに書いてありましたけど、ここには養護施設もあるそうですね」
「はい。小学生から高校生まで七百人くらいが住んでいます。費用はいろいろな国からの寄付と、ホテルでミャンマーのダンスを見せることがありますから、そのお金で賄われています」
「そこは見学できますか」
「もちろんできますよ。案内しましょう」
ホテルの裏にある小さな丘を越えると、そこには様々な施設があった。男女別の寄宿舎はもちろん、規模は小さいけど図書館や運動場や娯楽室や医療室や調理場など。大きなかまどのある調理場では子供たちが朝食を作っていたし、明日がイギリスからの独立記念日だということで遊戯場のような所で小学生がダンスを練習していた。
「この教室は日本政府と民間団体からの寄付で2001年に建てられました。寄付金が一番多いのは日本です」
チョウチョウさんがひときわ大きな教室を指差す。外壁にはその事が日本語とビルマ語と英語で書かれたプレートが掲げてあった。こっちとしても鼻が高い。ホテルに置いてあるパンフレットにはこう書かれている。
「この施設には弧児や養育を受けることの困難な家庭や地域から来たビルマ族、シャン族、パオ族、ナーガ族、カヤー族、パダウン族、カレン族の子供たちが住んでいます。宗教も仏教徒やクリスチャンと様々で、お互いに理解することや尊重することを教えるようにしています。子供たちの大半は施設を出ると援助を受けて、より高度な教育を受けます。中には施設に戻ってきて教育や運営に携わったり、自分たちの故郷の村に帰って子供たちに教育の準備をさせる卒業生もいます」。(続く) 

NO102 ビルマの休日 その15

at 2006 03/14 23:30 編集

「よかったらゴム工場も見ていきませんか?」
「見ていきたいんですけど、タクシードライバーと待ち合わせをしているのでもう行かないといけません」
「そうですか。もし帰りに時間があったら寄ってください。山へはホテルの前からバスが出てますから、それに乗っていけばいいです」 
チョウチョウさんは一緒にバスを待っていてくれた。
「もう一度日本に行きたいです。今度は仕事ではなくて、友だちに会いに行きたいです」
チョウチョウさんは十年間海外で働いていたことによって、今の軍事政権下では再び出国するのは難しいらしい。というか、私には政権が変わらない限り不可能なことのように思えた。
「あっ、バスが来ました」 
チョウチョウさんは手を上げてそのバスを止めた。バスといっても大型トラックを改造したものだ。車内は人が鈴なりになっているので、窓わくに足をかけて屋根にあがる。そこには既に学生や茶店の商売道具を抱えた少年たちが十人ほど座っている。
「ミャンマーにまた来たときはここに泊まりに来てください」
「はい。ありがとうございました。お元気で!」
バスが走り出すと、朝の澄んだ空気が顔に当たって気持ちがいい。眼下には森が、彼方には山並が見える。こいつは香港やロンドンで乗ったダブルデッカーより比べもんにならんくらい爽快だ。俺は密林の王だ! なんていう勇壮な気分になってくるのは毎朝満員電車に揺られるジャパニーズ・リーマンの悲しき性だ。母さん、岸和田のだんじり祭りで毎年死者が出る理由が少しわかった気がしました。(続く)

NO103 ビルマの休日 その16

at 2006 04/07 22:17 編集

バスはやがて山の中腹に着いた。待ち合わせていた食堂で朝食(もちろんカレー)を食べていると、タクシードライバーのソーパーさんが現われた。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
私は山頂のホテルに泊まれなかったこと、ひょんな巡り合わせからリゾートホテルに泊まった顛末を話した。
「それは面白い経験でしたね」
「ソーパーさんはゴールデンロックまで登ったことがありますか?」
「一回だけね。もう二度と登りたいとは思いません」
ソーパーさんは本当にうんざりとした顔をした。
「さて、そろそろ行きましょうか」
タクシーがチョウチョウさんのホテルの近くに差し掛かった時、一台のバイクとすれ違った。チョウチョウさんだった。はっとしてバックミラーを見るとあっちも気づいたらしく、Uターンしているところだった。
「ちょっ、ちょっと止めて下さい」
「どうしましたか」
「あの人がさっき話したホテルのマネージャーです」
チョウチョウさんが追いついてきた。急いで窓を開ける。
「今から帰るところですか。これからゴム工場を見学していきませんか」
「ソーパーさん、少し時間ありますか」
私がそう言うとソーパーさんはビルマ語でチョウチョウさんに何か話しかけた。おそらく、「残念だけど、今日中にヤンゴンに戻らないといけないので無理だね」とでも言ったのだろう。
「そうですか、仕方ありませんね。またミャンマーに来た時にはホテルに泊まりに来てください」
チョウチョウさんはまた同じことを言った。
朝五時。あたりはまだ暗い。通りに小さな火が揺らいでいる。屋台の準備のために早朝からカンテキに火を熾している老夫婦。ここにも生活がある。そんなことがなぜか胸を突く。もう少しで夜が明ける。ヤンゴン市内にまた喧噪が戻ってくる。MDプレイヤーのスイッチを入れる。
「ヘッドフォンを耳に充(あ)てる
アイルランドの少女が歌う
夕暮れには切な過ぎる
涙を誘い出しているの?」
「レディオヘッド」のアルバムにも引用された椎名林檎の「茜さす 帰路照らされど...」の一節。私は旅先で聴くとその切なさと激しさに涙ぐみそうになる。通りをこのまま歩いていくと川に突き当たる。
インド洋に繋がるヤンゴン川へと。
今日はイギリス植民地からの独立記念日だ。
「今の二人には確かなものなど何も無い
偶(たま)には怖がらず明日を迎えてみたいのに」
旅をする気持ちに少し似ているかもしれない、と思う。もうすぐ夜が明ける。(終わり)

 皆様への伝達事項
 ~注目してもらいたい部分~
「この教室は日本政府と民間団体からの寄付で2001年に建てられました。寄付金が一番多いのは日本です」
チョウチョウさんがひときわ大きな教室を指差す。外壁にはその事が日本語とビルマ語と英語で書かれたプレートが掲げてあった。

 文中で2001年(平成13年)との発言がございました。
 ドリアン長野は平成18年一月から四月にかけてこのミャンマー旅行記を投稿しました。その期間(平成13年以降から平成18年の年始)に渡航されたのでしょう。
 2007年にミャンマー反政府デモが発生し長井健司氏がミャンマーで殺害されました。
 2017年になってミャンマーで特定の民族に対する迫害行為が行われ混乱が発生しました。
 2021年ミャンマークーデターも未だ記憶に新しいです。
 現地ではマラリア等の伝染病が流行してます。難民も多く発生してます。空路ではなくバングラデシュから陸路でミャンマーに渡航するのも極めて困難な状況です。 自由妨害はしませんが外務省の渡航中止勧告は現実です。 
 これらの事情から私は皆様にミャンマー旅行を推奨することは不可能です。 しかし、一般論は伝達します。
 違法両替商人は利用しないでください。可能であれば日本国内で両替しておきましょう。
 旅行に適した靴を選びましょう。ビブラムソールとゴアテックスが使用された登山靴(メレル社のモアブ等)はアウトドアに向いてます。
 フリープランを購入してから渡航したら大半の経費を前払いしたのでお気楽です。
 ドリアン長野は運よく外国人向けのホテルに案内されたと考えて下さい。迷子になると悲劇です。 他人の旅行中の艱難辛苦を嘲笑するのは良くないです。
皆様が海外でバスを利用するなら事前に調べて乗車してください。海外では日本より行きも帰りもバスの利用は難しいです。
 今回の海外旅行記で最も強調したいのは信仰の自由を重要視する事です。 ミャンマーに滞在した最後の日が英国から独立した記念日だったようです。 始りが終わりで終わりが始りか?
当初は国内旅行記のようですがビザの所得はパスポートの所得と同程度に重要ですし外国に行く前に日本国内の町を複数訪問する人はおられます。
ドリアン長野が申請する時に困ったミャンマーのビザですがミャンマーE-visa(電子渡航認証)も利用出来るようになったそうです。
 現在はドリアン長野が執筆した平成十年代と違い日本から外国に行く時だけではなく外国から帰国する時にも出国税の支払いが求められます。 将来的には増税もあり得ます。 詳細は各自でお調べ下さい。
チャイティーヨー・パゴダはミャンマーのモン州に存在する巡礼地として有名です。

憶測ですがドリアン長野は平成17年の年末から平成18年の年始にミャンマー旅行したのかな?
紹介した4種類の動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。

ジャーナリストの長井健司さん射殺から10年 ミャンマー


【ミャンマー】チャイティーヨーに行く 籠に乗ってゴールデンロックへ


ゴールデンロック (ミャンマー)


ヤンゴンで日本円で両替が出来る両替店を発見!


~渡航先との時差が日本と大差が無くても腕時計と置時計は必須~
 私が平成27年に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。 日本で午後11時でも旅先は午前7時。
 時差に対応する心構えは必須です。腕時計は外出中に必要で置時計は設定したなら室内で時刻を知らせてくれるし目覚まし音も鳴らしてくれます。 日本時間の正午はミャンマーの午前9時半。
time-j.net
海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
 帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
敬具 マーキュリーマーク

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香港旅行記 2024

2024-07-01 | 日記
#46 チョンキン・マンション at 2004 05/13 18:32 編集

チョンキン・マンションという名の安宿が香港にあるということは知っていた。が、まだ泊まったことはない。香港には返還前にツアーで行ったことがあるだけだ。漫画家でバックパッカーの小田空さんは、重慶大厦とは、通称を「チョンキン・マンション」。アジアを旅する際にホンコンに基地を置く世界の貧乏旅行者で、その名を知らぬ者はいない、旅人のとまり木。心の故郷(ふるさと)。食わせ物の迷宮。
香港銀座の一等地、右に左に高級ホテルをしたがえながら、ひときわ異彩と異臭を放つ、今にも朽ち果てそうなヨレヨレの汚いビル。
(小田空著「目のうろこ」より)http://amzn.asia/iqDx0Yt
と書いている。どうだ、どうだ、行ってみたいと思わんかね? (オレだけか~い)少なくとも私にはTDLよりも魅力的な場所に思えるぞ(行ったことないけど)。というわけで、死ぬまでに一度でいいからチョンキンに泊まりたいという熱い(のか?)想いを抱いて五月の連休を利用して四泊五日のチョンキンひとりツアーに出かけることにした。なじみのパキスタン・カレー屋のマスターにチョンキンに行くと言うと、「わたし、チョンキンよく知ってるよ。香港にいる時、よくカレーの材料買いに行ったね。もう十年以上も前になるかな。そうだ、ドリアンさん、チョンキンに泊まるなら、パパダ(せんべいのようなもの)5キロとホール・カルダモンとグリーンペッパー・ピクルス買ってきてくれへん? あっ、それから荷物になって悪いけど、ブラック・ラベルとシーバスもお願い」
俺は行商人か~いっ、と心の中で突っ込みつつ、香港へ。
地下鉄尖沙咀(チムシャツォイ)駅のE2番出口を出ると、ネーザン・ロードをはさんで、でかい雑居ビルが現われた。ああ~、あれがチョンキンなのね、と感慨にふける隙もなく、パキスタン人とおぼしきにーちゃんに「ニセモノ時計アルヨ」と声をかけられる。それからこの界隈をうろつくたびに声をかけられることになるのだが、やつらは百発百中、私を日本人と見抜いてしまうのだ。店で買い物をしたら、店員に広東語でしゃべりかけられるのはよくあることだったのに。なぜだ? 「職人芸」、もしくは「匠の技」という言葉を思い出す。
入口にはターバンを巻いたシーク教徒、パキスタン人、アラブ人、アフリカ人という見るからにキツイ人たちがたむろしていらっしゃいます。一階には何軒か両替所があるのですが、入口付近の三軒のブースにはいつも若い女性が座っています。むさいチョンキンにあって、泥沼の蓮、はきだめの鶴、という風情ですね。いや、レートの悪さをごまかすための香港人のこすい作戦かもしれません。チョンキンでは両替の手数料を取らないので、わざわざ遠くからやって来る人もいるみたいです。二階にある「Pacific Exchange Co.」という両替商がレートがいいようです。奥に入ってみると、コンビニ、鞄屋、服屋、土産物屋、インド食料品屋、散髪屋、食堂等がひしめきあってます。「チョンキン・マンションには一階と二階合わせて200軒以上の店があります」と書かれたプレートが天井付近に掲げられていますが、暇な人は確かめてみよう!
チョンキンは金城武、フェイ・ウォン、トニー・レオン出演の映画、「恋する惑星」(英語題名「Chung King Express」)のロケにも使われています。この映画は1994年の作品なんですが、雰囲気はその頃と今も変わってないですね。ただ、一昔前はチョンキンと今は無き九龍城が香港の暗黒地帯の双璧だなんて言われてたんですが、最近のチョンキンは警官が巡回したり、防犯カメラを設置したり、夜中の12時になるとシャッターを降ろしたりと、安全面に関しては格段に進歩していますからね、チョンキンに泊まりたいけど、なんだか恐いと思ってらっしゃるそこのあなた、心配いりませんからねえ~。
17階建てのチョンキンにはA~E座が独立した棟として入っており、100以上もの安宿があるそうです。入って左にはA、B、C座が、右にはD、E座のエレベーターがあります。各座に偶数階行きと奇数階行きがあり、全部で10基のエレベーターが稼働しているのですが、宿泊客や住人、お米や食料品やガスボンベを荷車で配達する人、掃除のおばちゃんでいつも長い行列が出来ています。遅く帰って来たときなんか、行列を見ただけでうんざりします。でも、大丈夫! そんなときに限って、インド人のにーちゃんと香港人のおばちゃんが列に割り込んだ、どーしたと言い争いをしているという心が和む光景に出くわしますからあぁっ!
そんでもって、エレベーターの定員が7人なんですけどね、ガタイのいいシーク教徒のおじさんや小錦なみに体格のいいアフリカ人のおばさんなんかが乗ってくると、すかさず親のかたきみたいにブザーが鳴りまくるんですよ。仕方ないから、最後に乗ってきた人がうらめしそうに降りていくんですが、中には片足立ちになって、両手でバランスを取りながらブザーをやり過ごすという、「伊東家の食卓」で使えそうな裏ワザを駆使する人もいらっしゃいます。(つづく)
恋する惑星 #映画 #eiga https://t.co/EqyF3bfKF6 @eigacomさんから

#47 チョンキンよいとこ一度はおいで

at 2004 05/21 23:09 編集

チョンキンでの最初の宿はA座7階にある「ウエルカム・ゲストハウス」に泊まることにした。ガイドブックで紹介されているせいか、日本人宿泊客が多い宿だ。受付には誰もおらず、「御用の方は電話して下さい」という貼り紙がある。電話すると、20歳台の女性が出て来た。 「ごめんなさい、忙しくてね。なんせ私ひとりだけだから」
ここは既に満室で、15階の「オーシャン・ゲストハウス」を紹介された。彼女、インドネシア出身のシティは二つのゲストハウスを持ち、原石の販売もしているそうだ。もらった名刺にはルビー、サファイア、ガーネットといった宝石の他に痩身茶の名もあった。若いのになかなかのやり手だ。部屋は三畳ほどで狭いが、チョンキンでは平均的な広さだろう。シティの掃除が行き届いており、清潔。窓からネーザン・ロードが見えるのがいい。エアコン、ホットシャワー、TV付きで130HKD(1HKD≒16円。2004年当時)。可もなし不可もなし。ここには二泊した。チェックアウトした時のシティはぐったりと疲れていた。人を雇ったほうがいいと思う。
次はB座9階の「ハッピー・ゲストハウス」に行く。ここはTVドラマ「深夜特急 香港編」の撮影に使われたらしいので、話のネタに泊まってみようかと思ったのだが、ベルを鳴らしても誰も出て来ない。そのうち、隣のゲストハウスから「そこは満室だよ」とインド人が出て来た。その言葉は客引きが使う常套句だ。インドで散々聞いたわい。その男、グルング(28歳)にうちに泊まりなと誘われる。一泊180HKDだと言っていたが、部屋に案内されたら、「広い部屋を空けたから200ね」とぬかす。「きさまあ~、どこの出身じゃ~い」「カルカッ夕(コルカタ)」「やっぱり」 「オレは狭くても安い部屋がいいんだけど」「いや、ここしか空いてないから」
せこい奴め、きさまがそういう気なら、俺にも考えがあるわっ! 他に行くのが面倒なので泊まってやる。
だけど、「俺はトラベルライターだ。このホテルのことを雑誌に書いてもいいか」とはったりをかましたら、手の平を返したように「トイレットペーパーが無くなったら、言ってくれ」だの「飲料水は外にあるから自由に飲んでもいいよ」だの「エアコンのスイッチはここだよ」だの、さっきと態度がちゃうやんけ。キャッシュな奴め。
「グランド・ゲストハウス」、部屋は広いが、独房のような感じ。ひと休みしてから部屋を出たら、グルングが満面の笑顔で「満室になったよ!」。満室? なぜだあ~?
あくる日の昼前にチェックアウトしようとしたら、玄関にグルングが毛布を敷いて爆睡していた。宿泊客が起こすのはかわいそうだと思ったんだろう、右の手の平に鍵が置いてあったので、私も左の手の平に鍵を置いて出て行く。
さて、香港最後の夜。日本人バックパッカーはA、B、C座に宿泊が集中すると聞いた。分からんでもない。D、E座になるとその怪しさのディープ度に拍車がかかるような雰囲気がある。で、D座に泊まってみることにした。エレベーターに書かれているゲストハウスの名前を見ながら、どこにしようかなと思案していたのだが、名前の書いてあるプレートが新しそうなので9階の「ニュー・チャイナ・ゲストハウス」に泊まることにした。それが大当たりだったね。2002年にオープンしたばかりで、チョンキンとは思えない美しさ。エアコン、ホットシャワー、電話、TV付き(これがなんとリモコンTVだよ。驚いたね)でシングル120HKD~150HKDはお買い得だよ、奥さん! おまけに玄関の入口に宿泊客共有の冷蔵庫があり、長期滞在者のために無料の洗濯機まであるっていうんだから、至れり尽くせりだ。オーナーのピーターさんはE座8階にも「ニュー・ヤンヤン・ゲストハウス」を持っているそうなので、そこも見せてもらったが奇麗だった。宿泊客はアフリカ人がほとんど。ピーターさんも従業員のガーナ出身のアームストロング君(22歳)もフレンドリーでカインドリーだ。名刺を置いてきたから私の名前を言えば、きっとサービスしてくれる(ことを望む)。これで香港の宿泊は問題なしさ。近くにシェラトンやぺニンシュラもあるので、チョンキンに疲れたらロビーのソファーに座って気分をリフレッシュすれば大丈夫。さあ、ジョイン・トゥー・ザ・チョンキン・ワールド!(つづく)
深夜特急 香港編の書籍は、新潮社さんが販売されています。
深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫) 沢木 耕太郎 https://t.co/YVbNdVVVOB @amazonJPさんから— ドリアン長野 (@duriannagano) 2017年11月12日

#48 チョンキンの夜は更けて

at 2004 06/25 22:25 編集

「300だ」
「高いな。他の商品はないのか」
「いくらなら買う?」
「いや、他の商品はないかって聞いてるんだ」
男がファイルされたルーズリーフをせわし気にめくる。6畳くらいの部屋には壁に向かって作業机が並んでいて、時計の部品が無造作に散らばっている。それを少年が熱心に組み立てている。
ここはチョンキンから100メートルほど離れたミラドール・マンション一階にある工房だ。ミラドールもチョンキン同様、安宿の集合ビルだが、新しい分だけ設備が整っているらしい。話のネタにと、ニセ・ブランド時計の客引きに声を掛けたら、ここに連れてこられた。さきほど連れてこられた二人の中年の白人女性たちも隣の席でルーズリーフの写真を見せられている。
「男物はロレックスだけだ。ブルガリもあるが、これは女物だけだ」
ロレックスは言っちゃあ悪いが、成り金オヤジの趣味だ。まるっきりイケてない。ちなみに私は腕時計は持ってない。ケータイの時間表示で充分だし、海外に行くときは電池で動く、ちっこい目覚まし時計を持って行く。
「この時計イケてねー」「もっと安くしろー」と散々ごねる私にとうとうキレたのか、「あんたの欲しい時計なら外で売っている」と通りに追い出された。仕方ないから、露店で売ってる一個30HKDの時計を買ったね。それにしても、あんなに簡単に客を手放すってことは一日に何人もの客が食いついてくるってことか? それに時計が一個売れれば、客引きと実際に売りつける男にそれぞれ、いくら入ってくるのだ? ああ、知りたい。
チョンキン内にあるインディアン・フード・ショップで頼まれていたカレーの材料を買ったんだけど、久々に頭にきたね。買い物の品を抱えてレジに持っていき、精算した時に持ち合わせが少ないことに気づいた。「両替えしてくるから」と店を出て、近くの両替店で両替して戻ってきた。「えーっと、いくらだっけ?」と店のオヤジに聞くと、「199(HKD)だ」と言うので払って出てきた。近くの通りにある「スタバ」でぼーっとしていると、はっとした。待てよ、199いうたら、めちゃめちゃ高くないか? あわててレシートを確かめてみると、99HKDになっとるやんけ。あーっ! やられたーっ! 100ぼられたやんけーっ!けど、 わっかっとる、悪いのはこのおれやあっ。おれがあほやったんやあー。騙されたんが悪いんや。今からその店にねじりこみに行ってもレシートに書いてあるさかい、どもならんわ。しかし、腹立つからその店の名を書いておこう。チョンキン二階にある「マハラジャ・プロビジョン・ストア」だ。オヤジのインド人は大きいことはできなさそうな、小ずるくて小心者の貧相で女には絶対もてそうもない顔やったでー(小学生か)。ここで気を取り直して、チョンキンにあるお勧めのレストランを書いておこう。D座には「アフリカン・サービス・センター」という一室がある。理髪をしたり、アフリカ料理を食べさせたりするらしいが、入ったことはない。なんせ、外観は他の安宿と変わりなく、秘密クラブのような雰囲気だ。
今度、安宿に泊まってるアフリカ人に連れてってもらうことにして、私のお勧めは三階にある「エベレスト・クラブ」。ここのシェフは一流ホテルで修行していたそうで、ビーフカレーも自慢のノビリティアン・ビリヤーニもとても上品な味だ。内装もゆったりと落ち着いていて、チョンキンにいることを忘れてしまうほどだ。チョンキンには何軒かインド・レストランが入っているが、味と値段の安さを比べてみるとここが断トツだと思う。ネパール人マネージャー、メゲンドラ君が言うには、「日本人もよく来てくれる。香港に住んでいる日本人でここを知らない人はいない」んだそうだ。彼は日本に行ったとき写真を撮りまくり、400枚もの現像を頼んでカメラ屋のおやじをびっくりさせたというほどの大の親日家だ。だけどメゲンドラ君、日本のことを夢中で話す君の話を聞いてたら、もうちょっとで帰りの空港行きのバスに乗り遅れるとこやったで。それに10%割引きのメンバーズカードをくれたんはありがとうやけど、今度いつ使えるか分からんで。ひょっとしたら、使われへんかもしれへんでー。 

#53 香港の散歩(芸能人ではありません)

at 2004 12/01 23:38

海外で何が一番楽しいかというと、言うまでもなく散歩である。私の場合はガイドブック片手にうろうろするので純然たる散歩とはいえないが、それでも右手に路地があれば入り込まねば気がすまないし、左手に面妖な物売りがいれば声をかけるのにやぶさかではなし、前方に小汚い食堂があれば満腹でない限り入ってみるのである。ただし、歩くのは速い。ほとんど徒競走だ。限られた短い滞在時間に少しでも多くのことを見ようとするから気があせって小走りになる。夜は旅行日記を書くので、くたくたになって宿に帰ってきても書き終わるまで眠られない。その日の詳細をいちいち書いていると一時間くらいかかってしまう。う~、早く寝たいと眠い目をこすりながら日記をつけていると研修旅行でもしているような気分になる。最近では外出するたびに日記用のノートを持ち歩き、飯を喰ったり、お茶してる間にちょこちょこと書くようにしている。観光客然とした出で立ちでいると危ないので、スーパーのビニール袋にカメラとガイドブックと日記帳を突っ込んで俺はジモティー(地元民)だよという顔して歩く。そのせいか、盗難に遭ったことは一度もない。
香港は狭い土地なので三日もうろうろすれば概要は分かってくる。とにかく、どこに行っても人がいっぱいだ。旺角なんて渋谷のセンター街の何倍もの人だかりだ。頭がくらくらしてくる。人込みに疲れると、チョンキンマンション近くの九龍公園に行った。フィリピーノの憩いの場所になっていて、彼女たちに混じってベンチに座り、スーパー「ウエルカム」で買ったおやつを食べながらぼ~っとする。夜になると「シティスーパー」という大型スーパーに行く。ここには世界各国の食料品がずら~っと陳列され、在香港邦人の姿もよく見かける。私が香港を一番インターナショナルな街だと実感する場所である。そんな香港の街歩きで私のお気に入りの場所が二か所あった。(つづく)

#54 続 香港の散歩(芸能人ではありません)

at 2004 12/11 00:09 編集

まずは中環(セントラル)に行ってみる。地下鉄から地上に出てみると、おおっ、そこはロンドンのシティかと見まがうほどにエリートビジネスマン&ウーマンが闊歩する香港経済の中心地であり、おされな地区である。高層オフィスビルがばんばんと林立し、バスに乗り合わせたおのぼりさんの中国人が、うおおお~っと一斉に喚声をあげるほどだ。正直なやつらめ。かわいいじゃないか、中国人。ただ背後にはすぐ山が迫っているので、坂を昇っていくとすぐにオールドチャイナが顔を出し、高層ビル群が書き割りみたく思える。散歩の途中に下校帰りの小学生に出くわしたが、みんな将来は香港大学を卒業して香港経済の要職に就きそうな上品で賢そうな顔をしていらっしゃられる。そんな山の手から地下鉄で西へ一つ目に上環(ションワン)がある。かつては商業の中心地だったのだが、今はさびれ、ださいといえばださい。中環とは比ぶべくも無い。下校途中の小学生も庶民的というよりは頭が悪そうだ。思い出せないほど遥か昔、大阪が天下の台所として殷賑を極めていたのも束の間、あれよあれよと江戸にその中心を奪われ現在にまで至っているのを彷佛させる街だ。ほっとけ!
上環駅からハンコ屋が密集する文華里を抜けると、蛇料理を出すレストランがある。昔は蛇問屋が多かったそうだ。少し歩くと骨董品街のハリウッド・ロードやキャット・ストリートがあり、ここからは坂道が多くなる。その一角にある香港最古の廟である文武廟に入ってみる。ここには緑の衣をまとった文の神様と赤の衣をまとった武の神様が祭ってあり、原色のド派手な神様だ。それでも熱心に祈っている参拝者を見ているとこっちも敬虔な気持ちになってくる。そこからハリウッド・ロードを北西へ道なりに歩いていくと仏具屋や棺桶屋がある。店の前には参詣した際に燃やす紙で作った車や紙幣なんかがずらっとぶら下がっていて壮観だ。道がクイーンズ・ロードと交差したあたりから乾物屋が多くなり、下町の中の下町、まるで下町を煮染めて佃煮にしたような雰囲気になってくる。たまにあるコンビニやマクドナルドがミスマッチだ。歩いているうちに段々と異臭がしてくるが、これは梅芳街という数十メートルの横丁に塩漬け魚を売る店があるからだ。店の前には干し魚が所狭しと吊り下げられ、それを猫車でせわしなく運搬している。このタンパク質が発酵した臭いというのは、お好きな人にはたまらん臭いだ。発酵学、醸造学者の小泉武夫先生によれば、チーズというごく一部の例外を除けば、地球上でカビを使う食文化圏はアジア地域に限られているそうだ。日本ではこの手の臭いが駆逐されているのは残念至極だ。そこから大通りに出ると乾物屋問屋街になる。ブリキで作ったようなレトロな緑色のトラムに乗り、二階席に陣取ってこの通りを眺めるのも乙なもんですな。店のおやじがドリアンの段ボールをたたんでたり、八百屋の前で猫があくびをしたりするのを見ていると、意識がとろとろとしてきて、中国を清といってた時代に思いがはせ、アヘン戦争だの東学党の乱だのといった言葉が浮かんできたりしますな。さて、散歩は九龍へと戻りやしょう。(つづく)

#55 続々 香港の散歩(芸能人ではありません)

at 2005 01/12 23:19 編集

油麻地(ヤウマテイ)駅から上海街を南下していくと一気にディープな中華街になってきます。右に左に仏具屋や雑貨屋や線香屋なんかがあって、正真正銘、由緒正しきチャイナタウンという感じです。こんな所を歩いていると心底、落ち着きます。もう少し行くと天后廟に突き当たります。廟は赤を基調としていて、守り神はいかにも中国という感じの妖しい人形たちです。若い女性も多く、線香をあげて熱心におがんでいます。その入口にある公園では、おじさんたちが佃煮のように密集して、昼寝をしたり将棋をしたり簡素なビリヤード台で玉突きをしたりして、おじさんたちの憩いの場になっています。この光景を見ていると、大阪は西成にある三角公園、別名トライアングル・パーク(嘘)を思い出します。ホームレスの憩いの場所である三角公園には街頭テレビがあり、みんな金曜ロードショーなんかを観ています。年末なんか総合格闘技の「プライド」を観てたりして、どこかの通のおっちゃんが、桜庭の師匠の高田がどうたらこうたらと講釈をたれてたりしてますが、チャンネルは誰が決めてるんだろうといつも気になります。そこからまっすぐ行くと廟街(テンプル・ストリート)になります。夜になると男人街と呼ばれる場所ですね。私はナイト・マーケットよりも昼間のだらだらっとした感じが好きです。しばらく歩くと佐敦道(ジョーダン・ロード)にぶつかりますから、右折してうろうろしていると、公園やらサッカー場やら公設市場がある場所に出ます。官涌街という通りを下っていくと場末のポルノ映画館があります。侘びしさが素敵な通りです。このうらぶれた感じがたまりません。ここで散歩は終わりです。地下鉄で帰ることにしましょう。スターフェリーで香港島に渡ってみようと船着き場に行くと、これがまたものすごい人だかり。香港の映画スターの手形がはめ込まれたプロムナードには何千人という人民と観光客が密集しています。みんな夜景を観にきたんだなと思っていましたが、そのうち「音と光のショーへようこそ」というナレーションが聞こえてきたかと思うと、対岸の香港島の高層ビル群からイルミネーションが乱舞し、レーザー光線が飛び交い、ステレオサウンドで音楽が鳴り響き、屋上からは花火がどっかんどっかんと上がり、ほぇ~っと見とれているうちに20分ほどでショーは終了しました。はぁーっ、ええもん見せてもらいましたわ。そういえば、空港に着いたときにパンフレットを配ってましたが、それには5月1日から9日は特別に花火の打ち上げをやりますと書いてありました。ああ、この期間中に香港に来れてよかった。これでいつ死んでもいいわと思いました。マジで。

チョンキンマンションを振り返って 平成29年3月

金曜日の夜11時にNHKでチョンキンマンション特集を懐かしいな〜と観ていると、5歳の宵っ張りの娘が「パパ〜〜、遊んで〜〜、カルタしよう〜〜」
「ちょっと待って、これを観終わってか…」
「パパ〜〜!遊んで〜〜」
「もう少しで終わるか…」
「遊ぼう〜〜!」
あ”〜聞こえない〜、お前は獅〇座なおか〜〜」
録画しててよかった。

 皆様への伝達事項
 ~注目してもらいたい部分~
 香港には返還前にツアーで行ったことがあるだけだ。

 今回は平成16年五月の香港旅行記で平成九年七月以前にも香港旅行した過去について表明してます。後に平成19年度に新婚旅行された時にも香港を旅行しました。従って合計三回です。
 香港旅行ですが令和になってからはデモが頻発してるそうで推奨出来ません。 チョンキンマンションは平成20年に改装が行われ治安対策は改善したそうです。 伊藤家の食卓は平成十年代に放映されてたテレビ番組で令和五年にも特番が放映されました。
為替差損はあり得るが日本で外貨両替してから海外旅行されるのを提案します。 お店の過剰請求は国の内外を問わずにあり得ます。
ドリアン長野は旅行中に写真撮影をしたようですが文面のみの投稿なので転載は行えません。

 紹介した動画はドリアン長野並びに私(マーキュリーマーク)が撮影したものではなく、参考の為の転載です。
刑務所よりも狭い香港の激安ホテル / 重慶大厦(チョンキンマンション)
Hong Kong Chinese Lunar New Year Fireworks Display 2013 年香港農曆新年煙花匯演
香港デモ 未明の衝突一部始終  実質的に前述したし半ば常識ですが1997年七月に香港が返還された後に民主主義が破壊される懸念があり実際にそうなりました。  ~注目してもらいたい部分~
ここはチョンキンから100メートルほど離れたミラドール・マンション一階にある工房だ。ミラドールもチョンキン同様、安宿の集合ビルだが、新しい分だけ設備が整っているらしい。話のネタにと、ニセ・ブランド時計の客引きに声を掛けたら、ここに連れてこられた。
(中略)
 ちなみに私は腕時計は持ってない。ケータイの時間表示で充分だし、海外に行くときは電池で動く、ちっこい目覚まし時計を持って行く。

 ニセモノ時計は買わないようにしましょう。将来的に値上げはあり得ますが日本において激安価格で販売されてる正規の時計を優先すべきです。 ドリアン長野は海外旅行中にケータイと置時計を利用しました。
海外旅行する前に「単純な時計を二個利用して下さい。」と旅行代理店の従業員も発言されてました。

~渡航先との時差が日本と大差は無くても腕時計と置時計は必須~
 私が平成27年に赴いたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。 日本では午後11時でも旅先は午前7時。 日本時間の正午は香港の午前11時。 絶対に時差に対応する心構えは必須です。 必要な商品は日本国内で正規品のみ買うべきです。
 海外で買って良い商品と買ってはいけない商品はございます。
time-j.net
海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。
 移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
 宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
 帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。

個人店な意見ですけどカナダ旅行後は「海外旅行してないから香港で時計を買った話について否定的では?」という邪推からは解放された。  カナダ コロンビーブリタニーキ旅行記その1
敬具 マーキュリーマーク

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ベトナム旅行記 2024

2024-07-01 | 日記
ドリアン長野のベトナム旅行記 #5 ホーチミン市のディスコ
 「今晩、ディスコに行かないか?」 
バイク・タクシーのヒューはメコン・クルーズのボートの中で聞いてきた。今日はニューイヤーズ・イブだし、社会主義国のディスコってのも気になるしな。古めかしい建物の二階にあるディスコにヒューと行くと、彼の奥さん(ディスコで知り合ったそうだ)が二人の日本人女性を連れてきていた。彼女達と自己紹介をし、初めはおそるおそるっていう感じで踊っていたのだが、そのうち脳内にエンドルフィンとドーパミンが放出されたのだろう、体内メーターがレッド・ゾーン に入った。こうなると止めることなど不可能、私は我を忘れて踊りまくった。私の踊りは太極拳にブレイク・ダンスをミックスしたオリジナルだ。踊り始めると 周りには人がいなくなるという危険なダンスだ。ふっ、お嬢さん、気をつけなせえ。俺に惚れるなよ。この時も無我夢中でキープ・オン・ダンシング、気がつけ ばみんな、私の周りを遠巻きに見物している。もっ、もしかしてこれって奇異の.....、いや違うね!(なぜかきっぱり) 羨望の眼に決まっとる。(とむりやり納得)
 見て見て、もっと見て~。快感だわ。そのうち、輪の中から一人のベトナム少女が踊りながら出て来た。そうなの、私と一対一で日越ダンス対決をするつもり なのね。わかったわ。受けてたってあげる。私たちは我を忘れて踊った。離れては近づき、近づいては離れ、相手の差し出す一挙手一投足に呼応し、互いのリズ ムを感じ取りながら。歓声が上がり、拍手が起こる。誰かがタオルを差し出した。汗を拭いて観衆に投げ返すと、我先にと奪い合う。オーホッホッホッ。私はスターよ。今宵のディスコ・キングなのよ~。 
ひと休みして外のソファーに座っていると、通りがかった人が「かっこよかったよ」と言って握手を求めてくる。ふっふっふっ。ホーチミンのディスコは最高だ ぜい! よしっ、来年まで踊り続けるぜい、ベイビー、と腰を上げるとヒューが「もう帰ろう」とつまらなさそうに言う。えっ? まだ11時ですぜ、だんな。
 「ベトナムのディスコは深夜まで営業できないんだよ」 
そうか、さては私のあまりの人気を妬んでるな。仕方なく私たちは帰った。こうしてホーチミンの長く暑い夜は更けていくのであった。
そんでもってこの前、スクンビットにあるディスコ、「ナルシサス」に行った。行ってみて驚いたぜ。最先端のハウスやトランスはいいんだけどさ、みんな下半身だけ揺らしながら踊っているのだ。何だ何だ、その金魚踊りは? やる気あんのかっ。踊りっちゅうのは、なんちゅうかこうもっと情熱的に踊るもんちゃうんかいっ! こんなんやったらグレース・ホテルのエスニック・ダンスのほうが100倍ましやっちゅうねん。かくなるうえはわしが乗り込んで踊りの基本を教えたるわっ、 とフロアに出て行こうとすると連れの女に必死に止められた。(なんでやねん) 
 私は日本ではクラブに行かないので分からんが、ハウスはああやって金魚踊りをするのが主流なのか? 誰か教えてくれ~。こうなれば次に狙うのは〇イエリアで有名なシーロム通りのソイ4じゃい。金魚野郎ども、首を洗って待っとけ!

 ~注目してもらいたい部分~
「ベトナムのディスコは深夜まで営業できないんだよ」

 皆様への伝達事項
 いつ頃、渡航したのか? 平成13年一月にドリアン長野はタイランドのバンコクへ渡航してますので平成12年の大晦日にベトナムのホーチミンを旅したようです。 乗継便を利用した海外旅行記で48時間未満の短期間滞在だったようです。
 社会主義国ベトナムのディスコの営業時間は午後11時迄。
 皆さん、ディスコに行った事がありますか?私は行く気がありませんし行ったことはありません。海外では赴いても良いが日本国内では行きたくない場所が存在するようです。平成十年代に作成されたお笑い海外旅行記なので過去の出来事だと考慮してお読み下さい。 周知というよりも羞恥な事実だが、タイランド旅行記を読まれたい方は以下をクリックして下さい。

タイランド旅行記 夏が来れば思い出す 2024


 45日未満の旅行であればビザ無しでベトナムへの入国は可能だそうです。 詳細は各自でお調べ下さい。

~渡航先との時差が日本と大差が無くても腕時計と置時計は必須~
私が平成27年十月に行ってきたバンクーバーの時差は夏時間だったので16時間。 日本で午後11時でも旅先は午前7時。
時差に対応する心構えは必須です。腕時計は外出中に必要で置時計は設定したなら室内で時刻を知らせてくれるし目覚まし音も鳴らしてくれます。 日本時間の正午はベトナムの午前十時。
time-j.net
海外旅行案内書等で時差は発表されてます。遅刻しない為に渡航先に適合させた時計と日本時間に適合させた時計を利用しましょう。  移動中は置時計の音を鳴らさない為に電池は抜きます。
宿に到着してから電池を入れ時刻調整し帰国日に抜きましょう。
 帰国後は時計を全て日本時間に適合させて利用出来ます。
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長期休暇もない有給休暇もないリーマン・パッカーが、短い休日と高い航空券にもめげず海外を旅したお笑いエッセイ

 自己紹介
尊敬する人は大山倍達とマザー・テレサとジョン・ライドンと町田康と中村うさぎです。 ピストルズを聴いて人生に目覚め、スマッシング・パンプキンズで人生の悲哀に気づいた野球嫌いのA型の魚座の極真空手を愛するインドア派。 -大阪在住の鳥取県産まれ-


 ~旅支度について~
パスポートの入手、渡航先の選定、旅先の海外旅行案内書を購入して読んで予習、必要なら電子渡航認証等の申請や観光ビザの所得、外国語の学習、旅費と休暇の捻出、複数存在する旅に必要な商品の購入、外貨の保有、交通費、宿泊費、海外旅行保険の支払い等を
済ませないとお気楽に海外旅行は行えません。
敬具 マーキュリーマーク


 僕の初海外旅行は26歳の時のインドだった。当時往復チケットは年末料金だったので30万した(泣)。行く前は椎名誠の「わしもインドで考えた」を熟読。インドでは尻の毛まで抜かれるほどぼったくられ、下痢と発熱で散々だったけど、それからはリーマンパッカーとして主にアジアをふらふら。アフリカは遠すぎて行けなかった。新婚旅行もバックパックでバンコクと香港へ。香港では雑居房のチョンキンマンションで二泊し、妻はぐったりしていた。バンコクでは安宿と高級ホテルと泊まり歩き、マリオットのプールで溺死しそうになったのは今ではいい思い出だ(嘘)。 旅も好きだが、旅行記も好きだ。この本は主にアフリカ旅行のエッセイだが、面白い。何よりも文章がうまい。奥さんとのなりそめを綴った「追いかけてバルセロナ」なんか疾走感があり、一気に読め、感動的でさえある。朝の通勤の地下鉄で読んでたけど、日本にいながら気持ちはバックパッカー。 旅の本もいいけど、また出かけたいなあ。

管理人マーキュリーマークからの伝言
上記は、ドリアン長野が令和二年に投稿した内容です。
令和六年にドリアン長野は親子でケアンズ旅行。