アフリカ・ユーラシア見聞録

むかしむかしあるアフリカで・・・

国境への道のり(モヤレ:エチオピア)

2005-02-28 00:21:34 | 1st 北・東アフリカ
エチオピア





2005.02.27(日)

 この日はゆっくりと動き出すことにする。私はここからさほど離れていないディラという町からモヤレまで行く夜行バスがあると聞いていたのでゆっくりと出てディラで時間を潰してこのバスを待とうと考えていた。

 1100時頃にチェックアウトして目の前のバス停へ。ディラ行のバスは直ぐ見つかり私は15人目の乗客となる。車種はトヨタのハイエースを改造した物で後部座席はベンチが4列ならんでいる。15人も集まっているなら出発はすぐだろうと思っていたがそれから30分ほどさらに客を詰め込んで20人を過ぎた頃にようやく出発する。

 ディラへは1時間半ほどで到着。ここでモヤレ行の夜行を探すとそれは無くなっていたらしく当てが外れてしまう。

 少し悩んだがそれなら可能な限り国境へ近づこうと私はまたバスを探して次の町へと移動することにした。

 こんどもまたハイエースだ。
 このミニバスの中はさっき乗ったやつよりもさらに密度が高くなっている。試しに人数を数えると24人、天下のトヨタも8人乗りのハイエースに24人詰め込んで運行している国があることなど知らないだろう。

 出発したのは1430時、ただこれだけ人や荷物を積み込んでいるので歩みは遅い。

 次の町であるハガレ・マレアムに到着した頃は夕方の1830時になっていた。
 さらに前に進めるかどうかを聞いてみると今日の運行は打ち止め、明日の朝モヤレ行のバスがあるということなのでここで一泊することにする。

 バス停近くのホテルに泊まったが、このホテルも設備は悪くない物の断水中で水は汲置のみだった。



2005.02.28(月)


 モヤレ行はおなじみの「魚河岸バス」だった。朝早く0540時にホテルを出てバス停に向かうと「モヤレ!」と叫んでいる呼子がいる。私はその声の方向へ向かい、そのバスに乗るとバスは直ぐに出発。これはいい出足だと思ったらその後バスは「モヤレ・モヤレ」と叫びその付近をうろうろしながらさらに客を集めて最終的に出発したのは0630頃、乗った時に比べてこの時にはバスの中で誰も身動き取れないほどに詰め込まれていた。

 酷い状態だったがこれでエチオピアで乗るこの「魚河岸バス」も最後だと思うと愛おしくさえ感じてくる。

 訳は無い、やっぱりこの国のバス関係者は全員皆殺しにしたくなっていたというのが事実だろう。

 モヤレには1400頃に到着。

 到着と同時に路上両替がやってくて私に両替を勧めてくるので両替し、国境付近のツーリスト・ホテルというその名も直球なホテルに宿泊する。

 モヤレからナイロビに向かうにはバスにせよ、トラックにせよ朝出発だと聞いていたので物価の高さが予想されるケニアよりもエチオピアで泊まったほうが安上がりだと考えたからだ。

 国境はフリーボーダーに近く、私は明日出国なのにエチオピアでのイミグレの手続きを終え、そしてケニアのイミグレでビザの取得まで終わってしまっていた。(ケニアの国境町もモヤレという名前でこのモヤレ内だけの移動なら出入国の手続きが終わった後でも自由だった)

 ケニア側でバスのことを確認すると出発は明後日らしい、私は明日出たかったのでツーリストホテルのガイドに聞いてみると彼がトラックに乗れるように調整してくれるという。不安はあったがトラックへ乗る料金のデポジットを預けて、その日はエチオピア側で落ち着くことにする。


 これで長かったエチオピアも終りになる。


 それにしても東部と南部の水不足は酷かった・・・

 
 今日がエチオピア最後の夜と思うと寂しさよりも嬉しさが込み上げて来るのは何故だろうか?


国境町のモヤレ



水の無い湖の街(アワサ:エチオピア)

2005-02-26 23:45:09 | 1st 北・東アフリカ
エチオピア





2005.02.25(金)


 この日は特にやる事は無かったがアディスにもう一泊することにする。

 ぶらぶらと歩いているとバハルダールで私のガイドをしたトーマスとばったり出会う。彼の誘いで喫茶店に入りしばし談笑をする。彼はアディスでパスポートの処置やビザの取得をしてから南アへ向かうと言っていた。しばらく話して店から出ようとすると彼が「今日は俺が奢ってあげると!」と優しく言ってくる。バハルダールでは世話になったとこもあり、彼のこの言葉は嬉しかったので『いいよ、こっちに奢らせてもらうよ』と答え、支払って彼と別れる。こんな偶然があるのも旅行の楽しみの一つだ。

 バスターミナルへ行って次の目的地へのバスの時刻を確認したり、最後になるアディスの街をぼんやりと散策しながら日中を過ごす。

アディスのバスターミナル


 夜は森田氏とゴッドと夕食に。森田氏は明後日ナイロビに向けて出発するので一緒にどうかと誘われたが、私はこの時すでにアディスで長く過ごしすぎていたということも感じており、また経由地の予定が彼とは違っていたこともありナイロビでの再会を約束しつつ別に行動することにした。


2005.02.26(土)


 今日の出発もひたすら早い、朝0500時に空くバスターミナルへ向かうので0400時に起きてそこからタクシーを捕まえてバス停へと向かう。
 次に予定しているアワサまでは約5時間で1日1便のみ、それでも出発は朝の0600時だ。
 何度も利用している「魚河岸バス」だが流石にそろそろいい加減にして欲しいと思いっていた。

アディスからアワサへの道中。しかしそれにしてもエチオピアの景色は荒涼としている。


 アワサへは1100時頃に到着。

 アワサへ立ち寄ったのはここがエチオピアでも有数の湖畔の観光地として有名であり、またガイドブックには安くていい宿も紹介されていたので国境に向かうまでに一休み(アディスからケニア国境のモヤレまで急いでも2日間かかるのでどのみち一泊どこかでしなければならない)するは良いと思ったし、それにその他の経由地候補であるシャシャマネ等の町の人の評判が悪かったと言うのもここを経由地に決めた理由の一つでもある。

 私はガイドブックに乗っていたバスターミナル付近の安くて良い宿を取ってアワサ湖の観光へと向かう。

アワサ湖
 

アワサ湖付近の道



 ここはのんびりとした田舎町だ。流れている空気全体がゆるく感じてきている。時には時間の流れをゆったりと体で感じるのも良い経験だろう。
 私は特に何をやるというのでもなく、湖をボーっと眺めてからホテルへ戻る。

 後はのんびりとシャワーでも浴びてくつろぐろげれば最高だ。

 だが、シャワーを浴びようと蛇口を幾らひねっても水一滴たりとも出てこない!

 『・・・うーん・・・???』

 不信に思ってホテルのスタッフに尋ねると「アワサは水不足で計画断水されている」というのが、その回答だった。

 ホテルは素晴らしく綺麗で、設備もバッチリと整っている。ゆったりとくつろぐ条件は完璧に備わっていたといっても良いだろう。

 それにさっきまで私はが見ていたのは満面に水を湛えているアワサ湖だった筈だ。湖にある水の量を考えると『水不足で断水』等という事態にあうなんて想像の範囲外だ。恐らく何か事情がある(電力供給が上手くいかずに地区全体への給水システムが稼動していない等)のに違いは無いだろうがあれだけ大量の水を眺めた後では何か納得がいかない。


 だが・・・

 これでよやうやくくつろげると思った瞬間にまさかこんなオチが用意されていようとは・・・!

 湖の町アワサ、満面に水を湛える湖を持ちながらまさかの水不足を経験しようとは・・・


 エチオピア、この国の奥は深いと言わざるを得ないだろう・・・


自称独立国の首都(ハルゲイサ:ソマリランド)

2005-02-24 18:57:58 | 1st 北・東アフリカ
ソマリランド エチオピア


   


エチオピア


2005.02.19(土)

 今日の出発は遅い、またここに戻ってくるのでソマリランドへ行くのには必要最小限の荷物でいいと判断して泊まっていたウトマ・ホテルにメインサックを預けることにした。

 森田氏と合流してジジカ行のバスの発着場へ向かう。珍しい夜行バスだがこれはエチオピア人ではなくソマリ人が運行しているのからだ。出発は1700時だった。
 
2005.02.20(日)
 ジジカには0930時に到着、バスを乗り換えて国境へ向かう。ソマリランドのイミグレは私の事を覚えていて「良く来たね」と挨拶してくれ、相変わらず感じがいい。


ソマリランド


 国境を越えるとハルゲイサ行のシェアタクシー(ステーションワゴン改造型)はいやにあっさりと見つかる。
 幸先は順調だ。

 それにしてもソマリ人は背が高い。痩身でありながら190cmを超える男がゴロゴロとしている。
 私にしてみれば昔写真で見たNASAにさらわれた宇宙人になったような気にさせられる。
 
 ハルゲイサには1400時に到着。その名もずばりホテル・ハルゲイサにシングル6ドルでシャワー・トイレ付の宿を取る。時間が中途半端だったのでこの日はホテル近郊をぶらぶらと歩いて観光する。

 市の中心では金網のついた籠(鶏小屋を思い出してもらうといいだろうか?)の中に無造作にソマリランド・シリングを大量に詰め込んだ路上両替がずらりと並んでいる。
 1US$が約6000ソマリランド・シリング、とはいっても紙幣の最高額は500シリング札なので10ドル両替するだけで120枚もソマリランド・シリングを受け取ることになる。

 ちょっとした成金気分だがその分お金の減りも早い。

 独立広場にある戦闘機のモニュメント


 夜は森田氏と彼の50ヶ国記念も兼ねて会食をする。注文したラクダ肉、私には付け合せの野菜が少し多すぎたようだった。


2005.02.21(月)


 ハルゲイサは盆地にある街で標高は約1300m、日差しはそれなりに厳しいがそれ程暑さを感じない。
 
 森田氏は昨日一日で満足したらしくジブチへ向け朝早く出発していたが、私はここで今日一日この街をじっくりと眺めたいと考えていた。

 地図もない見知らぬ場所だと私はホテルに頼んでタクシーを時間でハイヤーすることにした。市内観光を前提に一時間10ドルを9ドルにと交渉する。ホテルが一泊6ドルの国でこの値段は破格に高く感じる。

 だが、この選んだドライバーは最悪だった。英語が喋れないのはそれ程の問題では無かったが、時間でお金が貰える事に安心したのか車を素晴らしくゆっくりと走らせたのだ!時速10km出ていたかどうかという所だろう。

 私の最初の行き先は観光局だった。タクシーはすぐ近くの観光局に10分ぐらいで到着、しばらく待つようにいい、私は中に入る。そこにいたユースフという男は英語を流暢に話し、私に色々と説明してくれる。

 私はハルゲイサの地図が欲しかったのだがこれは発給はしていないらしい。ただ、他の方法があるかもしれないので回答に時間が欲しいと言ってくる。また、彼は親切で、午後になったら英語を話せる友人を紹介してその彼にガイドをして貰えるようにするからホテルで待っているようにと提案してくる。

 この国は自称独立国だ。世界から認めて欲しがっているその熱意の表れなのかもしれない。私は喜んでその申し出を受けることにした。

 またハイヤーしていたタクシーに戻ってホテルの方に戻るように伝える、彼は運転は相変わらず素晴らしく遅い、こちらが急がせても途中いきなり携帯をかけて話し始めたり、そして知り合いらしき人をいきなり乗せたりまでしてきていた。

 一時間9ドル、車を動かさなければ動かさないほど彼の儲けが増えるのは確かだが彼は露骨にやりすぎていた。

 私は流石に頭にきて、それまでの一時間分を投げつけるように支払ってタクシーを降りる。

 彼は一瞬あっけにとられ、私という乗客を逃すまいと後ろから大きく声を掛けてきたがもうその声を耳に入れるつもりはなかった。背を向けたまますスタスタとその場を去って行く。

 ホテルで調整して貰って雇ったタクシーなのに、コイツは最悪だった。

 私は市内観光しつつホテルに戻ってユースフを待つ。

 午後になると彼は約束通りに現れる。先程私が聞いてた地図に関してはパソコンに入っているものをプリントアウトすれば渡せるけど枚数が多くなり、費用が15ドルもかかるということだ。そうまでして手に入れたいものでは無い。ハルゲイサの地図は諦めることにした。

 しばらく話していると彼は車に乗るようにと勧めてくる。先程タクシーで嫌な目にあったばかりだったので少し警戒したが、彼はあくまでも良心的だった。

 車の中で彼はそれまでと少し変わって「チャット(麻薬効果のあるはっぱ)はどうか?」と勧めてきたり、「ソマリ女性はいいぞ、よければ紹介してあげようか?」等と観光局に勤めている人間とは思えないような勧誘をしてきたのにはちょっとびっくりさせられたが、車は何事もなく目的地に到着。

 彼が紹介してくれるといっていた男はここで小学生、中学生に英語を教える教師だった。

 ユースフは用事があるらしく私は彼にお礼を言って別れる。紹介してくれたこの男にガイド料が必要なのではと思ったので聞いてみたら「まったくの無償で良い」ということだった。

 この男の名はオマル氏といい、彼のお陰でその日の散策は楽しい物となった。

 ちょっと街の外れから眺めたハルゲイサ市街、ここでも相変わらず中心部の撮影はしていなかったの後で悔やまれる。
 


 彼もそうだったが出会うソマリ人は大抵の場合親切だった。

 国境のトゥグ・ワジャレからハルゲイサまでの間は英語の喋れるソマリ人が何かと面倒をみてくれたし、市内の本屋で地図を探していた時に応対した店員は気さくで、「今この国に地図はないけどいつか俺がこの国の歴史と地理を綴った本でも出してあげるからまた買いに来てよ」と言ってくれたり(この文房具屋でソマリランド国旗入りの学習ノートが売っていて、それを買わなかった事を後で後悔した)、その他にも色々と人の親切を感じることが出来た。

 またおなじソマリ人でありながらジブチの様に午後になると葉っぱを噛んでいる人間も殆ど目に入らない所も好印象だった。

 人ということではエチオピアやジブチと比べるとその差は雲泥なものに感じてしまうほどだ。

 ただ、一度びっくりしたのは私がオマルと一緒にエチオピアに行くタクシースタンドにいって時刻を聞き始めた時に何故だか分からないが、どんどん周りのみんなのテンションがあがっていって掴み合いの喧嘩が始まった事ぐらいだろうか。

 彼らは激高していても決して私に手を挙げようとしなかったから何に対して怒ってそんな事になったのかは今を持って謎である。

 


2005.02.22(火)


 こうなってくるとソマリランドの港町であるベルベラも気になったいたが、日本大使館との約束もあり、ハルゲイサを見るという必要最小限の事も終わったので私はエチオピアに戻ることにした。

 シェアタクシーに乗って国境へ向かう。

 国境途中の景色、道路は舗装されていない。


 国境に到着してイミグレへ。壁にかかってあるソマリランドの地図が気になって写真に撮らせて欲しいとお願いすると快く了承してくれる

イミグレの壁にかかっていたソマリランドの地図。


 国境を越えてエチオピアに、ソマリランドへのショート・トリップはここで終りを告げた。

 総じてここの国の印象は良い物だった。自称独立国ということもあり、皆でこれからこの国を作っていくという雰囲気があり、また自分の国を認めてほしいという思いから人が外国人に対して親切だった(ちなみに独立宣言は1991年に行っている)というのもあるだろう。

 ソマリアと聞くと「危険」としか思わないが、このソマリランド、ここは全く別の国だった。


エチオピア

 この日私はバスを乗継ながらディレ・ダワまで戻る。

 国境を越えてから間もない頃の景色。



2005.02.23(水)


 ディレ・ダワからアディスへは普通にバスで戻る。朝早い出発だったが到着したのは夕方だ。
 
 私はウトマ・ホテルに戻って部屋を確保してからパーク・ホテルへと向かう。
 以前エジプトからスーダンまで一緒だったほぼ同年齢の日本人が泊まっていたので彼と夕食を取ることにした。
 彼は大学卒業以来アルバイトと海外放浪を繰り返していた男(インドにはなんと6年もいたらしい)その仇名も凄く「ゴッド」の異名が奉られていた。
 


2005.02.24(木)


 この日は日本大使館へ、それまで電話等で連絡はきちんとしていたのだが、一応無事に帰ってきたのでその報告をと思ったからだ。
 彼が心配してくれていたのは見てとれた。森田氏もまだ帰ってきていなかった(日程を計算すると彼は早くても私よりも1日余分にかかる計算になっていた)事もあるが取り敢えずは一人戻ってきたのでホッとしている様子であった。

 だが、彼にしては制止したにも拘らず行ってしまった事は気に入らなかったのだろう。若干のお小言も頂戴する。彼の心情も理解できるが、私は今回のソマリランド行で日本大使館の情報収集の限界も見えていた。彼ら政府の人間は直接その場に行く事は決してなく(実際に行って攫われでもしたらそれこそ大問題だからそれはそれでいいのだが)、現地の最新情報もあくまでも伝聞により、またその情報も彼等のいる国からの見方によって偏向がかかっているというのがその結論だ。

 勿論私はただの旅行者だ。ソマリランドをちらっと見たからと言ってその国が分かるとは思わない。

 それに自分が安全に帰ってきたからと言って「ソマリランドは安全だ」というつもりもない。旅行に危険はつきものだし、危険と言われる国にはそれなりの理由がある事も確かだ。そして被害に遭う遭わないは運によっても左右される。100人行って99人帰ってこれる国なら安全と言えるだろうが今回は一回行って一回帰ってきた。それだけの事だ。

 だが、百聞は一見にしかずという諺にもあるようにその場所に行って見るという行為は多くの物をもたらしてくれる事も否定する事は出来ないだろう。

 だからこそ、私は例えチラッとだけであっても訪れられる限りの国に行きそこの首都を見てみようと決めているのだ。

 行った事の無い彼には実際に見てきた私のこの感覚は決して理解できるものにはならないだろう。


 私は日本大使館を後にしてホテルに一度戻ってからまたパークホテルのゴッドの所に遊びに行く。
 
 この日の夜、森田氏がアディスに到着。彼もなんの問題もなかったようでホッとする。

 これで私のソマリランドに関連する一連の流れが全ての終りを告げることになり、ようやくソマリランドが終わったという気分になる事が出来た。


アディス再び(アディスアベバ:エチオピア)

2005-02-18 15:27:26 | 1st 北・東アフリカ
エチオピア





2005.02.08(火)

 ハレルへ出てアディスへ向かう事にした。
 以前出会った日本人旅行者から聞いていた事もあり、今回の移動はミニバスにする。
 料金はローカルの2倍(100ブル、約1400円)するが、快適で速いというにも惹かれた理由だ。
 ホテルで予約をすると出発は0200時という事だ。早朝にも程がある。
 
 だが、0200時に用意を済ませて待っていても誰も来ない、迎えの人が来たのは0330時、彼にも別料金で20ブル払うことになっているので出費はかさむ、ホテルの前に来ると聞いていたがミニバスは旧市街の入口付近で待っているらしい。聞いている話と最初から食い違っている。それなら金を払っているのだからとそこまで荷物を運ばせてミニバスの中に積み込むと20ブルと聞いていた彼の請求は30ブルに上がっている。なんでもホテルのセキュリティーにゲートを空けるのに10ブル(約140円)払ったのでその分追加料金という事らしい。私は必要な金がかかるのなら仕方が無いと思うし、それに最初に言われた値段と変わらないなら多少高い値段でも納得はする。だが、理由があるにせよ、こうして後で請求を増してくるというのはどうも頭に来る。最初から経費として30ブルと言ってその内訳を示せばいいものをどうして彼等は毎回こんなアコギなやり方をしてくるのだろうか?

 ここは相変わらずエチオピアだった。

 まだ外は真っ暗でホテルからしばらく歩いてきてしまっていし、バスの料金も支払った後だ。彼の言い分が正しいのかどうかは分からないがこんな所で揉めるのもキツイので言われるがままに支払ってしまう。(当時の日記を読むと旅慣れた後と比較してやけにあっさりと色々な事に折れている自分に気付く、物価の安いエチオピアでこうして細かく色々とやられたのは後々考えるといいレッスンだったのかもしれない)

 快適なはずのミニバスに乗込むとそこは人のぎゅうぎゅう詰め、一番後ろの3人掛けの場所の4人目が私の場所と言われる。これでは流石にやってられない。私は『じゃあ座席はいいよ』といって入口のスライドドア付近の通路を占領して横たわって寝ながら移動する事にした。

 ハレルからアディスへの道中。写っているのは乗っていたミニバス
 

 アディスへ向かう道中で一人の西洋人チャリダーに出会う。だが、彼のチャリはバスに積載されたままだ。

 私は珍しがって彼と会話をすると彼はアディスのソマリランド大使館でビザを取って、ソマリランドへ向かったものの、挫折してアディスに戻る所だと言っている。

 どういうことかと聞くとエチオピアを移動している間に大人から子供から金をせびられたり、テントを貼っていたら石をぶつけられたり、人種差別用語をなげかけられたり、指差して「ファック・ユー」といわれ続けたり、その他色々と酷い経験をしたらしく人間不信になってしまったということらしい。

 私もエチオピア人の外国人に対するやり口が好きになれなかったからこれには妙に同意してしまった。

 アディスへは1300時頃到着。私は今度は日本人旅行者に多く会えそうなピアッサ付近のホテルを取ることにした。

 しかし快適と聞いていたミニバスの移動は私にとっては酷いものとなってしまった。

 エチオピア、やはり一筋縄ではいかないらしい。

 

2005.02.09(水)-18(金)

 2回目のアディス、ここでやる事はソマリランドのビザ取得と次の目的地への情報収集だ。

 泊まっているホテルの近くにパーク・ホテルという日本語の情報ノートが置いてあるホテルがあり(その後、このホテルで従業員の盗難のトラブルがあったらしく、怒った日本人旅行者が情報ノートを別のホテルに移したらしい)、そこを訪ねていくとソマリランドを既に訪問した女性旅行者がいて実際に行ける事が確認できたのも良かったし、それに情報ノートを見るのは初めてで、書いてある情報の何もかもが珍しくついつい毎日のように通って読んでしまっていた。

 また日本人旅行者が多く集まる所だけあって(常時10人前後は泊まっていた)エジプトからスーダンへ行くフェリーに一緒に乗っていた人やスーダンの砂漠越えを一緒にした人等とも再会する。

 エチオピアにこんな場所があったなんてと、ついつい感心してしまった。

 ビザの方はというと、ソマリランドの大使館は場所が分からなかったので観光案内所で問い合わせるとそこのミセスがきちんと調べてくれる。
 場所が分かれば後はあっさりとしたもので何の問題も無くビザは発給される。そこで働くスタッフの感じもいい。

ソマリランド大使館(実際は連絡事務所)付近の景色
 
 
ソマリランド大使館へ行く路地に入る場所にあるスーパーマーケット。市の中心にあるショボイものと比べると一応立派(品揃えは日本のコンビニ以下だが・・・)
 

 だが、出発までに時間がかかった事は別の要因からだった。

 情報ノートやソマリランド大使館からだけの情報では不十分と考え、日本大使館で何か情報があればと聞きにいったらそこで猛烈な反対にあったのだ。

 担当が言うには危険すぎるので頼むから止めてくれということだった。

 彼に聞いた話を纏めるとこういうことになるだろう。

1.エチオピアに於いてもソマリ人が居住するソマリ州は中央統制から外れている事。また州都のジジカは州とでありながらソマリ州の北西部の端にあることからそこが危険地帯であると判断される。
2.ソマリ人は氏族主義で各氏族間に縄張りがあり、それを越える事はソマリ人同士であっても不可。外国人が一人で行く等考えられない。
3.国連やNGO等でも入る時はこの氏族の利益を考慮して金を払って安全になるようにして活動しているがそれでも殺されている。
4.エチオピアでのテロの温床はこのソマリ州で、ソマリア、ソマリランド等ともリンクしている。(そもそもエチオピア国内にソマリ人が住む州があるのも不思議に感じるが、ソマリア全土とソマリ州をあわせると隣国に大国が出現するのでそれを防ぐ緩衝帯にする意味もあってエチオピアはソマリ州を抑えている)
5.ソマリ人は信用できない民族でどれだけ仲良くしても何かの拍子で裏切ってくる。だから危険だ。

 まだ他にも色々と聞いたが、これだけで判断すると死にに行くような印象を受けてしまうだろう。


 だが、この頃の私には別の考えもあった、ジブチで会った現地人にはハルゲイサを訪れた人もいていい所だと勧めていたし、それに国境も親切だった。アディスにある大使館でも安全だと言っている。それに日本人旅行者のみならず他の国の旅行者の訪問もすでに確認している。

 エチオピアとソマリアは歴史的に反目していた国同士なのでお互いの視点が正反対になるのも当然だし、それに日本大使館は基本的に事なかれ主義だ。ちょっとでも危険と見ると止める方向に動くのは当然の事だろう。

 勿論彼の情報を軽く見たわけではない、この後もソマリランドの大使館にいったり、旅行代理店などを聞き込んだり再度情報を収集して数日間検討しだが、出した結論は行く事だった。これには飛行機という選択肢も考えたがハルゲイサの空港が工事で閉鎖中であり、最終的には陸路によるアクセスをする事に決めたのだ。


 ここで誤解を招かないように書いておくが私は何も好き好んで危険な所に行こうとしている訳ではない。双方から得た情報や国境まで行った印象、それらを総合的に判断して首都のハルゲイサに焦点をあて、短期で行って帰ってくるなら問題はないと判断したからだ。

 旅行は本来安全なものでは無いし、どんな所に行くのにもリスクはつきものだ。

 例えロンドンやパリでも爆弾テロに遭うことはある。

 だがそれで「ロンドンは危険だ」と言う人はいない。

 これはそこがメジャーな場所か、マイナーな場所かということだけで先ず偏見という名のフィルターが立ち上がり、それによって安全、危険というイメージが増幅されているからだ。

 だからロンドンで爆弾テロに遭っても「あの人は運が悪かった」で終る訳だし、ソマリランドでもし死んだら「それみたことかっ!あんな場所に行くからそんな目に遭うんだ!」と人は考えるのだろう。

 こうした人の考えを完全に否定するつもりは無い、私も知らなければ「ロンドン安全説、ソマリランド危険説」になるだろう。


 ただ、私の旅行はもう動き出している。

 ソマリア本土に行けない今(こちらも調べてはいたが、こっちに行くのは完全に自殺行為と言ってよかった)、ソマリランドという”自称独立国”を見てみたいという好奇心は強く、だからこそ今までそれぞれの場所で調べて安全にいけるかどうかを確認し続けて、そして行けるという結論を出したのだ。


 その結果、失敗してどうかなり、人がとやかく言おうと考えようとそれはもう私の知った事ではないだろう。とりあえず調べられる限りはもう調べたのだ。
 


 またここでは偶然ソマリランドに行くという日本人旅行者とも知り合うことになった。

 ソマリランド大使館に情報を聞きに行った時に「君の他にも日本人がビザを取っているよ」と教えてもらい、パーク・ホテルに泊まっているだろうとアテをつけてその人を訪ねたらこれがドンピシャだったのだ。彼はソマリランドが50ヶ国目となる歴戦のバックパッカーで、当時私にとって未知だった中央アジアや危険と言われるアフガニスタン等も既に訪問した後だった。

 彼はハルゲイサの後ジブチに行ってからアディスに戻る予定だったが、ここからハルゲイサまでは同行する事にする。陸路で行くならまたあの国境までいかなければいけなかったので片道とはいえ道連れが出来るのは実に心強い事だった。


 最終的に行く事を決めてから、出発前日に日本大使館に行く事にした。(私達がソマリランドに行くといっていた事を日本大使館の担当は知っており、出る前に寄って詳しい日程を教えて欲しがっていたので)

 すると担当者が「実家に連絡しているのか?」と聞いてくる。掛けていないと答えると大使館の電話を使って連絡していいと言ってくる。

 2人とも少し何か嫌な予感はしたが先に同行する日本人(この後は「森田氏(仮名)」)が電話を掛ける事にした。

 と

 担当者はその受話器を急に奪い取るようにしてこういい始めた

 「息子さんがイラクと同じ様な危険な場所にいこうとしています。止めてください!」

 という内容だ。

 彼の両親に一気にまくし立てている。

 彼の両親もさぞやびっくりとした事だろう(後で聞いたところ彼の母親は泣いていたそうだ)。

 その後しばらく話していたが埒が明かなかったようで話は保留となり次は私の番になる。

 これを見た後で実家に掛けるのは嫌だったが森田氏一人だけ掛けさせるのも悪かったし、それに一応大使館員が心配するような場所に行こうとしているのだ。確かに伝えておく方がいいのだろうと私も電話をする事にした。

 今度は私が最初に話してその後に担当者と変わる、だが話す内容は森田氏の時と同様で私の方も埒が明かなくなる。受話器を受けていたのが母から父に代わった事も余計に混乱させられた原因だった。父は「大使館の人がいう事は絶対だから従いなさい」というスタンスだ。知らない人から見たら一個人者より国家の方が信用出来るのも良く分かる。

 私は再度受話器を受け取り、『大使館の人はこう言っているけど、自分でも色々と調べて大丈夫だと判断しているので心配しないでくれ』と言い、さらに『止めても止めなくてもどっちみち行くことに決めたし、ソマリランドに行っている間も大使館とも連絡するようにするから後はほっといてくれ』と無理矢理納得させるようにして受話器を切る事にした。

 担当官が我々を心配しているのは確かだ。

 日本大使館は邦人旅行者の安全に対する責任を持つので、我々旅行者がどこかにいってそこで何かがあったら大使館としても動かざるを得なくなるのも現実だ。そして日本大使館は旅行者に対してその国に行く事を禁止するという強制力は持っていないという事も知っている。

 旅人同士でよく聞く

 「旅は自己責任で」

 という身勝手な台詞通りに事が運ばないのが日本のパスポートを持っている人間に対する制約なのだ。

 この制約に対する私の考え方には賛否両論あるだろう。

 私の考えは予想される危険の度合いに応じ、今までの様なただの勧告ではなく実際の制限をしてもいいのではないだろうか?ということだ。

 そして日本政府が制限する危険度の高い所にいく場合は道場破りの台詞では無いが「日本政府が危険とみなすこの国に入国することによって発生する全ての責任を自分で取る」という形で申請させてそれに対する責任が自分だけで取れるようにすればいいという考えだ。

 そうすれば旅行者も敏感に危険情報を収集することになり、危険な国に安易に入国することもなくなるだろうし、それにそうまでして行きたいとなると行く人間も十分に情報を調べるし何かあった所で国は全く当てにならないことになるので「旅の自己責任」は完全に取ることが出来るだろう。(賛否両論あると書いたのはこの制度では日本政府が邦人を守る義務を放棄することになるし、人によっては税金を払っていたのにいざとなると大使館は面倒もみないと考えると思ったからだ。)


 だが、現状はそうではない。色々調べた後となっては彼の持つ情報はフィルターがかかったものである事も確信していたが、それでもそれだけ心配してくれてくれた彼に対する義理もあり、そしてこの制約の範囲内で個人として出来ることとしてこちらの行動を現地についても連絡をするという事で折り合いをつけ、我々はソマリランドへ出発することにした。


  
 ソマリランド・・・


 入国以前からこんな調子では先が思いやられる・・・



2度目のアディス市内
 


エチオピアの中のイスラム(ハレル:エチオピア)

2005-02-07 12:56:31 | 1st 北・東アフリカ
エチオピア





2005.02.07(月)

 ジジカを出発した私は古都ハレルへ向かう事にした。

 バスの出発は相変わらず早い、ハレルには昼頃には到着してしまう。

ジジカからハレルへの道中
 

 

 このハレルはかつて何世紀もエチオピアからアフリカ、アラビアを結ぶ交易路の中継都市として栄えていた場所であり、 エチオピア正教という独自の教義を信じる国にありながら、城壁に囲まれた旧市街にかつては82のモスクが存在し、イスラムの聖地の一つとも数えれれている、そんなことから是非見たいと考えたのだ。


 泊まったホテル、ここでも水不足で汲置たっだ。新市街にあるハイレ・セラシュの像。
  


 そして旧市街の入口付近
  



 旧市街の中
 

 
 イスラムの旧市街、10年程前に行ったモロッコを思い出し懐かしい感じがする。

 また遠目からちらっと見ただけだが、夕方くらいになるとハイエナマン(ハイエナ使いの大道芸人)が現れて芸を見せるのも楽しい。

 古都ハレル、これまで殖民地都市やローカル都市ばかり見続けていた私にとって、久しぶりに古い歴史を感じさせる。そんな都市となった。

国境に散る(ディレダワ→ジジカ⇔トゥグ・ワジャレ:エチオピア)

2005-02-06 12:03:05 | 1st 北・東アフリカ
エチオピア





2005.02.04(金)-05(土)


 ジブチから到着したディレ・ダワ。エチオピア東部の中心都市だが何か見所がある都市ではない。
 ただ、私は疲れ果てており、それにここで若干やろうとしていた事もあった。

 到着して泊まった駅前のホテル。25ブル(約400円)でトイレ・シャワー共同だが部屋は綺麗だった。ただ水不足らしくシャワーは汲み置きになっていた。


 先ずは次の針路だ。私はアディスに戻るか?それともソマリアの中の独立国(国際社会には認められておらず、自称独立国と表現される)ソマリランドに挑戦してみるか?それを決めかねていたので駅やバスターミナルに行って情報収集をする事にした。

 ソマリランドの首都ハルゲイサに直行便は無く、ジジカというエチオピア東部、ソマリ州(ここでの主要民族はソマリアと同じソマリ人となる)まで行ってそこで乗継になるらしい。

 しかし、ジブチでビザが取れなかったので、国境でビザの取得は可能なのだろうか?

 それが私の悩みだった。

 ディレ・ダワはそれなりに広さを持った街だ。考えてばかりでも仕方ないので観光も兼ねてジブチで買った「前空きズボン」の修理が出来るかどうかを確かめたくなり街を歩き回る。


 これがジブチで買った外れズボン


 ディレ・ダワ郊外のマーケットエリア。写真には残さなかったが駅付近は普通の町だった。
 

 


 私は首尾よく修理できるミシン屋を探し当て、補修をお願いできた。

 またここではタバコが一箱2ブル(約30円)からあり、ヘビースモーカーの私には随分と助かった。


 ここに到着して2日、まだ悩んではいたが一度ソマリランドへ挑戦してみる事を決意した。
 アディスに戻ってまた来るとうのは距離から考えても面倒だし、それにここからなら国境まで1日以内に行ける。ボーダーでビザが取れるかどうかは分からないがやってみる価値はあるだろう。




2005.02.06(日)


 朝早く起きてバスターミナルへ向かう。エチオピアのバスの出発時間はどこでも早い。
 まるで築地の魚河岸だ。朝一番で仕事をしたらそれでもう終りというのが彼らのシステムらしい。
 今後はエチオピアのバスを『魚河岸バス』とでも呼ぶことにしよう。
 0600時、ジジカ行のバスを見つけ乗るとすると彼らは私の荷物を見て問答無用で5ブル(約70円)請求する。これまでの荷物代でエチオピア最高値だ。これも気に入らない。
 出発は朝の0700時だった。ジジカまで150km、約5時間で到着。1時間あたり30kmしか進んでいない計算となる。エチオピアのバスは素晴らしく遅い。この頃になると暑くても窓を開けない彼らの習性に気付いていた。(当時は知らなかったが後で聞いたところによると窓を開けると“悪霊が入ってくる”というのがその理由だった)

 バスターミナルに到着して『ハルゲイサ』と告げるとここからもダイレクトではなく、国境で乗継ぐようにと言われる。

 私は国境町であるトゥグ・ワジャレ行に乗り、到着した時には1500時となっていた。

 私は歩いて先ずエチオピアのイミグレへ、私は『ソマリランドのビザを持ってなく、一度ソマリランドのイミグレへ行ってここでビザが取れるかどうかを確かめたい』と聞いてみると「それならパスポートをここに預けて聞きに行って良い」という運びになる。

 トゥグ・ワジャレ、ボーダー付近。奥はもうソマリランド。



 国境を越えてソマリランドへ入国。イミグレへ向かう。
 パスポートも持っていないでイミグレへ行くと言うのは不安だが、事情を話すと応対は丁寧だった。

 私はソマリランドのビザを持っていなく、ジブチでビザの取得をしようとしたが領事の人間がずっと不在でビザが取れなかったとということを説明し、ここでの発給を希望している事を告げたが、彼らはそれを理解してくれたが「残念ながらここにあるのは出入国のスタンプだけで、ビザの発給は行っていない」ということだった。

 残念ながらこれでは諦めるより他に道は無い。

 ただ、朗報が一つ、ジブチにしかないと思っていたソマリランドの大使館はアディスにもあるということだ。
 彼らが「アディスでビザを取ってからまた来てくれよ」と親切に言ってくれたのは今回の空振りにたいするせめてもの救いだった。

 私はエチオピアのイミグレに戻り、『ダメだったからアディスに戻るよ』とつげパスポートを取って国境を後にする。

 時刻は1600時、何も無い国境町でコーラの500mlのペットボトルが3ブル(約40円)で売っていたので買って飲み干してからバスに乗り、ジジカまで戻る事にした。

戻る途中でみた国境付近の景色。戦車が無造作に捨てられていた。
 


 ジジカには1900時に到着。バス停からそれ程離れていない所の宿を適当にとってようやく休む事にする。

 ホテルは設備は良かったものの水は出ずに汲置のみというのは辛い。



 この日は朝早くからの移動、そして国境での空振り、とても長く感じ、そして非常に疲れた一日であった。




激闘の記録第3話「獣達の宴 続編」予告編

2005-02-04 22:10:52 | 1st 北・東アフリカ
ジブチ エチオピア 


「激闘の記録」に新作

第3話 獣達の宴 続編

をアップ。

 「激闘の記録」上では同じ第3話の後段部分に付け足す形となってますのでお見逃しなく。また以前アップしていた記事に若干写真を加えています。


あらすじは

 一度は後にしたはずの「ジブチ...」

 当たり前のことながら「往復航空券」でエリトリアに入国した為に、またこの腐りきった「獣たちの国」へ舞い戻る羽目となった「デューク東城」に新たな刺客が襲い掛かる。

 果たして無事この国を抜ける事は出来るのか??

 どうする!ゴルコサーティーワン!!


舞台マップ
 



です。

平穏な日々とのお別れ(アスマラ:エリトリア)

2005-02-01 15:38:44 | 1st 北・東アフリカ
 エリトリア





2005.01.29(土)-02.01(火)

 マッサワからまたここに帰ってきた。ホテルは前と同じカテドラル前のペンションだ。

 暑かったマッサワと比べるとここは天国に感じる。

 私は残りの日々を惜しむように市内をぶらぶらと観光した。

 ホテル前のメインストリート


 スタジアムに市の中心から少し離れた所にある教会。スタジアムといいつつ単なるスタンド席で競技場は無く道路が目の前にある。
 


 アスマラでは勿論良い事ばかりではない。スタジアム付近を歩いていたら「ハロー・マイ・フレンド」と話しかけてきて10ナクファくれといきなり言い、断ったら私の肩を叩いて去っていくといううっとおしい奴も当然いた。

 だが、そんな事があるのは稀で、普段は何事も落ち着いて過ごせる事が出来た。

 泊まったホテルから目の前の教会を眺めて。高地にある都市なので雲が無く空が恐ろしく綺麗に感じる。



 最終日、出発は早朝の0340時だ。たった2時間程度のフライトでこの時間設定は頭にくるが選択肢は他にない。
 私は夜2300時頃にタクシーを捕まえて空港に向かい、出発までは空港前のテントにある店で時間を潰すことにした。

 夜の空港前。



 もう少しでこの国ともお別れだ。

 だが、感傷に浸ってはいられない。

 私はまた“あの国へ”・・・

 そう獣達の住む“ジブチ”に戻らなければならないのだ。