プロフィール

東京在住。元メインフレーム系SE。
趣味は読書、絵画鑑賞、オーケストラ、小劇団演劇、最近宝塚にも…
そうそうカントリーダンスも始めました。
当ブログはTwitterのlogになっているため、セカンドブログで自筆しています。
よろしかったらご覧下さい。
http://ameblo.jp/laladuets/

須賀敦子が愛したもの 芸術新潮 2008年10月号

2008-10-01 00:53:23 | 須賀敦子さんの本
芸術新潮は¥1,500もします。
文庫派のわたしからすると、超高級品です。
バナナも高級品です、現在ただいまは・・・

~~~~~~
56歳から執筆活動を始めて69歳で亡くなった須賀さんの作品数は少ない。
新刊と名の付くものは必ず買い、年に1回か2回の須賀さんに関連するTV放映は、注意深くチェックして見逃さないようにしている。

須賀敦子没後10年の特集号。 「須賀敦子が愛したもの」
二章構成になっていて、第一章は須賀さんの作品に登場するイタリアの各地を紹介しながらエッセイの一部を載せるという、そういってはなんだが誰でも思いつくような企画だ。
それでも見応えがあるのは、芸術新潮の写真が素晴らしいからだ。


ジョット展に2回通った効果で、アッシジの丘に立つサン・フランチェスコ修道院と、教会内部の壁に描かれたフレスコ画のページでは、文字が読めるようになったハイジのように急に世界が広がった。
ローマに留学していた時代の須賀さんが、夢中になってアッシジへ通いつめた気持ちが、ほんの少しだけれど理解できるようになったかもしれない。

ローマからアッシジまでは200km近くあって、汽車の費用もかかるから簡単には行けない。
『だれか車を持っている友人が、アッシジに行こう、と言っているのを耳にすると、すりよって行って、連れてってと懇願した』
須賀さんはまるい人なつこい笑顔で、でも迫力十分で迫ったのだろうね。

第二章は松山巌のエッセイである。
今回の企画「須賀敦子の愛したイタリア美術を訪ねる」の旅に参加した松山さんは、霧の向こうの須賀さんと会話するようにして思い出を語り、絡めるようにしてイタリア美術の紹介をしている。
かなり読みでがあります。
実はまだ読み終わっていないのです。 けちけちと惜しんで読んでいるからだろうか。

第一章は視覚に訴え、第二章は文章を読ませる構成で、10月号の半分、100ページ近くを特集に割いているのはすごいと思う。
須賀ファンが、夢中になって買うことを予想したのかしら。

~~~~~~
今年のわたしのキーワードは、骨折、認知症、それから聖フランチェスコだろう。
聖フランチェスコにいたっては、なにげなく読んだ本、下調べもしないで見に行った絵、いきあたりばったりでみたTV番組、どれもが聖フランチェスコに繋がっていて実に愉快だ。
もしかしたら神の思し召しでしょうか。


芸術新潮10月号

2008-09-28 01:04:57 | 須賀敦子さんの本
秋は忙しい。

kakioさんの記事で教えていただき、「芸術新潮10月号」をセブンアンドワイで注文しました。

須賀敦子さんの特集が組まれています。
「特集 没後10年 須賀敦子が愛したもの」

楽しみが多くて、息切れしそうです。
ますます太っちゃいそう。(無理に紐づけして正当化してる)

~~~~~~
kakioさん、ありがとうございました。



須賀敦子さんの本(14) ピノッキオたち

2007-11-19 00:07:03 | 須賀敦子さんの本
エアコンのリモコンが見つからないので、自室の室温は21.5℃。
もう少し暖かくなりたい・・・
このままエアコンが見つからなかったら、ドラ君の「室温は冬は18℃、夏は30℃」という生き方に準じることになりそう。

最近文庫化になった「須賀敦子全集」の中から、まだ読んでいないエッセイを見つけるのが楽しみだ。
新作が出ないからこんな楽しみかたしかできないでいる。 でも、神は小さいところに宿るといいますから・・・引用が変か・・・これはこれで。

ピノッキオたち」というエッセイは初めてで、やさしく書かれていたこともあって楽しかった。(これは原作の挿絵だそうですが、ディズニーのピノッキオとは大分ちがいますね)
原文は古いイタリア語で書かれている上に、子供用でもなかったそうで、須賀さんも歯が立たなかったと書いてある。 これも意外だ。

須賀敦子ファン向けのネタとしては、ピノッキオは「ジュゼッペ」の愛称であること。 そうなんです、須賀さんの夫ペッピーノの本名はジュゼッペ。 ペッピーノが愛称であることは知っていたけれど、ピノッキオもそうだとはね。
ピノッキオの場合は、どちらかといえば子供時代に使う愛称のようである。


今夜は、20時からの2時間スペシャル「イタリアへ・・ 須賀敦子 静かなる魂の旅 第二章 アッシジのほとりに」 BS朝日 を観た。
ウチの場合、BS朝日はリモコンを駆使しないと観ることができない。
ここ一年ほどBSデジタル放送は観ていなかったから、リモコンの操作がわからなくなってMに教えてもらった。

須賀さんの・・・というよりは聖フランシスコの物語でしたけれども、しごくまじめに鑑賞。
須賀さんのエピソードが語られるときだけ、13世紀初頭から現代に引き戻される。
「薔薇の名前」の映像を頭の中に浮かべて、聖フランシスコの時代はかくありなんと想像を掻き立てたせいか飽きずに見終えることができたが、途中でチャンネルを変えた人もかなりいたのでは、いやその前にあの番組を観たのは何人いたのだろうか。

~~~ちょきちょき~~~
月曜日は、うちの会社の忘年会。
blog更新がなかったら、原因はまちがいなくこれです。

それよりもエアコンのリモコン、探さなくちゃ。


須賀敦子全集第3巻を買いました

2007-11-14 23:07:18 | 須賀敦子さんの本
こつこつ働いているデュエットです。
詳細設計工程のせいか、とても楽ちん。 変な会議や、よくわからない打ち合わせでキュウキュウになっていた、数ヶ月前に比べたら天国です。
今月は40時間程度の残業で済みそう。

~~~ちょきちょき~~~
keikoさん、kakioさんへ お知らせです。

11/18(日)BS朝日 20時から21時55分
2時間スペシャル 
「イタリアへ・・ 須賀敦子 静かなる魂の旅 第二章 アッシジのほとりに」

原田知世さんの朗読だそうです。
BS朝日がご覧になれますか?
うちはどうだろう・・・ 見られるような気がするのですが、チェックしてみなくちゃ。

須賀敦子さんの本をお読みになっていないかたも、どんな人かな、どんな本かなと興味をお持ちになったら、ぜひご覧になってくださいね。


この情報は、おととい買った「須賀敦子全集 第3巻」の中帯にありました。
11月10日初刷りの新刊だったのです。

アッシジはイタリアの真ん中あたりにある町です。
サン・フランチェスコ聖堂が有名なので、日本からの観光客も多いようですね。

どちらにしてもイタリアには行ったことがないからなぁ・・・
(アッシジの町の全景)


(こちらが、サン・フランチェスコ聖堂)
世界遺産です。
カソリックの巡礼地のひとつ。

わたしはミッションスクール出身ですが、プロテスタントのほうなのでカソリックについては詳しくなく、聖フランシスコ(アッシジのフランチェスコ)の名前をとっている聖堂、というくらいしかわかりません。

BS朝日が見られると良いのですが・・・



須賀敦子さんの本(13) ガッティのこと

2007-01-28 23:26:10 | 須賀敦子さんの本
keikoさん、こんばんは。
先日は、須賀敦子全集ⅠⅡについての、高樹のぶ子さんの書評をお送りいただきありがとうございました。
三回読んで、ポイントにはマーカーまで引いてしまいました。(笑)
やはり、よい書評だと思います。 まったくそうは思わないというところも多かったのですが、「すべて過去語りとして作品化」というところで、納得できた気がします。
Ⅱ巻目を読み終わったところで(未だ買っていないのです)、高樹さんの評についても感想を書きたいと思います。
ほんとうにありがとうございました。

須賀敦子全集Ⅰには「コルシア書店の仲間たち」と「ミラノ 霧の風景」が一緒に綴じられているため、同じテーマのエッセイを比較しながら読むことができます。
それぞれを単行本で読んでいたときにはタイムラグがあったため、前に読んだエピソードと繋がらなかったり、二つのエッセイが混ざってしまうこともあったのですが、この本を読んで整理がつきました。

「コルシア書店の仲間たち」→「ミラノ 霧の風景」の順番で読むのがいいこともわかりました。 「ミラノ・・」のほうが先に書かれていても、です。
一冊だけ読むなら「コルシア書店・・」でしょうし、未だ読んでいないかたにも、この一冊だけは読んでいただきたいと思います。
「須賀敦子の文章を読むと心が静まる」のを味わっていただきたいです。

コルシア書店の出版部門のまとめを無償で手伝っていたガッティは、本職は某出版社の編集者。 「コルシア書店の仲間たち」では、「小さい妹」という題でスポットライトがあたります。
ガッティの両親たちは20歳の年齢差があって、しかも母親のほうが年上でした。
母親が亡くなってから、ガッティは父親とふたりで暮らしていたのですが、その父親が70歳を過ぎてから、もうじき子供が生まれるから結婚をしたい、と言い出したので、ガッティは驚愕してしまうのです。
ガッティは悩んだ挙げ句にこの状況を受け入れ、やがて生まれた小さな妹を可愛がります。
コルシア書店が全盛期の勢いを失っていく時代を背景にしながら、小さな命が誕生する温かさも伝わって、印象に残る作品でした。


「ミラノ 霧の風景」では、デジデリオ・ルイージ・ガッティは某出版社の編集者としての顔で登場します。
須賀さんがローマからミラノへ移り住み、コルシア書店にかかわりを持つようになり、ペッピーノと結婚する。 そのきっかけになったひとりがガッティだったのですね。

ガッティは熱心にコルシア書店を手伝っていたのに、ある時期からその仕事がはかどらなくなって、書店の仲間が困惑した。 
「コルシア書店の仲間たち」ではそんな風に書かれていましたが、こちらのエッセイ「ガッティの背中」を読むと、実はそれはガッティの精神の病が始まっていたからだとわかります。
お母さんが亡くなったとき、ガッティは40代の初めか半ばという年齢だと思うのですが、アルツハイマー病が始まりかけていたのです。

須賀さんがペッピーノと結婚、その数年後からガッティの不調が目立つようになり、ペッピーノが亡くなる。 ガッティは「小さい妹」の面倒を見なくてはならないからという理由でコルシア書店の仕事から離れ、やがて須賀さんが日本へ帰国。
それから何年もしないうちに病気が進行したガッティは、老人ホームに入所してしまいます。

須賀さんはアルツハイマーという病気については知識がなかったようですね。 イタリアに里帰りをしたついでにガッティを見舞った須賀さんは、ガッティの体から須賀さんが知っていた彼の人格が消えてしまっていることにようやく気づきます。
「彼のはてしないあかるさに、もはや私いらいらさせないガッティに、私は打ちのめされた」

前に読んだ時は、私もアルツハイマーについてはほとんど知らなかったのですが、今はふたりの知人がこの病気に罹っていることもあって、なにげなく読むことはできませんでした。
この描写からしてガッティの病状はそうとう進んでいます。 実際にそれからまもなく、数年経ってからでしょうか、ガッティは亡くなりました。
60歳になっていなかったのではないでしょうか。

前の方に書いたとおりで、こちらの「ガッティの背中」が先で、その後に「小さい妹」を書いているというのも興味深いですね。
「小さい妹」では、ガッティの病気について想像できるようなことは書かれていません。
このあたりが須賀さんらしいと思いました。
小説に限りなく近いエッセイ、という評価がまたひとつわかった気がします。



須賀敦子さんの本(12) コルシア書店の仲間たち Ⅱ

2007-01-08 01:18:01 | 須賀敦子さんの本
keikoさん、1年振りにお手紙を差し上げています。
須賀敦子全集が文庫化されて、がぜん読む意欲が湧いてきました。

「コルシア書店の仲間たち」の一編一編を、とっておきのワインを味わうように読んでいるところです。 keikoさんもお読みになっていらっしゃるのでしょうか。
今回は、ゆっくり読んでいることもあって、まだ三編しか読んでいません。 
ツィア・テレーサがヒロインの「入り口のそばの椅子」、ダビデ・マリア・トゥロルドにスポットライトをあてた「銀の夜」、須賀さんが住んでいたミラノが主人公の「街」。

「銀の夜」は、うわつらを滑るように読むことが多い私にしては珍しく、行きつ戻りつしてしっかり読みました。
カソリック左派の思想、1930年代に起こった「あたらしい神学」をイデオロギーとして社会的な運動に進展させたエマニュエル・ムニエ、古来の修道院とは一線を画したあたらしい共同体の模索・・・
何度読んでも理解することはできないけれど、須賀さんが「キリスト教を基盤とした、しかも従来の修道院ではない生活共同体」について強い関心を持っていた人だということ、だからこそローマからミラノへ居を移して、コルシア書店に関わりを持ったことを知っておかないと、須賀さんは知的で美しい文章を書く人だ、私は須賀さんのエッセイが好きなのよ、で終わってしまいそうです。

須賀さんはペッピーノが亡くなって日本に帰ってきましたが、帰国して間もない時期には何かの活動をされていて、それは共同体に関わるものではないかと私は想像しています。
須賀さん(の写真)は、丸顔で穏やかな表情を見せていることが多いのですが、相当なやんちゃであったことは間違いないですよね。
実は、この共同体という発想がわたしには理解できなくて、コルシア書店を読むときのネックになっています。 ちょっとくやしい。

コルシア書店の創始者であり、キリスト教左派の司祭であり、詩人でもあるダビデ・マリア・トゥロルドは、須賀さんの目を通さなかったらどんな人だったのかと思います。
彼は1916年生まれで、須賀さんは1929年生まれですから、日本風に言えば一回りの年齢差があるのに、エッセイの最後では須賀さんはダビデよりもずっとおとなになっていました。


須賀敦子さんの本(11) コルシア書店の仲間たち Ⅰ

2006-01-29 10:59:39 | 須賀敦子さんの本
keikoさん、昨年暮れは仕事が忙しかったこともありご無沙汰してしまいました。
お怪我のほうは大分よくなられたのかと気にしております。 くれぐれもお大事になさってください。

手元にある須賀敦子さんの本について感想文を書いてきましたが、この「コルシア書店の仲間たち」が最後の一冊になりました。
須賀さんの本はコルシア書店から読み始めました、という人が多いと思うのですが、わたしもそのひとりです。
でも、本を買ったときのことは覚えていません。 これをきっかけにして須賀さんを次々に読んでいったのですから、強い印象があったはずなのに覚えていない。 惚れ込んだきっかけを思い出せないなんてちょっと情けないです。

須賀さんは二十代の半ば過ぎから15年をフランスとイタリアで過ごしました。
フランスからイタリアに流れてきた須賀さんは(というのが私の印象なんですが)、イタリアの気風にあっていたのでしょうね、ここにぴたっとはまりました。
ペッピーノと結婚したときには一生をここで過ごすつもりでいたのだと思いますが、夫の死によって
航路の変更を余儀なくされ、四十路に入ってすぐに帰国します。



須賀さんがエッセイを書き始めたのは還暦を過ぎてから。 
「コルシア書店の仲間たち」は、イタリアで30年前に出会った彼女のたいせつな人たちの肖像画集です。
肖像画に描かれているのは当時の、三十年前のそのままであるのに、画家はモデルの未来を知っていました。
モデルのほとんどは須賀さんよりも年上です。 六十路の須賀さんが描き始めたときには、すでに思い出の中だけで生きている人たちが多い。
読んでいるときには過去のできごとという感じはしないのですが、本から目を離して我にかえったときに、ああこれは(人ひとりにとっては遠い)昔のできごとなのだなぁとため息が出ました。

須賀さん自身も、自分の持ち時間がわずかであることには気づいていなかったと思います。
読者の私たちは、コルシア書店の仲間たちが須賀さんも含めて今は霧の向こうに去ってしまったことを知っている。
本の中に登場する人たちは活き活きと描かれ、賑やかに笑ったり怒ったり泣いたりしているのに、今はここにはいない。
このエッセイが評判が高いのは、読んでいるときの充実感と、書いている須賀さんとの一体感、人が生まれて、生きて、死ぬことがほんとうに自然なことだとわかるからではないでしょうか。

せつない気持ちになった、目頭が熱くなった。 解説の松山巌さんはそう書いていますが、よくわかります。 わたしも、この文章を書いているうちに胸が痛いような熱いような、少し泣いてもいいような気がしてきました。

うん、さっぱり本題に入っていないですね。 来週続きを書くことにいたします。
もうしばらくおつきあいください。

※写真は、コルシア書店だった 現・サンカルロ書店の入り口。 もう一枚はMilanoの街の夜景です。



須賀敦子さんの本(10) 本に読まれて

2005-10-30 22:48:40 | 須賀敦子さんの本
工程の納期が近づいてきたため、忙しく過ごしています。 
本は通勤電車の中だけ、片道15分しか乗っていないので遅々として進みません。

keikoさん、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか。
ポール・オースターの「孤独の発明」にとりかかってから数週間になるのに、後半の「記憶の書」に入ってから、同じところをぐるぐる読んでいる気がいたします。 細切れの読書はだめですね。 バリ島のホテルのプールサイドで一日中読書していた日々が恋しくてたまりません。

この本は須賀さんが書評を書いたものを集めた本で、他のエッセイとは趣が違います。
かなり地味な企画ですが、わたしはこの本が好きです。
自分が読んだことがない本についての書評がほとんど、というところが哀しいのですけれど、読みたい本をみつける足がかりだと、わくわくして読みました。

それから知っている本についての書評が出てくると、やったと身を乗り出して活字を追うのです。 そうよ、須賀さんが誉めてるんだもの、わたしが読んでるってすごいじゃん、てね。
わたしはこうやって読書感想文を書いていますけれども、雰囲気や好き嫌いを書いているか、あらすじを書いているだけで、論理的に分析しているわけではありません。
今だって、どういう話しの展開になるか自分でもわからないんです。 頭が悪いというのはこういうことなんでしょう。

須賀さんは場当たりの感想文を書いてはいません。 きちんと分析した結果に、色んなエピソードや寄り道を付け加えて、鮮やかな印象にしたうえでまとめています。
自分との器の違いがよくわかって、それでいてそのことが快感に思えるのはなぜなのだろうか。


ええと、今回印象に残ったのは<小説のはじまるところ 川端康成 『山の音』>でした。
ノーベル文学賞の授賞式のあとで、イタリアに立ち寄った川端夫妻と須賀さんはレストランで食事をしていました。

『話題が一年前に死んだ私の夫のことにおよんだ。 あまり急なことだったものですから、と私は言った。 あのことも聞いておいてほしかった、このこともいっておきたかったと、そんなふうにばかりいまも思って。
すると川端さんは、あの大きな目で一瞬、私をにらむように見つめたかと思うと、ふいと視線をそらせ、まるで周囲の森にむかっていいきかせるように、こういわれた。 それが小説なんだ。 そこから小説がはじまるんです。(中略)
「そこから小説がはじまるんです。」 なんていう小説の虫みたいなことをいう人だろう、こちらの気持ちも知らないで、そのときはびっくりしたが、やがて少しずつ自分でものを書くようになって、あの言葉のなかには川端文学の秘密が隠されていたことに気がついた。ふたつの世界をつなげる『雪国』のトンネルが、現実からの離反(あるいは「死」)の象徴であると同時に、小説が始まる時点であることに、あのとき、私は思い至らなかった』

物書きでもないわたしが感じ入るのは変なんですけれど、とても印象に残ったところでした。

前に読んだときは、アントニオ・タブッキのところが印象的で(このおじさんです→)、何冊も買ってしまいました。
「インド夜想曲」は須賀さんが日本語訳をやっているんですね。 だから<買い>だったんです。 須賀さんが訳していると思うだけでも楽しかったし、実際おもしろい本でしたので、keikoさんが読んでいらっしゃらなかったら、お薦めいたします。
書評の対象の本を読んでいなくても、引き込まれて読んでしまいました。 読み終わるとずっしり重みがあって充実感があります。

<本に読まれて>という題名は、須賀さんが幼いころ、読書に夢中になっている時にお母さんから「また、本に読まれてる」と注意されたエピソードから来ているんですね。
わかる気がいたします。 
レベルはちがうけれど、あたしも<本に読まれる>コドモだったから。
keikoさんもお仲間かなって思っています。



須賀敦子さんの本(9) トリエステの坂道

2005-10-23 00:34:39 | 須賀敦子さんの本
keikoさん
土曜日の東京は朝から肌寒く、茶の間のテーブルから灰色の空を眺めていたら、急にザァッと音を立てて雨が降ってきました。
バリ島で買ってきた2ドルの珈琲豆を挽いて朝のコーヒータイムをしていた私は「洗濯物!」と叫び、勢いで立った夫が全部とりこみました。

朝はどうも苦手で。。。 平日は気合いが入っているせいか、意識不明に近い状態でも動けるんですが、休日だと亀もかくやというくらいスローモーになってしまいます。

いえね、無理に今朝の驟雨とこじつけたわけではないのですけれど、「トリエステの坂道」といえば「雨の中を走る男たち」の小編は有名ですし、わたしにとっても印象が強かった章です。

須賀さんはミラノのコルシア書店の「仲間たち」となり、やがてペッピーノと結婚しました。(ペッピーノは愛称、ジュゼッペ・リッカ氏)
この本は最初の一章だけがウンベルト・サガの話題で、他は須賀さんとペッピーノの暮らし、ペッピーノの家族について書かれています。

特に「雨の中を走る男たち」は、須賀さんのことをミーハー的に知りたい人には絶好の小編です。彼女が結婚したペッピーノ氏がイタリアではどんな階級に属するかがわかるんですね。
イタリアが階級制度できっちり組み立てられた国だということは、須賀さんの本を読んでいれば自然にわかってくることです。裕福な貴族階級の人たち、新しくのし上がってきた金持ち層、普通のイタリア人、もう少し下のランクの庶民、それからユダヤ人の血統。

分類不可能な極東から来た日本の若い女性、須賀敦子は、本国では裕福な商家のお嬢さんであり、相当な知識階級でもありました。
そして須賀さんが結婚したペッピーノ氏はイタリアの庶民の出自だったのです。
須賀さんはそのことについては感想は何も書いていませんが、「雨の中を走る男たち」を読むと彼女のサプライズを同じように感じることができます。

『イタリアに暮らすようになって、ひとつびっくりしたことがあった。学生をふくめて、生活がぎりぎりという階級の男たちが傘を持っていないのだ。(中略)そんなわけで、にわか雨にあったとき、上着の前を手で閉めて走る人種と、そうでない人種に分かれる。

結婚して間もないころ、夫が家に帰ってくる時間に、にわか雨がふったことがあって、彼の傘をもって家から二、三分の市電の停留所まで迎えに行くことにした。(中略)
三月二十二日通りの停留所の前で待っていると、夫が電車を降りてきた。降りしなに、たしかに私と視線があったと思ったのに、彼は知らん顔をして、信号をどんどん渡っていってしまった。(中略)
私としては、彼は私をたしかに見たと、いまでも確信がある。私を置き去りにしたあのときの彼も、雨の中を両手できっちり背広の前を閉めて、走って行った。』


(画像は1756年のトリエステの町です)
ペッピーノ氏は苦学して大学を卒業した穏やかなインテリですが、彼の家族は貧しい庶民であり、問題を抱えた人たちでした。
ペッピーノ氏は4人兄妹の次男坊、須賀さんが結婚した時には長男と妹は既に病死していて、どうしても定職につくことができない弟と母親との三人暮らしだったのですね。

須賀さんは、母親や弟と同居したのではなく少し離れたところにペッピーノ氏と住んでいましたから大きなトラブルはなかったようです。
しかし、ペッピーノ氏が40歳になってまもなく病死してしまうのは、家族から受け継いだ虚弱な体質が起因しているのでしょう。

ペッピーノ氏が亡くなってから、ひとり生き残った弟のアルドが少しずつ成長していく様子を須賀さんは淡々とした、しかし温かいタッチで描いています。
結婚して息子が生まれ、やがてミラノから山(アルドの奥さんの実家がある村)へ引っ越していくアルド。
ミラノの弟の住まいは、ペッピーノ氏が育った家(買い取った古い官舎)だったので、アルドがここを畳んで山へ引っ越したのはとても淋しいことだ。 わたしとミラノを結びつけてきた絆がなくなってしまう気がした。
須賀さんはそう結んでいました。

イタリアの家族とその周辺の人々をテーマにした「トリエステの坂道」は、少し哀しい愛情物語だと私は思っています。
題名の「トリエステの坂道」は、この家族の物語とは別のお話です。 詩人ウンベルト・サバの生地を訪ねた須賀さんの旅行エッセイです。
トリエステという町は、イタリアにありながら異国(オーストリア系)であり、そこが須賀さんの興味を引いたひとつの要因らしい。
わたしにはむずかしいテーマなので、今日はここまでにします。

冬が駆け足で近づいてまいります。 どうぞご自愛のほどを。 おやすみなさい。



須賀敦子さんの本(8) ヴェネツィアの宿

2005-10-16 08:34:04 | 須賀敦子さんの本
keikoさん、お変わりなくお過ごしでしょうか。 
最近MLへの投稿ができないでおりますが、みなさんのメールは読ませていただいて楽しんでいます。 blogに日記を書いてしまうと、書くことがなんにも残っていないという状態になってしまって。
困ったモノです。

「ヴェネツィアの宿」を読んで一番驚いたのは、須賀さんのお父さんがダブルファミリーだったことです。

須賀さんが二十歳の頃に、お父さんは夙川の家を出て帰ってこなくなった。京都の病院に入院していることを知った須賀さんは、病院を訪ねます。
お父さんは散歩に出ていると言われて庭へ出てみると、向こうからお父さんが歩いてくるのが見えた。知らない女性と一緒だった。
その女性は、お父さまからよく(敦子さんの)お話しを伺っていると丁寧に挨拶をした。
まっとうな感じのする人だったと、須賀さんは書いています。

『私のことなんかひとにべらべらしゃべらないで。 私はできるだけ彼女のほうを見ないようにして、父に言った。(中略) ママのところにはやく帰ってください。 そう言って、私は父と別れた。』


keikoさ~ん、今気がついたのですが「トリエステの坂道」について書くんでしたよねぇ。
わたしって馬鹿だ。 最近ボケがひどくて・・・
ここまで書いたんだから、今日はヴェネツィアの宿にしておきましょう。 すみません。

ヴェネツィアの宿という本にはヴェネツィアの話題がほとんどありません。 気がつかれましたか。
一章の「ヴェネツィアの宿」は途中から、このお父さんのもう一方の家族についての話しになってしまいますし、二章「夏の終わり」は鬼藤の伯母夫婦を巡る思い出。 三章「寄宿学校」は東京の修道会が運営する寄宿学校での生活と修道女たちのお話し。
こんな調子で、どれもヴェネツィアとは無縁の話題が続いています。
後半はパリやイタリアの各地での思い出も綴られているのですが、日本を舞台にした思い出のほうが印象に強く残ってしまって。

須賀さんといえばコルシア書店のイメージが強く、この書店を中心とする友人たち、夫のペッピーノ、それからペッピーノの家族達に焦点をあてたエッセイのイメージが強いのですが、この本は、それ以前の留学生としての須賀さんの思い出を中心としています。
最初の留学、二回目の留学、寄宿舎で一緒だった各国の女性たちのことが語られていて、須賀さんがヨーロッパでどう揉まれてきたがよくわかる気がしました。

須賀さんはシンポジウムに出席するため、日本からヴェネツィアへ旅立ちます。
宿はフェニーチェ歌劇場の広場に面していました。
写真は水路から見たフェニーチェ歌劇場です。 きれいですねぇ。

宿は須賀さんの好みらしく、二流のランクだと思う。 
木の階段を5階まで上ってようやく部屋に辿り着いた須賀さんは、窓を開けたとたんにどっと流れ込んできた音楽に身をひたします。
フェニーチェ劇場は、劇場前の広場に向かってスピーカでコンサートの様子を流していたのです。 粋ですよねぇ、羨ましいと思いました。 日本のコンサートホールでそういうサービスはないでしょう。

須賀さんはベッドの中でうつらうつらしながら、ガラ・コンサートのおこぼれを聴き、コンサート帰りのひとたちの足音と、声高な会話を聞きます。
わたしもパリの寄宿生活時代、切りつめて通った演奏会帰りにはこんなふうにさんざめきながら帰り道を歩いたものだった、と。

この本の最初の数ページだけに登場するヴェネツィアのエピソードは、さわやかな感じがしました。 わたしもそんな時代があった、って共感できる。 共感できるだけに、ああ歳とったんだという思いもある。
須賀さんのエッセイの中では地味だけれど、実話に近いと思うんです。 そのせいか重みがありました。
いつかフェニーチェ劇場へ行けるといいのですが。



須賀敦子さんの本(7) よもやも、よもやま

2005-09-24 22:07:21 | 須賀敦子さんの本
TV東京の「美の巨人たち」は私のお気に入り番組です。
この番組が終了したらショックを受けてしまうだろうと、いつもそう思う。
10月は番組改編の季節ですがどうでしょうか、継続してくれるかしら、ドキドキだわ。

今夜はユトリロの特集、たしか先週もユトリロでした。
ユトリロの絵は、写真絵はがきをもとに書いているからと低く見られることがあるようですが、どうなんでしょう。
ラパンアジル・・兎が走るという意味だそうです・・の絵はがきと、それを模写した油絵では何が変質しているんだろう。

こんばんは keikoさん。
須賀敦子さんの本の感想を週に一回、keikoさんへの手紙として書くたびに季節が変わっていく速さに驚いています。
夏はどこへ行ってしまったんでしょうか。 明後日あたりは台風一過の晴れた日になると思うけれど、夏日にはならないでしょう。 今頃になって、夏が恋しい。


須賀敦子さんは、次は小説を書くと宣言されていたそうです。
「アルザスの曲がりくねった道」という題名で、フランスのアルザス地方に生まれて修道女になった女性が主人公で、彼女は日本にも長く滞在していて、須賀さんとも面識があって・・・

ようちゃん|しげちゃんの、遠い延長線にある小説なのかもしれませんね。
そうそう、Amazonで『須賀敦子のローマ』を買ったんです。 届いたのは3~4日前なので、まだ全部は目を通していません。

でも欄外の解説に見つけちゃいました。 「ようちゃんとしげちゃんは同一人物である」と。
須賀さんのエッセイは事実だけを書いているのではない。 匿名にしてあるとかそういうレベルではなくて、須賀さんが書きたいテーマをエッセイ風に仕立てているんですね。 後期の作品はまちがいなく、そう。

今日は「トリエステの坂道」の感想を書こうと思ったのに全然そうなりません。 どうしてだかわからないです。
台風のせい? あたしは気圧の上下で脳の状態が変わりやすい動物なのかもしれません。

ベッド脇の15インチのチビ・テレビジョンはいつの間にか番組が変わって、シンディ・クロフォードの化粧品の宣伝番組になっています。
シンディって大きく背中側にのけぞって笑うんですね。 あ、彼女だけではないかもしれません。 あれは白人独特の笑い方だと思うわ。 日本女性は前に倒れるようにして笑うじゃないですか。

「追悼特集 須賀敦子 霧の向こうに」
自分でも買った記憶がない、1998年の文藝別冊が手元にあります。
鈴木敏恵さん(未来教育デザイナー・一級建築士・オブジェ作家・千葉大学教育学部講師)は、イタリアから帰国したばかりの須賀敦子は「多分にイタリア人だった」と語っています。

『あら違うわよ、私はこう思うわ』 まず否定し、必ずアンチテーゼを出してきた。・・・中略・・・ でも彼女の生き生きとした幾分シニカルな話しぶりは、私には新鮮な驚きでもあった。
須賀さんの話しぶりは「後年、奇跡的にマイルドになっていった」のですが、運転はイタリア風のすさまじさを保持していたんですって。

送るわと言われて助手席に座ったあとのあの恐ろしさと驚き。 カーブでも角でもほとんど減速しない。 交差点ではまっ先に発信する。 おまけに前の車や対向車がもたもたしていると、忽ちイタリア語の罵声が飛ぶ。
(中略)
要するに、こっちは絶対悪くない、悪いのはみんなお前たちだという論法で、これはもう全くイタリア人だと私はあきれながらも、もしかして彼女のゲームなのかと思った。

(写真はサンカルロ書店、旧コルシア書店の入口)

ちょうど今、わたしが読んでいるのは「コルシア書店の仲間たち」です。
この本で須賀さんを初めて知り、惹きつけられた、森有正風の言葉づかいで言い直せば「須賀敦子に決定的に意味づけられてしまった」人は多いでしょうねぇ。
わたしもそうなんだけど。
他とはインパクトが違うのです。

ミラノ時代から30年の歳月を経て、登場人物はほとんどが霧の向こう側へ旅立っているにもかかわらず生き生きして暖かで親しみ深いんです。
この本については最後の最後に感想を書きたいと思います。
「トリエステの坂道」は、次の手紙で。。。



須賀敦子さんの本(6) ユルスナールの靴・・Ⅱ

2005-09-17 21:11:09 | 須賀敦子さんの本
昨夜はワインをたくさん飲んで寝たら、三時間寝ただけで目が覚めてしまいました。
1時半です。
爽快に目が覚めたからなんとしても眠たくならない、だらだらとそのまま朝まで起きていました。 でも、朝食後に眠たくなっちゃいましてね。2時間ほど仮眠してようやく普通の体調に戻りました。

keikoさん、天高く馬肥ゆる秋を実感しています。
果物や新米、栗も芋もと、美味しいものを食べて太るなら納得しますが、全然そうじゃないんです。 隣駅までの通勤ウォーキングを再開する、残る手段はこれだけだと覚悟だけは決めたのですが、起床時間を今より15分早くすることができるか自信がありません。

1953(S28)年の夏、須賀敦子さんは40日間の船旅ののちにジェノヴァへ到着します。
もう一度イタリアの地図を。 北西部と中部の文字のあいだ、そうそこにジェノヴァがあります。須賀敦子・24歳、若いですねぇ。

あの時代に、私学の大学を卒業した普通の女性である須賀さんが欧州へ留学してしまったのは、彼女と彼女の父親に共通する何か、思い立ったらやらずにはいられないという性格が底にあるせいではないでしょうか。
須賀さんは頭脳明晰で考え深い人ではあるけれど、冷静沈着という感じはしない、お茶目でオッチョコチョイなところがあるから、だから親しみを感じるのだと思うわ。

須賀さんの最初の欧州留学はイタリアではなくフランス、もちろんパリ。
カソリック教会の伝手で紹介してもらった、外国人向けの女子寮で2年間を過ごすことになります。 (ちょっと失礼かもしれないけど)のほほんとして欧州に渡った須賀敦子さんは、パリの寮生活で揉まれたことによって長足の進歩をとげたのでしょうね。

貧しい東洋人への人種差別については詳しくは書いていませんが、わずかに触れている箇所から想像しても厳しいものだったと思われます。
寮生であったことは、須賀さんにとっては幸いでした。
人間関係で揉まれてはいたとはいえ、寮に帰れば守ってもらえたからです。


さて、マルグリッド・ユルスナール。
第二次世界大戦が始まる直前に欧州から米国へ、ほんの小旅行のつもりで渡ったユルスナールは欧州へ戻ることはありませんでした。
彼女が付き合っていた同い年の米国女性、グレース・フリックの誘いに乗って、貨客船で大西洋を渡ったのですね。戦時でしたから豪華客船でというわけには行かなかったからだということですが、マルグリッドは欧州では家なき子状態、経済的に逼迫していたのかもしれない。

須賀さんは、マルグリットは欧州から切り離され孤立したことによって「自分のヨーロッパ性をより明確に自覚した」と書いています。
そこから彼女の代表作である、「ハドリアヌス帝の回想」が実現するパワーに繋がったと見ている。

写真はpaperback版の「ハドリアヌス帝の回想」です。
日本だと分厚くて敷居の高い単行本なのですが、paperback版で読むような気軽さがあるんでしょうか。
わたしはハドリアヌス帝を知りませんでした。(たぶん恥)

『ローマ皇帝 Publius Aelius Traianus Hadrianus (AD76-138)
五賢帝のひとり。治世中に帝国全域を巡行したことで知られる。またライン川、ブリタニアの防衛線の再構築を行い、異民族の侵入からの防衛システムを確固としたものにした。 ビテュニアの美しい若者アンティノウスを鐘愛したことで名高く、エジプト訪問中に、この美青年がナイル川で事故死を遂げた後は、彼を神格化して神殿や新しい都市アンティノオポリスを建設し、帝国中にアンティノウス像を立てさせたことが知られている。 また大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌス(ヴィラ・アドリアーナ)をイタリアに造営し、新古典主義建築に大きな影響を与えた。』


須賀敦子さんはローマでハドリアヌス帝の墓廟を見学しに行きます。
「四十年近くも前、二年もローマに滞在したことがありながら・・・そしてやっと今になって、私は、ここに来ている」ですから、「ユルスナールの靴」を執筆中の、日本に帰った今の時代、ということになりますね。

マルグリッド・ユルスナールがハドリアヌス帝の物語を書くのには時間が必要でした。
機が熟すまでに30年が過ぎています。 須賀さんも、ユルスナール、ハドリアヌス帝、そして彼女自身の折り合いがついて、墓廟に辿り着くまでに40年もかかった。

エトランゼとしてのユルスナールに須賀さんが惹きつけられたのは当然だと思いました。 須賀さんは夫君のペッピーノが5年というあまりにも短い歳月で亡くなってしまったためにイタリアに留まることができませんでしたが、イタリアで、ミラノで一生を過ごすつもりだったはずです。
人生には誤算がついてまわる。
それをどうやって乗り越えていくか、上手に流されていくか、流される振りをしてうまく舵をとっていくか。

とりとめがつかない雑文になってしまいました。
本の感想文としては最低だけど、汲めども尽きぬ、でごめんなさい。

マルグリッド・ユルスナールは84歳という長命だったから、晩年の写真はたくさんあります。 これは最晩年ではないでしょう、70代半ばでしょうか。
一生を共にしたグレース・フリックが57歳でがんを病んでから21年間、ユルスナールはグレースの面倒を看て過ごしました。
須賀さんの友人で編集者のガティの言葉を借りれば
「フランス人だけどアメリカに住んでいる。それも北の果ての小さい島だ」
ユルスナールは米メイン州のマウント・デザート島で後半生を暮らしたのです。

須賀さんはその島へも行って、ユルスナールが住んでいた白い小さな家を訪問しています。
墓地へもね。

さぁてそろそろ締めましょうか、本当に長くなってすみません。
ユルスナールの靴のことです。
『1987年のマルグリッドの写真・・・なによりも私の関心をさそうのは、彼女のはいている靴だ。
マント風のコートを着た彼女がはいているのは、私や親友のようちゃんが小学校のころはかされていたのにそっくりな、横でボタンでとめる、いわばちっちゃい子ふうの靴なのだ。
・・・
もうすこし老いて、いよいよ足が弱ったら、いったいどんな靴をはけばよいのだろう。
・・・
その年齢になってもまだ、靴をあつらえるだけの仕事ができるようだったら、私も、ユルスナールみたいに横でぱちんととめる、小学生みたいな、やわらかい皮の靴をはきたい。』



須賀敦子さんの本(5) ユルスナールの靴・・Ⅰ

2005-09-03 21:00:14 | 須賀敦子さんの本
keikoさん、いかがお過ごしでしょうか。
すっかり秋になってしまいました。

栗やお芋を素材にしたお菓子や菓子パンが出回っています。
万年ダイエット中の身だということはわかっていて、会社がある駅のコンビニエンスストアで、いいように理由をつけて新製品を買ってしまう私。
意志薄弱だなぁと。

さて。。。<ユルスナールの靴>です。
須賀敦子さんのあとがきには、2年半かかってこの本を書いたとありました。
わたしもずいぶんかかって、だいたい読み終わったところ、8月中はずっとこれを読んでいたかもしれません。

読み応えがありましたねぇ・・・
だいたい読み終わったと書きましたのには理由があります。
端から端まで読んだにもかかわらず、理解ができなかったところがあちこちにありましてね。 字づらだけを追っていて、頭の中に入ってこないの。

<ユルスナールの靴>はフランスの女流小説家であるマルグリッド・ユルスナールをテーマにしながら、須賀さんのいつもの手法で、彼女自身のユルスナールに対する思いや結婚前のヨーロッパ留学時代の思い出を書きつづったエッセイです。

『マルグリッド・ユルスナール Marguerite Yourcenar (1903 - 1987)
ベルギーのブリュッセルの名家の生まれ。
生後まもなく母を失い、主として父や家庭教師から教育を受けた。
早くから古代ギリシア・ローマの古典に親しみ、ジッドの影響を受けながら26歳から小説を書き始める。
該博な知識を基礎に、哲学的考察に富んだ歴史小説を残した。
1951年に「ハドリアヌス帝の回想」によりフェミナ賞を受賞、その後「黒の過程」により再度フェミナ賞を受賞し、作家としてゆるぎない地位を確立した。
女性で初のアカデミー・フランセーズ会員となった。』


エッセイの冒頭の部分「フランドルの海」で、須賀さんはユルスナールの幼い頃の写真を見たときの感想を書いていますが、その写真は見つかりませんでした。
代わりに見つけたのはこれ、たぶんこれに似た雰囲気だったのではないでしょうか。

ベルギーの旧家に生まれ、彼女が生まれると同時に母親が亡くなったため、父方の祖母に引き取られ、祖母は孫娘のマルグッリドを嫌って女中に育児を任せた。
父親は文学青年であり旅に明け暮れたエキセントリックな人だったようです。

裕福な家庭に育ちながらも、この父親が資産をすべて使ってしまったために、二十代半ばにしてマルグリッドは家をなくして、無一文(とはいっても我々よりは金持ちなんですけどね)になった。
彼女が世間に認められて小説家として大成するのはそれから25年もあとのこと。
父親に似て、風変わりだったマルグリッド・ユルスナール。
第二次世界大戦の直前に、当時付き合っていたグリース・フリックに誘われてアメリカに渡り、メイン州のマウント・デザート島で、彼女とふたりで暮らし、ヨーロッパに帰ることなくここで一生を過ごした。


須賀さんは、マルグリッド・ユルスナールの生涯につかず離れずという感じで筆を進めていました。 ユルスナールに夢中という感じでもなく、緩やかな愛情を寄せながらしっかりと批判もしている。

ようちゃんのエピソードは他のエッセイにもありました。
<遠い朝の本たち>ではしげちゃんとして登場していた女学校時代のお友だちです。
読書家で、学校を卒業した後は戒律が厳しいので有名な修道院に入って修道女となり、夭折しました。

keikoさん、ようちゃんとしげちゃんは同一人物なのでしょうか。
このような生き方をした女友達が、ふたりもいるとは思わないでしょう? 
でもね、須賀さんの本の中ではずいぶんちがった風に書かれていて、正直とまどいました。
修道院に入ってからは一度も会うことなくようちゃんは二十代半ばで昇天し、しげちゃんとは一度だけ病気療養中の調布の修道院で面会しているのです。
須賀さんの夫が亡くなったあとだから三十代の後半といいうことになる。
須賀敦子さんはフィクションとノンフィクションの間の微妙なバランスで書いていたのではないでしょうか。
というか、そうなんですよね。
小説家としてデビューする直前に亡くなった須賀さんの、小説家としての片鱗が表れているのかもしれません。


ようちゃんのエピソードがどう展開するのかと思ったら、ようちゃんが女学生時代に薦めてくれたアンドレ・ジッドの<狭き門>に話題がずれていきました。
<狭き門>は(ようちゃんが修道女になることを決心した)当時のカソリックでは、読んではいけない本だったらしい。

私たちはジイドと呼んでいますけれど、須賀さんの時代はジッドだったらしいのよ。
<狭き門>という本は、ある世代の象徴的な恋愛小説だということには、実は気がついていました。
なーんていうとなんだか偉そうな物言いですが、<風の盆恋歌>を読んだときにへぇと思ったんです。

中年になって再会した主人公の男女が、<狭き門>をキーワードにしているんですね。
どうやら、戦後すぐくらいに大学生だった世代には重要な物語のようです。
須賀さんはようちゃんから薦められて読んだ<狭き門>は息苦しくて好きじゃなかったけれども、心には引っかかっていたと書いています。

「精神が知性による判断の錬磨でありその持続であることに私は気づいていなかった。
 (中略) 『狭き門』の強靱さは、そんな、持続である精神性に支えられているのではないか。 そう考えてみると私がもともとフランスに求めていたものが、カテドラルたちの精神性にあるような気もした。 そしてアリサの思考は、やはりひとつの透徹した精神性かもしれないのだった。」

う~ん、難しい。(苦笑)
森有正の<バビロンの流れのほとりにて>みたいだわ。


どこでユルナールに繋がるのでしょうか、だらだらと書いて申し訳ありません。
ユルスナールが26歳の時に出版された処女作、<アレクシス、あるいは虚しい戦いについて> 発売当時、この本がジッドの影響を受けていると評されたことかしらね。
実際にはジッドよりもリルケの影響を受けていると、晩年のユルスナールは語っているそうですが。
もちろん、わたしには全然わかりません。
<狭き門>も<マルテの手記>も読んだことはあるけれど、すっかり怪しくなっています。

ああ、話が長くなってしまいました。あと一回か二回にわけて書いてもよろしいでしょうか。 ごめんなさいね、読まされる方はとんだ災難だと、あたしも密かに思っているんです。
では。。。


須賀敦子さんの本(4) 遠い朝の本たち

2005-08-28 01:27:42 | 須賀敦子さんの本
須賀さんの文庫本をベッドの上に並べて、どれにしようか迷っています。 ヴェネツィアの宿、遠い朝の本たち、ミラノ 霧の風景、ユルスナールの靴。 そうですね、「遠い朝の本たち」にしましょう。

keikoさん、こんばんは。

関東では台風11号が通過してから、秋の気配に包まれています。どんなに暑くても秋は秋、どこかがちがいますね。
空の高さでしょうか。ミンミンゼミが鼻詰まりの鳴き声をたてるせいでしょうか。
8月になってから、働く×5、休み×2を単純に繰り返していたら、27日の夜になってしまいました。
「寝て起きて食べてを繰り返していれば、特に努力しなくても人生は全うできる」
アフォリストでもある?私の母親の言葉ですが、わたしがそれを実演してしまいそうで恐い。


「遠い朝の本たち」は須賀敦子さんの少女から大学生時代を中心に、想い出の中を行きつ戻りつしながら当時読んでいた本について書いたエッセイです。
留学時代のヨーロッパでのシーンもちらちら出てきますが、日本話題がほとんどを占めていました。

須賀さんがどういう人なのか知っておきたい、というかたは「遠い朝の本たち」を最初に読むのがいいかもしれません。
関西版・向田邦子という雰囲気もありますね、世代的には同じくらいでしょう。ええと・・・
向田さんは1929年11月28日生まれ、同い年だわ。すごい、すごい。

向田さんはチャキチャキしていかにも江戸っ子風、須賀さんは関西の裕福な商家の
おっとりとしたお嬢さま、それでも共通した何かがあったので、似ていると思っていました。
ふたりをくっつけて取り上げたのはもしかしたら私が最初?なんてことはないですよねぇ。(大笑い)

須賀さんは不自由なく育っていらっしゃいますが、家庭内は将来の物書きにふさわしくほどほどに問題があったようです。
彼女の両親は仲がよいとはいえず、原因については「遠い朝の本たち」には登場しませんが、父親がふたつの家庭を持っていたから、に尽きるでしょう。

須賀さんの父は趣味人というのかしらね、多才で教養があって、でも、それを自分では
生かすことはできなかった人ですが、娘の敦子さんは、この父親から教養の手ほどきを受けて「須賀敦子」という人格を作り上げたのですから、結果的にはよしということになります。

あら、本の内容について何もお話ししていないじゃないですか。

少女時代、妹とふたりで競って読んだ本や雑誌の話は、読んでいた本の内容よりもふたりの個性が目に見えるように書いてあってとても楽しかったです。
この少女時代の何編かのエッセイは向田邦子さんの書きっぷりにも似ていて、昭和10年代の独特の雰囲気がありました。

「葦の中の声」は、この本の中でも特に短いエッセイです。
飛行家のリンドバーグ夫妻が乗った飛行機が北海道に不時着したことがあって、アン・モロウ・リンドバーグ(海からの贈物を書いた女性)がこの時のことをエッセイにしているんですね。

須賀さんは少女時代(15、6歳頃)にこのエッセイを読んでいました。
「アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。 いやそういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛といっていいのかもしれない」
須賀さんはそう書いています。
もう一度、海からの贈物を読まなくてはなりません。


「星と地球のあいだで」
大学時代、須賀さんはフランス語を勉強していて「ル・プティ・プランス」という本に出会いました。
そうです、星の王子さまのことです。
まだ日本語訳の本がなかった時代、日本語が話せず、カタコトの英語しかできないフランス語教師がテキストとしてこの物語をとりあげたのですね。

須賀さんは "apprivoiser" という動詞をこの時におぼえたそうです。
飼い慣らすという意味ですが、星の王子さまのどこで出てきたか憶えていらっしゃるでしょうか。 あたしは最近、倉橋由美子の訳で読んだばかりですから憶えております。
「いきなりはむりだよ、
だんだんと相手になついたとき、私たちは相手にとってかけがえのないものになるんだよ」

倉橋由美子訳ではここはこうなっていました。
「おれとあんたが仲良しになると、おれたちは互いに相手が必要になる。
あんたはおれにとってこの世でたったひとりの男の子になるし、おれはあんたにとって
この世でたった一匹の狐になる」
たかが星の王子さま、されど星の王子さま、ですね。


須賀さんは、少女から大学生の時代に印象に残った本が飛行家の本であったことは、
どうしてだろうと書いています。
「アン・リンドバーグにせよ、サンテグジュペリにせよ、飛行機をつかって空から地球を見てしまった作家たちが、人間について、それまでになかった総合的な視野をもつようになるのは当然かもしれない」

keikoさんは、少女時代に読んだ本では何の影響を受けていらっしゃいますか。
わたしは、わたしはなんだろうか。


須賀敦子さんの本(3) 須賀敦子のヴェネツィア

2005-08-19 23:10:10 | 須賀敦子さんの本
keikoさん、今日は松茸を買って帰りました、といっても中国産です。

つくば市に住む叔母の具合が気になるので、明日は夫と一緒に行くことになっています。
松茸ご飯を炊いて持っていくつもり。他にももっと用意したいのですが、自在に作り出せる力量がなくて。
主婦力が足りないと思うこの頃です。

「須賀敦子のヴェネツィア」は、大竹昭子さんが書いた写真付きエッセイ集です。
以前にマイ・須賀・ブームになった時に買ってあったのですが、この本を開くタイミングが悪くて印象に残りませんでした。
言い切ってしまうと、この本は「地図のない町」の副読本なのです。
前回は「地図のない町」を読んでいなかったからだめだったのですね。それがよくわかりました。

ベネツィアとベニスが同じ町で人工的に作られた島だということ。
須賀さんの本を読むまで気がつかなかった自分にあきれかえりましたが、遅ればせながらちゃんとわかってよかったと思っています。


ヴェネツィアの拡大地図です。(クリックしてくださいね、イタリア語なのでちょっと辛いですが) 左上に細い線がありますが、これが陸地とヴェネツィアを結ぶ鉄道橋です。

ヴェネツィアは遠い昔にアドリア海の干潟(ラグーナ)を埋め立てて作った人工の島ですが、木の杭を打ち込んで、その上に海水に強い石材を積み重ねてできたものだそうです。
ヴェネツィア共和国は5世紀頃から1400年も続いた国家ですから、西暦400年代には既に埋め立て工事は始まっていたことになります。
すごいですねぇ、歴史の重みを感じてしまいました。(今まで感じなかったほうがおかしいか)

この本、大竹昭子さんのフォト・エッセイは須賀敦子さんが訪ねたところ、須賀さんが関心を持ったところ、写真も文章もそれに絞ってあります。
観光案内らしい雰囲気はどこにもなくて、須賀さんの本を読んでいない人には面白くもなんともない、読んでいる人はどきどきしながら、固唾を呑んでページをめくる。


keikoさん、水の都ベニスといったらこんなイメージなんでしょうね。
このフォトエッセイにはこういう華やかな風景写真は一枚もありませんでした。
ゴンドラにそっくりな写真はありましたけれど、乗っているのは通勤客。15人くらいが立ったまま乗っている。もちろん船頭さんは歌など唄いません。

『スカート姿の女性が背筋をしゃんとのばして乗っていると、女スパイの出勤風景のようだったし、たくさんの人間が一方向を向いて渡っていると、人間というよりカイワレ大根のパックが流れていくようだった。
どの光景にも厳粛さと滑稽さが入り混じった不思議な味わいがあった。』
大竹昭子さんはこんな文章を書く人です。


須賀敦子さんは夫のペッピーノから、いつかはヴェネツィアへ行こうねと言われていたのに、ペッピーノが亡くなってしまったため一緒にヴェネツィアを訪れる機会がありませんでした。
須賀さんはペッピーノを失ったあとに初めてヴェネツィアへ行った。 その後、ヴェネツィアへは何回か足を運んでいるようですから、須賀さんはこの島を気に入ったのでしょうね。

この写真はザッテレ河岸です。 「地図のない町」のなかで、<治る見込みがない人々ための病院>があった地域です。


「ヴェニスの商人」「ベニスに死す」「オセロー」
ひととおり読んだはずなのに、私はヴェネツィアについてほとんど何も知りませんでした。
須賀さんの本を読んで、大竹昭子さんのフォト・エッセイで補足してもらって、ようやくイメージができたという気がします。

イタリアには行ってみたいと思います。
とても行きたい、でも行かないような気がするのです。
須賀さんの本を読んでからのほうが、私の中でイタリアとの距離は遠くなりました。
うまく言えないんですけれど、敷居が高くなってしまった、歯が立たない。
美味しいイタリア料理を食べて、美術館巡りをして、ピサの斜塔も見て、ローマの休日を楽しんで。 そんな風に気軽に思えなくなって少しばかり悲しいです。
ま、そのうちお気軽モードに戻ると思いますが。

そうそう、今は「ユルスナールの靴」を読んでいます。
あの本はエッセイなのか私小説なのか、わからなくなってきました。
それでは、また。