小沢駅は空転もなく出発しようでしたが、道路から見ていると煙が進むスピードがどんどん落ちていくのが解りました。”空転で停止しているのでは?”と言う声に我々のレンタカーは国道からわき道に入り倶知安峠への細い道を入っていきました。峠でに入って先にセットしている人の邪魔にならないところに立ち列車を待つこと10分以上。やっと現れたシロクニは迫力はありますが、東海道線を高速で駆け抜けたシロクニとは思えない牛歩のごとく、やっと前に進むシロクニでした。 92,10,10 倶知安―小沢 9162レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
20年前の10月と言うと88年に奇跡の復活を遂げたC623号機による「C62ニセコ号」も95年秋の運転終了まで中間点を過ぎたあたりでした。
初期の頃(88~90念頃)は運転日も多く、日本にもやっとオリジナルスタイルでの保存鉄道が根付いたかと思わせましたが、それも我々鉄ちゃんの大きな勘違いであったと思い知らされたのがこの頃だったと思います。
現場でも現役蒸機経験者が少なくなり、検修でも運転でも非常に苦労し出した(…と言うより厄介者にされ出した)のもこの頃でした。現役C62を経験した機関士さんは「現車5両は軽い!軽い!」と鼻歌交じりで駆け上がった倶知安峠も、復活後に養成されカマのレギュレーターを握った機関士にとっては過酷な道のりだったようです。シロクニは重心が高いために空転しやすいカマと言われていました。そのために駅を出たらとにかく構内の平坦区間で速度を上げて勾配区間に入らなくはならないのに、現役を知らない機関士さんは発車の際に空転し思ったほど速度を上げられずに勾配区間に入ってしまい、また空転し、速度が落ちの悪循環で難儀して峠を克服する姿が良く見かけられる様になりました。更に雨の悪条件では駅間に途中停止する事もある程でした。我々鉄ちゃんも撮影するのには空転する姿は迫力があり、良い被写体となるのですがやはり同業としては駅間に停車して難儀する乗務員を見ると心痛めたのも事実でした。
そしてまさに我々の真横で空転して列車は停止してしまいました。砂がちゃんと出でいるか助士担当の機関士さんが降りて点検しています。乗務員としてこれほど情けない事はないと思います。更に我々の容赦ないシャッター音はこの機関士さんのプライドを傷つけたのではないか?と今でも思っています。 92,10,10 倶知安―小沢 9162レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
今、当時の復活シロクニを語るときに必ずと言っていいほど、このプロジェクト(復活シロクニを復元して本線運転にまでこぎつけるまで)はバブルの落とし子と言う資金面を指摘する方がいらっしゃいます。確かにバブル崩壊後にこれほどの資金を集める事は到底無理で資金面に恵まれた時期であったと思います。しかし、もうひとつ忘れてならないのは現役シロクニと苦楽をともにした”人”が当時、退職されていたにせよまだ現場にいたと言う要素が大きいと思います。この復活シロクニのプロジェクトには17人の国鉄OBの功績が大きいと言われています。ただ、当時でも高齢の為に復活シロクニの姿を見る事なくこの世を去った人もいると聞いています。またこの世の最後の言葉に「ロクニ」と残された人もいると何かで読んだことがあります。しかし、この人たちが現場にいなかったら間違いなく山線でシロクニを見る事は出来なかったと思います。
よく、酒の席で”北海道のシロクニが走ればねぇ~!”と言う言葉が出ますが、正直言って資金的よりも、技術的にもう無理ではないでしょうか?。例えばC6120号機復活の際にもオリジナルで装備されていた自動給炭装置(ストーカー)が整備不能と言うことで撤去されています。しかし復活シロクニには修理され稼動していました。それが末期にはストーカーが故障しても修理する技術がなく、手焚きで運転した経緯があります。国鉄の現場に限らず50年前では当たり前の技術が今は保守出来ない現実があります。それを思うとあのタイミングで復活シロクニが運転されたのは技術的に最後のチャンスだったと思っています。
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