楽しい青春のひとときであったのかもしれない。
牛太郎は足のおもむくままに、昔、住んでいた界隈へと進んだ。
「あっ」
かつての住まいはなくなっていた。あの、つぎはぎだらけのぼろぼろの家は、跡かたもなく消えており、生い茂ったほうき草だけがゆるやかな風にたなびいている。
「まあな、旦那は今では岐阜の屋敷に奥方も孫もいるってことだろ。それだけやってきたってことだろ」
栗之介が柄にもなく慰めてくるが、牛太郎はすすきを指先に触り、月の光をまぶした穂をいつまでも眺めた。
語り継がれるひよっこ
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三河守は牛太郎以下九之坪勢を浜松城内に留めさせようとしていたが、徳川諸将に責め立てられた肩身の狭さもあって、牛太郎は城下の寺を借り受けることとした。
牛太郎は書斎に入ると、ただちに書状をしたためる。上総介宛てだ。
三河武者が不満を増大させているから、せめてもの軍勢を派遣してくれ。たとえ、このいくさを凌いだとしても、徳川が織田に向ける意識が軽薄となってしまう。という内容である。
「天下に名だたる三河勢も、武田騎馬隊の前ではひよっこだな」
「ひよっこは貴様だろうが。よくも言えたものだな」
なぜ、玄蕃允と勝蔵はこの部屋にいるのだろうか。呼んでもいない。筆をすすめる牛太郎の背後で飽きずに言い争っている。
「しかし、どうするのだ、オヤジ殿。武田の本隊が浜松城まで迫ったさい、我らはたった五十の兵で加勢するつもりなのか」
「ははっ、臆しているのか、玄蕃」
「よく言うわ。お主はいくさ場に出たことがないからな。いくさのなんたるを知らない小僧っ子は気が楽であろう」
「もういい。黙れ」
牛太郎は玄蕃允に書状を突き出し、
「あとで早馬を出しておけ。それと、お前ら、どうしてここにいるんだ。ここは溜まり場じゃねえぞ」
「いざというときのことを決めておかなければならないだろ」
「戦術を立てておかなければなりますまい」
それぞれが言うと、玄蕃允と勝蔵は睨み合い、フン、と、鼻先を背ける。
清州での大喧嘩のあとも、懲りずに悪態を放ち合っているが、どうやら、勝蔵が酒さえ飲まなければ大ごとにはならないことに気付き、牛太郎は勝蔵に禁酒を課した。人気通販サイト
アンティーク 時計
勝蔵は十五の小僧のくせにのんべえらしい。
「だいたい、進軍の途中で酒を飲む馬鹿がいるか」
と、沓掛でたしなめた。
「木下藤吉郎は二日酔いで信長様の前に姿を出して、ぼこぼこにされたんだぞ。せめて、いくさのときぐらいはやめろ」
以来、夜はおとなしくなっている。勝蔵はわりかし素直で、その辺りは幼いころと変わっていない。
とはいえ、それこそオヤジ代わりだと頭が痛い。
息子の左衛門太郎は、彼が八歳のころから小姓、のちに養子として傍に置いているが、太郎がどれだけ出来の良い子供か。
左衛門太郎は養父の牛太郎のあまりの情けなさに耐えかねて出しゃばる傾向があり、一時は牛太郎もその生意気さに腹を立てたりもしたが、この荒くれ者たちと比べてみると可愛いものだったようだ。
「だいたい、オヤジ殿はおやかた様に何を命じられて浜松までやって来たのだ。まさか、加勢をするためじゃないだろう」
「おいおい、玄蕃」
勝蔵は笑った。
「貴様、浜松に入って以来、ずっとその調子だな。貴様はどうやら勝ち戦に乗じることしかできぬつまらぬ将なのだな」
「勝ち戦に跨ってきたのはどっちか。お主のような七光りに言われたくないわ」
「もうやめろ。うるさい。とっとと自分の部屋に帰れ」
牛太郎はうんざりして寝転がり、背中を向けたが、玄蕃允も勝蔵も、今後どうするのか、作戦を立てないのか、と、食い下がってくる。
「今後も作戦もあるか。決めるのは家康殿だ」
そういうことで
牛太郎は足のおもむくままに、昔、住んでいた界隈へと進んだ。
「あっ」
かつての住まいはなくなっていた。あの、つぎはぎだらけのぼろぼろの家は、跡かたもなく消えており、生い茂ったほうき草だけがゆるやかな風にたなびいている。
「まあな、旦那は今では岐阜の屋敷に奥方も孫もいるってことだろ。それだけやってきたってことだろ」
栗之介が柄にもなく慰めてくるが、牛太郎はすすきを指先に触り、月の光をまぶした穂をいつまでも眺めた。
語り継がれるひよっこ
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牛太郎は書斎に入ると、ただちに書状をしたためる。上総介宛てだ。
三河武者が不満を増大させているから、せめてもの軍勢を派遣してくれ。たとえ、このいくさを凌いだとしても、徳川が織田に向ける意識が軽薄となってしまう。という内容である。
「天下に名だたる三河勢も、武田騎馬隊の前ではひよっこだな」
「ひよっこは貴様だろうが。よくも言えたものだな」
なぜ、玄蕃允と勝蔵はこの部屋にいるのだろうか。呼んでもいない。筆をすすめる牛太郎の背後で飽きずに言い争っている。
「しかし、どうするのだ、オヤジ殿。武田の本隊が浜松城まで迫ったさい、我らはたった五十の兵で加勢するつもりなのか」
「ははっ、臆しているのか、玄蕃」
「よく言うわ。お主はいくさ場に出たことがないからな。いくさのなんたるを知らない小僧っ子は気が楽であろう」
「もういい。黙れ」
牛太郎は玄蕃允に書状を突き出し、
「あとで早馬を出しておけ。それと、お前ら、どうしてここにいるんだ。ここは溜まり場じゃねえぞ」
「いざというときのことを決めておかなければならないだろ」
「戦術を立てておかなければなりますまい」
それぞれが言うと、玄蕃允と勝蔵は睨み合い、フン、と、鼻先を背ける。
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「だいたい、進軍の途中で酒を飲む馬鹿がいるか」
と、沓掛でたしなめた。
「木下藤吉郎は二日酔いで信長様の前に姿を出して、ぼこぼこにされたんだぞ。せめて、いくさのときぐらいはやめろ」
以来、夜はおとなしくなっている。勝蔵はわりかし素直で、その辺りは幼いころと変わっていない。
とはいえ、それこそオヤジ代わりだと頭が痛い。
息子の左衛門太郎は、彼が八歳のころから小姓、のちに養子として傍に置いているが、太郎がどれだけ出来の良い子供か。
左衛門太郎は養父の牛太郎のあまりの情けなさに耐えかねて出しゃばる傾向があり、一時は牛太郎もその生意気さに腹を立てたりもしたが、この荒くれ者たちと比べてみると可愛いものだったようだ。
「だいたい、オヤジ殿はおやかた様に何を命じられて浜松までやって来たのだ。まさか、加勢をするためじゃないだろう」
「おいおい、玄蕃」
勝蔵は笑った。
「貴様、浜松に入って以来、ずっとその調子だな。貴様はどうやら勝ち戦に乗じることしかできぬつまらぬ将なのだな」
「勝ち戦に跨ってきたのはどっちか。お主のような七光りに言われたくないわ」
「もうやめろ。うるさい。とっとと自分の部屋に帰れ」
牛太郎はうんざりして寝転がり、背中を向けたが、玄蕃允も勝蔵も、今後どうするのか、作戦を立てないのか、と、食い下がってくる。
「今後も作戦もあるか。決めるのは家康殿だ」
そういうことで