千の言霊

一生ぬぐえない想いからたくさんの本をよみました 
そして いろんな言葉たちに出会いました 

生きるって

2005-10-29 17:44:03 | Weblog
「生きる」        谷川俊太郎

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

あなたと手をつなぐということ


生きるってことを哲学しちゃうとめちゃむずかしいけど
生きるって五感を通して感じることなんじゃないかなー
季節を感じ 心を感じ そして 自分を感じる

毎日 時計と追いかけごっこし 生活に追われ
感じる余裕がなくなると 生きることを感じられなくなる
感じることができるゆとりが必要だよね

でも・・・ さくらは・・・
季節が変わることに怒り 人の心を疑い 自分がなぜ生きてるのかを問い
そんな風に生きてきた
生きたくても生きられなかったあの子への思いだけと
こんなことになった怒りだけ
普通の人からみたら変だけど 変になって普通だと思うようにしてきた

この詩を読んで 我にかえったというか 思い出した
自分のためにちゃんと生きること 
自分がこの世に生まれて与えられた命をちゃんと感じ
生きていくことがあの子へのありがとうにつながるんじゃないかと

隣人を愛せよ

2005-10-22 16:29:36 | Weblog
善いサマリア人のたとえ  ルカ 10章25~37節

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 イエスが、「律法には何と書いてあるか。
 あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、
 思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、
 また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

 イエスは言われた。
 「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、
 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

 イエスはお答えになった。
 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、
 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、
 その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、
 そばに来ると、その人を見て憐(あわ)れに思い、
 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、
 自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、
 宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。
 費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

 さて、あなたはこの三人の中で、
 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
 そこで、イエスは言われた。
 「行って、あなたも同じようにしなさい。」


さくらが娘を亡くすまで倒れた人がいたらさわらずにとにかく
救急車を呼びなさい さわっちゃだめ
そういう暗黙の了解のような意識がありました
さくらはAEDというすぐれた命をつなぐ器械があることをしりました
これは意識のない倒れた人に有効な 命をつなぐ器械です
ところが日本では奥ゆかしいというか かかわりあいになって誰が責任をとるのかという 
倒れた人をたすけようというよりその後の責任についてを考えるような風潮がありました 
「隣人を愛せよ」とまではいかなくても 声をかける勇気をもってほしい
そう切に願います

安心するためにこのような法律があります

緊急ケアに対する法律
●一般市民が緊急時に患者に対して、緊急ケアを行った場合についての法的な責任は下記のような見解です。

   <アメリカの例>  グッド・サマリタン・ロー
「善きサマリア人法」緊急時の場合、市民が進んで応急手当を行い、善意で救命手当等の救助行為にでた者について、
万一の事態になっても法的な責任は免責する

   <日本>   刑法第37法(緊急避難時)
救命手当は、「社会的相当行為」として違法性をを問われず、故意もしくは、重過失でなければ法的な責任はない。

            民法第698条(緊急事務管理)
悪意または重過失がない限り、善意で実施した救命手当の結果に、救命手当の実施者が被災者などの責任を問われることはない。



1リットルの涙

2005-10-05 13:41:37 | Weblog
わたしは何のためにいきているのだろうか?
私の中のキラッと光るものを、お母さんならきっと見つけてくれると思います
教えてください 導いてください
「1リットルの涙」難病と闘い続ける少女亜矢の日記 木藤亜矢


15歳で「脊髄小脳変性症」発病 懸命に生きた証の日記だ
まだまだ医学ではわからないことがたくさんある
病気になりたくてなる人はいない 同じ病気になっても治る人もいるし
治らない人もいる 
世の中は・・・不平等だ
体の自由が次第に奪われていくこの病気は青春時代をすごしていく彼女には
あまりにも辛いものだと思う 
それでもめげることなく精一杯がんばった彼女の生き方を知るべきだと思う
「私は何のために生きてるの」と問い続けながらも
「先生 私 結婚できますか?」という思いを胸に抱くのです
あきらめながらも生きていたい 
涙をいっぱい流しながらそれでも前向きにいきようとする亜矢ちゃん
自分ひとりが不幸の中の不幸だと思い続けてきたけれど
ふと 見回してみるとそれでも精一杯いきてる人がたくさんいる
今の命を精一杯生きてやろう 
亜矢ちゃん ごめんね そして ありがとう