つれづれ日記 

ひごろのあれこれ。

板東英二

2010年09月06日 21時54分28秒 | 日記
板東英二の”赤い手”を読んでいる。
板東は 中国で生まれた そうだ。
しかし、5歳までの 日本の中国への侵略とはうって変わって
終戦直前に ソ連 に毎日のように 強奪の毎日になり、
(板東は よく覚えていないそうだが)
上の次男が帰国後、東京で交通事故で亡くなったときに 英二も 中国人に売られていく 
ほんとうに間際に (中国の人に 帰ってもらった、とかで)
まで いったそうだ、ということを知ったそうだ。
毎日のようにくるロシア人、いままで両指でもあまった宝石をすべてもっていかれ、
中国の人は ほんとざまあみろ、的な感じだったろう。
若い娘が今日は私が相いく、と名乗っていったが、包丁で ロシア人をさし、
そのまま自分も死んだ、そうだ。

とにかく、母のもんぺを絶対はなさないようにし、線路を何日も何日もあるいたそうだ。
ある日、急に汽車がうごきだし、外にいた英二は、もう少しのところで
置いていかれてしまうところだったそうだ。毎日、毎日 死ぬか生きるかの世界だ。

帰ってくる船の中で死ぬ人、子供が大勢いて、しかも、港に着いてからも
赤痢のようなもので 死んで 船から投げるしかなかった人がたくさんいたそうだ。
そして、その親も 死でしまいたくなる人が大勢いたとか。

引き上げてきて、貧乏は続いた。しかし、そのなかでも、特待生、で入学した。
徳島商業だ。
その入学試験、まわってくる試験官がみんな、間違っている問題を手で指摘してきて
いる、そんなばかな、と思うが ほんとうだ。
そのころから、特待生って、あったんですね。
お金をもらったとか、いろいろ 最近あったように、いわれるけど。

とにかく、白米を 高校になっても ほとんど 一度もたべずに まして、卵焼きなんかみたこともない。
どんだけ、貧乏なのだ。

うちなんかも 公団住宅で 貧乏だったけど、そこまでは貧乏でなかった。
親はたしかに 必死で働いていた。病気なんてしている暇がないほど 働いた。
妻は、とにかく、病弱。そういう人が一人でもいくと、家は弱っていく。
とにかく、ばかでもいい、。病気だけはするな。
しかし、ばかもどこまでいっても 平社員だ。ばかな親からは、ばかな子供しかできないのかなあ。
天才バカボン っていうのも あり?
運もあるよね。運も実力のうち、みたいなものだってある。
コメント
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