goo blog サービス終了のお知らせ 

Musica Poetica

音楽や本について語ります。

ブラームスの悲劇

2012-02-02 | ディスク

晩年のブラームスは創作意欲が衰えていたのですが,名クラリネット奏者のミュールフェルトと出会うことで意欲を取り戻し,クラリネット五重奏曲や同三重奏曲やソナタを作曲します。ちなみに晩年のモーツァルトも名クラリネット奏者シュタトラーと出会い,クラリネット五重奏曲とクラリネット協奏曲(どちらも名曲!)を作曲するのです。

 

僕は19世紀末当時の演奏会がどのように行われていたのか浅学なため知らないのですが,弦楽四重奏団とクラリネット奏者で演奏会を開くとしたら,ブラームスとモーツァルトをカップリングで演奏するような気がするのですが,どうなのでしょう? それとも室内楽は演奏会という形式ではあまり演奏されなかったのでしょうか?

 

さて,それはさておきこの世にディスクが現れて以来,ブラームスとモーツァルトのクラリネット五重奏曲はかなりの頻度でカップリングされて1枚のディスクになっているのです。今回紹介しているアルフレート・プリンツ独奏ウィーン室内合奏団によるディスクも同様です。

 

その結果,リスナーは否応なくモーツァルトとブラームスを聴き比べることになるのですが,う~ん,大変申し上げ難いのですけど,やっぱりモーツァルトの方がいいなぁって感じるわけですよ。

 

いや,ブラームスのクラリネット五重奏曲も名曲であるとは思います。第1楽章の冒頭から聴き手の心を掴むような美旋律,曲全体に漂うブラームス特有の甘い憂愁。名曲ですよ,この曲は。でも,僕はモーツァルトの方を高く評価してしまうのです。

 

あまり権威に頼るのもどうかと思いますが,吉田秀和はブラームスのクラリネット五重奏曲について,次のように語っています。

 

「ブラームスの曲の,あの晩秋の憂愁と諦念の趣きは実に感動的で,作者一代の傑作の一つであるばかりでなく,十九世紀後半の室内楽の白眉に数えられるのにふさわしい。けれども,そのあとで,モーツァルトの五重奏曲を想うと,『神のようなモーツァルト』という言葉が,つい,口許まで出かかってしまう。」(吉田秀和『私の好きな曲』)

 

ブラームスの悲劇。

 

でも,ブラームスはそんな風に評価されることは分かっていて,この曲を書いたんでしょうね。そんな彼のことが好きですよ,僕は。


後期のベートーヴェン ~ モダニズムのリミットとしての

2012-02-02 | ディスク

ベートーヴェンって,どういう印象を持たれているのでしょう?

 

僕は

「暑苦しい」

とか

「エモーショナル!w」

とか思っていましたよ。

 

そんな僕が初めて購入したベートヴェンのディスクがアナトリー・ヴェデルニコフ演奏の《ピアノソナタ第30・31・32番》の3曲でした。購入した日の就寝時に聴き始めたんです。初めは第30番の第1楽章を聴いたら寝るかって思って。でも,眠れなくなりましたよ。第32番の第2楽章が終わり,ディスクが再生を終えたとき,音楽が鳴り止んだことに気がつかないくらいに,ヴェデルニコフが現前させたベートヴェンの世界に引き込まれていました。

 

静謐な音楽なんです。ですが,超越的な音楽などと言われると,それはちょっと違うんじゃないかなって。

 

古典派が確立した楽曲形式を拡張したベートーヴェンですが,拡張の末に形式を破壊するのではなく,後期になると,対位法を大々的に取り入れることで一定の「形式」を確保します。音楽に限らず「形式」から逸脱したり「形式」を破壊したりする行為は,一見ラディカルに見えますが近代における典型的な身振りであり,その典型性において「保守的」と言えるでしょう。一方,ベートーヴェンが取った「形式」を他の「形式」にすり替えていく態度の方が,「形式」の形式性を認識した行為であるが故に,実はラディカルだと言えるのではないでしょうか?

 

ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタを聴いていると,彼がロマン派の作曲たちのように劇的な効果を求め形式を超越していく手法を取らず,あくまで形式の傍に留まっていることが分かる……ような気がします。

 

モダニズムが「形式とその超越」を繰り返す運動であるとしたら,ベートーヴェンはその円環の外に立つのではなく,その限界点に立つ作曲家なのでないかな,と愚考するわけです。


このヴェデルニコフのディスクは2012年2月2日現在で購入可能なようですね。ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタはいろいろと名盤があり,選択に悩むのですが,このディスクも名盤に入れてもいい演奏だと思いますよ。宜しければ一度聴いてみてください。