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自然農より

自然農に導かれ感じた事を中心に日々を綴って行きます。

「2017謹賀新年」

2017-01-17 09:16:29 | 随想
            

作物のない畝のまだ足らないと思うところに、花咲か爺さんよろしく、草の上から米ぬかを薄っすら
振り撒いた。草や虫、畑の生きものたちへの食料の補給だ。
欠けるものなくその調和そのままに、畑の生命活動の濃度を少し上げたいのだ。
元旦早々天気も良く、息するも清々しかった。


     
    写真2016.11.17 ピッコロ人参、耐病総太り大根、青長大根、加賀青かぶ、
    横浜四寸人参、四月しろ菜など。


仮に自然界の人の手付かずの営みを「天然自然」、人の営みを「人間自然」と分ければ、畑での自然の
営みは「天然」と「栽培」だ。

何もしなくとも雑草は絶えることなく茂る。雑草の無尽蔵なその力強さは天然そのものだからだ。
本来、天然自然は、余計な事をしなくとも生命(いのち)を育む。
その天然のものを取って食べれば採取生活。天然のものを取って天然に食べれば何もしなくて良い。

人類は食に質と量ともに選り好みし、天然に手をだす栽培生活を選んだ。
意中の作物が野放しに畑で野良生えを繰返し、絶えることなく旺盛に茂り続けるという事はまずない。
その畑で育つことが天然自然ではないからだ。天然から離れれば離れるほど余計な事をしなければ
ならない。

畑に立ち、野原の草や虫が生きている中に作物が育っている姿を見ると幸せな気持ちになるし、
栽培技術や農作業を工夫することも楽しい。そこに理屈などない。
栽培生活は天然からみれば不自然だろうが、人間からみれば自然な姿なのだろう。
余計な事をしているとしても、「栽培生活また良し。」 だ。


自然農は、天然自然に出来るだけ手を出さない栽培だ。作物の性質に合わせるため一度畝を作りそれを
使い続ける。野原になった畝の草間に種を蒔き、あるいは苗を植付け、後は負けないよう作物の周りの
草を適期に最小限刈り敷く。健康に育つに不足している間は、刈り草、米ぬか、菜種油粕などを最小限、
草の上、土の上から補う。

補いもいらなくなれば、草間に種蒔きあるいは植付けし、おりおりに足元の草を最小限その場に刈り敷く
だけだ。
耕さない、草も生やす、虫も問題にしない、肥料や農薬も使わない、機械も使わなくてよい、最も天然に
近い栽培方法だ。これ以上手出しをやめたら採取生活だ。


                        
      写真2016.11.17 晩生小松菜。自然農を始めた頃、野菜がろくに育たなか
      った。つまみなに満たない程の葉物野菜も小指にも満たない人参も大切に
      大切にした。普通なら即座に捨てられるものだろう。その野菜がこの上なく
      素晴しいものだと思いを込めていたその当時の自分を思うと愛おしい気持ちで
      一杯になる。ちゃんと育たなかったのは自然という言葉に騙されて栽培という
      認識が欠落してしまっていたからだろう。 天然にして栽培、栽培にして天然と
      いうところで伸び伸びと蒔き条を削り、草を刈り、補いをすることが出来なかった。
      気持ちで栽培をするわけでなし、何を格好つけているんだという人もいるだろう。
      しかし、ここの所が僕にとって自然農がうまく出来るか出来ないかの関門だった。
      
      
そもそも栽培と天然は両立しない。どうやっても栽培することは天然を傷つけることだ。
自然農自然農といってみたところで、天然を傷つけることに変わりない。
在来農法も有機農法も自然農も同じで、いかに天然を傷つけないように持続可能な栽培をするかが肝腎だ。
という人がいるだろう。

そういう人には、自然農は最も天然を傷つけることを最小限にして、人類が永続的に栽培生活するための
答えだ。 といっておこう。

自然農は栽培生活ギリギリの栽培だ。天然そのものではない。少し天然を傷つけなければならない。
なるほど客観的にはそうであろうし、実際、栽培だというチャンとした認識がないと作物を上手く育てら
れない。

それはそうとして、しかし、自然農の畑に立っている僕の日々の実感はそうではない。

農作業中、深く息を吸って、ふと草間に育つ作物を見る。「あぁ、いいなぁ。」と思う。
そこに『妙』が有る。栽培しても、ちっとも天然を傷つけない。天然が栽培で、栽培が天然だからだ。
その『妙』を行くのが自然農だろう。

天然に気兼ねしながらやる栽培など自然農ではない。天然と栽培、人間と天然、対立なく相健やかな
世界は確かにある。その世界で伸びやかに、活き活きと農作業するのだ。

草間に作物が育っている。畝はあるようだが、草に覆われて耕した跡がない。
「やる気があるのかないのか分からん畑だなぁ。」 というのが他人(ひと)の目だろう。

   「天然に似て畝あり 栽培に似て耕なし」
だ。

今日も草間に鍬で種の蒔き条(すじ)を削る。天然を傷つけまいという萎縮など微塵もない。
   草健康、虫健康、野菜も健康。
   その遥か天空の色蒼蒼。
   あぁ、いいなぁ。


正月も大分過ぎての挨拶になりますが、今年もよろしくお願い致します。
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