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自然農より

自然農に導かれ感じた事を中心に日々を綴って行きます。

「花をばかり待つ人に」

2016-08-09 02:43:02 | 随想
自然農の栽培方法を教えて欲しいといわれても、耕さない野原の草の中に種を蒔き、後は草に負けないように
作物の足元の草を最小限刈り敷いているだけなのだから技術としては、草の中にどうやって種を蒔くかと
いうことぐらいしかないし、それも大したことをしているわけではない。

近代農法しか知らない者が、肥料、除草剤、殺虫剤、灌漑設備も機械も奪われ、ここで栽培しろと
鎌、鍬、スコップだけを与えられる。

近代を捨て、耕しきれぬ広い草原(くさはら)に一人しっかり立った時、自然農の栽培技術が伝授された
ともいえる。

「決まったものでは応じられない。」「それぞれの場所にそれぞれの自然農がある。」 とは、
川口由一さんの言葉だが、そうであるならば、もともと教えられる栽培方法などないともいえる。
その場その場で 「僕は、こうしました。」 というしかない。


今は曲りなりにも一般の直売所に出しても買ってもらえる野菜が出来るようになったが、最初のころは
チンゲンサイすらまともに育たなかった。なにが違うのかといわれても、自然農をやり始めた当時も
12年たった今も、やっていることは同じだ。

草原(くさはら)に種を蒔く、作物の足元の草を刈る。必要なら米ぬか油粕を土の上、草の上から振って補う、
それだけだ。

やっていることは同じなのだから、栽培が上手くいくかどうかの鍵は、整体でいう「機度間」という
ことだったんだろう。

機は適期。度は適量だろう。間はなかなか面白いが、まだ自分の中でハッキリしてないのでしばらくおく。
どんなに素晴しい方法、技術も「機度間」がピタリとこなければ、糞にもならぬというのだ。
なるほど、そのとおりだ。


自然農が上手に出来るかどうかは、

 「適期適量を察知する勘」と「適期に適量をやってのける身心」

の開発にかかっていると思う。

肥料、農薬、機械、農法の開発ではない、適期適量を数値固定化する事でもない。

定まらぬ天然自然の畑の中に、適期適量を「冷暖自知」し、それを 「やってのける」自身の開発に
かかっているのだ。

自然農の栽培は単純明快、簡単だ。しかし、自らが、自然界の中で「適を得る。」のに時間がかかる。
そういう意味では、直ぐに上手く行くというものではないのかもしれない。




利休は、「侘茶」の心を表現するのに『壬二集』から

   「 花をのみ待つらむ人に、山里の雪間の草のはるを見せばや 」

の一首を引用したそうだ。これだ。これが味わえなければ自然農は続かない。


直売所でもてはやされるのは、まぁそい(よく太り、肥やされた)野菜、季節はずれの珍品野菜、
造花の様な野菜。

近所で褒められるのは、よく耕し、作物と土と資材以外何もない無機質な幾何学畝を作りだした
勤勉さだ。

  よろしい。 そこにも人間の美の一面があるのだろう。


  しかし、そこに生命進化30億年の美はあるか。


      
        写真2016.07.10   つるなしモロッコインゲンと黒皮栗かぼちゃ  


      
        写真2016.07.21   四葉キュウリとささげ   


      
        写真2016.07.21   黄モチトウモロコシ   


      
        写真2016.06.26   草間に育つミニロメインレタス。



  化学肥料、除草剤、殺虫剤、耕した畝、ショボショボの草、ヨボヨボの虫。
  生命の躍動のない薬漬けの畑に健康な野菜が育つわけがない。


     草健康、虫も健康、その野原に育つ野菜も健康。
  
     見せばや、草間の野菜の健康美。


僕ごときに教えられることなど何もない。ただ、この感動は伝えたいと思うのだ。
ここから自然農が生まれるのだから。

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