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「言葉の修理承ります。」 Tittle : Terayama Shuji / Word : FukadaryoU

言葉はいつもあなたのなかに在り/世界をうつくしいと想えたなら/すべてあなたのなかにある/あなたのうつくしさです

まっすぐなみち

2023-02-03 16:43:09 | 日記
もともとこれを書き残しておこうと思ってはじめようと思ったんだった、といっても大して深くも濃くもならないような気がしている。去年のその頃に比べてやっぱりさみしくも何にしてもどうしたって薄らいでいるし、普通に考えたら薄らいでいくのが普通でそれも無常であるわけで、そのことによって人は生きていけるんだろうな。でも時々思い出すよ、去年なくなった祖母も、あの日の友人も、関わって亡くなった人を時々思い出すよ。ふわっと心の中で話しかけてみたりするよ。信仰を別にしたってもうほんと仏みたいだ。

異常に死に対しての恐怖や不安感、後悔をしたくない焦燥を若い頃はずっと持っていた、もっとか、中年の手前ぐらいかな。まず自分には文章があって、悔いが残らないことなどないことを知った、むしろ最後に書かせろって長谷川りこうのようになりたかった。そこまでいかなくてもやり切った瞬間に死なない限りは何かしら残る、というより少しくらい悔いがあったほうが素敵でしょう、人生として。その後に火葬技師の縁があり。そこで思ったのは人が死ぬって当たり前に自然である感覚と、平等とか公平であること、長生きするって当たり前ではない、むしろけっこう低確率なこと、なかった未来よりもそれまでの日々を愛でることの大事さ、等々。あと正直なところ自分に対してはいつ死んでも大差ないって思った、もちろん周囲は違うし悲しみも変わってくるのは知っているが。別に死に急ぐわけでもないし、そこまで精一杯に清々しくは大切、たぶんそこ、生きたこと。色々あったけど自然てとこがすごく要だったんだと思う、憑りつかれていたいたようなものは火葬炉の黄色い火で浄化された。その後に僧籍を得るんだけど、細かい部分が補完されていっていて、もしも人生に課題を持って生まれたしたら、死についてのあれこれだったんじゃないかと思うほど。

とはいうものの、祖母と四六時中会っていたらダメージは計り知れなかったはず、そもそもメンタル強くないし、半分育ての親だし。東北震災の年に脳梗塞で倒れて、後半の数年間は施設でコロナでまったく会えなくて、身体悪くなって手術するってその時に会ったきりだった。入院から施設に戻るのだったらもう看取りで、そこの移動に関しても条件付きというか、家族に心的負担があるようなものだった。察したんだろうな、もう移動の日にちも決まっていたけど、迷惑かけまいとしたんだろうな。それが最後。数年会えてなかったからダメージは少なかった、いまはまだって祖母からの救いだったのかな、最後の教えだったのかもしれないな。

どうしたって誰かを失った時には後悔がある、そこまでではなくともどれほどのことができたのか自責の念はある。もう少しできたかもって俺だって思う、けどメンタルは壊れていったかもしれない、それはもう何とも言えない。ただそれぞれが決めたこと、延命であれ何であれそれがもしかしたら苦しかったこと、つらくなってしまったかもしれないこと、でも正しい答えなんかないよ。誰かを想って一所懸命だった、それが絶対にベストだよ。ベストだったよ。大丈夫。喜んでいるよ。

祝杯

2023-02-03 01:59:24 | 日記
指はできるだけ動かさねばなるまい。けっきょくのところどれだけ好きであろうが長く続けていようが、きっと基本的に動かしていなければ忘れる。どうしたってそれはそうだ。どことなく所々おぼえている断片を繋ぎ合わせて、それとなく繕っても何かしっくりこない時があるのはそういうこと。やっていれば思い出すし、最初の頃よりはいくらかましなことは間違いない。でも日々少しずつでも長く続けるってことを伝えてきた先人たちの言葉は本物だった。どれだけそれが神々しいとしても沿えるかどうかってのは別問題でもあるが。

たかだかこれくらいのものにずいぶん時間かかっちまったな、昔なら恐らくもっと短期間でどうにかなった、これがいまの情熱の状態でもあるし、これがいまの生活。煙草を咥えて作業できないことが数時間の遅れをもたらしているが、よきかな、きっとそう、よきかな。なにせようやく形ができてよかった、けっきょくのところものづくりっていうのは楽しい、子どもの頃につくっていたプラモデルも、電子部品の工場も、少しだけ携わった建築も、たぶんいまある何かのプログラムも。いま一時、それもまた、そこにつながるまでの道程が急な坂道だったとしても、何かと何かをうまくつなげていくそれが日々で、一瞬の閃光に眩んでばかりでは何も掴めない。今日の雨を明日の月で照らそう。

とりあえず百ぐらいまでつづけようかと思うとこではあります。思っていたよりも書きたいことなんて山ほどあった、というよりいくらでもネタが拾える感じ、文章の上手さとか内容は別、だからといって毎日書くかとも別、マイペース維持。付ける画像は写真だと絶対嫌になるので、和色を添えることに致しました。内容からイメージしている色もなくはないですが、ほとんど意味ないのでお気になさらず。そもそも写真ありきの文章ではないので毎回写真付けるのなんて無理じゃんね。多くの方々は書きたいテーマとか一貫性あるからできるのかな、写真について書きたいのかな。まぁそれぞれの人生を生きましょう、できることできないこと、やりたいことやりたくないこと、わたしはわたし。

あの人のようになりたいはいまも有効

2023-01-31 15:06:10 | 日記
ふと思い出しだ事柄なのだけど若い頃に面接に行って、合否は何日に連絡しますと言われ、待ってたけど何の音沙汰もなかったので落選したものだと放置した件。友人にそれは合否を連絡して訊いてくるかどうかでやる気をみていると言われたが、そんなトリッキーなことしてくる会社嫌だからそのままスルー、まぁそんなに入社したかったわけでもなかったんだろうと思うけど、噛み合わなさがあることは明白であるのでなんであれ結果よかったのではないかと思われる。あのときにそのまま入社していて長く続いていたらいまの自分はなかったろう、神道系だったのよね、といまは末席坊主が思うのであった。信仰の節操ないなと思われるかもしれないが、そんなに深く考えてなかったと思う当時。子どもの頃に持っていた神仏への憧れは広いものだったし、特にいまもって何が正しくて何が間違っているって考え方もない。無宗教だと言う人にも文化とか地域性とか風習とかあるし、血に流れるかのように自分の中に根付いている民族性なんてのも確かにあるわけだし。

さっき別のことを書いていて思ったけど、それが何であれ何かを伝えようとか届けようとする時ってそれに応じた在り方って必要になってくる。それが絶対ってわけではないし、例えば仏教の話は坊さんじゃなくてもできる、同じ濃度で伝わることもなくはない。けどすんなりというかパーセンテージでいけば仏法を説くのに坊さんであれば可能性は高まるというか、届かずとも否定は少なくなるというか、それを語ることに違和感がないというか。で、その根底にはやっぱり人柄が大切だと思うところです。坊さんで話しを進めますが、その人が高圧的だとか上から目線だとか、常に暗い感じであるとか、なんかそんなんじゃどうにもならん、そもそものところであの人いつも明るいな楽しそうだなとか、いい人だなとか、人間としての魅力があって、どうやってその人間が形成されたのかっていうところから仏教に興味持ったりとかするのもひとつの方向性だと思う。けっきょくそこを突き詰めれば突き抜けて昇華されて肩書きも言葉も自由なとこに行き着くとも思う。これまでの人生でいくと、詩人はもてないとか気持ち悪がられるとか言われがちだけど、10代から周囲も書いているの知っていたし、一般以上に漫画もゲームも好きだったけど、一度もそういう思いしたことなかったよ、ということが人柄とか人間性の答えにならんかね。ならんか。

あきらかにみる

2023-01-27 16:39:37 | 日記
ふんわりしていないと誰も寄ってこない、それはそうだな、ぎすぎすしているところに何か話をしようなんて人はいないわな。色々あるけど無論すべて自分が選んできていること、もちろん不可抗力や抗うことのできないこともあるだろうけど、少なくとも自分は選択の上でここにあるはず。楽しいとか苦しいとかもよくわからないし、主観と客観では大きく変わるものであるけど、たぶん客観的にあれで特に問題ないのであればそこにある不満の多くは高望みというか隣の芝は青いというかないもの強請りというかそれのどれか。そう、あの道をいっておけばこの道をいっておけば、そこに大差なんかないのでは、むしろその中ではいいほうだったんじゃないかとは思う。どの道も同じように苦しかったろう、同じく楽しいであろう。どうあるにしろ不満の連続なのだろうから、自分の何かが変わらなくちゃどう足掻いても同じところにいるはずだ。楽も苦も同じところにある同じものかもしれない、さてどうする。もしも過去に戻れたら、記憶があればまったく別のことをするだろう。同じことをしても面白くないから。記憶がなかったとしたら同じことするんだよ、きっと。何度も何度も。繰り返せるってことは繰り返せないより随分ましだ。思ってみればそこまで悪くないかな、ここまで。

加筆修正暮らし

2023-01-27 13:49:41 | 日記
どこにも宣伝してないけれど、誰か読んでいる人がもしかしたらいるのかもしれない、それが事実かもだけどそんなことをまったく考えずに時々過去の記事の加筆修正をしたりしている。この誰のためでもないところが気に入っているところでもあり、自分の立ち位置というか気持ちのありようを考える上で役に立っているようないないような。なんせ文字を打たずにはいられないというのは確かっぽいけど、それって執着も含めたものであって、本当に生きていけないのかは謎を含む。わかるよ、長く続けてきたことや人生を懸けたことってなかなかね、簡単に捨てろとか変われって酷だよね。そろそろ方々で公開してもいいんじゃないかとは思う、でも例えばツイッターが一番フォロワー数多いけど、長く使ってるから多いだけでもう半分以上の人が恐らくログインしてないんよね、していたところで需要などないと思われるところであるし、こう考えていくと暗くなる一方なのでやめよう、かつて否定していたタグにはしろうかなんて、何のタグつければ正解なのこれ。

上記には関係ないけどSNSって人と人がもっと近くなる気がしたのよね、その昔は確実にそうだったけどあの時代はカオスだったのでルールができて当然でルールができればひとつの社会で当たり前なんだけど。現実の人は余計に遠くなった気がするし、もっと多様に知り合えるかと思った人はそのまま他人だった。けっきょくのところ趣味とか職種とかでのかたまりは避けられないし、それぞれの貴賤的な見方もあんま変わらないし、まぁそんなもんよね。けどその中にある一握りってやっぱりあるし、これをいったらまったく現実そのものだけど、どうしたって誰とでも仲良くなれるわけではないし、いままで出会ってきた人たちだってすべてとうまくやれているわけではない、取捨選択もあったろうよ、自分もあの人も誰でも。時がきてたぶんすべてが変化していくのと同じように移り変わっていくものであるだろうし、理由はどこにでもどっちにもあって。流れの中で新しい気持ちをお互いに構築し続けられなかったらそれはそれで仕方ない。永遠なんてものはないから日々改めて愛でていかなくちゃ続いていかない。誰のせいでもないよ、それぞれの日々と人生がある。執着を少しだけ離してみようと思う、たぶんそれが自分の周囲の誰にとって一番いい。失うものばかりを気にしてしまうけど、得たものだって多いはずだ、何事も何にしても。幸せであれ、笑顔であれ、あらゆるものと少し離れたところで、何も変わらない顔で昨日と同じように、別の顔した一昨日と同じように、新しい明後日の顔でここにいよう。