カウンセラーと仕事に憧れ、それなりに努力して、仕事についた。
結婚して子どもを授かり、いろいろな苦労があって結局、家庭を選んだ。
その子どもたちも、小学生、幼稚園と片付き、
母親としての生活が生活の100%を占めるような生活からは、少し脱しつつあり、
そして近い将来やってくるであろう、母親という職業がまがりなりにも一段落ついてしまう時期のことなどにも、少し考えが及んだりして、
また自分自身と向き合わされる時間が生まれてきた。
子どもを生んだころは、子どもをみることで100%、
実家のない私は預けることも知らず、24時間365日営業でやってきた。
その頃は、子どもが大きくなったら、
私は仕事に戻りたい、と漠然と考えていた。
しかし、子どもを流産したり、実母を亡くしたり、友人を亡くしたりと、
おそらくは誰もが経験するであろう人生の悲しみに出会うにつれ、
私の感受性はやわらかく感じやすく、もろく弱くなっていったように思う。
カウンセラーというのは人の話を聞くのが仕事なのに、
そういう苦しい話が聞けなくなってきた自分に薄々気づいていた。
自分が巻き込まれすぎる。
だから、もうあんな仕事はできないな、とぼんやり思っていたのが、
近頃の自分と向き合ってしまう時間には、はっきりと
「もうあんな仕事はできない」と思えてきて、
そしたら急に、あの仕事がしたいとたくさんの努力と時間を割いてきたものが
壊れていくような気がして、鬱々としてしまった。
そしてそこからは悪循環で、鬱々とすればするほど、仕事に対する自信がなくなり、
もう無理だ
と思えてしまい、情けなく、やるせなくなってしまった。
そんな苦しい時間が、波がありながらも2ヶ月続いたが、
それでもその仕事を捨て切れなかったようだ。
気がつけば専門書を手にとり、援助者としての効果的なあり方を考えている。
自分が救われたかったのもあったけど、
それでもしがみついている自分。
苦しい中で見つけたのは、ひとつの答え。
カウンセラーというのは、自分のなかに他人の苦悩を引き受けてしまうところが多々あるが、
(そしてそれはとてもクライエントさんには有効な癒しとなることも多いのだが)
大人として母として、十数年経験してきたことからも、
自己犠牲的なやり方の割合が多いほど、カウンセラーとしては先細りになってしまうということ。
傾聴技法というのは、カウンセラー自身に苦悩を取り込んでしまう危険性が大変高い。
傾聴には大変な忍耐が必要で、それは修練すればつくと思っていたけれど、
お金もなく(心理畑で働く人は本当に薄給。コンビニで働くほうがマシなこともある)
研修もいけず、スーパーバイズしてくれる師匠もいない、地方のいちカウンセラーには、
自己修練も難しく、そのなかでの傾聴技法というのは悪魔の技法のように恐ろしいものに思えてくるのだ。
そこで私が出した答えがひとつ。
心が関与しない技法はないのか?
ということ。関与の割合が少ない技法である。
傾聴は関与しまくりな技法で、ちゃんと聴けてしまうとこちらの具合が悪くなるような技法であり、私としては基本、導入のスタンスとして持つ以上のものではもはやないと思っている。
導入して信頼を獲得した後であれば、クライエントにも評判の悪い(これが結構悪いんです)「傾聴」はやめにして、こちらの心のあまり関与しない技法でかかわっていくのはどうか。
私は特に、自身の弱さについてよくわかっているし、心がけなくても相手の感情をよく感じることが生まれながらの性であるように思っているので、
それだけにできるだけ心が関与しないタイプの技法に頼りたいと思うのだ。
今、よく読んでいる専門書、
それが「認知行動療法」と、「ゲシュタルト療法」「交流分析」
である。「エンカウンターグループ」も、スクールカウンセラー時代は大変役にたった。
それと、これはまだ不勉強ではあるけれど、身体に働きかける技法にも大変興味を持っている。
と、こんな風に考えていくと、少し不安が軽くなったように思った。
心が関与する技法は、それだけで一方を破壊してしまう危うさを持ったものだ。
だから人並みに大切な家族を持ち社会生活を送る私にとっての、究極の技法は、担当が替わってもそれなりのセラピーができてしまうような技法である。
それがたとえほとんど不可能に近いことであっても、それを目指すことは悪いことだとは思わないし、人を援助したいと考えるこころある援助専門職が息長く支援を続けていくために、ぜひ必要なことだと思うのだ。