悠々自適

日常の雑感をそれとなく

381 夏の暑さ

2024-08-07 10:12:42 | 思うこと
暑い日が続いています。健康増進で毎日5000歩ぐらい歩くようにしていますが、朝のうちに散歩してもすぐ汗だくになります。対策として、冷房の効いたコンビニやスーパーに入って涼むようにしていましたが、それよりいい方法を思いつきました。それは大きなスーパーの中で色んな商品を観ながら ”スーパーの中を歩く” 事です。冷房のよく効いた室内を歩くので快適です。そのお礼として出る時にちょっとした買い物をするようにしています。


先日、一緒に卓球をしていた同世代の女性に、「この暑さ、何とかならないですかね」と言ったら、彼女は「子供の頃の夏に、着物姿の叔母さんが来て「今日は27度もある。本当に暑い!」と言っていた。昔は暑いと言っても今と比べたら大した事なかったのだろうと思います」。そう言って、彼女は体育館の冷風機に当たりました。

温暖化で気温が上がっているのは間違いありません。子供のころ冬は、朝起きたらいつも氷が張っていました。ところが、今は氷が張っているのを見る事がほとんどありません。寒さを実証する氷の様に、暑さを分からせる物が夏にもあればいいのですが、それが無いので、気象庁の気温記録を調べたら東京都の記録がありました。気温変化(昭和30年と令和6年)が分かるデーター(その日の最高温度と最低温度の月平均温度)を抽出してみました。

昭和30年:最高温度月平均 7月 31.8度 8月 30.2度 
     最低温度月平均 1月 -1.2度  2月 1.4度

令和06年:最高温度月平均 7月 33.5度 8月 34.5度        
     最低温度月平均 1月 2.9度 2月 4.1度

両月平均温度とも数度上がっています。令和6年の最低温度月平均値からすると氷の張る零下の日はあまりなさそうです。


日本と(世界)の最高と最低の温度記録は次の様になっています。最高気温:2007年 熊谷市 40.9度(1913年 米国デスバレー 56.7度) 最低気温:1902年 旭川市 ー41度(1983年 南極ロシア基地 ー89.2度)。


寒さは火を焚けばしのげますが、クーラーの無かった時代、暑さをしのぐのは大変だったろうと思います。徒然草 第55段に「家の作りようは、夏をむねとすべし。冬は、如何なる所にも住まる。暑きころ悪ろき住まいは、耐え難き事なり」とあります。成程と思います。

380 上司の教え

2024-07-26 09:25:08 | 思い出
「回想脳」の本を読み、昔の事を思い出し懐かしむと脳は活性化され幸せ度が増す事が分かり、散歩の時、過去を振り返る事が多くなりました。そうすると、思い出は環境変化があった時に多くなる事に気付きました。従来と同じ生活の中では変化が無いので、記憶に残る事はあまりありません。ところが環境が変わるとそれに対応せねばならず、モデルチェンジをせねばなりません。そのため、そこでは多くの喜怒哀楽の体験に遭遇し、思い出の密度も高くなる様です。

先日、散歩していたら入社した頃の事が思い出されました。三菱電機に入社し、姫路製作所(姫電)海外グループに配属となり、初めての上司は中村さんと言う係長でした。中村さんは養成工(中卒で見習工として入社)出身でしたが、よく勉強され深い見識と知識を持たれた方でした。本社や支社でも多くの人に接し指導を受けましたが、超優秀と言われていた方でも私の目からすると中村さんに勝る方はおられませんでした。

入社した頃、米国への姫電の輸出拠点はシカゴにあり、後に私の上司になった釘本さんと言うエンジニア―が駐在員となり、三菱商事のエースと言われた新山さんとペア―で仕事をされていました。釘本さんが帰国時、こんな話をしてくれました。中村さんから公文の手紙をよくもらっているが、その他に状況説明、補足説明の私信を沢山もらい感謝している。中村さんの私信を読んでいる私を見て新山さんが、よく読んでいるその手紙は何なのと聞かれ、中村さんからの私信だと説明したら、その私信を私にも読ませてもらえないかと言うので、お見せするようにした。すると新山さんは中村さんの認識力、判断力、文章力に感心させられた様で、中村さんはどこの大学を出られているんですか?との質問があった。中村さんは養成工出身ですと言ったら、新山さんは本当ですかと言ってビックリされた。

中村さんから指導されて成程と思った事があります。中村さんから「あの件はどうなった?」と言われたので、「もう終わりました」と言って状況説明をしたら、中村さんからこう言われました。「仕事は報告して完了なんだ。指示や依頼をされた事は、君がその要請者に報告するまでは要請者の気掛かりとなっている。君が仕事が終えた時ではなく、それを報告した時点で初めて仕事は完了するんだ」。この事を教えられたので、こまめにしっかり報告する事を心掛ける様になりました。これは家庭でも実践しています。家内はこの事を実感し、評価してくれているのか一度聞いてみようと思っています。

379 回想脳

2024-07-12 08:09:12 | 思うこと
歩く事が健康によいので、毎日一時間ぐらい歩くようにしています。歩いていると、これからの事よりも昔の事がよく思い出されます。これは歳のせいなのかも分かりません。若かった頃の話ですが、会社で雑談をしていたら、太田さんと言うブラジルで新聞記者をされていて三菱電機に業歴入社された上司から、「年寄りは未来の話はあまりせず昔話をよくするが、何故だと思う?」との質問がありました。ジャーナリストをされていただけあり、異質の質問をされるなあと思いながら考えていたら、太田さんはこう言われました。「老人にとっての未来とは何だ? 未来とはあの世へ行く事だ。あの世行きの話と若かりし頃の思い出話とではどちらが楽しいか?」。

そんな体験もあったので、歩きながら昔の事を思い出すと、老化が進んでいるのかなあとの抵抗感がありました。先日、1年先輩の友人に思い出話のメールをして、昔話で申し訳ないですと陳謝したら、先輩から次の様な返信がありました。「同年配の仲間、数人と毎朝一緒に散歩していますが、散歩の後はいつも昔の思い出話で盛り上がっています。思い出話をするのは楽しいなあと思っていたら、「回想脳」という東北大医学部教授が書いた本があったので購入しました。この本には ”未来を思い悩むより、過去を思い出す事で脳は元気になる!” と書かれています。思い出話をするのはいい事なのです。この本をお貸しします」。

貸してもらった「回想脳」青春出版社 には次の様な事が書かれていていました。
1 脳を健康にするヒントは過去にある(最新脳医学で分かった「回想」の驚きの効果)
2 脳を喜ばせる「頭」の使い方(「記憶」×「知的好奇心」=若々しい脳)
3「体」を動かせば脳は元気になる(「記憶」×「運動」=相乗効果)
4「人との繋がり」で脳が蘇生(「記憶」×「コミニケーション」=思い出共感)
5「回想脳」が生きる力を引き出す(思い出を楽しむ脳の健康が幸せを作る)

過去を振り返って昔の事を懐かしむと次の様な効果があるので、若い人に取っても回想脳は大事です。
①脳の健康を維持し、認知症の進行を抑える(認知症の医療として回想法=昔を思い出させる物  を提供して思い出を呼び起こす が取り入れられている)。
②未来に向かって生きる力を付ける(過去を振り返り人生を見つめ直す=未来への計画)。
③ストレスを解消し、気分転換を助ける(メンタルヘルス)。
④幸福感が得られる(主観的幸福感)。

昔を懐かしむ事はしょぼくれた事ではなく、脳を楽しませ活性化する幸せの自家発電であり、その自家発電にはお金と時間がかかりません。これからは積極的に昔の事を思い出し、回想脳の良さを増すようにたいと思っています。

100歳への長寿

2024-06-30 14:09:00 | 雑談
明治5年生まれの私の祖母は私が中学1年生だった昭和33年(1958年)7月に85歳で亡くなりました。昭和33年は長嶋茂雄が巨人に入団し、開幕戦で国鉄の金田正一に四連続三振に打ち取られるデビューがあり、日本シリーズでは西鉄が稲尾投手の活躍で3連敗後の4連勝で巨人を破って優勝し、「神様、仏様、稲尾様!」が流行語となった年でした。日清食品のチキンラーメンが新発売となり、生産中止のニュースが先日あった本田スーパーカブが登場した年でもありました。

その頃80歳以上の人はあまり居なかったので、祖母の長寿は誇りでした。ところが寿命はどんどん延び、100歳ぐらいでないと長寿だとは言えなくなって来ています。生活環境の向上と医療の進歩で寿命は伸びており、100歳以上の長寿者について調べてみたら次の様な事が分かりました。

100歳以上の高齢者数は、厚生労働省の資料によると、1963年に153人しかいなかったのが、1981年には1,000人を超え、1998年には1万人を超え、2012年には5万人を、2015年には6万人、2020年には8万人、2022年には9万人を越え、2022年の 男女別では女性が88.6%と圧倒的に多くなっています。日本の百寿者人口は、団塊の世代(1947年~49年生まれ)が100歳を迎え始める2047年に50万人を突破し、その2年後の2049年には65万人を超えると予想されています。

2015年のデーターしかなかったのですが、人口10万人当たりの百寿者の数は、日本が1位(約48人)となっており、2位イタリア(約41人)、3位アメリカ(約22人)、4位中国(約3人)、5位インド(約2人)となっています。

世界で一番長生きした人はフランスのジャンヌ・カルマンさんで、1997年に亡くなった時点で122歳でした。彼女が公式に120歳を超えた唯一の人類となっています。2位は日本の田中カ子(かね)さん119歳(1903年~2022年)。カルマンさんの寿命は信ぴょう性に疑いがあるので、田中カ子さんが1位なのかも分かりません。現在の日本の最高齢者は、昨年末に巽フサさん(116歳)が亡くなられ、糸岡富子さん(115歳1908年、明治41年生まれ)がなられました。糸岡さんは 2019年に特養ホームに入居され、当初は自力で歩いて動けるほど元気でしたが、現在は職員に車椅子を押してもらいリビングに出て食事をする生活になっているそうです。

人にはどうして寿命があり、不老不死ではないのでしょう。生物に取って一番大事な事は命の継続ですが、同じ個体だと時間が経てば傷が蓄積し、環境変化があればそれについて行けなくなります。そこで、子孫を作り、傷ついた我が身は滅ぶ様にすれば、継続された新しい命の誕生で命の継続性は向上します。同一個体が永久に継続する不老不死の生物は存在せず、すべての生物に寿命が有るのはこのためです。人間の体の細胞分裂の限界は約50回となっていますが、この事は発見者の名を取り「ヘイフリックの限界」と言われています。これを寿命に換算すると120歳ぐらいとなり、人間寿命の実態と合致しています。細胞分裂のスピードによっても寿命は変わってきますが、動物の細胞分裂の限界回数はネズミ10回ぐらい(平均寿命約2年)、ウサギ20回ぐらい(平均寿命約8年)、馬30回ちょっと(平均寿命約25年)となっています。細胞分裂は染色体によって行われますが、染色体保護のために染色体の先に付いているテロメアは細胞分裂の度に短くなり、細胞分裂の限界回数はこの長さで決まるようになっています。

ではどれぐらいの比率で人間は100歳まで生きられるのでしょう。明治時代と1955年のデーターでは両方とも男女共に0に近かったのが、2015年には男性の1.6%、女性の6.7%(男性の約63人に1人、女性の15人に1人)が100歳まで生きられるようになりました。

平均寿命は生まれた人すべての平均となっているので、乳幼児死亡率の高かった昔の平均寿命は今よりはるかに低いものでした。成長してからの寿命が分かるものとして平均余命(何歳の時にあと何年生きられるか)があります。65歳での平均余命の時代変遷は次の様になっています。1891~98年:男性10.2年(寿命=65+10.2=75.2歳)、女性11.4年(76.4歳)。約60年を経た1955年:男性11.8年(76.8歳・1.6年の伸び)、女性14.1年(79.1歳・2.7年の伸び)。60年を経た2015年:男19.4年(84.4歳・7.6年の伸び)、女性24.2年(89.2歳・10.1年の伸び)。1955年での60年間の伸びが少ないのは戦争があったからだろうと思われます。

寿命もさる事ながら、健康寿命が大事なので両者の2023年の状況を調べたら、両者とも日本が世界一となっていました。平均寿命84.3歳(男性81.5歳 女性86.9歳)。平均健康寿命74.1歳(男性72.6歳 女性75.5歳)。平均寿命と平均健康寿命のギャップ約10年をどう縮めるか。これがこれからの課題となっています。

377 桂ざこば

2024-06-18 09:32:22 | 雑談
桂ざこばさんが6月12日76歳で亡くなられました。中学時代に桂米朝の落語に心酔した彼は高校進学をせず昭和38年に15歳で桂米朝の住み込み弟子になりました。その時、兄弟子の桂枝雀に「その辺の高校よりよほど良い学校に入った」と言われたそうです。米朝さんを父と慕い、枝雀さんを兄ちゃんと呼んで芸の道に励まれたざこばさんは大スターになられました。

ざこばさんは感情の起伏が激しく、高座で感極まって泣く事がよくありました。米朝さんの長男の桂米団治の独演会で「ようやりましたな」と言った切り、涙、涙し、「泣きのざこばが また泣いた」と報じられました。米朝さん宅で子守をした米団治さんの成長を見て感涙にむせんだのだろうと思います。


ざこばさんは昭和63年に二代目桂ざこばを襲名しましたが、それまでの高座名は桂朝丸でした。昭和50年に始まったTV三面記事「ウイークエンダー」のレポーターになった朝丸さんは下世話な事件への、持ち味を生かした鋭い切り込みで、感情丸出しの適格コメントをされて人気をはくしました。この番組を観て私は桂ざこばのファンになりました。

読売TVの「そこまで言って委員会」は政治、経済、社会問題を論じる番組ですが、このメンバーであったざこばさんは、竹田恒泰、田嶋陽子、宮家邦彦、舛添要一、門田隆将、須田慎一郎らの錚々たるメンバーに対して一歩も引けを取らぬ見事な論戦をされました。文化人的な観念論や理想論が出ると、ざこばさんは持ち味の頑固さのある倫理道徳と現実論で反論されました。田嶋陽子さんは、ざこばさんとの思い出をこう言われています。「ざこばさんとは “天敵” 同士。頭から私の言うことを反対するからね。『女は飯を作って、子供を産めばいい』ってその一点張りで」。「でも最後になったらちょっと変わってきて、いい人になってきたけど。人情味のある、なんとも言えないいい味のある方でした。大好き」。ざこばさんの早すぎる死が残念でなりません。

桂枝雀は中学3年の時、お父さんが亡くなり昭和30年に三菱電機伊丹製作所の養成工になりました。伊丹高校定時制にはトップ入学し、神戸大文学部に進学しましたが、中退して桂米朝の住み込み弟子となりました。英語落語をやられたりして人気をはくしました。三菱電機とご縁があり、姫路製作所の文化祭で落語出演をされた事があります。

桂米朝は姫路出身で旧制姫路中学から大東文化学院に進学されましたが、戦後復学せず落語家になりました。古典落語を流暢に演じる正統派としての印象が強いですが、艶笑落語も演じており、姫路でその落語を聞かれたという方からその時の次の様な小話を教えてもらった事があります。父と息子が田んぼ道で連れ小便をしていた。父が息子に言った。「何だお前元気がないな。手で持たないと小便出来ないのか。ワシが若い時は手なんかで持つ必要は無かった」。すると息子が言った。「お父さん、手で押さえてないと顔にかかるんだ」。