【ダンボールの部屋】 いつも輝いて煌めいていましょう!

ダンボールの部屋へようこそ!!! ここはWEBの聖地だ ヽ(^0^)ノ

翻訳されたベンヤミンについて

2024年10月10日 08時00分00秒 | 創作
翻訳されたベンヤミンについて

林完枝氏の論文『「翻訳者の使命」について』(註1)の抜刷がいま私の手元にある。秀逸な論考との評を聞き及んで知人を通じて手に入れたのだ。林氏の論文はベンヤミンの「翻訳者の使命」という文章の読解をその出発点として、諸時代諸言語の翻訳の様々な事例を考察することによりベンヤミンの思想の到達点を検証しようと試みた作品というふうに私には受け取れた。林氏自身の翻訳経験をも踏まえて翻訳者の使命というベンヤミンのコンセプトを探究しようとする研究姿勢とその成果を示した林氏の論文から私はおおいに啓発されたのである。ただ翻訳経験をまったく持たない私などが、さて林氏のこの論文についてなにごとか述べる資格をもっているかどうかはたいへん怪しいのである。がしかし翻って考えるに、翻訳者の使命の第一義は翻訳を提供することにあるだろう。そうであるならば、日本語に翻訳されたベンヤミンを読みそれについて考え、そしてさらになにごとか述べることは、ベンヤミンの「翻訳者の使命」という作品について考察することになるはずであるし、ひいては間接的ながらも林氏の研究について論じることに繋がるのではないかと思い至った。
※註1:明治学院大学言語文化研究所『言語文化』(第三十六号、二〇一九年)

私の探究はまず林氏の論文とベンヤミンの「翻訳者の使命」を読むことから始まった。ベンヤミンの当該論文はベンヤミンによるボードレール「パリ風景」の翻訳に付した序文であることを知ったので、つぎに彼のボードレール論を読んだ。(1)「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(野村修編訳『ボードレール、他五篇』岩波文庫)(2)「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(出口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出文庫)。この二編を読んで、けっきょくのところベンヤミンは、ボードレールを読み抜き読み破ることからその思想を確立したのではないかという直観を私は得た。この直観はハンナ・アレントの「ヴァルター・ベンヤミン」(『暗い時代の人々』)を読んでその正しさをほぼ確かめられたと思っている。ベンヤミンは思想家であり批評家であるかもしれないが、けっして翻訳を専門とする人ではなかった。アレントは述べている。
≪詩人について語るのは厄介な仕事である。詩人とは引用されるために存在するのであって、語られるためにではない。(阿部斉訳 H・アレント『暗い時代の人々』河出書房新社256P)≫。 ベンヤミンにとっては、≪最大の誇りが、「大部分引用句から成る作品を書くこと——想像し得る限りの気ちがいじみた寄木細工の手法——」(同、196P)≫であった。
ベンヤミンのふたつのボードレール論「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」は引用の量がものすごく多い。ボードレールの引用が多いだけではない。聞いたこともない数知れぬ無名の学者・文学者・思想家・ジャーナリスト・雑誌記事・新聞記事、その他諸々の引用がボードレールの引用文を取り囲み、その中に侵入し、シャッフルされて、ついには巨大な引用のモザイクとなって仕立て上げられているのである。それらの引用された言葉たちは奇妙に懐かしい親密で魅力的な表情をたたえている。ひとことで言って「声」を発しているのである。言葉が生きた声となって復活する。これはひとつの魔術である。ベンヤミンの詩的散文はそれを読み進める私たちの心を打つ。ベンヤミンの文章の秘密をなお詳説せんとするならば、世界が一斉に声となって叫びを上げる、そういう現場に私たちを一気に連れ去って行く事件性にある、その奇跡性にあるのだと言えよう。ベンヤミンはあたかもメシアとなって作品の陰に隠れている。そして廃墟に見捨てられた物としての言葉を生きた声として復活させる。これはひとつの秘儀の実践である。ベンヤミンはこの秘儀をボードレールに沈潜することから学んだのだ。

肝心のベンヤミンからの引用がまだだった。ベンヤミンのボードレール論の冒頭を引用してみる。この冒頭の文章はベンヤミンの方法と思想を他のどこよりも雄弁に物語っている。
≪ボードレールは、抒情詩を読むことが困難だと感じる読者を念頭においていた。『悪の華』の序詩は、このような読者に向けられている。彼らの意志の力など、ということはおそらく集中力にしても、たかが知れている。彼らには感覚的な楽しみのほうがいいのだ。彼らは、関心とか受容能力を失わせてしまう憂鬱(スプリーン)に慣れ親しんでいるからだ。このような読者、つまりもっとも恩知らずな読者をよりどころとする抒情詩人に出くわすと、いぶかしく感じてしまう。もちろん、すぐに思いつく説明も一つある。ボードレールは理解されたかったのだ。自分に似ている人たちに彼の本を捧げているのだから。読者に宛てて書かれた詩は、次のあいさつの言葉で締めくくられている。
偽善の読者よ、 私の同類、 私の兄弟よー
このことは、次のように言い換えて表現してみると、さらに実り多いものとなる。つまり、ボードレールは、読者にすぐさま受け入れられ成功する見込みが最初からほとんどない本を書いたのだ。彼は、巻頭の詩が描いているようなタイプの読者を念頭においていた。これが先を見越した計算であったということは、後になってわかった。彼が考えていたような読者は、後世によって彼に与えられることになったのだ。≫
(ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」山口裕之編・訳『ベンヤミン・アンソロジー』206P)
ベンヤミンはここでボードレールの詩をたった一行引用しただけなのだが、その一行の引用によってボードレールの本質を語り尽くしていると思う。引用を続けよう。
≪『悪の華』の名声は絶えず広がっていった。もつとも好意的でない読者を念頭におき、また、当初は好意的な読者をそれほど多く見出すことができなかったこの書物は、何十年かたつうちに古典的な書物となった。そしてまた、もっとも出版部数の多い書物ともなったのである。≫(同上、207P)

ベンヤミンの「翻訳者の使命」は、ボードレールの『悪の華』の中の「パリ風景」をベンヤミン自身が翻訳し、その序文として書かれたものであることは上にも述べた。「パリ風景」の項目は『悪の華』の初版にはなく、再版に於いてはじめて登場する。『悪の華』の再版は1861年の刊行であり、全126篇の詩が収められている。その内「パリ風景」の項は18篇含まれている。「パリ風景」の冒頭を飾る詩は「風景」と題されている。この「風景」は「パリ風景」18篇のモティーフを凝縮している。そしてベンヤミンの見るところ「パリ風景」はボードレールの全詩のモティーフを凝縮しているのである。ベンヤミンは「パリ風景」を翻訳した。「パリ風景」を翻訳しその翻訳の序文として「翻訳者の使命」を書いたのだ。断っておくがここに述べた説明は私の推測を含んでいる。言葉を代えて言えば仮説を述べているに過ぎない。
さて、「パリ風景」の冒頭を飾る詩「風景」は、福永武彦によって、みごとな日本語に翻訳されて「後熱」を発している。引用しておこう。
  「風景」
       ボードレール作  福永武彦訳
 僕自身の牧歌を清らかに制作するために、
 占星術師のように空に近く身を横たえ、
 鐘楼のすぐ隣で、夢想に耽りながら、
 風の運んだ崇厳な鐘の讃歌を僕は聴きたい。
 両手に顎をのせ、屋根裏部屋の高みから、
 僕は眺めよう、歌ったりお喋りしたりする工場を、
 都会の帆柱である煙突とか鐘楼とかを、
 そして永遠を夢みさせる大きな空を。
      (略)
 僕はいくたびの春、夏、秋を見るだろう、
 そして冬が、単調な雪に包まれて訪れる時に、
 僕はいたるところの鎧戸をしめカーテンをおろすだろう、
 夜のなかに僕の妖精の宮殿を築くために。
 その時僕は夢みるだろう、青ざめた地平線を、
 庭園を、大理石の白い水盤に啜り泣く噴水を、
 接吻を、朝なタなに囀る小鳥たちを、
 そして「牧歌」が歌うすべての子供らしいものを。
 「革命騒ぎ」も、僕の窓硝子の向うで空しく荒れ狂って、
 僕の頭を一寸たりと机から持ち上げさせることはあるまい、
 なぜなら、僕の意志をもって「春」を喚び起すという、
 心の中からーつの太陽を引き出すという、そしてまた、
 燃え上る思想をもって暖かい雰囲気をつくり出すという、
 この悦楽のなかに、僕はいつまでも涵(ひた)っていたいのだから。
(福永武彦訳「風景」『ボードレール全集』1・人文書院刊・180P)
ちなみに、『パリ風景』の中において、「風景」の次に収められている詩篇は「太陽」である。「心の中から一つの太陽を引き出すという、そしてまた、 燃え上る思想をもって暖かい雰囲気をつくり出すという、この悦楽」という表現は、「太陽」の詩篇の魅惑的な予告となっている。「近代」を完璧に描き出した書物。それがボードレールの『悪の華』であった。ボードレールは1867年に没している。その年は明治維新の前年であった。ベンヤミンの没した年は1940年。それは日本が米英に宣戦し真珠湾攻撃を決行した前の年である。フランスの近代と日本の近代には「時差」がある。この時差を測る作業に於いてベンヤミンの仕事は必須の検討材料であろう。「近代とは何か」という問題を再考する際において、橋川文三とヴァルター・ベンヤミンは世界史的視野の元に読み較べなければならない思想家であると私は考えている。
            ※
早すぎることを恐れることなく、ベンヤミンの正体を述べておこう。大胆に結論を述べてみよう。ボードレールを模倣して、ボードレールに倣(なら)って、ベンヤミンもまた占星術師となったのである。(完)

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
ダンボールの部屋のマップ

小池都知事の学歴詐称問題に関するChatGPTとの対話

2024年05月25日 16時52分51秒 | 臨時ニュース

 

小池都知事の学歴詐称問題に関するChatGPTとの対話


Q1:小池都知事がカイロ大学を卒業したと言っているのはウソなんですか?

ChatGPT
小池都知事がカイロ大学を卒業したという主張は、事実ではありません。小池都知事はカイロ大学に在籍した経験があるとされていますが、卒業したという記録はありません。彼女がカイロ大学での学習経験を強調することは、その地での学びや経験に価値を見出している可能性がありますが、卒業したという事実は確認されていません。

Q2:7月の都知事選に小池氏が立候補して、選挙公報に再びカイロ大学卒と記載した場合元腹心が刑事告発すると明言しています。その場合告発されて有罪になるのは確実なのですか?

ChatGPT
小池都知事が選挙公報に再びカイロ大学卒と記載した場合、それが事実でない場合、告発される可能性があります。ただし、その告発が有罪になるかどうかは、実際の裁判所の判断に依存します。告発が成立するためには、次のような要素が必要です。

虚偽の陳述: 小池氏がカイロ大学を卒業していないのに、卒業したと公報に記載した場合、それは虚偽の陳述とみなされます。

公報の重要性: 選挙公報は公の場での候補者の情報を提供する重要な文書です。虚偽の情報を記載することは、選挙プロセスを歪める可能性があります。

告発者の訴え: 元腹心が刑事告発を行う場合、彼らはその訴えを裏付ける証拠を提供する必要があります。

法廷の判断: 最終的な判断は、裁判所が行うことになります。法廷は証拠や法律に基づいて判断を下します。

このような場合、小池氏が虚偽の情報を公表したと証明されれば、告発された場合に有罪判決が下される可能性があります。ただし、その有罪判決が確実であるかどうかは、具体的な状況や証拠に依存します。

Q2:卒業していないという証拠を入手する可能性はあるのですか?

ChatGPT
小池都知事の教育履歴に関する公式の書類や記録は、一般には公開されていない可能性があります。ただし、大学や教育機関によっては、一定の手続きを経て教育履歴を確認できる場合があります。

具体的には、小池都知事がカイロ大学で学んだことを主張している場合、カイロ大学側に問い合わせることで、彼女の在籍や卒業に関する情報を確認できるかもしれません。しかし、個人の教育履歴についての情報を第三者が簡単に入手することは通常難しいですし、プライバシーの問題もあります。

もし小池都知事が公的な文書や声明で再びカイロ大学を卒業したと主張した場合、それが虚偽であると思われる場合、その主張を裏付けるか否かについての証拠を提供することが重要です。

Q3:証拠を提供する義務は、告発者側、被疑者側、どちらにあるのですか?

ChatGPT
証拠を提供する責任は、一般的に告発者側にあります。告発者が告発を行う場合、その主張を裏付ける証拠や情報を提供する必要があります。告発者は、自分の主張を支持するために証拠を集め、法的手続きや司法のプロセスに沿ってそれを提出する責任があります。

被疑者側には、自らの無実を証明するために証拠を提供する責任がありますが、一般的には告発者側よりも証拠を提供する必要性が低いです。被疑者は、告発者の主張が事実でないことを示すために、証拠を提供することができますが、無実を証明する責任は告発者ではなく、被疑者にあります。

ただし、司法プロセスでは証拠が提示され、双方の主張が考慮されます。告発者と被告人は、それぞれの主張を支持するために必要な証拠を提供することが期待されますが、告発者には告発の根拠を提供する責任がより強く課されます。

Q4:小池氏が嘘をついているという証拠を告発者が入手できる可能性はあるのですか? カイロ大学側がプライバシーなどを理由に回答を拒否したならば、証拠の入手は不可能ということになりませんか?

ChatGPT
証拠を入手するための可能性は、具体的な状況や情報の入手方法に依存します。例えば、小池氏がカイロ大学を卒業したという主張が虚偽であることを示すためには、以下のような手段が考えられますが、すべてが確実に可能というわけではありません。

公式の記録や文書の入手: カイロ大学の公式な記録や文書から、小池氏が実際に卒業していないことを示す証拠を入手することができれば、それは強力な証拠となります。しかし、カイロ大学側がプライバシーの理由などで情報を公開しない場合、入手が難しい可能性があります。

元腹心や関係者からの証言: 小池氏が実際には卒業していないことを知っている元腹心や関係者からの証言や証拠が入手できれば、それも重要な証拠となります。しかし、証言を得ることの難しさや信頼性の問題があります。

カイロ大学側の声明や回答: カイロ大学側が公式に小池氏の卒業についての情報を提供することができれば、それが証拠となります。しかし、大学がプライバシーや個人情報保護の観点から情報提供を拒否した場合、証拠の入手が困難となります。

このような場合、証拠を入手することが難しいとしても、告発者は可能な限りの努力を行うことが期待されます。しかし、証拠の入手が不可能である場合、告発者はその点を考慮して法的手続きを進める必要があります。

Q5:選挙公報にカイロ大学卒業と記載しなければ、以前の主張は時効になっているので、告訴できないと思います。小池氏は、広報に記載するのと記載しないのと二つの選択肢があります。どちらの選択肢の方がよりディメリットが大きいでしょう?

ChatGPT
小池氏にとって、選挙公報にカイロ大学卒業と記載するかどうかについて、どちらの選択肢がよりディメリットが大きいかを考えることは重要です。以下は、それぞれの選択肢のディメリットについての考察です。

選挙公報にカイロ大学卒業と記載する場合:

ディメリット:
もし実際にはカイロ大学を卒業していない場合、虚偽の情報を公式な文書に記載することになります。これは倫理的な問題として批判される可能性があります。
もし以前の主張が事実ではないことが明らかになった場合、信頼性や誠実さに関する公的な評価が低下する可能性があります。
カイロ大学側や関係者からの批判や訴訟のリスクがあるかもしれません。

選挙公報にカイロ大学卒業と記載しない場合:

ディメリット:
以前の主張が事実であった場合、その情報を選挙公報に記載しないことで、選挙戦や候補者の信頼性に影響が出る可能性があります。
カイロ大学での学びや経験に対する価値を公に認めないことで、一部の支持者や有権者から批判されるかもしれません。
どちらの選択肢がより大きなディメリットを持つかは、具体的な状況や選挙戦の状況、有権者の反応などによって異なります。一般的には、虚偽の情報を公式な文書に記載することは信頼性や誠実さに関するリスクが大きいですが、真実を認めないことで信頼性や支持を失う可能性もあります。

Q6:小池氏はどちらを選択すると思われますか?

ChatGPT
小池氏がどちらの選択肢を選ぶかは、彼女自身の判断や政治戦略に依存しますが、以下の点が考慮される可能性があります。

過去の主張の信頼性: もし小池氏が実際にはカイロ大学を卒業していない場合、選挙公報に再び卒業と記載することは虚偽の情報を公式な文書に記載することになります。このため、倫理的な観点や信頼性を重視する可能性があります。

有権者の反応: 小池氏の支持者や有権者が、彼女の教育履歴に対してどのような反応を示すかも重要です。もし小池氏がカイロ大学での学びを強調することで支持を集められると判断される場合、再び卒業と記載する可能性があります。

法的リスク: もし以前の主張が事実でないことが判明した場合、関係者からの訴訟リスクや法的な問題が発生する可能性があります。このリスクを避けるために、選挙公報に卒業と記載しない選択肢を選ぶかもしれません。

これらの要因を考慮すると、小池氏は再び卒業と記載するかどうか


Q6:これらの要因を考慮すると、小池氏は再び卒業と記載するかどうか、の続きは?

ChatGPT
申し訳ありません、文章が途切れてしまいましたね。続けます。

これらの要因を考慮すると、小池氏は再び卒業と記載するかどうかの決定は難しいと思われます。彼女は、自らの政治的な信頼性や倫理的な立場、支持者の期待、そして法的なリスクなど、複数の要因を慎重に検討するでしょう。最終的な判断は、彼女自身の政治戦略や倫理観、そして現在の情勢によって左右されることでしょう。

 


青春の書としての『資本論』

2024年01月03日 08時00分00秒 | 創作
◆青春の書としての『資本論』◆

資本論は私にとって青春の書である。「資本論を読んでいない頭は子供の脳である(中江丑吉)」という意見もあるくらいだが、すくなくとも私にとって資本論は青春の書であったし、いまでもその認識は変わらない。

一年間の自宅浪人をした後に明治大学政治学科に合格した。合格発表を見たすぐその足で神田神保町に行って、向坂逸郎訳岩波書店発行の大型本の『資本論』を買い求めた。それから帰省して4月7日の大学の入学式に出席するため上京するまでの約40日間、故郷の自宅で資本論だけを読み続けた。一日約10時間40日間読み続けたので合計400時間くらいを資本論読書に費やした勘定になる。資本論を読んでいる間に19歳の誕生日を迎えた。3月13日が私の誕生日であった。

資本論は気迫を込めて三度読みを実行した。資本論全三巻の内、第一巻と第二巻はその三度読みによって完全に理解したと思ったのだが、時間切れで第三巻まで読み進めることはできなかった。しかしこの第三巻こそは資本論の核であり中枢である。中江ではないけれども資本論第三巻を理解できていない間は子供の脳であるということはたしかであろう。資本論は私の青春の書であると最初に述べた。しかし資本論第三巻を完璧に読み終えて理解できてはじめて子供の頭脳を卒業し大人の頭脳に成長できるのだと私は思っている。

蛇足だが、時事問題にさして興味が持てない理由は、こういう課題を私は抱えているからである。


※参考:向坂逸郎訳『資本論』第三巻冒頭の文章の引用※

「第一巻では、それ自体として見られた資本主義的生産過程、すなわち、外的事情の副次的影響は、すべてまた度外視されて、直接的生産過程としての資本主義的生産過程が呈示する諸現象を、研究した。しかし、この直接的生産過程は、資本の生涯の全部ではない。それは現実の世界では、流通過程によって補足されるのである。

この流通過程が、第二巻の研究の対象をなした。そこでは、とくに第三篇で、社会的再生産過程の媒介としての流通過程の考察に際して、資本主義的生産過程は、全体としてこれを見れば、生産過程と流通過程との統一であることが示された。

この第三巻のかかわるところは、この統一について、 一般的反省を試みることではありえない。肝要なのは、むしろ、全体として見られた資本の運動過程から生ずる、具体的な諸形態を発見し、説明することである。

その現実の運動においては、諸資本は、直接的生産過程における資本の態容と流通過程における資本の態容が、ただ特殊の因子として現われるにすぎないような、具体的な諸形態において、相互に相対している。

したがって、われわれが、この巻で展開するような資本の諸態容は、社会の表面に現われ、種々の資本の相互に相対する行動、すなわち、競争のうちに現われ、そして生産担当者自身の普通の意識に現われるときの形態に、 一歩一歩近づくのである。」
https://blog.goo.ne.jp/dan5dan5/e/afdeaea00eba275f92916683c3c83865

詩篇「小鳥と雑草」

2024年01月02日 08時00分00秒 | 創作
詩篇「小鳥と雑草」


小鳥という名の鳥はいない

雑草という名の草はない



しかし

少女が空を見上げればそこには小鳥が飛んでいるし

少年たちは常に雑草のようにたくましい



けっきょくのところ

小鳥はいるのかいないのか

雑草はあるのかないのか



トゥビー オア ノットトゥビー?

それが問題だ

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒  コンテンツ総目次&本文へのリンク

【霊告月記】 休筆宣言(2022/5/1~2023/12/31)

2022年05月01日 10時00分00秒 | 管理人からのお知らせ

【霊告月記】  休筆宣言(2022/5/1~2023/12/31)

本日5月1日より来年12月31日まで、私=ダンボールは、ブログの更新を休止させて頂きます。過去にも複数回休筆宣言を行ったことがあるのですが、休筆の理由はその時と同じでして、ブログの質を維持・向上させるために一定期間独学に専念したいというのがその本旨です。
このブログは毎日100人前後のアクセスが続いており、休筆期間にアクセス数が減ると予想されることは残念なのですが、復活の暁にはよりアクセス数が増えるようこれから本格的な精進の努力を続けたいと思っております。
これから来年末までの期間、いろんな分野の本格的独学に励みます。ご理解並びにご期待のほどお願い致します。
            2022年5月1日 ダンボール

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒  コンテンツ総目次&本文へのリンク