【ダンボールの部屋】 いつも輝いて煌めいていましょう!

ダンボールの部屋へようこそ!!! ここはWEBの聖地だ ヽ(^0^)ノ

【霊告月記】第三十回 津田左右吉の霊告

2018年04月01日 10時00分00秒 | 霊告月記26~30

 【霊告月記】第三十回  津田左右吉の霊告

】霊告【   歴史を知りまた書くのは、詩人でなくてはならぬ  津田左右吉



歴史を認識し叙述するためには<詩人的な資質>と<哲学者的な資質>を併せ持つことが必要である。これは記念碑的な書物『文学に現はれたる国民思想の研究』を著した津田左右吉が最終的に見出したところの結論であった。私もまた今これだけは言っておきたい。橋川文三は<詩人的な資質>と<哲学者的な資質>を併せ持つ真の歴史家であった。稀有の人であった。
 
 ★★★ 津田左右吉の霊告 ★★★

 歴史的現象は人の生活であり、人の行動であるから、歴史を知るには何よりも「人」を知らねばならず、そうして「人」を知るには、知ろうとするもの自身がそれを知り得るだけの「人」であることが必要である、ということと、知るということは、生活とその過程と、即ち生きている人の生きている生活、断えず未来に向って歴史を作って来たその過程、を具体的のイメェジとして観ずる意義であることと、この二つのことをいっておきたい。過ぎ去った生活を意識の上に再現すると上にいったのは、このことである。そうすることによって、歴史を叙述することもできるのである。そうしてそれは、「人」に対する鋭い洞察と深い同情とをもち、具体的なイメェジを作るゆたかな想像力を具えているもの、一くちにいうと詩人的な資質をもつもの、にして始めてなし得られる。歴史を研究するのは学問であり、それを科学といってもよいが、歴史を知りまた書くのは、詩人でなくてはならぬ。歴史には知られないところがあるから、詩人とてもその限界を越えることはできないが、その限界の内においても、通常の意義においての学問だけのしごとではないところに、歴史を知ることの特殊の意味がある。

 しかし、学問として歴史を研究するためには、なお重要なしごとのあることを、ここにいっておかねばならぬ。生活の過程は複雑なもの、また波瀾起伏に富むものであり、多くのことがらがこみ入った関係でからみあい、もつれあい、または摩擦しあい衝突しあい、そうしてその一つ一つの力が強くなったり、弱くなったり、時に顕われ時に隠れたり、あるいは前からのものがなくなって、新しいものが生じたりするのみならず、それらのはたらきあう状態も断えず変化してゆくのであるから、それを一つの生活の過程として意識の上に再現させることは、実は甚だむつかしいことである。そのためにはからみあっているものを一すじ一すじに細かくほぐして、一々その性質を究め、その由来や行くえをたどって、どこからどこへどうつながっているかを明かにすると共に、その間のもつれあいかたとその変化とを見、そうしてそれらがどうはたらきあいどう動いて全体としての生活となり、生活の上のどんな事件をどう起し、それがまた新しいどんな事件をどう導き出し、それによってどのように生活を進行させて来たかの過程を、考えてみなくてはならぬ。こういう風にして生活の変化して来た道すじを明かにするのが、歴史を知るために必要なしごとである。これは通俗に因果の関係を考えるといわれていることに当るのであるが、このいいかたは妥当でないと思う。さてこういうしごとをした後において、始めて生活の過程の正しいイメェジを具体的な姿で思い浮かべることができるのである。のみならず、それによって史料がないために知られないことの推測せられる場合があり、歴史の限界が幾らかは広められないにも限らぬ。ただしこれは一般的な方法論などを適用するのみではできず、具体的な現実の生活に接して始めてできることであるが、それには、観察と思惟とが綿密また正確であり、特にさまざまのことがらにおいてそれを統一する精神を見出す哲学者的な資質が要求せられる。
(岩波文庫『津田左右吉歴史論集』「歴史の学に於ける「人」の回復」)

      
※参照※⇒ 好日21 詩人としての橋川文三
 

■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

★ダンボールの部屋へようこそ!!! ⇒
コンテンツ総目次&本文へのリンク