臨床獣医というのは、病んだ動物を間近に診ることである。
全ての五感を駆使し、動物の身体内で起こっていることを推測する。
過去から現在そして未来に至るまでのストーリーを、辻褄が合う順位に
並べて検討する。
状況証拠や物的証拠をなるべく多く入手し、確定診断を導き出す。
慢心や傲りの心が芽生えない限り、経験値がものを言う。
30年ほど前は検査機器がほとんどなかった。
昭和初期の医者とさほど変わらないレベルであったろう。
すべては臨床獣医の五感と知識と勘に頼る以外になかった。
ところがこの十数年の間に、検査機器が目覚ましく充実してきた。
検査機器の充実とともに、臨床獣医達の感覚と感性が鈍ってきた。
実際の動物を診ることよりも、検査のデータにしがみつくようになる。
自分の見立てた診断の裏付け調査や、可能性のある病気を篩いにかける
除外診断のための検査であれば問題ない。
それは検査を使いこなしていると言える。
リードをつけたワンちゃんが、飼い主の傍らについて歩くといった感じだ。
獣医が検査に振り回される様は、ワンちゃんにリードをぐいぐい引かれて、
今にも引きずられてしまいそうな状況に似ている。
研修医時代に起こした痛い経験がある。四半世紀前の時代だ。
若いご婦人が連れて来られたヨークシャーテリアの幼犬だった。
右の眼の上にワイシャツのボタンほどの大きさの脱毛があった。痒みがある。
その当時ウッド灯という検査機器があった。
暗がりで患部にその光を充てると、カビであれば光るのだ。しかしカビだけ
が光るわけではない。診断精度は50%といったところか。
皮膚の様はカビ、所謂真菌症の様ではあるが、その当時それを断定する
ことが出来るほどの経験はなかった。
ウッド灯検査でも光っているのかそうでないのか、よくわからない。
動物の皮膚疾患に塗る薬があった。いろんな薬剤が混合された合剤だ。
痒みも止まる。
結局はそれを処方して様子を見てもらうことにした。
一週間ほどして、そのヨークシャーテリアが再診に来られた。
「先生。うちの赤ちゃんのほっぺとひざのところに、赤い湿疹ができて、昨日
皮膚科に行って調べてもらったら、カビだって言われたんですよ。
犬か猫を家の中で飼ってないかって聞かれたので、犬がいますって答えたら、
その犬から移されたんだって言われました。もしかしてこないだ診てもらった
目の上の湿疹がそうなんですか。」
瞬間にこの世から消えてなくなりたくなるほどのショックを感じた。
あかちゃんが痒みで泣きやまないシーンが頭の中を占拠した。
あの時、自分が真菌症であると診断し、それに見合った薬を処方すれば、
あかちゃんに移ることもなかったかもしれない。いやなかったはずだ。
「すみません。おそらくそうだと思います。はっきりそうだと言える確証が
なくて、様子をみてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。」
声は完全にうわずっている。顔も引きつっている。
裁判をするまでもない。完璧に有罪である。
「そうですか。そうだったんですね。わかりました。皮膚科の先生から早く
犬も治療をしてもらいなさいって言われたのでお願いします。
治療すれば大丈夫って言われたから・・・・・・・。」
若い先生だから大丈夫なのかな~と心配しつつ、やはり大丈夫じゃなかった
んだ~と、期待ははしていなかったけどやはり大きな失望を感じている思い
が大きな波として伝わっていた。
なによりあかちゃんを辛い眼に合わせてしまったことの罪悪感が、また更に
大きな波として僕を襲っている。
完全に溺死である。
この事件から、それまで以上に臨床経験に貪欲になった。言うまでもなく
皮膚疾患に関しては、常に五感が研ぎ澄ませれた。
残念なことに、その当時は自分が見立てたことが、正解なのか不正解なのか
を確認できる検査や教科書や教えてくれる先生が存在しなかった。
動物の反応や結果によって推測するしかない。経験値の積み重ねが、確信を
深めていく唯一の手段であった。
そんな研修を4年間勤めた後、米国に渡った。
そこには、夢がゴロゴロ転がっていた。
日本では解答を得られない問題に挑んでいたわけだが、米国には解答が存在
したのだ。
自分の見立てや推測を検証する術が、そこにはあった。
検査、教科書、解答を知っている先生が存在した。
おもしろくてならなかった。かなり興奮した。
長年取り組んできた問題の答えがあるのだから、こんなに楽しい
ことはない。
その時代はファックスもまだなかった時代である。海外とのやりとりは
手紙か電報しかない。米国の動物医療の状況など、日本の地方都市にいて
わかるはずもなかった。
それまで培った診断感覚を様々な方法でチェックし、微妙な修正を行う
ことができた。おかげで診断精度は格段と上がった。
我々や医学の世界では経験則でものを言ってはならない。エビデンスが全て
である。とよく言われる。
僕はそうは思わない。
経験値の質の問題だと思う。
上質な経験値をエビデンスで綿密に検証すればいいのだ。
失敗は敗北や挫折を意味する。
だから、プライドが高い医者は、自分の犯した失敗を素直に認めない。
常に正当化する用意がある。
そういった医者はいつまで経っても経験値が上がらない。
そういった医者にエビデンスを語られてもどうかと思う。
エビデンスにも落とし穴がある。
過去に正しいとされていたエビデンスも、今となっては大きな間違いである
ことがあるからだ。
しかもブラックボックスが至る所に潜んでいる。
つまり解らないことが多く存在する。
いや解らないことの方が実は多いのである。
もちろん解らないことを真摯に受け止め、生命の神秘に挑み続けている
医者や研究者も多く存在している。
感覚、感性を養い、最先端のエビデンスを広い範囲で学び続けることが
最も正しい在り方ではないだろうか。
分子生物学という学問がある。
個々の細胞の中で展開されている、壮大なドラマを解き明かす学問である。
現代の医学は分子生物学なしでは語れない。
細胞内でのドラマを、様々な情報を駆使して推論し検証する。
ドラマのストーリーを組み立てていく。
これはまさにアートである。
このアートによって解明されたエビデンスは、非常に上質なエビデンスであると
言える。
このようなエビデンスを駆使し、経験値に基づいた感覚、感性を発動させることが
臨床の現場では非常に重要である。
上質な経験値と最先端のエビデンスの他に、臨床家にとって不可欠な要素
がもうひとつある。
感情のコントロールだ。
患者に対して、良い感情も悪い感情も在りすぎると、冷静な解析、推理、判断、決断が
困難になる。
動物や飼い主に感情移入し過ぎると、その動物が重篤な状況に陥ったとき、冷静では
いられなくなる。
生きるか死ぬかの手術ともなると、まともにメスを握ることすらできなくなるであろう。
逆に良くない感情で満たされると、様々なバイアスがかかってしまい
重要なことを見過ごしてしまいがちになる。
だから、いずれにしても感情はある程度抑えなくてはならない。
しかし、臨床家はアートを奏でるだけの仕事ではない。そうであるとすれば
感情は必要ない。
臨床家の最も大事な仕事は癒しを与えること、つまりヒーラーであることである。
ヒーラーになるためには、思いやりや心配りが必須となる。
優さしい感情が必要なのである。
感覚感性を磨き、経験値を積み上げ、最先端のエビデンスを駆使し、感情を
セーブしながらアートを奏でつつ、感情を全開にしヒーラーとしての役目を
果たす。
この矛盾をうまく克服し、動物の病気と飼い主のメンタルを同時にケアー
することが、臨床獣医のミッションなのである。
人間力を強く問われる職業のひとつであることは間違いない。
とはいうものの、臨床獣医も生の人間である。これだけのことを日常の診療
で、さらさらとやってのけられる獣医がどれほど存在するであろうか。
おそらく意識することですらできていない獣医の方が少なくない気がする。
獣医大学でこういった教育が皆無であることを、ひとつの言い訳としておく。
そこで活躍してもらいたいのが、看護士である。動物看護士も、過大な感情
移入は控えなければならないが、獣医よりはブレーキを踏む必要はない。
適度にアクセルを踏んで、ヒーラーとして活躍してもれえれば、獣医と
して助かることこの上ない。
開業してから今日まで、数多くの新卒獣医を雇用してきた。
エビデンスのことは後頭野に幾分メモリーされているが、経験値もなく
アートを奏でることもままならないルーキーには、必ず看護士の仕事を
1年間行ってもらっている。獣医として何もできないなりに、癒しを与える
職業として何かを感じてくれたらという思いからだ。
アートを奏でるヒーラー。これがひとつの目標である。
ただし最終形ではない。
全ての五感を駆使し、動物の身体内で起こっていることを推測する。
過去から現在そして未来に至るまでのストーリーを、辻褄が合う順位に
並べて検討する。
状況証拠や物的証拠をなるべく多く入手し、確定診断を導き出す。
慢心や傲りの心が芽生えない限り、経験値がものを言う。
30年ほど前は検査機器がほとんどなかった。
昭和初期の医者とさほど変わらないレベルであったろう。
すべては臨床獣医の五感と知識と勘に頼る以外になかった。
ところがこの十数年の間に、検査機器が目覚ましく充実してきた。
検査機器の充実とともに、臨床獣医達の感覚と感性が鈍ってきた。
実際の動物を診ることよりも、検査のデータにしがみつくようになる。
自分の見立てた診断の裏付け調査や、可能性のある病気を篩いにかける
除外診断のための検査であれば問題ない。
それは検査を使いこなしていると言える。
リードをつけたワンちゃんが、飼い主の傍らについて歩くといった感じだ。
獣医が検査に振り回される様は、ワンちゃんにリードをぐいぐい引かれて、
今にも引きずられてしまいそうな状況に似ている。
研修医時代に起こした痛い経験がある。四半世紀前の時代だ。
若いご婦人が連れて来られたヨークシャーテリアの幼犬だった。
右の眼の上にワイシャツのボタンほどの大きさの脱毛があった。痒みがある。
その当時ウッド灯という検査機器があった。
暗がりで患部にその光を充てると、カビであれば光るのだ。しかしカビだけ
が光るわけではない。診断精度は50%といったところか。
皮膚の様はカビ、所謂真菌症の様ではあるが、その当時それを断定する
ことが出来るほどの経験はなかった。
ウッド灯検査でも光っているのかそうでないのか、よくわからない。
動物の皮膚疾患に塗る薬があった。いろんな薬剤が混合された合剤だ。
痒みも止まる。
結局はそれを処方して様子を見てもらうことにした。
一週間ほどして、そのヨークシャーテリアが再診に来られた。
「先生。うちの赤ちゃんのほっぺとひざのところに、赤い湿疹ができて、昨日
皮膚科に行って調べてもらったら、カビだって言われたんですよ。
犬か猫を家の中で飼ってないかって聞かれたので、犬がいますって答えたら、
その犬から移されたんだって言われました。もしかしてこないだ診てもらった
目の上の湿疹がそうなんですか。」
瞬間にこの世から消えてなくなりたくなるほどのショックを感じた。
あかちゃんが痒みで泣きやまないシーンが頭の中を占拠した。
あの時、自分が真菌症であると診断し、それに見合った薬を処方すれば、
あかちゃんに移ることもなかったかもしれない。いやなかったはずだ。
「すみません。おそらくそうだと思います。はっきりそうだと言える確証が
なくて、様子をみてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。」
声は完全にうわずっている。顔も引きつっている。
裁判をするまでもない。完璧に有罪である。
「そうですか。そうだったんですね。わかりました。皮膚科の先生から早く
犬も治療をしてもらいなさいって言われたのでお願いします。
治療すれば大丈夫って言われたから・・・・・・・。」
若い先生だから大丈夫なのかな~と心配しつつ、やはり大丈夫じゃなかった
んだ~と、期待ははしていなかったけどやはり大きな失望を感じている思い
が大きな波として伝わっていた。
なによりあかちゃんを辛い眼に合わせてしまったことの罪悪感が、また更に
大きな波として僕を襲っている。
完全に溺死である。
この事件から、それまで以上に臨床経験に貪欲になった。言うまでもなく
皮膚疾患に関しては、常に五感が研ぎ澄ませれた。
残念なことに、その当時は自分が見立てたことが、正解なのか不正解なのか
を確認できる検査や教科書や教えてくれる先生が存在しなかった。
動物の反応や結果によって推測するしかない。経験値の積み重ねが、確信を
深めていく唯一の手段であった。
そんな研修を4年間勤めた後、米国に渡った。
そこには、夢がゴロゴロ転がっていた。
日本では解答を得られない問題に挑んでいたわけだが、米国には解答が存在
したのだ。
自分の見立てや推測を検証する術が、そこにはあった。
検査、教科書、解答を知っている先生が存在した。
おもしろくてならなかった。かなり興奮した。
長年取り組んできた問題の答えがあるのだから、こんなに楽しい
ことはない。
その時代はファックスもまだなかった時代である。海外とのやりとりは
手紙か電報しかない。米国の動物医療の状況など、日本の地方都市にいて
わかるはずもなかった。
それまで培った診断感覚を様々な方法でチェックし、微妙な修正を行う
ことができた。おかげで診断精度は格段と上がった。
我々や医学の世界では経験則でものを言ってはならない。エビデンスが全て
である。とよく言われる。
僕はそうは思わない。
経験値の質の問題だと思う。
上質な経験値をエビデンスで綿密に検証すればいいのだ。
失敗は敗北や挫折を意味する。
だから、プライドが高い医者は、自分の犯した失敗を素直に認めない。
常に正当化する用意がある。
そういった医者はいつまで経っても経験値が上がらない。
そういった医者にエビデンスを語られてもどうかと思う。
エビデンスにも落とし穴がある。
過去に正しいとされていたエビデンスも、今となっては大きな間違いである
ことがあるからだ。
しかもブラックボックスが至る所に潜んでいる。
つまり解らないことが多く存在する。
いや解らないことの方が実は多いのである。
もちろん解らないことを真摯に受け止め、生命の神秘に挑み続けている
医者や研究者も多く存在している。
感覚、感性を養い、最先端のエビデンスを広い範囲で学び続けることが
最も正しい在り方ではないだろうか。
分子生物学という学問がある。
個々の細胞の中で展開されている、壮大なドラマを解き明かす学問である。
現代の医学は分子生物学なしでは語れない。
細胞内でのドラマを、様々な情報を駆使して推論し検証する。
ドラマのストーリーを組み立てていく。
これはまさにアートである。
このアートによって解明されたエビデンスは、非常に上質なエビデンスであると
言える。
このようなエビデンスを駆使し、経験値に基づいた感覚、感性を発動させることが
臨床の現場では非常に重要である。
上質な経験値と最先端のエビデンスの他に、臨床家にとって不可欠な要素
がもうひとつある。
感情のコントロールだ。
患者に対して、良い感情も悪い感情も在りすぎると、冷静な解析、推理、判断、決断が
困難になる。
動物や飼い主に感情移入し過ぎると、その動物が重篤な状況に陥ったとき、冷静では
いられなくなる。
生きるか死ぬかの手術ともなると、まともにメスを握ることすらできなくなるであろう。
逆に良くない感情で満たされると、様々なバイアスがかかってしまい
重要なことを見過ごしてしまいがちになる。
だから、いずれにしても感情はある程度抑えなくてはならない。
しかし、臨床家はアートを奏でるだけの仕事ではない。そうであるとすれば
感情は必要ない。
臨床家の最も大事な仕事は癒しを与えること、つまりヒーラーであることである。
ヒーラーになるためには、思いやりや心配りが必須となる。
優さしい感情が必要なのである。
感覚感性を磨き、経験値を積み上げ、最先端のエビデンスを駆使し、感情を
セーブしながらアートを奏でつつ、感情を全開にしヒーラーとしての役目を
果たす。
この矛盾をうまく克服し、動物の病気と飼い主のメンタルを同時にケアー
することが、臨床獣医のミッションなのである。
人間力を強く問われる職業のひとつであることは間違いない。
とはいうものの、臨床獣医も生の人間である。これだけのことを日常の診療
で、さらさらとやってのけられる獣医がどれほど存在するであろうか。
おそらく意識することですらできていない獣医の方が少なくない気がする。
獣医大学でこういった教育が皆無であることを、ひとつの言い訳としておく。
そこで活躍してもらいたいのが、看護士である。動物看護士も、過大な感情
移入は控えなければならないが、獣医よりはブレーキを踏む必要はない。
適度にアクセルを踏んで、ヒーラーとして活躍してもれえれば、獣医と
して助かることこの上ない。
開業してから今日まで、数多くの新卒獣医を雇用してきた。
エビデンスのことは後頭野に幾分メモリーされているが、経験値もなく
アートを奏でることもままならないルーキーには、必ず看護士の仕事を
1年間行ってもらっている。獣医として何もできないなりに、癒しを与える
職業として何かを感じてくれたらという思いからだ。
アートを奏でるヒーラー。これがひとつの目標である。
ただし最終形ではない。