漢方学習ノート

漢方医学の魅力に取りつかれた小児科医です.学会やネットで得た情報や、最近読んだ本の感想を書き留めました(本棚3)。

(医学雑誌拾い読み)「傷寒論について」(山田光胤先生)

2017年07月31日 07時54分45秒 | 漢方
日本小児東洋医学会雑誌、特別寄稿

日本漢方界の重鎮、山田光胤(こういん)先生の小文から抜粋。
 以前、複数の漢方界の重鎮の腹診ビデオを見たとき、山田先生の方法が一番わかりやすかったという記憶があります。
 この小文を読んで、六病期の少陽病と陽明病の順序の混乱の原因を初めて知りました。

※ 実は山田先生、山田法胤という名の宮司さんでもあります。

□ 「太陽病⇒少陽病⇒陽明病」と「太陽病⇒陽明病⇒少陽病」のどちらが正しいか?
 『傷寒論』は三陰三陽の六病分類を骨子とする。
 この六病の病名と同じ病症名が『黄帝内経』素問の熱論にあり、太陽病、陽明病、少陽病、太陰病、少陰病、厥陰病(記載順)とされるが、実際に熱性急性症(傷寒)の推移を観察すると、原則的に太陽病⇒少陽病⇒陽明病の順に推移するので、わが国の漢方では後者を採用している。

□ 中医学は陰陽五行論に基づく。
 中国では漢民族の医学理論である陰陽五行説で『傷寒論』の骨格である陰陽・虚実・寒熱の組み合わせを論理的に作り上げ、その解釈を『黄帝内経』に求めた。

□ 日本漢方小史
 日本の医学は3〜4世紀頃から朝鮮半島の医術が伝来し、7世紀初頭からは中国医学を招来した。以来、16世紀頃まではもっぱら中国医学を模倣していた。
 日本の医学が独自の方向を目指したのは、田代三喜が明に学んで帰国後、弟子の曲直瀬道三が単に朱子学派の導入ではなく、張仲景の薬方も加え、日本の実情に適合させた。これが後世派であるが、末には金元医学の理論に拘泥し弊害を生じた。
 17世紀に入り、張仲景の医学に帰れとの古学提唱(古学派)がされ、吉益東洞は古方派の方向性と、日本漢方に大きな影響を与えた。現在の日本漢方はこの古方派と後世派を合わせた流れとなっている。

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(医学雑誌拾い読み)「心と体の弁証論治」(梁 哲成)

2017年07月30日 16時56分39秒 | 漢方
日本小児東洋医学会雑誌、第43回学術集会ランチョンセミナーより。
もう一つ、梁 哲成先生の論文を見つけましたので、ポイントを抜粋;

□ 中医学は心身医学的側面を有している
(生理活動を行うもの)気、血、津液
(体の内部を構成するもの)五臓:肝、心、脾、肺、腎
・気・血・津液は五臓などのさまざまな部位にあり、そして巡って、生理活動を行う。
・気は血や津液、臓腑、器官などを動かし、温め、守り、支え、もらさず、代謝し、栄養を与え、こころの働きを行う。
・血と津液は、臓腑や器官に栄養と潤いを与え、さらに気の働きや、それによるこころの働きを行うための場を与える。
・五臓は気・血・津液の生理活動によって、生命活動を行うために必要なこころと体のそれぞれの機能を連携しながら分担して行う。つまり五臓は、こころと体の生理機能を一体として行うので、心と体の活動を切り離して考えることができない。
・五臓における気・血・津液の不足や停滞、病邪の侵襲、病理産物の発生などの病理変化は、こころと体の病症を一連のものとして併せて引き起こす。

□ 「漢方の心身医学」(相見三郎)より
 西洋哲学思想では「こころ(プシケー)」と「体(ソーマ)」とは別のものと考えるが、一方、東洋的医学思想では、体と離れたこころというものはなく、こころとは五臓と五志の働きを言う。そして五臓の病態にはそれぞれの薬方があり、五志の動きは直接五臓に影響するもので、また五臓の違和は五志に影響するものである。

□ 向精神作用を持つ代表的生薬
(解表薬)紫蘇葉、薄荷、菊花、柴胡
(清熱薬)夏枯草、山梔子、黄連
(利水浸湿薬)茯苓、厚朴
(温裏去寒薬)呉茱萸
(理気薬)香附子、鬱金、木香
(活血薬)川芎、丹参、地竜
(補気薬)人参、大棗
(補陰薬)麦門冬、百合
(固渋薬)蓮子
(安神薬)酸棗仁、柏子仁、遠志、竜眼肉、竜骨、牡蛎、浮小麦、石決明
(熄風鎮痙薬)○羊角、天麻、釣藤鈎、白○蚕、竜胆草、蝉退
(化痰鎮咳薬)半夏

□ 向精神作用を持つ一般的漢方方剤
(疏肝解欝薬)小柴胡湯、柴胡桂枝湯、柴朴湯、大柴胡湯、四逆散、加味逍遥散、柴胡疏肝散、香蘇散
(疏肝解欝安神薬)加味帰脾湯
(清肝瀉火剤)黄連解毒湯、三黄瀉心湯、竜胆瀉肝湯
(平肝熄風剤)抑肝散、抑肝散加陳皮半夏
(安神薬)甘麦大棗湯、酸棗仁湯、柴胡加竜骨牡蛎湯、桂枝加竜骨牡蛎湯

□ 五臓の失調と五志の失調
(肝)焦燥・抑うつ
(心)不眠・健忘・動悸
(脾)倦怠・懶言(らいげん:話すのがおっくう)
(肺)怠惰・小声
(腎)健忘・不穏
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「弁証論治」と「方証相対」の違い

2017年07月30日 15時20分57秒 | 漢方
 診断治療方法の特徴を、中医学では「弁証論治」、日本漢方では「方証相対」と表現します。
 この二つの違い、わかったようでわかりにくい・・・ネットで検索してみました。

■ 「中医学とは(女性と子どもの漢方学術院)より抜粋
◇ 中医学のソフト面の特徴
 中医学の大きな特徴に日本の漢方医学と比較して理論をとても重視する点が挙げられます。中国では公的に統一されたテキストをもとに学習されているので、当然といえば当然です。テキストを製作する上で理論的な矛盾や無理があるという指摘はありますが、明確に公式な見解がある点では日本の漢方医学と異なります。
 これは決して日本の漢方医学に全く理論がなく、行き当たりばったりの治療を行っているという意味ではありません。あくまでも相対的な視点に立っての話です。しかしながら、江戸時代に活躍した吉益東洞が陰陽五行論を否定したように、漢方医学は形而上学的な基礎理論よりも実践的な治療技術を追及する傾向にあります。
 その代表例が方証相対(ほうしょうそうたい)と呼ばれる日本漢方独自の診断と治療を統合したシステムです。方証相対においては病者の呈している症状(証)からダイレクトに治療に用いられる漢方薬(方剤)が決定されます。これだけではとても分かりずらいので下記で具体例をもとに解説してみます。

(例)【ここにとある病気の人がいます。この人は急に強い寒気がして身体が震え、肩がこわばり頭痛もします。汗はあまり出てはいません。その他の目立った症状はまだありません。】

 日本の漢方医学の場合、これは葛根湯証にあたるので治療には葛根湯が用いられます。なぜ葛根湯を用いるのかと問われれば「この病人は葛根湯証であるから」というトートロジーのような回答になります。傷寒論によれば上記の【急に強い悪寒がして~】以下は葛根湯を用いれば治るということ知られています。つまり、呈している症状と治療する漢方薬がすぐに結びつくのです。
 漢方医学は上記のような文献上の知識に加えて、先人が積み重ねてきた経験を由来とする口訣(方剤を使用する上での重要なポイント)、体力レベルや病気の深度といった中医学と比較して簡略化された理論などを土台として方証相対を運用しているのです。
 一方で中医学は趣が異なります。中医学的には【急に強い悪寒がして~】以下の諸症状からこの人は六淫の邪のなかの寒邪を受けたと考えます。そして寒の邪は消化器系症状や呼吸器系症状が無いのでまだ深くは侵入しておらず表寒・表実証(表寒実証)であると確定できます。表寒・表実証の治法は辛温解表剤であり、辛温解表剤のひとつが葛根湯です。したがって、この病者には葛根湯が用いられることになります。
 上記のように、症状の診断・証の確定・治法の決定・方剤の投与を一体的に行うことを弁証論治(べんしょうろんち)と呼びます。具体例は単純なケースでしたが、もし病者が複雑な慢性病であると気・血・津液の過不足や五臓のどこに問題があるのかなど複数の理論を経て弁証論治が行われます。
 見ての通り、日本漢方の場合はとてもシンプルであり実践的な治療スタイルともいえます。しかし、その途中で健康とは何か、病気の状態はどのような状態であるのか、病気を起こす原因はどのようなものであるのかといった定義付けや基礎理論がやや疎かになった面は否定できないでしょう。
 この漢方医学における方証相対と中医学における弁証論治という治療シークエンスの違いは両医学のソフト面の特徴を端的に表しているといえるでしょう。


 うん、この説明わかりやすいですね。

■ 「症例から学ぶ中医弁証論治」(焦 樹徳:著、東洋学術出版社)の序文より
 日本の漢方学習者から,「弁証論治と方証相対とはどう違うのか」との質問を受けたことがある。筆者は,両者は基本的には同一のものであると考える。いわゆる方証相対という考え方は,現代中医学にはない。また『傷寒雑病論』のなかにも出てこない。しかし後世の人びとは,学習と暗記に便利なように,某某湯(方)は某某証を主治するとか,某某証は某某湯(方)が主治する,といった方法が採られたため,「方証相対」という方法が次第に形成されていったと考えられる。それで,これも実際は「弁証論治」の範疇に属すものと考えられる。なぜなら,「証」というからには弁別・認識という思考過程を必要とするからである。
 いわゆる「相対」とは,機械的固定的な関係をいうのではない。1つの薬方は1つの病証を治療するが,時・地・人などの要因によって薬方の使用は制限を受け,具体的な病情にもとづいて弁証論治を行ってはじめて,方と証とが相い応じて疾病が治療できると,仲景先師はすでに述べているのである。もし方と証とを機械的に絶対固定的なものとしてしまうと,人の命を危うくし,また壊病をつくる原因ともなる。
 私の個人的な見解を述べさせてもらうなら,中医学の学習研鑽には,いわゆる「方証相対」の方法を用いてもよい。この方法を用いると暗記やまとめに便利であるばかりか,学習や研究の助けともなる。しかし実地臨床においては,必ず「弁証論治」の法則を指導原則として,臨機応変にこれを活用していくことが肝要である。医者たる者は,『素間』『霊枢』を深く究め,医理に精通してはじめて,複雑に変化する病態がよく把握でき,理・法・方・薬の選択も適切となる。
 疾病は複雑で変化し易いが,しかし認識して規則性を求めることは可能である。弁証論治とは中医理論を指導原理として,陰・陽・寒・熱・虚・実・表・裏・真・仮・合・併・営・衛・気・血・臓・腑・経・絡などの各種病証について弁別してゆくものである。それゆえ弁証論治とはかなり厳格で規範性をもつものではあるが,臨床的によく見られる陰中に陽あり,陽中に陰あり,陰陽転化,寒熱錯雑,虚実兼挟,伝変従化,同中有異,異中有同,風寒暑湿,気至遅早,老幼壮弱などの複雑な状況をも注意して混乱なく弁別しなければならない。このように弁証論治もまた,人・時・地の制限を受けるから,融通性をもたせて活用すべきである。この辺のことが理解されれば,仲景先師の「思い半ばに過ぎん」の境地である。


 なるほどなるほど。
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(医学雑誌拾い読み)「中医学と日本漢方との対比」(梁 哲成)

2017年07月17日 13時39分17秒 | 漢方
 「中医学と日本漢方との対比」梁 哲成(ヤン チョルソン、やんハーブクリニック)
日本小児東洋医学会誌

 教育講演の記録集より。
 私は実際にこの講演を会場で聴講しました。
 漢方医学には、現代に継承されている本家本元の中国の「中医学」と、日本に輸入されて日本独自の発展を遂げて現在に至る「日本漢方」の2つがあります。
 大元は同じですが、宗教の流派で結構解釈が異なるように、同じ単語でも意味が違ったりして混乱の基になっています。

 「なんちゃっって漢方医」の私がかじってきたのは日本漢方です。
 理論的に突き詰めると実態が逃げてしまう日本漢方のファジーさと、見え隠れする中医学の弁証論治の違いをわかりやすく解説した内容で、目からウロコが落ちる思いでした。
 聴講後、梁先生の著書を何冊か購入しました。
 
 日本漢方は論理的に完結していません。
 『傷寒論』『金匱要略』をベースに、時代に沿っていろいろな考え方を吸収・アレンジしてきたので多層構造となっており、今でも開かれたシステムです。
 現在の日本漢方は江戸時代の古方派の流れをくんでいますが、古方派はそれ以前の中医学に近い後世派の理論を否定するところから始まり、つまり中医学的生理学・病態学を捨てて、そこをブラックボックス化してしまったので、現代西洋医学を学んだ我々世代からは「ファジー」とか「捉えどころがない」というイメージになってしまうカラクリがわかりました。

 一方、中医学は完結した思考システム。
 ですから、理論的に漢方を構築したいなら、中医学を学んだ方が良いということになります。
 実際に、私の以前の主治医は、日本漢方のファジーさより理論的な中医学に惹かれ、そちらに鞍替えした漢方医でした。

 ただ、中医学理論ですべての病気が治せるわけでもないので、両方の要素を美味しい所取りで学んだ方が良さそうです。
 ただ、日本漢方をかじった私に、これから中医学をマスターするエネルギーが果たしてあるかどうか・・・。


<備忘録>

□ 中医学と日本漢方の起源はともに三大古典にあるが、用語の解釈にも一致しないことが多々ある。
・中医学は「弁証論治」、日本漢方は「方証相対」
・中医学の証は「病理の要点」、日本漢方の証は「病態の特異性を示す症候」
・傷寒論の記述をどう解釈するかという学説には、これまで以下の4つが議論されてきた;
1.経絡学説
2.臓腑学説
3.気化学説
4.症候分類学説
 このなかの1・2・3が統合されて中医学が成り立ち、日本漢方は主に4の姿勢が貫かれている。

□ 中医学は「弁証論治」
 中国伝統医学は、黄帝内経・神農本草経・傷寒論/金匱要略の三大古典から、金元四大家による温補派や養陰派、明清医学による温病学など諸学説を経て、現代中国になって国定教科書制定の過程で弁証論治を下に整理統一された。

□ 弁証論治の種類
・八綱弁証
・病邪弁証
・気血津液弁証
・臓腑弁証
・六経
・温病弁証
これらが行き着くところは、外邪、病理産物、気血津液精、臓腑・・・という基礎概念と補瀉虚実という基本法則によって行われる。
この基礎概念はわずか40程度であり、基本原則は三大法則で説明できる。
現代科学的に実証されないこれら概念や理論を空理空論と批判する向きもあるが、このシステムはあくまでも適応方剤の決定の根拠を得るための作業仮説である。

□ 中医学の基本原則と三大原則
・基本原則(素問より)
「邪気盛則実、精気奪則虚」
「虚則補之、実則瀉之」
・三大原則
1.体内に邪魔なものが存在すると病気を起こす。そのときはそれを取り除く。
(外邪)風寒暑湿燥火
(病理産物)痰飲、瘀血
2.生理活動を行うものが滞ると病気を起こす。そのときはそれを巡らす。
 気、血 → 気滞、血瘀
3.生理活動を行うものが不足すると病気を起こす。そのときはそれを補う。
 気、血、津液、精 → 気虚、陽虚、血虚、津液不足、陰虚、腎虚・・・

□ 中医学の基礎概念
・人体の生理活動を行うもの:気、血、津液、精
・人体の構造:
(表)皮膚、肌○、表在する筋や経絡など
(裏)五臓路婦、奇恒の腑、深在する血脈など
・外界から人体に侵入し悪影響を与えるもの(外邪):風、寒、暑、湿、燥、火
・体内で発生し悪影響を与えるもの(病理産物):痰飲、瘀血

□ 日本漢方は「方証相対」
 日本漢方は明医学を単純化・日本化して日本に根付かせた後世派(曲直瀬道三ほか)が江戸中期以降、傷寒論を中心にした張仲景に帰り、理論よりも実践を重視した古方派(吉益東洞ほか)が台頭、主流を占めた。
 その後、明治政府の漢方医廃止政策から昭和の復興期を経て、各種の症候分類学説を積み重ねて、これらを基に方証相対で症例に対峙している。
 使用される方剤は、その症候に相対して決定される(方証相対)。鍵と鍵穴に例える先人もいる。
 方証相対の概念・精神は、吉益東洞の「目に見えぬものは言わぬ」という言葉によく表され、病理の根拠が不明な現在においては、方剤決定の根拠はブラックボックスであるから、症候分類学として臨床に臨むということ。
 そこで一旦リセットボタンが押された日本漢方は、疾患と方剤の架け橋となる学説を積み重ねていくことになる(次項)。

□ 日本漢方の多層構造
1.原典主義学説 ・・・傷寒論/金匱要略の記載を重視するという古方学派の原理主義。それ以外の文献にある方剤についても、その記載を重視する姿勢。
2.六病位学説 ・・・熱性伝染性疾患だけでなく、あらゆる者のすべての疾患を傷寒論の六病期に当てはめ、その傷寒論の方剤を使用する(「傷寒に万病あり、万病に傷寒あり」)。他の出典の方剤にも六病期を設定する。
3.気血水学説
4.腹診学説
5.補完的臓腑学説
6.症候・病名の2ベクトル学説(簡易八綱分類学説)
7.西洋医学病名投与学説

・・・日本漢方の特徴は、あえて古典的生理学・病理学を否定し、方剤選択の根拠となる理論はブラックボックスとして、この症候分類学説群によて症例に臨む点である。

□ 六病位学説
あらゆる疾患(万病)が六病位を経ると考える。
疾患は病邪と正気の相対で表され、表から裏へ、陽証(熱証)から陰証(寒証)へ、実証から虚証へ、軽症から重症へと経過し、すべての疾患を抱える者は六病位のいずれかに分類される。

□ 気血水学説
 しばしば中医学の気血津液弁証と比較され、類似する部分も多いが、病理を分析する気血津液弁証と、症候分類の証である気血水学説は本質が異なる。
 古方学派日本漢方はそもそも、伝統的漢方中医学の生理学が否定されたところから出発しているので、生理学がなければ病理学も存在し得ない。気血水学説における各証(気虚/気滞、瘀血/血虚、水毒など)は症候分類の証である。
 中医学の気血津液弁証の証は症候⇒病理⇒証⇒治法⇒方剤である弁証論治における、病理の要点たる証である。
 日本漢方では生理学がない中でも、これらの病床を漢方医学とも西洋医学とも言えない素朴なイメージで表現されることがある。
(水)日本漢方では脱水に相当する概念は水の証にはない。西洋医学の概念である脱水という用語がしばしば転用される。近年、一部の論者により水毒(水滞)あ「透明な液体のあるべきところの過剰な存在又はないはずのところの存在に加え、あるべきところの不足」という「透明な液体の偏在」と、脱水も含有する概念として定義されることもある。
 一方、中医学では脱水に相当する「津液不足」なる概念もある。

□ 腹診学説
 日本で発展し、日本漢方の独壇場と言える。
 多くの腹証は他の日本漢方学説では解説されていないし、されようともしていない。

□ 補完的臓腑学説
 上述各学説でも方剤の決定が難しい場合、一度は放棄されんとした臓腑学説が一部応用されることがあり、補完的臓腑学説と位置づけよう。
 とりわけ「腎虚」(八味丸、六味丸など)、「脾虚」(人参湯など)が挙げられる。
 しかしあくまでも症候のイメージたる臓腑の証にとどまり、中医学の「病理の要点」たる証ではない。
 そしてその症候のイメージは西洋医学的な解説が多く、漢方医学的な再定義の試みはされていない。

□ 2ベクトル学説
 各証高や疾患ごとに、八綱分類の虚実、寒熱による4象限にあらかじめ権威ある専門家によって方剤を設定させ、これをあんちょことして利用する方法。
 ここで問題になるのが中医学と日本漢方の虚実の概念の違いである(次項)。

□ 中医学と日本漢方における虚実の概念の違い
 日本漢方における虚実には闘病反応の強弱という概念があるが、そのベースにあらゆる疾患に病邪の存在があるという前提がある。これは吉益東洞の万病一毒説につながる認識かもしれない。
 一方中医学においては、病邪が存在しなくても生理活動を行うものの停滞や不足でも発病しうるという認識の相違がある。つまり、存在・停滞・不足の三軸の概念である。
<実>
中医学(存在や停滞の実)・・・邪魔なものの存在と生理活動を行うものの停滞
日本漢方(抵抗力の実)・・・体力の実、もしくは気血の力が旺盛、闘病反応が盛ん。
<虚>
中医学:生理活動を行うものの不足。
日本漢方:体質的な虚弱、もしくは気血の力が弱い、闘病反応が弱い。

・日本漢方にあって中医学にない概念:中間証
・中医学にあって日本漢方にない概念:虚実錯雑

□ 中医学における虚実錯雑とは?
 中医学では闘病反応の強弱にかかわらず、邪が存在すれば実。邪実で、闘病反応が弱いものは?
→ 邪実+生理物質の不足=虚実錯雑

(例1)日頃から感冒に罹りやすい虚弱な者が気管支炎に罹った。
・気の不足した肺に、     肺気虚  → 虚証
・患者が侵入して痰を生じた。 肺寒淡  → 実証
 ⇒ すなわち、肺気虚・寒痰 → 虚実錯雑

(例2)日頃から胃腸虚弱な者が、食後に胃のもたれやつかえをおぼえる。
・脾胃の気が不足したため、 脾胃気虚   → 虚証
・胃に痰飲が生じる。    胃痰飲    → 実証
 ⇒ すなわち、脾胃気虚・痰飲 → 虚実錯雑

(例3)凝血塊を伴う月経痛の強い者が、貧血になった。
・子宮胞内の瘀血に、  → 寒証
・気血両虚が合併する。 → 虚証
⇒ すなわち、気血両虚・瘀血 →  虚実錯雑

□ 日本漢方と中医学の相違比較

      (日本漢方)   (中医学)

学問根幹   原典主義    補瀉虚実

学問体系   キメラ状    収束型
       テトリス状   生理・病理・治療学
       症候分類学

生理・病理  部分的     体系的
       補完的  

診断治療   方証相対    弁証論治
システム

臨床実践性  極めて高い   高い
       腹診重視    腹診軽視

発展性    増殖的     自己完結的
       開かれた学問  閉じた学問

西医親和性  クロスオーバー 併存


 検索していたら、日本・中国・韓国を比較したHPを見つけました。
 古方派の吉益東洞は、小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」と言ったように「漢方理論をぶっ壊す」人だったようです。日本漢方の流派にも触れています。私の本棚にもある「漢方診療医典」は産みの苦しみを経験した貴重な本であることがわかりました。
 一部改変して引用させていただきます;

■ 「中医・韓医と日本漢方(加島雅之:熊本赤十字病院)
1.日本漢方
 大陸と交流が始まった時と期を一にしている。 その中で現在にまでつながる医学の形として姿を現すのは、安土桃山代に同時期の中国の明代後期の医学を輸入し体系化・マニュアル化(この診療システムを「察証弁治(さっしょうべんち)」という)を行った曲直瀬道三の曲直瀬流である(「後世派」)。この流派は江戸時代中期まで日本の漢方医学の主流をなしたが、徐々にマニュアル化された方法論の固定的運用と安易で無難な治療法に堕してしまった。
 江戸時代中期に吉益東洞らによる医学革命が行われ、後の日本の漢方医学の方向を決定づけられた(「古方派」)。 古方派は漢方医学理論の全てを否定し(吉益東洞に至っては医学に理論があることそのものを否定しようとしている)、中国の後漢の末に誕生したとされる傷寒論・金匱要略の処方を中心に、症状・症候の組み合わせに対して一対一対応のように使用する(この方法論を「方証相対」という)。 古方派の誕生の背景には治療対象となった人々が大衆にまでに広がったこと、梅毒やコレラなどの難治性感染症の流行、堕落した後世派へのアンチテーゼ、当時流行した朱子学の理論性を否定した復古儒学の強い影響がある。
 この後の日本の医家は立場の差はあるが、個々に古方の方法論と伝統的漢方概念・理論を自らの経験・見識で折衷する形で医学を形成していく。 明治期に入り政府により漢方に対する弾圧が行われ、江戸時代よりの系譜はほぼ断絶してしまう。少数の医師らの手により明治末から昭和初期にかけて漢方の復活が図られた。
 その主だった流派には古方派の流れをくむ2流派(後の大塚敬節のグループと千葉古方と呼ばれるグループ)と後世派の流れをくむ1流派(一貫堂医学といわれるグループ)、古方派・後世派の中間的立場をとる1流派がある。昭和の初期にこうした諸流派が共同して金字塔というべき教科書が編まれた。 「漢方診療の実際」である(1969年以降は「漢方診療医典」に改名)。この本はその序文にあるように西洋医学しか学んだことがない医師が全く予備知識なしに漢方の実践を図ることができることを目指して作成された。 版を重ねる過程で、臨床上の必要性および漢方医学としての体面の問題から、ある程度の漢方概念を導入せざる得なくなった。 しかし、先に述べるように伝統中国医学の体系を引き継ぐ後世派と一方でその根幹からの否定を目指した古方派の矛盾を解決せず、なおかつ、全く漢方の素養のない者に概念を説明するためには、伝統的な漢方用語を新たに定義し直し体系化することとなった。 そこでは本来、病態を説明するための諸概念が、ある種の病状を分類する概念として理解される形となっている。
 現在の日本漢方の陰陽・虚実・寒熱・瘀血・水毒などの用語の概念および、西洋医学の診断名を縦糸に用い、日本漢方を特徴づける一つである、臨床的ポイントを表す口訣・日本で独自に発展した診察法である腹診・簡単な脈診を用いて、漢方概念で表わされる分類項目に当てはめ、これを横糸として処方を決定するというシステムはこの本によって完成した。

2.中医学
 現代の中医学と呼ばれるものは共産革命後に中国政府の命令によって、その当時の伝統中国医学を集大成することで形成された。 その手本とされたのは、清代末に西洋医学の流入に対抗すべく伝統医学の学校における近代教育の試みが浙江省の私学校でなされたものであった。その教育は西洋医学の教育・診断の方法論に倣い、基礎理論・生理・解剖・病理・症候学と続く内容となっている。 診断システムもまずどの臓腑系統のシステムの異常かを確認した上でその病態生理を把握するものとなっており、現代の中医学の教育・臨床システムもその体系を受け継いでいる。
 中医学の診断から治療にわたる診療システムを「弁証論治」という。 弁証論治は病態である「証」を診断しそれに基づき治療法を議論するということである。同じ診断名の病態であっても合併状況、進行の状況に基づき様々な選択を考え治療戦略をたてる。 前述の日本漢方の「方証相対」の、ある種の処方が有効である症状の組み合わせという言わば“症候群”としての意味合いの「証」に対して、一対一対応の処方を選択するというシステムとは好対照である。 処方の理解も日本漢方では処方単位での理解となるのに対して、中医学では処方を構成している一つ一つの生薬の薬能が目的としている病態にどう有効であるかという視点が重視される。 こうした病態分析の基本となる漢方概念や薬能概念は主に明代後期に確立している。また、清代に確立した「温病学」(うんびょうがく)といわれる感染症学、清代末から中華民国時代に西洋医学の影響を受けて発展した伝統医学の一派(「医学中西匯通派」と呼ばれる)の影響、中西結合といわれる西洋医学の知見を積極的に漢方医学に結びつける試み、および学校教育を行う為の臨床体系の構築(こうした臨床形態を「学院派」とよぶことがある)が現代中医学を特徴づける。

3.韓医学
 朝鮮半島における漢方医学の流入の起源も日本と同様、中国との交流の始まりまで遡る。 こうした中で、現代につながる韓医学は約400年前の「東医宝鑑」(とういほうがん)によって成立した。この医学は同時代の中国明代後期の医学を集大成した内容であり、同時期の日本の曲直瀬道三が著した「啓迪集」(けいてきしゅう)と非常に類似した体系となっている。 ただ二つの体系を比較すると、東医宝鑑は生理的な視点を重視し、予防医学・健康増進(伝統的には「養生」と表現される)に重点が置かれる。
 現代の韓医学においても、疾病の治療の中心は鍼灸療法であり、薬物療法は養生に重点が置かれている。実際の診療の方法論では、症状・症候の伝統的分類の項目を東医宝鑑やそのダイジェスト版である「方薬合編」(ほうやくごうへん)、その他の信奉するテキストで検索し、そこに書かれている処方を中心に、状況に合わせて薬物論に基づき若干の調整(この過程を「加減」という)をして用いるという伝統的な漢方医学のある種の方法論が残存している。 また、約100年前の李氏朝鮮末に生まれた「四象医学」も韓医学の特徴的な内容の一つである。 この医学では人体の気の昇降・集散の傾向と消化吸収機能の壮健さにより人を先天的な4つの体質に分類し、その体質診断に基づき、先天的生体の偏りを矯正する処方を服用することで治療・養生を目指す体系である。

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第1回「日本小児漢方懇話会フォーラム」に参加してきました。

2017年07月17日 11時57分19秒 | 漢方
2017.7.16、主婦会館プラザエフ
テーマ「診療科の垣根を越える小児漢方」

故・広瀬滋之先生が主催していた日本小児漢方懇話会を後継する待望の会が始まりました。
連休中にもかかわらず、会場はほぼ満員で特別講演の新見正則先生が驚いていました。
テーマの如く小児科医だけでなく、外科医・耳鼻科医など多彩な講師陣。
内容も学問的な議論あり、雑談あり、笑いありと、不思議な雰囲気の会合でした。



<講演内容>

■ 「子どもと小児漢方の今とこれから」森蘭子(森こどもクリニック院長)
 森先生はこの会の代表幹事。
 私を小児漢方の世界へ引きずり込んでくれた(?)恩人でもあります。
 感染症が減り、こころの問題を抱える患者さんが増えてきた昨今、漢方薬によるサポートの可能性について彼女独自の考え方を話されました。
 子どものみならず母親もサポートする姿勢が感じられ、診察室の温かい雰囲気がにじみ出る内容でした。

■ 「モダンカンポウ〜愛と奇跡〜」新見正則(帝京大学外科准教授)
 TVでお馴染み、イグノーベル賞で有名な、あの新見先生です。
 TVではトライアスロンのユニフォームで出演していてそのイメージが目に焼き付いていますが、さすがに昨日はスーツ姿・・・かえって違和感がありました。
 彼の著作は何冊か読んだことがあります。
 あらためて、彼が漢方に出会いどう学んできたかを興味深く拝聴しました。
 とくに松田邦夫先生との出会いが大きかった様子。
 やはり「師」が大切なのですね。
 西洋医学に基づく発想で漢方を捉えた走りのような方ですが、その基礎となる漢方医学の知識がとても深いことをあらためて知りました。すごい先生です。

■ 「小児漢方における小児外科」八木実(久留米大学外科教授)
 早口でスライドも2秒間隔でどんどん進むので、紙芝居を見ているよう。メモをとる暇なんてありません。
 中でも「まくり」:鷓鴣菜(しゃこさい)・大黄・桃仁・紅花・桂枝・黄連・甘草各0.5という漢方薬が印象に残りました。
 それから、リンパ管腫に越婢加朮湯が有効であることを初めて知りました。
 この漢方薬は、赤く腫れて炎症を起こしている部位を治してくれるイメージで、私は花粉症で目の症状がつらいタイプや、虫刺されで腫れやすい子どもに処方しています。

■ 「ある日、突然、やたら漢方を処方したがる耳鼻咽喉科医院がオープンしたら〜その後、10年の経過報告」今中雅支(いまなか耳鼻咽喉科
 題名からして笑い取りに走っているのが見え見え(^^;)。
 彼の講演を以前にもこの会で聞いたことがあります(「耳鼻咽喉科領域の感染症の漢方治療〜責めたり、守ったり、してやったり〜」2010年)。
 中耳炎には抗生物質づけしがちな耳鼻科医の中にも、それから脱却すべく努力している先生がいるんだ、と感心したことを記憶しています。
 今回も、とても実のある内容で勉強になりました。
 鼻炎/後鼻漏/副鼻腔炎に葛根湯加川芎辛夷や辛夷清肺湯を使うのは私と同じですが、難治例には黄耆建中湯を併用するという技を知りました。
 それから、漢方薬の小児服用率が90%に達しているマジックに驚かされました。
 当院でもいろいろ工夫して漢方薬を飲ませる指導をしていますが、とても90%には届きません。
 何が違うんだろう・・・院内で試し飲みさせることと、あとは先生・スタッフのマシンガントークかなあ?

<参考>
□ 「耳鼻咽喉科領域における漢方治療」(第114回日本耳鼻咽喉科学会総会ランチョンセミナー、2013年)

■ 「あの日、思春期だった大人たちへ〜思春期の患者診療と漢方薬〜」池野一秀(長野松代総合病院小児科部長)
 ファンタジックなイラストを描く小児漢方医として有名な池野先生。
 「春の女神症候群」という概念と診療(柴苓湯がメイン)を中心に話され、彼の真面目な姿勢がにじみ出る内容でした。
 谷口ジローの「遙かな町へ」というマンガも紹介されました。
 とともに、彼のようなこころを診る診療は、数をこなさないと経営が成り立たない開業医では無理だなあ、とも感じました。

 もう一つ講演が残っていたのですが、会場の冷房で体が冷え切ってしまい、持病持ちの私は体調が怪しくなってきて退出せざるを得ませんでした。
 ぜひ、今後も参加したい懇話会です。
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