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クレヨン社はどこ行った?

…とりあえず、ここへ引っ越してきました。
  

クレヨン社年表

2022-04-13 12:06:21 | プロフィール

1987年     
 『辻ヶ花浪漫』AXIAミュージックオーディショングランプリ受賞
1988年 
1stアルバム『オレンジの地球儀』発売
 渋谷TAKE OFF7ライブ
1989年
2ndアルバム『地球のうた』
発売 
渋谷Egg-manライブ
日清パワーステーション ライブ
東京芝abcホール コンサート
広島・大阪ライブ
日本青年館コンサート
1990年 
3rdアルバム『いつも心に太陽を』
発売
全国ライブツアー1(仙台・福岡・名古屋・東京・大阪“地球のうた”ツアー)
日清パワーステーション ライブ
パルコ劇場コンサート
全国ライブツアー2(福岡・大阪・名古屋・仙台)
スペースゼロ コンサート
1991年 
4thアルバム『世界で一番好きだった』
発売
東京シアターコクーンコンサート
赤坂草月ホール コンサート
大阪リサイタルホールコンサート
全国ライブツアー(札幌・福岡・大阪・名古屋・仙台“世界で一番好きだった”ツアー)
福岡・鹿児島・静岡・宮崎 ビデオライブツアー
1992年 
ベストアルバム『クレヨン社の展覧会』1988-1991 BEST SELECTION』発売
3都市ライブツアー(大阪・名古屋・東京“ライブハウスで逢いましょう”ツアー)
1993年 
ベストアルバム『The Best ll』発売
1994年 
5thアルバム『模型風景(ジオラマ)』発売
1995年~1999年 
以降、都内のライブハウス出演、地方局のラジオ番組出演など、活動規模を縮小
2000年~2002年 
活動休止
2003年
クレヨン社活動再開
オフィシャルサイト開設
2004年 
6thアルバム『誰にだって朝陽は昇る』発売
2007年 
7thアルバム『宙[Sola]』発売
2008年~ 
以降、柳沼は引き籠りアーティストへ、加藤は引き籠り映像作家へと徐々に変貌を遂げる
2022年現在
このブログにて細々と情報を発信しながら現在に至る
*****************
CM音楽 (Vo 柳沼由紀枝)
セシール/ニッポン放送「歌謡パレードニッポン」/オールナイトニッポンジングル/白十字社ラジオCM/メガネドラッグTVCM/高島屋'93お歳暮TVCM/ビゲンヘアマニキュアCM/ニッポン放送「日石三菱サンデーステーション」
CM音楽 (加藤秀樹)
自治省/住友ホーム/タカラ本みりん/三菱重工/日通プロコンポ/シャープ/世界都市博/バンプレスト/九州電力/小田急百貨店/他
テーマ曲等(加藤秀樹)
ショーアップナイターテーマ/手塚治虫ワールドテーマ/NTT Jリーグ情報/三重県宮川村村民歌作編曲/奈良県御杖小校校歌編曲/夢テクドリームナイト音楽プロデュース/北九州博覧際フェスタリオン音楽プロデュース/他

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クレヨン社夜明け前

2022-04-13 11:47:10 | プロフィール

絵のない絵本

いつものように加藤が、いわき市キクヤ楽器店2階のLM(ライトミュージック)売り場で店番をしていたときのことであった。机の上の一枚のポプコン(ヤマハの主催するポピュラーソングコンテスト)応募用紙が目にとまった。
当時ポプコンは地元の楽器店単位で応募受付をしており、応募用紙には歌詞を書き込む決まりとなってた。

何気にその歌詞に目をやった加藤は驚いた。その字があまりにもヘタクソでガサツだったからだ。
しかし、読み進めるうちに加藤はもっと驚いた。バンドブームも手伝ってか、そのころポプコンに応募してくる歌詞は、内容の乏しいものばかりだったが、その歌詞はあまりに秀逸だったからである。

応募用紙には、柳沼由紀枝、17歳、作品名「絵のない絵本」(この曲は2ndアルバムに収録されている)と書かれていた。
早速加藤は柳沼に会ってみたくなった。こんな歌詞を書く17歳の少女はどんな娘か興味がわいてきたのである。

二人の出会いの日はその翌日、意外にもあっさり訪れた。
柳沼が楽器店に注文しておいた品を取りに来たのだ。
「柳沼さん?…というと、これを書いた柳沼さんですか?」と加藤はポプコン応募用紙をとり出し、恐る恐る尋ねてみた。
「そーです!」と元気に答えた柳沼は、彼女が書く字と同じようにガサツな女子高生だった。
「これってどんな曲?」加藤は店内に人気のないのを確かめて、もう一度尋ねた。
すると柳沼は断りもなく店の売り物のギターを引っぱり出し、初対面の加藤に向かって臆することなく「絵のない絵本」を歌いだしたのである。

彼女の歌は、もはや彼女の字のように、ヘタクソでもガサツでもなかった。
そして加藤はこの素直で透明感のある声とメロディーラインにすっかり魅了されてしまったのだ。
加藤はこのとき「このガサツな女子高生の才能を育てたい」と本気で思ったのだという。

しかし、思うだけで何も行動に移さないのが加藤の悪い癖だった。
月日は流れ、やがて柳沼は女子高を卒業し上京することになる。
そして柳沼が最後に店を訪れたとき加藤が聞き出した彼女の上京先が、やがて訪れる二人の再会の鍵となるのであった。

音声多重

上京した柳沼は、デザインの専門学校へ通い、東京の代々木で一人暮らしを始める。
もちろん歌は続けるつもりだったが、専門学校のカリキュラムはかなりタイトで、毎日のように課題に追われていた。ギターさえ触れることができない日々が続いたという。

一方、地元の楽器店で2年目を向かえた加藤は、ちっとも変わらない環境に嫌気がさし、とび出すように店を辞めてしまった。
行くあてのない加藤はとりあえず東京の姉のアパートへ転がりこむことになる。

加藤はいくつものアルバイトを転々としたが、あるミュージックテープの制作会社に落ち着いた。
まだ新しかったその会社では音響技術の知識がある加藤は重宝がられ、アルバイトにもかかわらず、現場をまかされるようになった。
ミュージックテープの業界ではそのころ「音声多重」というカラオケテープが全盛だった。
片チャンネルにオケ、もう片方のチャンネルに仮歌が入っており、仮歌を聞きながらカラオケの練習に励むことができるという当時は画期的な代物だった。

加藤はその仮歌録音を担当していたが、スタジオではポップスを歌ってくれる女性ボーカリストを探していた。
そのとき頭に浮かんだのが柳沼由紀枝だったのだという。

久しぶりの再会であった。
そのころの柳沼はデザイン学校を卒業し、CI(コーポレーションアイディンティティー)やロゴマークなどをデザインする当時最先端のデザイン会社で働いていた。そのかたわら地道ながらも弾き語りの音楽活動を続けているのだという。

さっそく仮歌を録音してみると、柳沼の歌唱力は健在だった。ポップスはもちろん、演歌や童謡まで彼女は器用に歌いこなし評判も上々だった。

ちょうどそのころ、加藤にヘッドハンティングの話が持ちかかる。小さな録音スタジオをまかせたいというのである。
当時の会社への義理もあり加藤はだいぶ悩んだが、新しい録音機材を揃えてくれるという条件で、加藤は引き受けることにした。
本人を含めて二人だけの小さな会社だが、若くして加藤は社長と呼ばれるようになった。

柳沼もCIの会社から、カバンのデザインの会社へ移ったが、相変わらず加藤と柳沼は音声多重カラオケの仕事を続けていた。
柳沼にもOLの習性が染み込んできたのか、昔ほどのガサツさはなくなり性格的にも丸みを帯びてきた(体型も)。

かぎとりぼんのはなし

加藤の仕事も順調に進みだしたころ、柳沼の母親が倒れた。
すると彼女はいきなり会社を辞めてしまった。実家に戻り、母の看病をするためである。

柳沼は母の看護を続ける中、家族についてや、幼いころの記憶をたどった詩をいくつも書き、曲を作った。(これが後の1stアルバムに多数収録された)
幸い母親の回復は早かった。柳沼はたくさんの新曲と、新たな決意を胸に東京へ戻ったのである。

ほどなく柳沼は次の仕事を見つけた。ダイエー本社のセレクターという仕事だった。
ちょうどそのころ、加藤の仕事は暗礁に乗り上げた。加藤に出資してくれていた親会社が倒産してしまったのだ。
親会社からだけの仕事をあてにしていた加藤の経営するスタジオも当然仕事がなくなり、廃業に追い込まれることとなった。

しかし、これがクレヨン社誕生のきっかけとなったのである。
倒産した親会社が未払いの売掛金の相殺として、買い揃えてくれた録音機材をすべて加藤に引き渡すことにしてくれたのだった。

加藤はスタジオを引き払い、西日暮里の六畳間の自宅アパートに録音機材をすべて持ち込んだ。
機材で溢れかえったアパートの一室で加藤は途方に暮れた。
「これで何をしようか…」
そして加藤は遠いあの日のことを思い出すのである。
「このガサツな女子高生の才能を育てたい…」

当時柳沼には、母の看護の時期に作った曲のストックが何曲もあった。その中から加藤は最初の曲として「かぎとりぼんのはなし」(1stアルバムに収録)を選んだ。
加藤は昼間は近所にバイトに出かけ、夜はオケ作りに励み、柳沼は休日ごと歌入れにやってきた。こうして2ヶ月をかけた試行錯誤の実験作「かぎとりぼんのはなし」はついに完成した。

完成した作品を加藤は「リットーミュージック主催オリジナルテープコンテスト」に出品してみた。結果、奨励賞なるものを受賞した。
気を良くした二人は翌年も作品出品のため、加藤はアルバイト、柳沼はOLを続けながら、制作活動に精を出すようになる。

翌年オリジナルテープコンテストはAXIAの協賛が付き、規模も大きくなり「第一回AXIAミュージックオーディション」となっていた。
加藤と柳沼はそのオーディションに「辻が花浪漫」(1stアルバムに収録)を出品した。
そしてその曲は、本人たちも予想していなかったグランプリを獲得することになったのである。

加藤と柳沼が出会ってから7年目の春のことだった

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映像作品受賞歴

2022-04-11 12:15:19 | プロフィール

加藤秀樹監督作品

2008年
『A Song For The Earth 2008』クリエイティブアワード2008 特別賞受賞
『ハヤシライス』 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2008短編部門ノミネート
『嘘』 東京ネットムービー優秀賞&スクリーニングオーディエンス賞受賞/第12回小津安二郎記念蓼科高原映画祭入/パル映画祭準グランプリ受賞
2009年
『おっぱい』第6回北信濃小布施映画祭シネマコンペティション北斎賞受賞
『自毛デビュー』第31回東京ビデオフェスティバル優秀賞受賞/第3回鎌倉映像フェスティバル入賞/第1回奄美映像フェスティバルドキュメンタリー部門グランプリ受賞
2010年
『キュポラ』第5回デジタル岡山グランプリ準グランプリ受賞/第14回小津安二郎記念蓼科高原映画祭入賞
『カンパネルラ』東京ビデオフェスティバル2011入賞
2011年
『嘘~オブラートの月』ショートショートフィルムフェスティバル2011旅ショート部門オーディエンスアワード受賞/第15回小津安二郎記念蓼科高原映画祭入賞/第2回伊勢崎映画祭伊勢崎市長賞受賞
『FtM~僕はまだ自分を呼ぶ言葉を知らない』東京ビデオフェスティバル2012入賞/第23回調布映画祭入賞/第22回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭
2012年
『進め一億火の玉だ!』第3回武蔵野映画祭入賞/西東京市民映画祭2012入賞/東京ビデオフェスティバル2013入賞
『淋しい太陽』福井映画祭2012入賞
2013年
『おまけ』第3回伊勢崎映画祭入賞/あつぎ映像コンテスト2012準グランプリ受賞/高砂しあわせ映画祭神戸新聞社賞受賞
『ランチボックス』富山水辺の映像祭2013審査員特別賞受賞/あつぎ映像コンテスト2013協賛企業賞受賞/東京ビデオフェスティバル2014入賞
2014年
『おいしい北区』第3回北区CMコンテスト審査員特別賞受賞
2015年
『川口クワイヤガールズ』東京ビデオフェスティバル2015入賞
2017年
『僕らの終戦』東京ビデオフェスティバル2017入賞
2018年
『NOCTOVISION』フクイ夢アート招待作家作品/東京ビデオフェスティバル2018入賞
2019年
『めぐみ、ファイト!』東京ビデオフェスティバル2019グランプリ受賞/東京ビデオフェスティバル2019特別賞受賞
・・・・・

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クレヨン社 Q&A

2022-01-02 06:22:00 | プロフィール

このQ&Aは、2021年に参加したコンピレーションアルバムのインタビューに答えたものです。

Q1 クレヨン社二人の出会いは?
柳沼
高校2年のある日の放課後(いわき市の)平二丁目付近から聞き慣れない大音量の音楽が聞こえてきたんです。
それは私が初めて目にした「エレクトーン・デモ演奏」でした。
そこはキクヤ楽器店さんの店頭で、でっかい音量のわりに演奏者はやけに恥ずかしそうにしてる、パッと見「栄養状態のいいロッドスチュワート?!」…それが最初に見た加藤秀樹です。
私は遠目に見物してた通行人の一人でしたから、もちろん加藤は知らなかったでしょう~!
外国人が珍しかった頃で、私は内心「おやおや~…彫りが深い顔だよ~…日本人じゃないのかな?どっかの宣教師…?…ではないよなぁ…」なんて思いながら見てましたね。
それから少し経って、注文していた品を楽器店に受け取りに行ったら、新顔の店員さんがいまして、それがあの「なんちゃってロッドスチュワート」だったんです。
当時アマチュアミュージシャンの登竜門、ヤマハ・ポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)があり、地元の楽器店が受付店でして…。
私はギター弾き語りを地味~にやってる女子高生でしたから、いろいろお世話やサポートをしてくれた楽器店の店員さんたちは、音楽の夢を応援してくれる心強い存在でしたね。
地元でのこの出会いがこれほど長いご縁になるとは…!

加藤
この続きは、クレヨン社公式ブログ・クレヨン社は「まだ」ここにいる→プロフィール→クレヨン社夜明け前、よりご覧ください。

Q2 クレヨン社の名前の由来は?

柳沼

一緒に音楽活動を長く続けてからデビューすればグループ名もあったんでしょうが、私たちの場合、試しに1曲コンテストに応募してみたら奨励賞で、気を良くして翌年もう1回応募してみたらグランプリ!そんなんでデビューが決まってしまったので当然なにも考えていませんでした。
グループ名が必要だということになり、デビューが決まり先ずやった事は姓名判断の本を買うコトでした!
いくつか吉数っぽいのを適当に作り、当時のディレクターに見せたら、あっさり「コレでいいんじゃない?」と即答されたのが『クレヨン社』…
他の候補名はすっかり忘れましたが、もうちょっと気取った名前もあったはずですがーっ!
デビュー後、私らを更に追い詰めたのが「グループ名の由来」…!
いつでもどこでも何度でも、必ず聞かれたんです!
「姓名判断などと正直に言ってはイケナイ!」ときつく言われ…苦し紛れになんとか考えついたのが「クレヨンのようにいろんな色の音楽を届けられるように…」だったんです…。
これは墓場まで持っていかなければならないクレヨン社トップシークレットでしたが、もうヤケのやんぱちで暴露しますっ!
でもこれだけ長くクレヨン社をやってこれたので結果的に良かったのでしょう。

加藤

ラジオ福島の番組に出演してたころ「クレヨン社」をもじって「クレーン車」というラジオネームで投稿していた男子高校生がいました。その名は高橋晃浩。このアルバムのプロデューサー。
  

Q3 二人の音楽のルーツは?

柳沼
私の習い事はオルガン教室とピアノ教室をチョビっとかじって飽きちゃいまして、中学までの音楽の授業も適当にやり過ごしたうえに高校では音楽を選択すらしなかったので、ちゃんと学んだ事ないんです。
歌謡曲くらいしか聞かなかったのでルーツと言うならやっぱり歌謡曲でしょうかね。
あと中学生になった頃に、荒井(松任谷)由実さんや中島みゆきさんが新しい歌の世界を見せて下さった事が、音楽に憧れるキッカケになったと思います。

加藤

「ひょっこりひょうたん島」「トルコ行進曲」「星条旗よ永遠なれ」「交響曲第5番」「ヘイジュード」「FMfan」「多重録音」「D800」「キクヤ楽器店」…詳しくはクレヨン社は「まだ」ここにいる→プロフィール→少年時代、よりご覧ください。

 

Q4 グランプリは想定内?
柳沼

想定してたら先にグループ名を決めてからコンテストに応募したでしょうね。
なにせデビュー前に加藤との音楽活動が「受賞曲の2曲しかない」=「楽曲のストックが他にない」でしたから、グランプリからの~→アルバムデビューだなんて、レコード会社さん無謀っていうか…、マジですか?狂気にも似た賭け?みたいな…、バブル期だからこそ起きたなんかの間違い的な?…それを私は「'88年の奇跡」と呼んでいます。(誰にも言われないので自分でね…)
加藤
想定してないけど100万円欲しいとは思ってた。


Q5 二人のデビュー後の変化は?

柳沼
私の方は勤めていた会社のご厚意で「二足の草鞋を履く」状態にさせてもらったんです。
当時の流通大手の本部でティーンズ服飾雑貨(鞄、靴下、アクセサリー、小物など)の仕入れの仕事でしたから、すごく楽しくて続けたかったですし…、職場の皆さんにはホント良くしていただきました。
有給使ってリハーサルやコンサートや地方の仕事、退社後はレコーディング、通勤時間と休み時間は曲作り…、そんな感じで私はOL生活+αでしたが、加藤はデビューによって各種アルバイト生活からの脱却となる大転換期でしたね。

加藤

おかげさまで、デビューしてから現在に至るまで、働いたという記憶が一切ない(音楽を作ることが仕事と思えないから)

 

Q6 デビュー後の一番いい思い出と大変だった思い出

柳沼
良い思い出は数々ありますが、やはり私はアルバムを7枚残せたことですね。
干渉されず思うままに作品作りをさせてもらえたことで、マイナーでもキッパリさっぱり悔いが無いのです!
負け惜しみに聞こえるでしょうが…たぶん気のせいです!
それと全アルバムが加藤のお姉さんのイラストによって統一したイメージで残せた事は本当に良かったなと、感謝しています。
大変だった思い出は、事務所契約前の話し合いでは、「テレビに出ない」ってお願いしておいたのに、事務所を辞める頃には生放送の歌番組に何度か出してもらったことです!
ホントは感謝すべきですよね~。
でも!有名人だらけの出演者のオーラがハンパないわ、こっちから大先輩方に勝手に挨拶にも回れないわ、うっかり歩けば女優さんや俳優さんがいっぱいで座る場所も無いわ、生放送前の雰囲気に飲まれるわ、緊張感Maxに達した加藤と私…!
しかも歌う曲はクレヨン社の曲じゃなく、知らない懐メロ!それも2日か3日くらい前に曲が決定したような気が…。
一番ビックリしたのはモニター!
今ならイヤホンでモニターできますが20数年前の私らが出してもらった番組は、フロアモニターがテレビの画面に映らないようにすっごく遠いっ!
広いスタジオに、壁は吸音材だったかな?音がハウリングしないようにモニター音量も小さい!
殆ど何も聞こえない真空管か宇宙のど真ん中みたいな世界でした!
いつも私が歌う環境は、レコーディングならヘッドフォンだし、ライブやコンサートでも柳沼用モニターが足元にあって自分の声がよ~く聞こえる所でしか歌ったことないのにですよっ…!
せめて事前に生放送はそういう環境で歌うって事を知ってたら心構えも出来たでしょう。しかしリハーサルでその現実に直面した私はもうボロボロ~…柳沼の抜け殻です。終わったね~私…。
そしてつい言っちゃいました…。
「私、歌手じゃないんで…(作詞作曲する人なんだもんって言い訳したかったのね心の中で。)」
…まぁ、そう呟いたところで、マイナーな私らが何者か知らないその場に居た皆さんは、何言ってんだ?的な空気がサーっと流れていって、加藤の血の気もサーっと引いていったよね。
あの恐怖体験(出演)が「私らはこの業界に向いてないから更にマイナーに潜伏して好き勝手にやっていこう…」と決心するに至った一番大変だった思い出でしょう。フッ…寿命縮んだわ…。

加藤
柳沼が言ったテレビ出演以外は、すべて楽しい思い出でした。


Q7 コンピレーションアルバム収録曲「痛み・2004」については?

柳沼

1stアルバム『オレンジの地球儀』は殆どが会社勤めしながらの曲作りでした。
「痛み」の1番は学生時代を振り返るシーンで、2番では慌ただしく仕事で流れてゆく当時の日常の描写です。
会社があった芝公園と通勤で使っていたJR浜松町駅の往復の風景や、よく仕事で行っていた渋谷スクランブル交差点が主なモチーフです。
ちなみにJR浜松町駅は、北口の竹芝通りじゃなく南口の狭い方の道路を歩くことが多かったので、外出先から会社へ戻る時に見上げた西の空を、(ビルに)“切り抜かれた空”と書きました。
そしてバタバタと曲を書き上げたら即、加藤作りたてホヤホヤのオケで「痛み」をレコーディングすることになりました。当時の私の声は若く細く、どう歌っていいかもわからないうちに、あれよあれよという間の録音でした。
そして時は流れ、6thアルバムに入れようということになりましたんで、ライブなどで歌い慣れ定着した歌い方での「痛み・2004」を録音したんです。

加藤
「痛み・2004」をミックス中に、ピカソの有名な言葉が思い浮かびました「芸術は進歩はない、変化があるだけ」…。クレヨン社の微妙な変化にご注目ください。


Q8 デビューから30年

柳沼

10年目を越えたあたりから活動年数など数えてもなかったんで、そんなに時間が経った事に気づきませんでした!
どんなに思い返してもクレヨン社はアーティストっぽく振舞えた事がないような気がするんですけど…、それなのに長い間クレヨン社を覚えていて下さる方がいらっしゃるとは!
そう言えば、よくライブアンケート等に書いていただいたのは、「胸の中でずっと大事にしまっておきたい音楽です」ってお言葉でした。
広めないでど~すんですか?胸の中にしまっておいたらクレヨン社は売れないままでしょーがっ!とツッコミ入れましたよ!
でも、そんな奇特な方々が今もクレヨン社を聴いて下さってるんでしょう!有り難いです!

加藤
今も聞いてくれる人がいるのは、柳沼の歌詞のメッセージが普遍的だからだと思う。


Q9 福島について思う事

柳沼
コロナ禍前は月に1~2回程度はいわきの実家へ帰っていたので、遠い故郷って感じではなく日常的につながっている感覚です。
なので地震の時も台風の水害の時も、親族や近しい人々と共に渦中にある感じで「外からアーティスト目線」でのコメントや、応援ソングを作る…みたいなことができませんでした。
ガン告知を受けた時とか肉親との死別など大きな悲しみに打ちひしがれた時、音楽はしばらく聴きたくなかったという自分の経験上、福島の、特に浜通りの人々の傷の深さや喪失感、不安感の前に、私は言葉が見つかりません。
悲しみの淵に心を沈めたままの大人たち、終わりの見えないモノや、動かせない大きな圧力の前で途方にくれる人々、そんな方々にも「心から音楽を楽しめる日々が当たり前になること」を願うばかりです。
それでも、生命力と再生能力が強い子供たちや若い方が、音楽に心を躍らせ前へ向かって歩いて行く姿は、福島の大きな希望となるでしょう。その美しい光が福島を照らしてくれると信じています。

加藤
3.11以降の福島への思いを映像にしました。「ランチボックス」「加藤秀樹」で検索してみてください。


Q10 今後のクレヨン社

柳沼
特に音楽活動の予定はありませんが、このコンピレーションアルバムに加えていただいた事は、クレヨン社としての思い出がまた一つ増えた事として嬉しかったです。どうもありがとうございました。

加藤
柳沼次第です。今回の返礼品CDの曲を録り直すと言い出したのは柳沼です。やるときゃやるんだと思いました。

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