絵のない絵本
いつものように加藤が、いわき市キクヤ楽器店2階のLM(ライトミュージック)売り場で店番をしていたときのことであった。机の上の一枚のポプコン(ヤマハの主催するポピュラーソングコンテスト)応募用紙が目にとまった。
当時ポプコンは地元の楽器店単位で応募受付をしており、応募用紙には歌詞を書き込む決まりとなってた。
何気にその歌詞に目をやった加藤は驚いた。その字があまりにもヘタクソでガサツだったからだ。
しかし、読み進めるうちに加藤はもっと驚いた。バンドブームも手伝ってか、そのころポプコンに応募してくる歌詞は、内容の乏しいものばかりだったが、その歌詞はあまりに秀逸だったからである。
応募用紙には、柳沼由紀枝、17歳、作品名「絵のない絵本」(この曲は2ndアルバムに収録されている)と書かれていた。
早速加藤は柳沼に会ってみたくなった。こんな歌詞を書く17歳の少女はどんな娘か興味がわいてきたのである。
二人の出会いの日はその翌日、意外にもあっさり訪れた。
柳沼が楽器店に注文しておいた品を取りに来たのだ。
「柳沼さん?…というと、これを書いた柳沼さんですか?」と加藤はポプコン応募用紙をとり出し、恐る恐る尋ねてみた。
「そーです!」と元気に答えた柳沼は、彼女が書く字と同じようにガサツな女子高生だった。
「これってどんな曲?」加藤は店内に人気のないのを確かめて、もう一度尋ねた。
すると柳沼は断りもなく店の売り物のギターを引っぱり出し、初対面の加藤に向かって臆することなく「絵のない絵本」を歌いだしたのである。
彼女の歌は、もはや彼女の字のように、ヘタクソでもガサツでもなかった。
そして加藤はこの素直で透明感のある声とメロディーラインにすっかり魅了されてしまったのだ。
加藤はこのとき「このガサツな女子高生の才能を育てたい」と本気で思ったのだという。
しかし、思うだけで何も行動に移さないのが加藤の悪い癖だった。
月日は流れ、やがて柳沼は女子高を卒業し上京することになる。
そして柳沼が最後に店を訪れたとき加藤が聞き出した彼女の上京先が、やがて訪れる二人の再会の鍵となるのであった。
音声多重
上京した柳沼は、デザインの専門学校へ通い、東京の代々木で一人暮らしを始める。
もちろん歌は続けるつもりだったが、専門学校のカリキュラムはかなりタイトで、毎日のように課題に追われていた。ギターさえ触れることができない日々が続いたという。
一方、地元の楽器店で2年目を向かえた加藤は、ちっとも変わらない環境に嫌気がさし、とび出すように店を辞めてしまった。
行くあてのない加藤はとりあえず東京の姉のアパートへ転がりこむことになる。
加藤はいくつものアルバイトを転々としたが、あるミュージックテープの制作会社に落ち着いた。
まだ新しかったその会社では音響技術の知識がある加藤は重宝がられ、アルバイトにもかかわらず、現場をまかされるようになった。
ミュージックテープの業界ではそのころ「音声多重」というカラオケテープが全盛だった。
片チャンネルにオケ、もう片方のチャンネルに仮歌が入っており、仮歌を聞きながらカラオケの練習に励むことができるという当時は画期的な代物だった。
加藤はその仮歌録音を担当していたが、スタジオではポップスを歌ってくれる女性ボーカリストを探していた。
そのとき頭に浮かんだのが柳沼由紀枝だったのだという。
久しぶりの再会であった。
そのころの柳沼はデザイン学校を卒業し、CI(コーポレーションアイディンティティー)やロゴマークなどをデザインする当時最先端のデザイン会社で働いていた。そのかたわら地道ながらも弾き語りの音楽活動を続けているのだという。
さっそく仮歌を録音してみると、柳沼の歌唱力は健在だった。ポップスはもちろん、演歌や童謡まで彼女は器用に歌いこなし評判も上々だった。
ちょうどそのころ、加藤にヘッドハンティングの話が持ちかかる。小さな録音スタジオをまかせたいというのである。
当時の会社への義理もあり加藤はだいぶ悩んだが、新しい録音機材を揃えてくれるという条件で、加藤は引き受けることにした。
本人を含めて二人だけの小さな会社だが、若くして加藤は社長と呼ばれるようになった。
柳沼もCIの会社から、カバンのデザインの会社へ移ったが、相変わらず加藤と柳沼は音声多重カラオケの仕事を続けていた。
柳沼にもOLの習性が染み込んできたのか、昔ほどのガサツさはなくなり性格的にも丸みを帯びてきた(体型も)。
かぎとりぼんのはなし
加藤の仕事も順調に進みだしたころ、柳沼の母親が倒れた。
すると彼女はいきなり会社を辞めてしまった。実家に戻り、母の看病をするためである。
柳沼は母の看護を続ける中、家族についてや、幼いころの記憶をたどった詩をいくつも書き、曲を作った。(これが後の1stアルバムに多数収録された)
幸い母親の回復は早かった。柳沼はたくさんの新曲と、新たな決意を胸に東京へ戻ったのである。
ほどなく柳沼は次の仕事を見つけた。ダイエー本社のセレクターという仕事だった。
ちょうどそのころ、加藤の仕事は暗礁に乗り上げた。加藤に出資してくれていた親会社が倒産してしまったのだ。
親会社からだけの仕事をあてにしていた加藤の経営するスタジオも当然仕事がなくなり、廃業に追い込まれることとなった。
しかし、これがクレヨン社誕生のきっかけとなったのである。
倒産した親会社が未払いの売掛金の相殺として、買い揃えてくれた録音機材をすべて加藤に引き渡すことにしてくれたのだった。
加藤はスタジオを引き払い、西日暮里の六畳間の自宅アパートに録音機材をすべて持ち込んだ。
機材で溢れかえったアパートの一室で加藤は途方に暮れた。
「これで何をしようか…」
そして加藤は遠いあの日のことを思い出すのである。
「このガサツな女子高生の才能を育てたい…」
当時柳沼には、母の看護の時期に作った曲のストックが何曲もあった。その中から加藤は最初の曲として「かぎとりぼんのはなし」(1stアルバムに収録)を選んだ。
加藤は昼間は近所にバイトに出かけ、夜はオケ作りに励み、柳沼は休日ごと歌入れにやってきた。こうして2ヶ月をかけた試行錯誤の実験作「かぎとりぼんのはなし」はついに完成した。
完成した作品を加藤は「リットーミュージック主催オリジナルテープコンテスト」に出品してみた。結果、奨励賞なるものを受賞した。
気を良くした二人は翌年も作品出品のため、加藤はアルバイト、柳沼はOLを続けながら、制作活動に精を出すようになる。
翌年オリジナルテープコンテストはAXIAの協賛が付き、規模も大きくなり「第一回AXIAミュージックオーディション」となっていた。
加藤と柳沼はそのオーディションに「辻が花浪漫」(1stアルバムに収録)を出品した。
そしてその曲は、本人たちも予想していなかったグランプリを獲得することになったのである。
加藤と柳沼が出会ってから7年目の春のことだった