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鼓曲萬来

Rock’nRoll My Way ⑤ ブラインドバード

東京に戻って
東京へ戻って来てからしばらくは友達のバンドを見に行ったり、
昔の友達と曲を作ったりしてたんだが..池袋にACBがあって
その地下はアピアと言うDISCOになっていた、そこによく出入りしていたんだが..
MOPSの弟バンドにブラインドバードと言うバンドがあって、
名付け親は当然鈴木ヒロミツさんで、オリジナルの歌からその名前が付いたそうだ。
 
で、いつしかそこでSESSIONのような感じで
ブラインドバードに混じって歌なんかをやっていたんだけど..
或日リーダーから「BASSとDRUMSが抜けるので
正式なメンバーとして加入してくれ」、と言う依頼を受けた、
 
ブラインドバードはMC5とかBLUESIMAGEのようなサウンドだったのだけれど..
新たにFREEみたいな感じで演奏したいんだと言うんですな。
 
ブラインドバードはギターの藤原の兄が藤原企画という音楽事務所をやっていて、
まあ..なんていうか村八分の時とは大違いな感じ..
つまりスケジュールを切って来る訳ですわ..
毎日、殆どがその池袋ACBの地下のアピアが多かったんだけど..
日によっては銀座ACBやラセーヌとかのJAZZ喫茶、時には八王子の方迄、
営業の仕事で昼夜休み無く、演奏していた記憶がある。

 
今と違ってバンドも少なかったのかもしれない、休みが月に1~2日って感じで..
もう東京中のDISCOやJAZZ喫茶で演奏したよ..
未だLIVEHOUSEなんて形態はどうだったんだろう?あったのかな?..
いや.覚えてはいない..多分まだ出現はもっと後、そんな気がする。
 
バンドの世界ももうGSは最後期になって来て、
ときたま、有名なバンドと共演していたけど、
殆どが新しいスタイルの音楽をやっていた..
勿論日本のROCKなんて言うジャンルも確立してきていた時期かもしれない。
 
LIVEは本当に渾沌としていて、例えば、
僕らとヤンガースとかオリーブとかブルーインパルス、なんて
GS風なバンドと一緒の時もあったし..
ゴールデンカップスやハプニングスフォーなんてバンドと一緒の時もあった..。
 
銀座ACBにカップスと対バンなんて言う時がよくあって、
その時はもうカップスも以前とは大分メンバーチェンジしていたな..、
平尾さんに、こうちゃん、ベースが柳ジョーちゃん、でキーヴォードがミッキ-吉野、
ドラムがモッチンって感じだったかな..
 
楽屋で演奏が終わって休憩してると、
時さんがあの「長い髪の少女」のさびを歌いながらやって来るんだ..
「どうじょ~♪」なんて、
つまりそれはどういう事かと言うとさ、メンバーが来ていない、
或いは遅刻を意味してる訳さ(笑).
つまりさ..「どうぞトラよろしく」って事なのさ..
で、誰かななんて思ってると「アイが遅刻、ドラマー貸してよ」..「うっ..俺だよね」..
って訳でもう休憩無しで2ステージなんてのが結構あったよ。
 
当時の東京のバンドはこう言ったJAZZ喫茶や
DISCOで月契約で演奏していく方法もあったし、
野音やフリーコンサートで新しいROCKシーンを作っていこうとする
2つの動きがあったと思うんだ、
 
メデイアも新しい音を捜していて、可能性はあるが、
いかんせん方法がまだ確立していない、
そんな時代だったような気がする、
まだレコード会社もそういったものには前向きではなかったし..
バンドの方も融合、離散を繰り返して..納得のいくものを作り上げていこう..
そんな努力をしていたような気がするな。
 
で、実際 まだ音源を発表していたバンドは極僅かだった..
はっぴいえんどとかフラワーズ位だったか..
 
で、そんな頃、ブラインドバードのLIVEには
よく一人でカルメンマキが遊びに来ていた、
マキは当時、フォーク調の曲で大ヒットを持っていたけど、
いつも僕にこう言っていた「あたし、ジャニスがやりたいの..」って..
 
で、まだOZは結成される前だったから、ブラインドバードがバックを務めて..
確かヤング720だったか..TVに出て一緒に演奏した事がある、曲はなんだったかな..
ジャニスの曲だったのは確かなんだけど..
で、その後、彼女がOZを作る時にメンバーに誘われた事があるんだ..
 
でも..まあ..その頃の俺は、なんて言うか村八分の後遺症かな..
どうもそういう日本のROCK云々にはどうもすんなりと乗れなかった..、
チャー坊や冨士夫以上にアナーキーでワイルドな感じは、
自分の中で他に望めそうもなかったし、
今度バンドやる時はもっと楽しい感じがやりたい、
そう思っていたんだ..。
 
実は今迄言った事は無かったんだけれど、
としが加入する前の頭脳警察のPANTAにも村八分時代に誘われていた..
奴は曲が沢山書いてあるNOTEを俺に見せてギターを弾きながら
「こんな感じで..」なんて言っていたよ..
 
勿論、その後マキもパンタも良いメンバーに恵まれて..
70年代の主要なバンドになっていく訳だけど..まあ..なんて言うかな、
俺は誘いやすかったのかもしれないし、
そういう感じに対応するドラマーがまだ少なかったせいも有るかも知れないな..。
 
そんな感じで野音のROCKFES'にも出ていたし、ROCK FESの常連でもあった、
そして夜は営業(笑)..
で、それがね、或日急に解散と言うか..そんな事になってしまったんだ、
理由はね..ギターがなんか間違いで.ビルの窓から落っこちてしまったって言うんだ..
 
仕事場に行ったら、急に社長が青い顔でね..そう言われた..
「本当かい..で、大丈夫なの」って聞いたら「命に別状は無いんだけど」って事で、
まあ..ほっとはしたんだけど..その日を境に演奏は不可能になった..
つまりさ..もう、なんて言うか、俺の顔や名前を覚えていない訳です..
当然ギターの演奏も出来ない..。
 
あちゃーって感じかな..その頃はそれで一応給料制で仕事していたから..突然はね、
で、社長は別のギター入れて..なんて言ってたけど..どうも..な、
 
そこまで此のバンド続けて行きたいとも思わなかったし..
ベースの勝はビーバーズの成田さん平井さん、
それから近田にグレープジュースの金沢純が作ろうとしていたエモーションに
誘われているのでそっちをやってみたい..って言うし、
俺は俺で..一つ仕事の当てがあったので、
その社長の申し出には丁重にお断りした訳なんだ。
 
70年代初期の東京のバンドは

おおまかに分けてGSの頃から生き残っている大御所BAND、
そしてそこから抜けて新しい音を捜そうとする連中そして、
まさにこれから日本のROCKなんて領域を確立して行こうとしていた新しい連中、
まあ..そんなバンドがごった煮のような感じで交流していた..
 
今みたいにメデイア、情報誌なんてのもまだ無かった時代だったから..
俺達はどうやって情報を掴んでいたんだろう?
多分、そうだ..音楽情報誌..ミュージックライフとか..
それも未だbeatles,stonesってのが中心だったけど..
突如「ニューミュージックマガジン」なんてのが登場して、
よく日本のバンドの話題を取り上げてくれてたっけ...
 
この頃だよ「ROCKは英語か日本語か?」って話。
 
今ならさネットで即意見交換とかがREAL TIMEなんだろうけど..
当時は毎月意見と反論で、そりゃ盛り上がった..
祐也さんは英語派ではっぴいえんど一派は日本語派って図式だったかな..
未だに、よく結末が当時解らなかったんだけど..あれの決着はどう着いたんだろう。
 
まあ..それは、それで..バンドの方に話は戻るけど、
演奏する場所はJAZZ喫茶やDISCOが消滅するちょっと前だったから..
どのバンドも場所にはこだわらなかった..し、演奏出来るだけで..
その情報を何処からか聞き付けて、観客の動員ってのもまあまあ..
 
つまりさ..
日本中の若いや奴等はROCKでなけりゃ..いかんかった訳です、
俺達も後期のJAZZ喫茶で色々なバンドと演奏していた..そうだよね..
日本語か英語か?..まあ..当時のレパートリーは仕事上殆ど英語だったかな..
そうじゃない連中は自分達で仕事場を開拓していかなきゃならなかったからね。
 
渋いバンドもいっぱいあったよ..まあ竹ちゃんとこのBLUES CREATION、
ジョニー吉永がいたカーニヴァルス、カーナービーツを抜けた次郎さんが作ったLIFE,
それにスーパーショックコレクション、乱魔堂、
そして、そうそう..
新宿のサンダーバードなんて処に行けばthe Mや瀬川さんのニューダイナマイツ。
大体此の頃のバンド連中は殆ど顔見知り..バンドも少なかったし..
まだ関西からのバンドの連中は東京にはあまり出向いてこないそんな頃さ。
 
仕事のあて..と言っても


別に月幾らのって感じじゃなかったんだけど..社長にはそう言うしかなかった..
面倒も良く見てくれたし、恩義もあるしね..まあ、実際その話が来てたのは本当で、
昔のエイプリルフールのヴォーカルだった小坂忠さんが
野音に出る為にドラムやって欲しい..と言う話だった、
忠さんに話を聞くとカントリーロック、って言う事で..
ちょっとためらいはあったんだけど時期も重なって、
それじゃと言う事で引き受ける事にしたんだ.。
 
メンバーは僕が声をかけた訳です、カントリーロックって言うんなら..
やはりスティールギターかなって事で、
 
N大の音楽部で知り合った先輩の駒沢結城さんにお願いした..
駒沢さんはその頃未だ音楽部のウエスタンバンドで演奏していたんだけど..
此の仕事を契機に、
日本のカントリーロック系のバンドから
良く誘いを受けるようになったみたいですけど..
(すいません引っ張り込んじゃって)、..
 
そして高橋幸広に「忠さんが今度野音に出るんで、ギター誰かいない?」って聞くと..
「恒田さん..僕がギターでどうですか..」.なんて..お~っ本当かよ!..
有り得ないような話だけど..そのバンドのギターは高橋幸広で..
ベースは幸広が連れて来た小原礼!、
そう此の二人は後に
サディステイックミカバンドの強力リズムセクションになって行く訳ですけど、
有り得ない話ですが..
実際にそのメンバーで野音に出演したんですわ..カントリーロックですわ。(笑)

しかし..当然

此れは無理があるよね(笑)カントリーロック!
忠さんはそれから自分でSOLOアルバムを作って行く感じだったし、
幸広と小原はミカバンドに、って事で一度だけで解散、..
 
となるとやはり生活の事もあるし、
俺は高校生の頃のバンドのメンバー上園に連絡して
赤坂のDISCOのハコに入る事にした、
他のメンバーは当時よく行っていた
吉祥寺のROCK喫茶「BE-BOP」で知り合った大学生達
 
...あったよね
 
ROCK喫茶
60年代と言えばやはりJAZZ喫茶やGO' GO'clubで
グループサウンドをみたりDISCOで踊ってた訳だが,70年代に入ると..
やはり音楽、ことにROCKは観賞用の様相を呈して来た訳で..
rock'roll'と呼ばれた初期のサウンドからどんどん音像、も変化して....
昼間はよくこんな店でまったりと椅子に腰掛けて新しいレコ-ドをよく聞いていた。
 
吉祥寺にはBE BOPという老舗のROCK喫茶があって..
その姉妹店なんだろう..サンロードの奥に此の店はあった..「赤毛とそばかす」。
 
ドアをあけると..大きなスピ-カ-から流れる大音量のサウンド..
「あら..よしみ君、いらっしゃい」等と当時の店長まさこさん..が愛想よく迎えてくれて..
 
僕は奥の木の椅子に腰掛ける..注文はコーヒーにトースト..
すると大きなヴァインダーとリクエストカードを持ってウエイトレスがやって来るのだ
(う~ん記憶が定かではないが..ニックネームはトマトにレタスだったような)..
 
つまり此の店では置いてあるレコードは
全部そのヴァインダーに丁寧に番号付で整理されて..
一つの注文に対してリクエストアルバム1枚..それも片面のみ..
つまり僕は此のリクエストカードにこう記入する訳だ..N019654のBとか..
 
するとリクエストが混み合わない限り..数分後には
そのアナログレコードのB面がターンテーブルに載っているという寸法..
しかし..新譜等だと両面聞きたいじゃない(笑)..
その場合は飲みたく無くとも「COFFEEおかわり!」になる訳ですな。
 
僕は多分此の店のレコードの大多数は聞いたのではないかな..
と言う事はだよ、
おそらく何千という単位のcoffeeを飲んだって訳だ、
まあ..数は把握出来ませんが、兎に角今そう思うのだ、
 
そして此処が大切なんだけれど..此れはね..一つの自己表現でもあって..
そして他の客に於いても..つまりさ..選ぶレコードがその人の全てな訳ですよ..
勿論「誰だよ?こんなつまんないリクエストした奴は~」という事もあって..
そこに居るお客の値踏みをする作業も楽しかった..
 
反対に自分がリクエストしたレコ-ドに反応して乗って来るお客もいる訳です..
もうそんな場合は無言で..「これ..お前?」って感じで..向こうとこちらでニャッ..と
意思疎通も即座に一瞬の交流がある訳です..
これがさ..可愛い女の子!なんて場合もたまには有った訳ですよ..、
最近はCDを聞きに行く店..なんてのは少なくなったように思いますが..
もうジャンルも多様化して..今じゃ特殊な店以外..収集が付かなくなるでしょうな..。
 
15分の間だけは..僕の自己主張に満たされる店..大音量で!..そんな店でした。
 
まあ..話はそれたけど、そんな頃、別の処で叉一つの運命が進行していた訳なんだ。
 
忠さんとあの頃
朝起きたら色んな人から連絡が入っていて、なんだろうと思ったら
先日、小坂忠さんが国際フォーラムで超豪華なゲストと共にLIVEがあったそうで
内容もさる事ながら
圧倒的な歌声は超感動の嵐って感じだったそうで
大病からの復活はそれはそれでよかったんだけど
 
途中のMCコーナーで高橋幸宏が
忠さんのバンドを首になった旨の話をしたらしいんだな
小原礼もそれに乗っかっていたらしいんだけど

曰く「僕は(幸宏)はギターで誘われて、下手すぎて首になった、
それでその時のドラムは同じ立教の恒田君」って僕の事に触れたらしい

まあね、そういういきさつは色々なところでおひれがつくと
思いがけない展開になって後で収集がつかなくなるから、
(村八分で経験済み)
例えばさ
村八分!ドラムがずれようがおかまいなし!とかね
ちょっと待ってよって感じでしょww
言いたい事はこちらにもあるしww
 
まあそんな事も含めて
俺たち3人とも首って感じじゃない
そのMCだと....
まあ、いいんだけどさ.....
 
そういう事はちゃんと申しひらきしとかないとね、って事で
ここで時系列的に書いておこうと思う
ロックンロールマイウエイPart1にもその時の事はちょっと触れてあるけど、
あまり詳しくは書かなかったからね
 
話は随分昔に遡るけど
高校時代、細野さんは先輩、幸宏は後輩だったんだけど
幸宏のドラムは当時からかなり上手かったよ
 
松本隆さんには弟がいて小学生の頃、ボーイスカウトで同じ班、
で、その班の班長が松本の兄貴、つまり隆さんだった訳さ
「そなえよつねに」なんてかなりまじめだな~って子供ながらに思ったもんさ
 
柳田ヒロさんには妹がいて、高校当時俺が付き合ってた跡見の子から
「あの娘のお兄さんはエイプリルフールの人よ」なんて話を聴いていた
 
つまり当時、エイプリルフール、フローラル、フィンガース辺りは俺にとって、
そう遠い関係ではなかったんだわ
 
忠さんに初めて紹介されたのはロックミュージカルHair!
で、それから紆余曲折があって、
村八分やブラインドバードを止めた頃かな
忠さんから
「今度野音でバンドでライブやりたいんだけどドラムやってくれ」って話が来た訳さ
 
聞かせて貰ったのは二-ルヤングとかジェームステイラー
で、正直俺はちょっとためらったんだ
一度細野さんにオーディションされて、
はっぴいえんどお声が掛からなかった経緯もあるしww
 
まあ、異論はあるだろうけど、俺の中でフォークとロックの違いは
サウンドとか詞とかの問題より
曲が終わった後のMCとかの雰囲気がとても耐えられなかったんだww
なんかぼそぼそって感じで喋るじゃん、そりゃ良い話とか中身もあるんだろうけど
ドラマーにしてみれば、あれは苦痛の待ち時間以外のなにものでもなかったのさ、
キースムーンなら間違いなく爆破だと思うよ
 
でも、まあそれならという事でバンドのメンバー捜しに入ったのさ
カントリーぽいのならやっぱりスティールかなって事で
日芸の音楽部にいた先輩、駒沢 裕城さんに声を掛けたら、やりたいという事で
多分学校のC&Wじゃ満足出来なかったからかもしれないけど
ちょっとあの人の性格上ひっぱり込んで申し訳ないなとは今でも思うけど、
その後、色々なバンドに関わってやっていたのを聴くと、ちょっとホッとはしてるんだ
 
で、同じように幸宏に「ギター,ベース誰かいないか」って言ったら
「恒田さん、僕ギターでどうですか、ベースも一人います」っておお!まじかよ!
 
信じられない話だけど、その時のメンバーはギターに高橋幸宏、ベースに小原礼、
スティール駒沢 裕城、ドラム恒田義見という感じで
数回、僕の部屋で皆集まって音合わせして、野音に出演した訳です
 
で、冒頭の話に戻るわけなんだけど
そのバンドはそれ一回きりww
その間に僕はハルヲフォンに幸宏と小原はミカバンドにって流れだけど
 
気がついた時には忠さんは新バンドに俺ら以外の、
まあ、名前は知ってる近辺の方々、
そして只一人、
駒沢さんだけを残してフォージョーハーフ(四畳半)ってバンドになってたって訳さ
 
まあね忠さんにはその時の気持ちも聞いてみたいけど
とりあえず忠さんからの正確なくび宣告はなかった事だけは此処に明記しとくよ。
 
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