スタレンイッカンカゲカイチ
シーザースの頃よく曲名を短縮版にして、
シーザースの頃よく曲名を短縮版にして、
この符丁で合図出しながら曲演奏していたんだ..
当時のDISCOは曲の間を開けちゃ行けなくてね..
で、次の曲の用意と心構えをしておきながら..エンデイングと共にイントロに入る
いちいち一曲ずつコールするのが面倒になると一気に指令が来る..
例えば..こう叫ぶ訳だ 「スタレンイッカンカゲカイチ!」
...となると..頭の中で翻訳して
スタ=ROCKSTEADY
レン=LONG TRAIN RUNNING
イッカン=これはかなり複雑で..つまりカンフーファイテイング「燃えよドラゴン」を一回だけで終わる..と言う事なんだ..ハーフサイズ
カゲ=いわずと知れた..青い影
カイチ=此れは逆さ読み..つまりスタイリステイックスの「誓い」って曲
これを頭の中で組み立てて1ステ-ジ、メドレーでやる訳
プロフェッツショナルっす。
OKサイン?
我々はその頃よく営業のバンドで演奏しておりまして、
所謂LIVEHOUSEとかが出現する前の
ディスコとかgogoクラブ(笑)とか言ってた時代でして、
まあ...簡単に言えばハコと呼ばれる、月単位契約の営業ですな。
その頃、招からざる方達が2種類程ありまして
一つはカレンダーや、手ぬぐいの販売業者(笑)
そしてもう一つが、今回の話。
まあ、大体夕方に仕事場に入りまして、
まず厨房のチーフに本日の賄いの有無をお願いして、
フロアミーティング等を横目に、楽器のチェック!
それから開店、我々は19:00頃からそそくさと一回目の演奏に入って参ります。
で、45分間切れ目なしで曲を繋いでお客様を踊らせる訳です。
で、閉店間際、終電間際まで何回か演奏していく訳ですが、
時には営業時間を過ぎても一向に下がらない、というか...
更に店が盛り上がってくるなんて時もあるわけですな。
で、そういった時間帯になりますと、
われわれにはいくつか確認しておかねばならない項目がいくつもありまして、...
例えば
(楽器の電源スイッチは誰が落とすか、
飛び込んで、まぎれ混みたい席はどこにするか?)等です。
と、言うのも、...殆どの生演奏の店には経験が必ずあると思いますが、
その頃の時間帯には不意に警察の視察が入る事がございまして、...
さあ、その時ですわ、このサインが飛び交う訳です。
銀座のシーザースなんかは地下ですから、まず上の入り口にフロアが一人、.....。
額のところにこのマークを示しますと、
地下の入り口のフロアがこれを受けて中のフロアマネージャーに伝え、
我々にこのマークを提示する訳ですな。
で、受けた我々は演奏を中断!電源スイッチをすばやく切って、
さらに狙いをつけた席(笑)に飛び込んで、
何事も無かったかのかのように談笑したりするわけですわ....。
Pがフロアに降りた頃には、演奏のかけらも残ってない訳です。
いや、もちろんばれてる筈ですわ、,,,,
相手もね、階段下りる時には轟音なわけですから、...
しかし、通常は注意だけ、(日ごろからの協力体制がこんな時生きるわけで)....、
しかし、まあ、時には不遇にも店長、バンマス呼び出し、
悪くすると楽器没収、営業停止なんて事もありましたけど。
その頃の名残かもしれませんけど、TVでローラがオッケ~!とかやると、
そのサインを見て、なんかそわそわしたりして(笑)。
まあ、法律違反っちゃ違反なんですが...席に紛れ込んでいるときに、
賭博法違反とか職務執行妨害とかと同等の
犯罪意識があったのは間違いない訳で、....
でも、なんかな~。
まあその時の気持ちは、なんとも説明出来ない物も確かにありましたわ、風営法。
これは、よくよく考えて見ますと、当時は通報は同業者が多かったですな、
一種の営業妨害....、まあ、今はどうかは、.....
我々はもう深夜営業、演奏とかはありませんので、なんとも言えませんが、
CLUBのDJ諸君、今もこんな感じで営業してるんでしょうかね、?
もうこの歳になりますともし、深夜演奏なんかがあったとしても、
あの頃のように機敏には身体動かないでしょうな、
それにそんな気持ちには耐えられませんわ.....。
まあ、はっきり申しますと、
今50代の後半から60代のミュージシャン、バンドマン達は
必ずこの目に遭っている訳で、あの思いを経験しているからこそ、
あれから何十年もたって、時代も変わって、社会通念も変わった訳ですので、
ここらへんで法律改正、一考の程を、切に願う次第です。
銀座シーザースパレス栄光の日々
小林が新たなメンバーとなり、
再び銀座シーザスパレスのハコバンに戻って行く訳なんだけど、
其の頃の俺達の集客力はかなりのもんだったな、
何故なら店が開く前にシーザースパレスのビルの周りを客が並んで待っているんだ、
(LIVE HOUSEや映画館じゃあるまいに...)
従って我々の待遇、店の配慮もかなりのものになった。
どのような感じかというと...
我々のステージにマーシャルの巨大なアンプが3台登場し、
大音響の中、当時のディスコにあり得ないような選曲.、
客はどう踊ればいいのか?と戸惑うような曲、
誰も聞いた事のないようなシブ~イ、レパートリーが
(例えばトラフィックのグラッド~フリーダムライダーなんて曲が)
続々と繰り出されていったんだ。
客はそれでも何も言わず付いて来たよ。
当時のステージオープニングテーマは
BOOKER Tの「BE YOUNG BE FOOLISH BE HAPPY」、
エンヂィングテーマは「HIP HUG HER」...
まだ名前も聞いた事のないようなハコバンにジュリーや祐也さんが来るわ..
ガロのトミー>(この人にも合掌)がギター弾きに来るわで
『あんた達、だれ?』という感じだよ。
そうだそうだ..近田が結婚したのも、此の頃だったな。
毎週一日はメンバーがトラをいれてもよい、
どんな選曲でも店は一切文句は言いません、
そんな条件は前代未聞だよ。
俺は此の時期本当に楽しかったんだが...
正直いって疲れた...なにしろ大轟音なんだ...
他のメンバーはつまみを廻せばヴォリユームをコントロール出来たが、
俺は生の上、唄迄こなさなきゃならない.....
そこで「唄に専念する」という口実でコンガ、ティンパレスを購入し、
新たなドラマーを入れようという事にしたんだ。
やって来たのは近田の前のバンドのメンバー
アランメリルとトリオでゴジラってバンドや
成田KEN&EMOTION(BLUES BAND)の金沢純(ジュンボウ)。
当然徒名はジュンボードン(ジムゴードン)に決定したのだが、
奴は困った事に、かけもちなんだ、かけもちの他方はゴールデンカップスだった。
どちらを選択するかは本人次第なのだが、
相手は先輩だけにこちらはあまり強く出られないのよね。
結局奴はジョーちゃんや時さん(デイブ平尾)のいる
最後期のゴールデンカップスに入った。
ジュンボウの代わりにやって来たのは小林の後輩、
近田の後輩でもある(慶応の)、長谷川という奴だった。
彼はチャーのいたバッドシーンというバンドのドラマーであったらしいのだが、
俺はよく知らない。
ドラムスタイルはカーマインアッピスが好きだそうだ、
そのてはあいにく俺は嫌いなんだよ、スチスチうるさくて、
だけど、他にいないので奴に決めたんだ。
徒名はガンジ、何故そうなったかというと、
仕事がはねた後、銀座のなんとか寺というクラブ
(ソコデハお姉ちゃん達が呼び込みの為、
路上でタンバリンをガシガシ振って盛り上げるのだ)に
ちょくちょく入って行くのを目撃されていたからである。
長谷ガンジ、奴はそれからそう呼ばれていたんだ。
演奏の時スチスチうるさいから、或日切れてね、奴にこう言ったんだ、
「ハイハット、スチスチうるせえ!
今度スチスチやる時は旗でも上げてからやれ!」ってね、
そしたら次の日、本当にドラムセットに旗たてやがったんだ!奴は。
「銀座シ-ザ-スパレスは取り壊されていた..」
2003年、あの頃毎晩演奏に出かけたシ-ザ-スパレスが地下にあったビルは
取り壊しになっていた...
寂しいなあ..新しくなったら又地下に新装開店するのかな?
それとも違う店になるのかな?又思いでが一つ消えて行くのだ。
ファンキーダッコNO1,キャロンホーガン
さてバラ色のバンドマン生活に別れを告げる時がやって来た。
あの玩具メーカーのタカラがダッコチャンを再発する、
その企画ものをキングレコードの井口ディレクターが持ちこんで来たんだ。
実は我々はこのままシーザースパレスで一生を送ってもいいと思っていたんだが、
ハコバンを捨てる道をあえて選んだ。
いわゆるハルヲフォンのレコードデビュ-だね。
マネージャーは高木の同級生(高橋ユキヒロもそうだけど..)の巻政義に頼んだ、
奴は新橋の時計屋の息子で解散迄その任務に付く事になる。
曲は(サム&デイブのソウルマンのような...リフで)近田が作って、
さて唄はと言う事になった時、誰が言い出したのか今ではさだかではないが..
「本物の黒人ソウルシンガーがいいじゃん..、」
責任感の乏しい発言は現実となっていったんだ。
ソウルエンバシーの勝俣さん(カッチャン)が連れて来たのは、
紛れも無いソウルシスターブラウンシュガー、
六本木アフロレイキの看板女性シンガー
キャロンホーガンである。
褐色の肌に胸元が開いたピンクのドレス、ブラウンアフロモリモリヘアー、
レッドサングラス、にアフロレイキ...それはまさにSOUL TRAINものほんである。
俺達は初体面の時たじろいだ...ウッ!となったのさ。
シスターかいな。
こういう時黒人はなんて挨拶するのかななんて考えちゃってね。
しかしそれも一瞬で打ち解けた、「きゃろんでーす、よろしくおねがいしまーす!」
な~んだ完全な日本語じゃん、ホッ......。
「好きなシンガーはリンコリンズ、ミリージャクソン、アレサフランクリンでーす!」。
俺はディープなソウルはあまりよく知らなかったのだが...
とりあえずファンキーに笑ったんだ。
これはどうなっていくんだろう?
誰も何も意見も言わずにレコーデイングに入って行っちゃったのさ。
「企画物のシングル一枚だけ...もうどうにでもして....」
これが其の時の偽らざる心境ですね。
1975
ディスコの帝王ハルヲフォンモービルにはBOOKER T
ディスコの帝王ハルヲフォンモービルにはBOOKER T
記念すべきハルヲフォンの初RECは音羽のキングスタチオで行われた
(ジではなくチに点々)。
メンバーは6人 近田春夫&ハルヲフォン『ファンキーダッコNO1』。
最初の出来上がった歌詞はね、今では当たり前のラップとして通用するのだろうが、
当時の俺達にはあまりにもキワモノすぎた。
メロデイなしの、オケに乗ってキャロンがいわばSHOUTするそんな感じだったな..
「あたいが毎晩飲む訳は!自由の女神の生まれ代わりだよ!イェイ!」
こんな感じだったけど、過激すぎるという事で.
「モー負けそう(てんぷくトリオ)」の例の唄と歌詞になった訳だ、
尚コーラスは俺と近田だ。
あれから30年経った今、考えれば最初のテイクの方が良かったんじゃないか?
そう思えるのであるが、残念ながらそのテイクは此の世には存在しない。
尚、最初のHIT ME NOW! はガンジ、間奏の喋りは
これも勝俣さんが連れて来た、ブラザーである。
(名前も覚えてないわ...もう今聞くとレコード、フリスビーにしたい位だ、
それにしても此のMC誰が考えたの?)。
勝俣さんはソウルエンバシーのオーナーで、
そのおかげでハルヲフォンは日本全国のDISCOを駆け巡る事になったんだ。
確か発売記念のパーテイも赤坂のDISCOだったと記憶している。
FUNKYダッコNo1の踊り方
1.たがいに向き合い左足を半歩出す.1.2.3.のリズムで上体をそり体をふるわせる.4のリズムで体をぶつけ会う。
2.歌から間奏の部分に入ったらたがいに右足から右方向へ.1.2.3.4と4歩進み、次の1.2.3のリズムでもとに戻り4でぶつけ合う
3.間奏のdjの部分は、全体は1と同じだが、4のぶつけた時に手でダッコをする。
2.歌から間奏の部分に入ったらたがいに右足から右方向へ.1.2.3.4と4歩進み、次の1.2.3のリズムでもとに戻り4でぶつけ合う
3.間奏のdjの部分は、全体は1と同じだが、4のぶつけた時に手でダッコをする。
同時に営業用楽器車も登場した。
これは高木のおやじさんが車屋だったこともあり、
ホーミーバンを改造して作ってくれた、
車体は黒、横に白字で大きくハルヲフォンと書いてあり屋根はオレンジ、
ダッコチャンをイメージして塗られたものだが、
どうみても>巨大なゴキブリとしか見えない車であった。
そして備え付けられたカセットデッキは通常のものではなく、
営業用の大きなカセット(カラオケで使うような)しか掛からなかった為、
我々は其の時その一個きゃない
BEST OF BOOKER T &M'G'Sを永遠に聞かされる事となってしまったんだ、
おかげでアルバムの隅々迄全曲完全COPY出来たよ。
この車は解散の時点までよく働いてくれた...
一体最終的にはどの位の距離を走覇したのであろうか?
当時のスケジュールは夜、名古屋のDISCO、
終わって楽器を積んで~全員楽器車移動~昼新宿の伊勢丹の屋上イベント~
終わって楽器を積んで~全員楽器車移動~
夜、名古屋のDISCO、こんな感じである。
郡山のワンステップROCK FESもそんな状況の中出演したんだ。
企画物ならK社です
キングレコードは企画物の王者でもあった...。
我々はDISCO生活の中、ちょこちょこと怪しい仕事を井口さんから頂いていた、
偽GS(グループサウンド)これはこの間CD化され
「近田春夫&ハルヲフォンメモリアル」なんていうタイトルで
6曲ばかりそのCDに入っていたが、
正確にいえば、演奏と唄、その頃のハルヲフォン(キャロン抜き)
パル(ちょっとだけマイウエイ)の男性2人に依って録音したものだ。
これは「ハルヲフォンメモリアル」なんて言うタイトルで
出されていたアルバムの中から、
収録曲は6曲ばかりPICK UPされてますな。
収録曲は6曲ばかりPICK UPされてますな。
1.ブル-シャト-
2.君に会いたい
3.キサナドウ-の伝説
4.ノ-ノ-ボ-イ
5.愛のリメンバ-
6.朝まで待てない
2.君に会いたい
3.キサナドウ-の伝説
4.ノ-ノ-ボ-イ
5.愛のリメンバ-
6.朝まで待てない
って当時は勿論ネオGSなんて言葉が有った訳じゃございません、
と言うより、むしろROCK全盛期、偏見と誤解の渦の中、
タブ-かつ勇気有る代物と言わざるを得ませんな..堂々としてます。
またオールディズの企画物、演奏ハルオフォン(キャロン抜き)
ゲスト一杯なんてのもあったが..これは結構その筋では売れたらしい。
寺内たけしさんがWALK DON'T RUN(ヴェンチャーズ)を弾きに来たが
「コードが違う」と言い出したんだ、俺達はまんまコピーしたのだが...?
後で解ったのだが、寺さんは永年此の曲を演奏し続けて来た結果、
もうこれは自分のオリジナルであると完全に錯角し、
自分のコード進行が
本物のWALK DON'T RUNだと思い込んでしまっていた事が判明した。
プロたる者かくあるべきと皆深く感動したのだった。
友達だったスマイラーのジョイが歌ったSUGAR SHUCKもよかったな...。
館ヒロシ&クールスのデヴューアルバムも
全曲ハルヲフォン(キャロン抜き)が演奏し、
キャロルの矢沢や近田の作曲で録音されたものである。
我々はこの時期、自分達で言うのも変だが、結構しっかりした演奏を目指し、
日々努力していたように思うのだ。
やがてそれが反動となって行く訳だが、この頃の演奏は正に真面目なバンドマン、
ミュージシャン魂に溢れた時期であるといえよう。
勿論OFFは皆何をやっていたかは不明ではあるが。
また、「フジヤマダンシング」という曲をその頃RECORDINGした記憶があるが、
残念ながら音源はない..キングさん、これはまだ残っていますかね?
確か記憶では
フジヤマ、フジヤマ、アハッ!チヨ、チヨ(千代)という
コーラスリフが入るDISCOものだったと思うのですが?。
謎のMISSING LINK
1年位してからアルバム制作の話が持ち上がったのだが...
実は此処からRECORDINGの時期まで
ハルヲフォンに於いてはMISSING LINKともいえる謎の時期があるのだ。
最も俺も何故そうなったかは定かではないが、とにかくそうであったのだ...。
まず最初に、小林と長谷川をやめさせたのだ。
それは何を意味するかというと..近田のピアノ中心でギターレスでやる、
俺のショーアップパフォーマンス先行のドラムでやる(演奏はいいかげん、)、
だからもうソウルミュージックのようなタイトなリズムやしっかりした演奏は必要無い、
あるいは出来ない!という事を意味していた。
だけど何故かキャロンはしっかり残っていたんだ。
良く解らん、近田よ?ナンデそうなったか覚えているか?
とにかくその一時期..LIVE HOUSE等への出演は、
近田、俺、高木、キャロンで演奏していた、
この時期のハルヲフォンは誰も知らないだろうな..。
ギターは四人囃子の森園勝敏がやってくれた。
(後年その森園が四人囃子をやめた時、
小林が代わりに弾いていたのを覚えてる人もいるだろうが、
それは此の時の借りを返したみたいなものなのだよ)俺達は義理堅いのだ。
そして更によく解らないんだが、アルバム制作に向けて
キングの一室を練習用に借りてOriginalを作っていたんだが、
或日、キャロンが急にいなくなり、再び小林が何事もなかったように練習室に現れ、
そしてハルヲフォンは何事も無かったかのように、
誰もその事には触れぬまま、一枚目のRECORDINGに入っていったんだ。
推測するに、何かが行われ..、話され、そして結果的にこうなった。
それは容易に推測出来るものではあるが、そんな事はもうどうでもいいのだ、
兎に角、このメンバーになったハルヲフォンは
「今迄の俺達とは違うのだよ...!」といわんばかりに
演奏もステージングも考え方も全てが変化し、
過去を清算しスタートラインに付いた、そんな感じだったんだ。
(今迄の事はなしね、なし、なし!)