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鼓曲萬来

Rock'n Roll My Way ⑩ ハルヲフォン5

1978
 
電撃的東京
 
もうハルヲフォンには皆で集中して新しいORIGINAL作って録音する、
そんな全員でまとまったエネルギーは実際にはもう残ってなかったんだ、
皆が別々の方向を向いて勝手に動いている、そんな感じだったな。
そんな時、近田が或る日こう言って来たんだ。
 
「恒田よー、ハルヲフォンの3枚目作ろうぜ、今度はさ、お前の大好きな感じなんだよ、
全曲歌謡曲とGSのカヴァー!」
俺達は最後の力を振り絞って
これがおそらくLASTアルバムになるだろう録音に入った。
皮肉にもそれがハルヲフォンの一番評価の高い作品になろうとは..
それが「電撃的東京」なんだ。
 
選曲は全曲近田が持って来た、全部俺達にとっては衆知の楽曲ばかりだったんだ。
ヴォーカルも全員に振り分けた、
タマやプリのリードヴォーカルもこれがおそらく初めてだろう?。
それをいつものアレンジ方法で完成して行き、今回はダヴィング等、極力少なくして、
スタジオ一発録り、LIVEをそのまま持って来たような感じ...。
そうこれこそがハルヲフォンの後期LIVEの音なんだ。
 
終演に向かって一気に突っ走る焦燥感、
そしてそれはウイリアム.S.バロウズの>>「裸のランチ」の世界にも似ていて、
そうそうデヴィットクローネンバーグが此れを映画化したっけな
(えーと、確かコピーが「NAKED LUNCH...スキャンダラス、そしてグロテスク。
二十世紀最強の妄想世界へようこそ!」だったっけな)。

「ついておいで」シャープホークス
良いけれどさ、俺はシャープホークスのシングルのB面
「キュン!キュン!キュン!」の方が好きだったよ。(ホタテマンもそう言ってたよ)。

「恋の弱味」郷ひろみ
近田よ..お前の唄はあまりの音程に
井口さんの眼鏡のレンズが録音中ふっとんでしまったんだよ、
お前は知らないだろうけど。
それから此の曲のバンプでの俺の始めてのブルースハープのソロ、
トラックダウンの時だたのSEに加工しちまっただろう。

「東京物語」森進一
小林はなで肩、小太りだったから
よく>二丁目方面から「うちで働かない?」なんて誘われてたっけ、
ポールコゾフかい?ニューヨークドールスなんかい?
どっちかはっきりしろ!なめらかでうますぎる!

「きりきり舞い」山本リンダ
果たしてこんな幼稚園童謡声のROCK SINGERなど許されるのか?
(イリアに受け継がれていったけど)

「真夜中のエンジェルベイビー」平山三紀
近田よ..俺は.ドラマーではなく歌う立場からすれば、
ハッキリと言っておきたい、これはマイナーコードの曲だ、
メイジャーにアレンジしないで欲しかった!とてもやるせない...頼む...。

「ラストショー」JJS
もう涙なくしては俺は聞けない、さようなら。

「デサノヨツイスト」スリーファンキーズ
俺に『ウーン、デサノヨ!』なんて掛け声掛けさせたけど、
50になった今聞くと死ぬ程恥ずかしい。イレースは、えーと、出来ないか。

「情熱の砂漠」ザ.ピーナッツ
俺は選曲の時、井口さんに
「キングのザ、ピーナッツよろしく!」と念を押されちゃッたからしょうがないけど、
これより、青江三奈の>「私のスター」の方が今でも良かったんじゃないか?と
少し後悔してるんだ。
ところでリフの後の小林のギターソロ、偶然とはいえダヴィングだろ?
ダヴィングにしては見事に決まりすぎだ。
大きいステージでは此れで始まって、
近田が登場して人間狩りという寸法だったよな、確か。
そしてライブハウスの時は「ついておいで」だったかな?。
「気になるお前」沢田研二
あれから、何年も経って、未だに良く俺は理解出来ないんだが、
歌間のピアノリフは一体何小節で、俺達はどうやって合わせていたんだろうか?
誰かの合図だったのかなあ?
それとも小節数を演奏しながら各々頭の中で数、数えていたんだろうか?

「ブルドッグ」フォーリーブス
此のテイクのOK出した奴は一体誰だったんだろう?
お前だったっけ?俺だったっけ?それとも井口さんだったかな?
兎に角演奏のスケール感や間奏のインプロに比べて
エンディングがしょぼすぎやしないか?
もっと普通は大袈裟に仰々しく終わるもんなんだ、
これじゃ最後だけ妙にキッチリ礼儀正しい
勝ち抜きエレキ合戦のアマチュアバンドみてえじゃねえか?。
それに此の曲の為に俺が折角買ったロートタム、
風呂屋のおけ叩いてるみたいに聞こえるんだけど?(なんかした?)。

「人間狩り」ピーター
確か日比谷の野音で此れやった時、頭に奇妙なコーラス延々と付けたよな?
フランクザッパみたいな気持ち悪い奴だったけど.もう思い出せないわ、
どんなメロとリフだったっけ?。
作詞家の山口洋子さんが、わざわざ見に来てくれて、
喜んでいたのを覚えているよ。
しかしゴールデンカップスの「いとしのジザベル」だって
もっとリフの小節数は解りやすかった筈だ、
特にエンディングのこれはどういうアドレスで進行してるんだ?
俺はコーラスしながらだったから
「私は誰?此処は何処?」に近い状態が永遠と続いていたのだよ、曲中ずっと。

「恋のTPO」
此のアルバムのプリプロ段階の時期にステージで実際に演奏していたがザンネンながら選にもれた数々の電撃的東京LIVE楽曲の土台に感謝する。
 

電撃的東京

 
THANKS TO
「あの娘と僕(スイムで行こう)」橋幸夫、(近田)
これが始まりだったよな、そもそもの。
「夕陽よ急げ」加藤ヒロシとリンド&リンダース、(恒田)
オーイ又会おうね~っ!はやっぱり俺恥ずかしかったよ。
「MR DJ」あいざき進也、(小林)
そうそう日劇ウエスタンカーニバルはあいざき進也WITHハルオフォンだったな。
それからトリがチャーだったんだけど、
そうだ!リューベンに椅子貸したままだ、どうなったんだ?あのドラム椅子。
「私のスター」青江三奈、(恒田)
誰かこのシングルレコード持っていませんか?もう捜してもどこにも無いんです。
ヘレンメリル(ニューヨークのため息と言われた)よりため息JAZZYです。
(聞けば聞く程哀しくなります)。
日本のROCKメドレー、一触即発(四人囃子)~ファンキーモンキベイビー(キャロル)~ダブルデイーリングウーマン(紫)~港のヨ-コ、ヨコハマ、ヨコスカ~ネイビーブルー(CHAR)~私は風(カルメンマキ&oz)~ユーベターゴ-(クリエイション)さとり(フラワーズ)」> 凄い話だよな、何考えてたんだろう俺達?本人達の前でグンギンにいってたんだからな、奴等も喜んでくれたりして..不思議なバンドだわな。
 
「レモンのキッス」ベニーシスターズ(高木)
「逢えるかもしれない」郷ひろみ
(LIVEの時のオープニングBGMは此の曲だった、
楽屋で腰入れなんて一通りのセレモニーをして
ステージに向かうのが俺達のしきたりだったな。)
東北の二大怪獣とか、ワカメとか呼ばれていたステージアクションの数々 

                            
(ウィリアムバロウズの書いた裸のランチ、
NYの害虫駆除員ウイリアム.リーはインタ-ゾ-ンに逃げ込む..
使ってるタイプライタ-はクラークノヴァ..車の名前は御存じ、ステイリーダンである。
不思議な街..。俳優はピ-タ-ウエラ-、ジュデイ.デイヴィス、
イアン.ホルム、ジュリアン.サンズ、ロイ.シャイダ-等である。
監督はデヴィド.クロ-ネンバ-グ)。
 
ロキシーの夜 

その後のハルヲフォンは近田の評判やアルバムの評価もあって、
前よりは結構巷では有名なバンドになっていたんだ、
電撃的東京をメインに置いたLIVEも盛り上がりを見せてはいたんだが、
次のシングルは筒美先生の曲で近田名義の作品になると言う事がKINGで決定し、
俺達も「フーンあっそう..。」という感じになった。
 
歌謡曲仕立てで(曲はアトランタリズムセクションのSO INTO YOUみたいな、
B面はDR,JOHNみたいな)演奏はユキヒロや細野さん(高校の先輩)の
新しく作ったYMOというグループがやるという事である。
 
そう、時代はまさに打ち込み全盛の時代へと移って行く事になる訳だ、
80年代。
俺達みたいなドラマーやベーシストにとっては寒い冬の時代の到来さ、
まあ勝手にどうぞ..みたいな感じだったんだが、
「ロキシーの夜」を録音中の近田から電話があって、六本木に呼び出されたんだ。
 

行ってみると近田がばつの悪そうな顔して立っているんだよ。
 
それにすまなさそうに此う言うんだ
「あのさー、恒田よー、実はさ,A面のロキシーの夜は上がったんだけど、
B面の曲のKEYがさ..合わないんだよ、
悪いんだけどさ、代わりに歌ってくんないかな?」。
 
俺はその時近田にこう言ったんだ
「それはいいけどよ、今度のシングルはお前のソロ名義じゃん、
それを俺が歌っちゃおかしくないか?それにKINGはどう言ってンのさ?」。
今になって考えてみると近田は俺やバンドに遠慮して、
こんな申し出をしてくれたのかな?とも思うし、
本当に声が出なかったのかもしれない、
本当の真相は解らないけれども、ともかくシングルはA面「ロキシーの夜」近田名義、
B面「闇にジャックナイフ」ハルフォンのクレジットで発売されたんだ。
それがハルヲフォンの最後のレコードになった。
 
それから数カ月して、俺は巻にやめたい旨を話したんだ、
「ちょっと待ってよ義見さん、平山三紀とのジョイントコンサートがあるんすよ、
それからハワイでのファンクラブとのTOURコンサートもあるんすよ、
もうちょっとの間考えて貰えませんか?」。
 
俺は正直言って、平山三紀と聞いて少し心が動いたんだけれど、
決意が固い事を奴に告げた、
それよりちょっと辛かったのは、
前ならこんな事なんのわだかまりもなく近田に一対一で話すような内容だったんだ、
 
それにロキシーの件だって、前なら悪いけどさーなんて言わずに
奴が俺に電話で「助けてくんなまし!」で済んだんだ、
互いに話もしない何か妙な居心地の悪さがあってね、兎に角俺は抜けたんだ、
まあ、どうするのかなードラム、みたいな責任感はちょっと残ってたけどね、
それから2、3回、俺の代わりにドラムをさして練習したみたいなんだが、
たまから電話があってね、
「僕もぬけましたわ、やっぱりもう他のドラムじゃだめみたいだあ、タイミングあわねっす!」、
かくして前述のコンサート2本をリズム隊のトラをさして消化して>>>
完全にハルヲフォンは解散したのであります。

その後は、近田はソロとして、叉PRODUCERとして、
小林は巻とCCB(ロマンテイックが止まらない、だったっけ)
の事務所の社長をやって行く事になる、
たまはイリアとバンドを組んだりストライクなんて
自分のバンドを作って行った。(今どうしてんのかな?)

俺はその後、四人囃子の大二や坂下,長沢なんかとPEGMOというバンドで
キャニオンから二枚のアルバムをリリースする事になるんだが、
そのへんの話は又今度ね。
 

追記 


解散して奴がSOLOになっても、少しの間はちょくちょく連絡はとっていたんだ。
 
或日近田に電話したらさ、こう言うんだ、
「おう恒田!元気かよ、ところで俺さ、今度のシングルの事でさ巷にいるじゃん、>
占い師にさ聞いてみたらさー、今度貴方のレコードは
表も裏も同じ物がいいでしょうって言われたんだよ、
これって画期的だろ、俺びっくりしちゃってさー、俺の考えと一緒なんだよ、
今度のエレクトリックラブストーリー俺そうするよ、
曲はさ、クリフリチャードのDEVIL WOMENもろよ!」、
俺はその時、占いでっていうのにちょっとビックリしちまったんだ。
 
追、追記

実は90何年頃だったか忘れたけど、
一回だけスタジオ取って練習した事があるんだ。
メンバーが全員揃ったのは解散してからその時だけだ、
(ジュンボーやキャロンの事もあったし)
理由はたまには遊ぼうっていう単純な事で
俺が全員に声をかけたんじゃなかったかな?
其の時、山岸潤史に見つかってね、
(隣はSO BAD REVUEの再編成のリハーサルだった。)
大声でスタジオ中に叫ばれたよ、
「何と!わい夢見とんかいな!おっとろしいバンドがおるでー!
ハルヲフォン全員お揃いかいやー!何企んでいるん?」なんてね。
 
その時何やろうか?なんて話しになったんだが、
結構照れるもんでね、うーんなんて感じだったんだけど、
小林が例のリフを弾きだしたんだ、
すると体で覚えているってのは恐ろしいもんでね、
最後迄以前と同じように曲を演奏できた。
BOOKER T&MGSの『MELTING POT』。
そうだよな、これっきゃないよな小林よ。
そしたら近田が「プレイボーイズやろうぜ」って言ってね、
GARY LEWIS&PLAYBOYSの『GREEN GRASS』を俺の歌でやった、
未だに奴はこういうコード進行好きみたいだな。
それから『引き潮(EBB TIDE)』をBARRY WHITEの感じにアレンジしたのをやって、
初期の頃よくステージで盛り上がった『GSメドレー』をやった。
 
それから「オリジナルやろうか?」って事になって『十年早いぜ』をやったんだ。
「結構今でも忘れないで、できるもんだな」、なんて話をして
「じゃまたな」なんて言って別かれたんだ。

追追、追記


2002年 俺達鼓絆の二枚目のアルバム「めでたき」の『夢かうつつか』は
久しぶりに(10年振りか)近田がスタジオで
例のBooker T風ハモンドB-3を弾いてくれたんだ。
奴は「もうキーボードなんて最近やってねえんだ、出来ねえよ」
なんて言ってたけど、俺はなんだか、とっても嬉しかったよ。
 
去年の12月にお台場のTLGで鼓絆のLIVEがあったんだが、
その時近田が見に来てくれたからね、俺も奴のトランスパーテイに顔出したんだ、
真夜中の12時スタートでね、奴の出番は朝5時だった。
結構盛り上がったけど、寝ないで朝7時の電車に乗るなんて何年ぶりだろう..
眠かったよ。そうそう、「週末」なんて曲を思い出したんだ。
 
 
※2005年KING在籍中のアルバム3作品が
新たにデジタルリマスタリングされ発売になりました。
 


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