アジア映画巡礼

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2011年逝けるインド映画人を偲んで:シャンミー・カプール

2011-12-23 | インド映画

2011年インドでは、インド映画史に名を残した偉大な男優が2人亡くなりました。シャンミー・カプールとデーウ・アーナンドです。今回は、シャンミー・カプールについてご紹介したいと思います。

まず、カプール家の家系図を見てもらいましょう。 

 

ちょっと字が小さくて申し訳ないのですが、上図のようにシャンミー・カプールは、インド映画黎明期の名優であり、『偉大なるムガル帝国』 (1960)のアクバル大帝役でも知られるプリトヴィーラージ・カプールの息子です。生まれたのは1931年10月21日、ボンベイ(現ムンバイ)にて。本当は四男なのですが、彼がお母さんのお腹の中にいる時すぐ上の兄2人が相次いで亡くなったため、長男のラージ・カプールに次ぐ次男のような存在でした。末弟はシャシ・カプールで、ラージ、シャンミー、シャシ共に一時代を画した人気俳優です。

上の兄2人死亡のエピソードは、マドゥ・ジャイン著「カプール一家」(ペンギン、2005)からのネタです。表紙写真は、若き日のプリトヴィーラージ・カプールです。

シャンミー・カプールの映画デビューは1953年の『人生の輝き』(原題:Jeevan Jyoti)ですが、ブレイクしたのは1957年の『君みたいな人、見たことない』(原題:Tumsa Nahin Dekha)。のちに人気監督、名プロデューサーとなるナーシル・フセイン(アーミル・カーンの伯父)の監督デビュー作でした。ハンサムだけどちょっとお調子者の青年、というキャラクターがピッタリハマり、人気が出始めました。続いて、同じ監督の『心を捧げてみて』 (1959/原題:Dil Deke Dekho)もヒット、たちまち若い女性ファンのアイドルになります。その頃のシャンミー・カプールはこんな感じです。セクシーで、ジェームス・ディーンみたいですね。

(「フィルムフェア」1959年5月22日号より)

ナーシル・フセインと共に、シャンミー・カプールを大スターに押し上げた監督がもう1人います。シャクティ・サーマントです。ご当地映画を撮るのが上手だったシャクティ・サーマントは、『シンガポール』 (1960/原題:Singapore)、『チャイナ・タウン』 (1962/原題:China Town)、『カシミールのつぼみ』 (1964/原題:Kashmir Ki Kali)、『パリの一夜』 (1967/原題:An Evening in Paris)などでシャンミー・カプールを美人女優パドミニーやシャルミラー・タゴール(サイフ・アリー・カーンの母)らと組ませて、ご当地情緒たっぷりの作品を作り上げました。

『シンガポール』ではシンガポール・ロケがふんだんに使われ、ご当地民謡「ラサ・サヤン(ゲ)」をシャンミー・カプールとヘレンが踊るシーンも登場しました。また、当時のマレー語映画のスター女優、マリア・メナドとも共演しています。サロン・クバヤ姿の美女に囲まれて、2人が踊るという貴重なシーンも見られます。チャイナ・タウン』では、当時のあだ名「インドのエルヴィス」を彷彿させるこんなシーンもありました。

同じ頃、大ヒット作が出ます。『野蛮人』 (1961/原題:Junglee)です。共演は、サーイラー・バーノー、のちにディリープ・クマールの妻になる美人女優です。

(スチール提供:Natinonal Film Archive of India)

この映画は、映画自体もさることながら、主題歌がスーパーヒットしました。「Yahoo! Yahoo! チャーヘー・コーイー・ムジェー・ジャンガリー・カヘー (ヤーフー! 誰かが僕を野蛮人と呼ぼうとも)」というです。この歌があまりにも有名なので、今ではすっかり有名なサイト「Yahoo」の名前を最初に聞いた時、創設者はインド人に違いない、と思ったものでした。残念ながら単なる偶然の一致のようですが、このロゴを見るたびに「ヤーフー!」というあの叫びが耳にこだまします。余談ながら、この歌は当時の人気歌手ムハンマド・ラフィーが歌っているのですが、「ヤーフー!」という叫びは別人の声とか。

こんな風に超人気者となったシャンミー・カプールですが、その頃すでに妻も子もいました。最初の家系図でもおわかりのように、女優のギーター・バーリーと1955年に結婚し、長男が1956年に生まれていたのです。ブレイクする1年前ですね。私の大好きな女優ギーター・バーリーは、日本でも上映されたグル・ダット監督の監督デビュー作『賭け』 (1951)とそれに続く2作『網』 (1952)、『鷹』 (1953)に主演しています。1955年の結婚当時、シャンミー・カプールがまだ駆け出しの俳優だったのに比べ、ギーター・バーリーは押しも押されぬ大女優でした。チャーミングな、演技もダンスもとても上手な人気女優だったのです。ギーター・バーリーの写真と、1959年の一家の写真をどうぞ。まだ小さかった娘は写っていません。(「フィルムフェア」誌は合冊したのをいただいたので、スキャンがあまりうまくいってませんがお許しを)

(「フィルムフェア」1959年3月13日号より)

ところが、シャンミー・カプールがこれもヒットとなる『3階』 (1966/原題:Teesri Manzil)を撮影中、ギーターは天然痘にかかって急死してしまいます。まだ30代半ばでした。『3階』はこの間東京国際映画祭で上映された『ボリウッド~究極のラブストーリー』 (2011)でもだいぶ長くクリップが使われていました。シャンミー・カプールがインタビューに登場していたせいもあると思うのですが、この映画はミステリー映画ながら華やかなソング&ダンス・シーンがたくさん使われていて、あのドキュメンタリー映画にはピッタリの素材でした。「アージャー・アージャー(おいでよ)」とシャンミー・カプールがロカビリー歌手(古いですねー)のように腰を振って歌うや、「巻き毛の美人さん」というこちらもプルプル&クネクネ感たっぷりのは、大ヒットしたのです。

小さな子供が2人いたためか、シャンミー・カプールは数年で再婚します。1969年、グジャラート州出身の良家のお嬢さんニーラー・デーヴィーと再婚して以降は、いろんな心境の変化があったのでしょうか、ぐっと大人しく、というか、大人になってしまったシャンミー・カプール。そして、1971年の『スタイル』 (原題:Andaz)をヒットさせたあとは、体重が増加したこともあって第一線からは退き、父親役をすることが多くなりました。それでも、人々はその姿にかつてのセクシーなシャンミー・カプールを重ね合わせ、彼のちょっと不良っぽいヒーロー姿を懐かしんだのでした。

私が彼の作品を見始めたのがこの頃で、アミターブ・バッチャンやヴィノード・カンナーの父親である警部役をやった『養育』 (1977/原題:Parvarish/上の写真はLPジャケットより)あたりからですが、この頃のシャンミー・カプールは宗教心の厚い人として知られ、奥さんのニーラー・デーヴィーは賢夫人として彼を支えていると言われていました。兄ラージ・カプールも弟シャシ・カプールも子供たちを俳優としてデビューさせていますが、シャンミーだけは2人の子を映画界入りさせず、堅実な人間に育てた、と人々が噂するのも聞いたことがあります。

亡くなったのは、本年8月7日。腎不全によるもので、お葬式にはカプール家のメンバーのほか、アミターブ・バッチャン、アーミル・カーンらが参列しました。遺作は、甥であるリシ・カプールの息子ランビール・カプールの主演作『ロックスター』 (2011/原題:Rockstar)だったそうです。合掌。

 


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