なんか寝て起きて思った。
(あ、めっちゃ哲学的です、ここから。)
いろんな感情が自分の脳に伝わってこんってことは、
その感情は別に気付く必要がない気持ちなんかなぁって。
多分自分が「不快に感じとる」ってことに気付かんがなら、
その「不快」な気持ちは自分に耐えることのできる範囲のことであって。
だから反射的な思考の中で容易に解決できとるんかなぁって。
それが人間なのかも。
そういうふうにできてるのかも。人間って。
もしも自分にとって処理できないくらいの、
大きい「不快」な気持ちとかに直面したときは、
体が、心が、拒否反応をおこして脳に伝えて、
それから自分の気持ちに気付いて、
そこから先は処理の仕方がひとによって違うのかな。
外にぶちまけてしまう人もいれば、
中に押し込めてしまう人もいる。
まぁどっちにしろ、そのことで心身は危機から脱出してる、のかな。
だから何が言いたいかって言ったら、
私が自分の気持ちに気付かんってことは、
「不快」とかそういう気持ちにある程度強くできてるんじゃないかってこと。
もしくは滅多にそんなできごとに出会わない、
平和な人生をたどっとるのかなってことです。
そういう気持ち対してに強い人と弱い人がいるのは確かだと思う。
同じ状況に陥ったとしても、
すごい怒ったり、悲しんだりしてしまう人と、
別になんとも思わない人がいて。
前者はそういう気持ちに弱いんだろうね。
後者はそういう気持ちに強くできてるんだろうな。
私はどっちかっていうと後者なんだろうな。
強くなったっていうのには今までの人生経験が影響してるんだと思う。
それが今まで出会った尊敬できる人たちの考え方だったり、
今まで本で読んだりしたことで植えつけられた理想であって。
そうやって強くなってきたんじゃないかなぁ。
だから別に「不快」ってことに気付かないことは問題じゃないと思ってきた。
それよりむしろ気付いた後の処理のほうが問題だよね。
まぁ幸い気付くことなんて滅多にないわけですが。
でも「快」って気持ちに気付かないのは何でだろう。
これってすごい悲しいことなんだよね。
それか今の自分が感じる「快」の大きさに満足していないのかな。
うん、そうかもしれない。
いくら小さい気持ちでも、
私にもちゃんと何か感じられる気持ちがあるとは思うから。
だって買い物のたびに「かわいい」とか、
何か食べたときに「おいしい」って思えたりするんだもん。
心の底からそういうことを思えないって言うのは、
そこまで大きな「快」を見つけられていないからなのかもしれない。
「快」を受け取る私の心の部分も頑丈に作られてるせいで、
ちょっとやそっとじゃ動いてくれないのかもね。
動かすのが難しいんじゃないかなぁ。
難易度を何かに例えるなら、
一番得点高い部分がめっちゃ狭いダーツ。
近いとこまでは容易にあたるんだけど、
肝心の中心にはなかなか当たらないっていうね。
でもきっと中心に当たったときはすごい心動かされるんだと思う。
だからいっぱいダーツ(機会とか経験とか)の本数増やして(積んで)、
中心(「快」を感じれる部分)にあたるようにしなきゃいけないんだと思う。
「不快」の部分に強くできてる分だけ、
こっちでは不利になってるから、
普通の人よりもいっぱい投げないと「快」が得られない。
……んじゃないかなぁ。
と自分なりに思ったことを書いてみた。
解決になってないかもだけど、
もっと色々経験していくしかないんだとおもた。
いろんなとこ行って、いろんなことして、いろんな人と関って。
もっと積極的に動かないとだめなんだと思った。
うん、きっと辛いことには耐えれるんだから、
いろいろ挑戦してみても痛み感じにくいはず。
だから大丈夫だよね。
そういう人間なはず。
自分なりに納得したからこの話は最終章なのです。
2006年の目標「自分の話ばっかりしない」だったのに、
早速こんなに自分のことばっかり考えてしまった。ヴァカ…
誰か参考になった人なんているのかなぁ。
日本中の人に読んでもらわないとだめかもしれない。(笑)
こんな日記に書くような内容ブログに書いたの初めてだったな。
私の日記って全部こんな感じなんだよね(笑)
プチ思想家ですから(笑)
まぁ心理学部に行けよって感じですね、うん、ほんと。
(あ、めっちゃ哲学的です、ここから。)
いろんな感情が自分の脳に伝わってこんってことは、
その感情は別に気付く必要がない気持ちなんかなぁって。
多分自分が「不快に感じとる」ってことに気付かんがなら、
その「不快」な気持ちは自分に耐えることのできる範囲のことであって。
だから反射的な思考の中で容易に解決できとるんかなぁって。
それが人間なのかも。
そういうふうにできてるのかも。人間って。
もしも自分にとって処理できないくらいの、
大きい「不快」な気持ちとかに直面したときは、
体が、心が、拒否反応をおこして脳に伝えて、
それから自分の気持ちに気付いて、
そこから先は処理の仕方がひとによって違うのかな。
外にぶちまけてしまう人もいれば、
中に押し込めてしまう人もいる。
まぁどっちにしろ、そのことで心身は危機から脱出してる、のかな。
だから何が言いたいかって言ったら、
私が自分の気持ちに気付かんってことは、
「不快」とかそういう気持ちにある程度強くできてるんじゃないかってこと。
もしくは滅多にそんなできごとに出会わない、
平和な人生をたどっとるのかなってことです。
そういう気持ち対してに強い人と弱い人がいるのは確かだと思う。
同じ状況に陥ったとしても、
すごい怒ったり、悲しんだりしてしまう人と、
別になんとも思わない人がいて。
前者はそういう気持ちに弱いんだろうね。
後者はそういう気持ちに強くできてるんだろうな。
私はどっちかっていうと後者なんだろうな。
強くなったっていうのには今までの人生経験が影響してるんだと思う。
それが今まで出会った尊敬できる人たちの考え方だったり、
今まで本で読んだりしたことで植えつけられた理想であって。
そうやって強くなってきたんじゃないかなぁ。
だから別に「不快」ってことに気付かないことは問題じゃないと思ってきた。
それよりむしろ気付いた後の処理のほうが問題だよね。
まぁ幸い気付くことなんて滅多にないわけですが。
でも「快」って気持ちに気付かないのは何でだろう。
これってすごい悲しいことなんだよね。
それか今の自分が感じる「快」の大きさに満足していないのかな。
うん、そうかもしれない。
いくら小さい気持ちでも、
私にもちゃんと何か感じられる気持ちがあるとは思うから。
だって買い物のたびに「かわいい」とか、
何か食べたときに「おいしい」って思えたりするんだもん。
心の底からそういうことを思えないって言うのは、
そこまで大きな「快」を見つけられていないからなのかもしれない。
「快」を受け取る私の心の部分も頑丈に作られてるせいで、
ちょっとやそっとじゃ動いてくれないのかもね。
動かすのが難しいんじゃないかなぁ。
難易度を何かに例えるなら、
一番得点高い部分がめっちゃ狭いダーツ。
近いとこまでは容易にあたるんだけど、
肝心の中心にはなかなか当たらないっていうね。
でもきっと中心に当たったときはすごい心動かされるんだと思う。
だからいっぱいダーツ(機会とか経験とか)の本数増やして(積んで)、
中心(「快」を感じれる部分)にあたるようにしなきゃいけないんだと思う。
「不快」の部分に強くできてる分だけ、
こっちでは不利になってるから、
普通の人よりもいっぱい投げないと「快」が得られない。
……んじゃないかなぁ。
と自分なりに思ったことを書いてみた。
解決になってないかもだけど、
もっと色々経験していくしかないんだとおもた。
いろんなとこ行って、いろんなことして、いろんな人と関って。
もっと積極的に動かないとだめなんだと思った。
うん、きっと辛いことには耐えれるんだから、
いろいろ挑戦してみても痛み感じにくいはず。
だから大丈夫だよね。
そういう人間なはず。
自分なりに納得したからこの話は最終章なのです。
2006年の目標「自分の話ばっかりしない」だったのに、
早速こんなに自分のことばっかり考えてしまった。ヴァカ…
誰か参考になった人なんているのかなぁ。
日本中の人に読んでもらわないとだめかもしれない。(笑)
こんな日記に書くような内容ブログに書いたの初めてだったな。
私の日記って全部こんな感じなんだよね(笑)
プチ思想家ですから(笑)
まぁ心理学部に行けよって感じですね、うん、ほんと。
こんなページ発見してしまった。
この考え方と全く一緒でびっくり!
こんなこと考えてる人やっぱ他にもいるんだぁ~