
“夜警”って呼ばれる夜回りは、昔の若者の大切な役割だったそう。
村のすべての家、一軒一軒をまわって、巡回した証である札を一枚ずつかけながら、「夜警ぞ~!」って声を出して、村を守っていたらしい。今でいう、巡査みたいな役割だよね。
若者たちは村を守ってた。
でもそれって、村が若者たち自身を守っていたってことじゃない?
役割があるってことは、そこにその人の居場所があるってことだ。
仕事を任せられるってことは、その人をその存在価値を認めてることだ。
守るって責務が、頼られてるって感覚が、彼ら自身の自尊心を高めてアイデンティティを保つ。
妹ができた兄のように。
子を守る母のように。
メタ認知っていう視点を最近教えてもらったんだ。言葉としては知らなかったけど、何だか自己啓発系のセミナーで話してそうな文句がずらずら出てくる、どっかで聞いたことがあるような内容だった。
異世代交流って、メタ認知能力が自然に育つ環境だっていわれてる。
学校現場で近年、盛んに異学年交流をやってる理由のひとつが、この力の育成だ。
かつて、漠然とゆるやかにつながり続けていたものが、今一つひとつ切り離されて、学問化してるんだと思う。
根っこって、そんなに変わってない。
あるものを守るってことは、自分自身がその対象を含めた社会から守られることだ。
必要とされることだ。
あたし自身も、そんな歳になったのかなぁ。
そんなふうに感じた。あと二ヶ月ちょっとで25歳の、冬の夜。
なんだ、今も昔も期待される役割ってあんまり変わらないんじゃん。
率直な思いはそれだった。
今回の体験で感じた、もしくは教えてもらった限りでは、①労働力、②守る、③伝える、大きくこのみっつ。
それぞれの家族で役割があるように。
それぞれの社会で役割があるように。
コミュニティの母体数が小さいほど、それぞれの役割も責任も大きくなってくんじゃないかな。
(実際、10人の講義じゃ寝られないけど、200人の講演会って寝られちゃうもん
)
かつての小さなコミュニティでの若者たちの役割は、そりゃあもう甚大だった。
罰則も大きかったかもしれないけど、それ以上にこの小さな社会から排除されたときの恐怖心は、現代社会とは比べものにならないほどでかかったんじゃないかって思う。
昔と今との相違、それは“守るべきこと”に対する安易さと、伝統のマニュアル化。
最近の技術の拓本化(データ化)は、表面をなぞっただけ、言葉面だけの、真意を汲み取ることのない伝達にとどまってる気がしてしまう。
どんなことでも、人ありき。家族でもそう。学校や職場など、大小の社会でも。
情報を蓄積し、知識を学ぶことは大切だし、単純に書籍を読むのはあたしだって好きだよ。
ただ、知識をなぞるだけの人はどっか薄っぺらい感じがする。
自らの生き方や信念が、身につけているものや学んでいるものとどっか繋がってて、その人なりの知恵に昇華してる。そういう人って年齢に関係なく、すごく魅力的。ガンガン惹かれる。
役割が見えにくい社会は、人が、特に若者が暴走する社会なんじゃないかなぁ。
自分自身がどうして今、この場所にいるのか。
もちょっと、わかりやすくなったら、今迷ってる若者たちももっと生きやすくなる気がするなぁ。
まだまだ青二才の若輩者だけど・・・ふと、そんなことを考えた。
率直な思いはそれだった。
今回の体験で感じた、もしくは教えてもらった限りでは、①労働力、②守る、③伝える、大きくこのみっつ。
それぞれの家族で役割があるように。
それぞれの社会で役割があるように。
コミュニティの母体数が小さいほど、それぞれの役割も責任も大きくなってくんじゃないかな。
(実際、10人の講義じゃ寝られないけど、200人の講演会って寝られちゃうもん

かつての小さなコミュニティでの若者たちの役割は、そりゃあもう甚大だった。
罰則も大きかったかもしれないけど、それ以上にこの小さな社会から排除されたときの恐怖心は、現代社会とは比べものにならないほどでかかったんじゃないかって思う。
昔と今との相違、それは“守るべきこと”に対する安易さと、伝統のマニュアル化。
最近の技術の拓本化(データ化)は、表面をなぞっただけ、言葉面だけの、真意を汲み取ることのない伝達にとどまってる気がしてしまう。
どんなことでも、人ありき。家族でもそう。学校や職場など、大小の社会でも。
情報を蓄積し、知識を学ぶことは大切だし、単純に書籍を読むのはあたしだって好きだよ。
ただ、知識をなぞるだけの人はどっか薄っぺらい感じがする。
自らの生き方や信念が、身につけているものや学んでいるものとどっか繋がってて、その人なりの知恵に昇華してる。そういう人って年齢に関係なく、すごく魅力的。ガンガン惹かれる。
役割が見えにくい社会は、人が、特に若者が暴走する社会なんじゃないかなぁ。
自分自身がどうして今、この場所にいるのか。
もちょっと、わかりやすくなったら、今迷ってる若者たちももっと生きやすくなる気がするなぁ。
まだまだ青二才の若輩者だけど・・・ふと、そんなことを考えた。

そもそも学校で学ぶような学習内容で、人生にとって真に意義深いものがどれほどあるのだろうか。
なんてこと言っちゃうと、あまりにも極論過ぎますが。
学習として捉えて学びえてきた知識なんて、継続して使わなければいずれは頭の片隅に追いやられて見えなくなっていく。
四則計算だって漢字だって、日常的に使って初めて自分のものとなる。
使わなければ忘れていく。確実に。
インプットした知識は、日常生活の中で消化しながらアウトプットすることで、初めて知恵に変容すると思うんだ。
かつての生活は確かに不便で快適とはいかなかっただろうけど、人ってより過ごしやすく、便利に生活することを望むから、生活の中で考えることはご先祖様にとっては必然だった。
火種を絶やさないように、灰を被せて温存する。
冬は寒いから、残り火でお湯を沸かしていつでも使えるように。
紐でも袋でも敷き物でも履き物でも、わらさえあれば大抵は作り出せる。
必要だから自分たちでどうにかする。
ないと不便だから、自分たちの知識をフル活用しなくちゃ。
頭を使えば使うほど快適になる生活だったから、おのずと生活のなかに思考の場が増えていった。
金銭主義の現代社会では、この思考の部分が分業化されてる社会なんだ。
まさにアイディアが金になる社会だからね。
より便利な生活を営むために、考える場を預かっているのはそれぞれの企業。
そしてその恩恵は、金さえ払えば手に入る。
考えなくてもいい。お金さえ払えば誰かがやってくれる。
考えなくてもいい。やり方にさえ従えばすべてがうまくいく。
考えなくてもいい。だって、生活には困らないもの。
近現代になって、日常の中での思考する場がものすごいスピードで減少している。
思考力が低下している?
そりゃそうだ、そういう社会を望んでいたんじゃないの、ニンゲンは。
不便な生活に戻ろうっていうわけじゃない。
江戸時代の生活は素晴らしいから、時代を逆行して生活を戻しましょうとも思わない。
裏の顔も見えないまま、時代を羨むことは意味のないことだから。
それじゃ、結局何も変わらない。思考を預ける場を企業から歴史に移行しただけだもの。
そろそろ第三の道を模索してかなきゃ。
より快適な生活を営むために金を出す生活から、知識から生まれてくる知恵をひねり出す生活へと、シフト変更する必要性を、今ものすごく感じてるんだ。

白黒の文字が羅列する社会の教科書。
平坦な知識の積み重ねだった受験勉強。
高校で日本史を選択しなかったあたしにとって
そこはペラペラの紙面に描かれた二次元の世界だった。
年号と出来事の組み合わせだったモノクロの知識が、五感から流れ込んでくるさまざまな感覚に染められ、色を帯びながらあたしの中で呼吸し始めたその瞬間。
あたしがいるこの三次元の空間と、それは見事に融合した。
古代から脈々と受け継がれて流れているこの血の中に、江戸を生き抜いた先祖の血は、確かに存在してたんだ。
あたしの中に、確かに。
記録と記憶が繋がる。知識が体験とリンクする。
深い実感を伴う体験は、時間も、空間も超えて、人と人とを有機的に繋ぐ気がする。
顔すらも見ることができない古人の思考に己の思いを馳せる。
そんなの妄想かもしれないけど。
古人の生活をただ模倣する、それだけで、その思いをも共有できるんじゃないかって期待があるんだ。
だからあたしは、古の人がかつて通った道を辿って、旅をすることに憧れを抱いてるのかもしれないな。