旧暦では八朔を過ぎ、もう半月で中秋の名月でございます。逝く夏を名残りつつ、お月見にはお団子とススキの秋風にゆれる風情に、しばしコロナを忘れたいと、感傷に浸ります。
さて、猛暑にはよく冷えたビールが喉に心地よいのですが、秋の夜長にはそろそろぬるめの日本酒が恋しくなってまいります。今回は日本酒の起源にまつわる神様のお話です。
記紀の神話では、日本で最初にお酒を造ったとされるのは、コノハナサクヤヒメで、そのお酒の名は「天甜酒:あまのたむざけ」即ち神様に捧げる上等な酒であり、この女神を祀った宮崎県西都市の都萬(つま)神社には「日本清酒発祥の地」との標柱が建っています。
清酒というよりは、名前からすれば甘酒を連想致しますが。この日本で一番の美女神さま、浅間神社の御祭神であります。伊弉諾尊、伊邪那美の間に生まれた山の神である、大山津見の神の娘で此花昨夜美目と書かれ、本名は「阿多」。鹿児島県の薩摩国阿多郡に因む名前と言われます。
なんといっても有名なのは、天照の孫でありこの国に高天原から降臨した、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した直後にその美しさに一目ぼれしたこと。さらにその子を産むに際し、一夜で孕んだのに疑いをもった瓊瓊杵尊に怒り、産屋に火をつけてその中で産んだという、激情の女神としても有名です。この時に生まれたのが「火遠理命」(ほおりのみこと)すなわちに山幸彦ら3柱の神様で、山幸彦は神武天皇の祖父にあたり、かの姫神は祖母となります。
また播磨風土記によれば、伊和大神(大国主)の妻との記述もございます。
なんせ、美しく、激しい気性で富士山の神様という古事記のヒロイン中のヒロインですね。
全国1300に及ぶ浅間神社はすべて、この姫神を祀り、市津公民館を少し永吉方向に進む左側にもこじんまりと祀られております。
さて、記紀の神話にはもうひとつ「八醞酒(やしおるのさけ)」が登場します。
かの素戔嗚尊が高天原を騒がせて、追放され出雲にてヤマタノオロチ退治に用いた、強酒でございます。醞(しお)るとは搾ると同義語で、甘酒を搾り粕を取り除き、それにさらに飯もしくは粥を加えて再発酵させることを何度か繰り返して得た、比較的アルコール度数の高いお酒であろうかと推測されます。
これらのお酒が清酒のルーツではないかと思われます。
考古学的には、既に縄文時代に山ブドウを発酵させるときの、ガス抜きのための孔を開けた、酒壺土器が長野県藤内遺跡から発見されています。発見時には山ブドウの種も見つかっていたので、ワインを作っていたのは間違いなさそうです。
弥生時代になればコメを原料とした、現日本酒の先祖たる酒を造ったり、入れたりした「はそう」と呼ばれる胴部に孔を開けられ、上部に向かって口が広がった形をした須恵器が、遺跡から出土しております。
歴史として国内の文献に残っているのは、713年の大隅国風土記に記述がある「口噛み酒」となります。
煮た米を長い間噛んで(長時間噛んでいると両目の横が痛くなる部分がコメカミという語源になります)、口中で粥状にし、土器に吐きますと唾液の中のアミラーゼにより、甘いブドウ糖に変化し、更に空気中の野生酵母が付くと、アルコールに分解され酒になるということです。
邪馬台国でおなじみの、三国志の魏志、倭人伝では喪に服した時、弔問客が飲酒する風習を紹介していますが、いわば通夜の振る舞い酒。残念ながら製造方法もどのような酒かも記されていません。
この倭人伝の邪馬台国の女王卑弥呼にもたとえられるのが、奈良県桜井市にある、国内最古の前方後円墳である「箸墓」の被葬者「倭迹迹日百襲姫命:やまとととひももそひめのみこと」であります。
かの女神の夫が大神神社の祭神で、蛇体の「オオモノヌシのカミ」であり、稲作の神であり酒造りの神でもあります。第10代崇神天皇の時代に、三輪神社の酒掌(さかひと)に命じられた活日(いくひ)が、天皇に酒を献じたときのうたとして、
この御酒は わが御酒ならず 大和なす 大物主の醸し神酒 いくひさ いくひさ
が残っております。
もう1柱お酒(造り)の神様として有名なのが、京都嵐山に鎮座する松尾大社でございます。祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)と、中津島姫命であります。
大山咋神は比叡山の日吉神社の祭神であり、先般紹介した大宮神社の摂社の日枝神社と同様であります。中津島姫命は九州にある宗像3女神のうちの1柱で、市杵島姫命のことと言われています。
元々は渡来人で、山城盆地(現京都市)に栄えた秦氏が勧請して社殿を設けたことに由来する神社で、秦氏の氏神とされます。京都四条通の西端に鎮座されます。
この神社の御祭神にも神社にも、本来はお酒の匂いは全く致しませんが、まあ、お神酒はあげられたのでしょうね。本神社の神使は亀と鯉でありその名を冠した本殿背後にある、「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといわれ、酒造家がこの水を持ち帰ったことが、松尾様信仰となったという説が妥当なところでしょうか。
ついでに申し上げれば、伏見の稲荷大社も秦氏の奉斎社でございまして、いずれも正一位でありますが、松尾大社の方が早く位階を授けられています。そういえば伏見も灘と並ぶ清酒の産地ではございました。
神話時代、遺跡時代はさておき、実際にはかまどとそれによる火力の強い調理法である蒸米は、半島からもたらされました。同時に酒造りの文化も半島南部辺りから入ってきたと考えるのは、妥当なところでしょうか。
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