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音読み訓読みそして国字

2024-01-18 16:26:02 | 日記

遅ればせながら、本年もご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

わたくしの趣味の一つに「漢字パズル」がございます。長い出張で新幹線などに乗りますと、大阪まで2時間半、飛行機にするか微妙なところでは広島だと3時間半。文庫本なら往復すると2~3冊で結構重くなります。それで漢字パズル雑誌。これだと難しいものなら一問で小一時間かかってしまいますので、時間つぶしにはもってこいでした。

 

漢字には小学校、中学校で習ったようにいわゆる「音読み」と「訓読み」がございますが、正直興味が無かった。従って判らないよりも、もっとひどく、反対だと思っていた節がありました。今は理解していると思います。つまり、日本語として訓める(よめる)のが訓読みで、中国語の音(おと)をそのまま使用したのが、音読みであります。

 

北海道の先住民族であるアイヌ(ヒトの意味)には、文字という文化はありませんでしたが、縄文も弥生初期にも同様に、源日本民族は文字を持っておらず(一部の伝承で異なる意見もありますが)、中国で象形文字として発達した、漢字を取り入れて文字文化を発達させてきました。これは、朝鮮半島もベトナムも同様です。

 

最初に漢字が書物という形で入ってきたのは6~7世紀、朝鮮半島の南西部の百済経由で、恐らく仏典や儒教の経典などという形で入ってきたと言われています。中国では三国時代後の晋が滅び、周辺の草原の異民族が五胡十六国として、中原に侵入してきた時代。漢民族は南下し長江下流に六朝時代といわれる、短命な王朝が入れ替わった時代です。

 

百済にとっては野蛮な異民族(騎馬民族)ではなく、地理的にも海上の直線で往来のでき、いわば憧れの漢民族との往来を望んだのでしょう。そしてその往来する船の発着地である、杭州湾付近の言語音である呉音が、主流となり日本にも伝わったと、感じます。

同時にこの六朝時代は中国には珍しく文化として、政治よりも風流を重んじる風土で、それが日本に入り込み、後の平安貴族の雅な文化に至るのかもしれません。

 

呉というと、春秋時代の呉・越の興亡(臥薪嘗胆で有名ですね)や、三国時代の魏・呉・蜀の呉を中国史で思い浮かべる方は多いのでしょう。六朝時代に中原から漢民族が南下するまでは、麦を主食とした、漢民族からすれば、どちらかといえば米を主食とする、へき地のイメージなのですね。春秋時代の呉の都は蘇州(懐メロの蘇州夜曲は古すぎですかね?)となります。呉服の呉でもあります。三国時代の魏・呉・蜀の呉については、揚子江の下流というだけで、蘇州は都ではなかったようです。三国志演義で有名な諸葛亮孔明の弟、諸葛均さんは私と同名で愛着がありますが、彼らのお兄さんの諸葛瑾は、この呉の孫権に仕えているのですね~。余談です。

呉音の次に輸入されたのが「漢音」です。これは王朝としての「漢」とは関係ありません。時代としては遣隋使・遣唐使つまり聖徳太子の頃から、遣唐使の取りやめを具申した菅原道真の平安前期くらいの間です。(道真自身は遣唐使の廃止そのものを標榜した訳ではないそうではございますが)こちらは黄河中流域の発音。唐の都長安のある所であり、渡来した中国人や遣唐使として赴いた、僧や留学生が持ち込みました。平安京に遷都した桓武天皇に至っては、漢音奨励の詔を出してまで、大学寮で儒学を学ぶ学生(がくしょう)には漢音での学習を義務付けましたが、それまでに浸透してしまっていた呉音を塗り替えることはできなかったともいわれています。

 

平安時代に唐に赴いた当時を代表する知識人である、最澄と空海が大量に持ち込んだ経典はどう読まれたのか。既に奈良時代に南都六宗として研究されつくしていた、経典は当然呉音で読まれています。お馴染みの般若心経(玄奘三蔵訳)は当然呉音です。

唐に赴いた時点で、既に通訳ができるほどに語学に天才的に堪能であった空海については、当然この漢音での会話ができるレベルであり、密教を完全に受戒して持ち帰っていますので、これらの密教経典は漢音で読んでいたと推測します。代表的な密教経典である「理趣経」などは当然漢音。これは違った意味合いもあります。内容がそのまま読むと、かなりエロティックと誤解される可能性があるので、あえて漢音で読み、呉音中心の旧仏教界には意味を掴めないようにしたという説もありますが、これは俗説です。

但しこの時点で既に国内に流付していた、役行者でお馴染みの孔雀明王経などの雑密経典は既に呉音で流付していたようです。

潔癖な最澄さんに至っては、法華経(妙法・蓮華経の略)の「安楽行品第十四」や「阿弥陀経」については漢音読みを開宗以来の伝統として、いまだに天台宗では守っています。

 

その後に入ってきたのは「唐音」。宋音ともいわれます。これも唐の時代というより、中国を意味する「から」とか唐土という意味での唐音ですが、時代的には唐末から宋・元・明と、日本では平安中期から江戸時代までまたいで、伝わった音といえるでしょう。例を挙げれば椅子(いす)、蒲団(ふとん)などの中国から伝わった物の名前。更に石灰(しっくい)、提灯(ちょうちん)、行灯(あんどん)、暖簾(のれん)などが唐音の代表格です。

禅宗の留学僧や倭寇を含む貿易商人によって、物品を含めて伝えられたということでしょうね。

 

この三音を一番端的に示すのは「和尚」という言葉。奈良の法相宗・律宗では「わじょう」と呉音で読み、なぜか真言宗でも同じ。天台宗では「かしょう」と漢音で読み、鎌倉以降に成立した禅宗・浄土宗では唐音で「おしょう」と読むそうです。概して仏教用語は飛鳥・奈良時代以来の伝統的な呉音が主流となっています。

 

もう一つ面白いのは、明治になり西洋語を翻訳するに際して造語された、和製漢語には漢音が多いようです。これは江戸時代に漢字を仮名で書き写す、字音仮名遣いの研究が始まり、呉音よりも、体系的な字音資料を持つ漢音が基礎とされたことの、延長上にあるからと言われています。

 

最後に、国字というのは、漢字を使う文化圏(中国・朝鮮半島・ベトナムそして日本)で中国以外の国で作られた独自の漢字体の文字を指します。

日本では和製漢字とも呼ばれます。古くに作られたものと明治以降に輸入した西洋の言葉を翻訳するに際して作られたものがあります。読みは当然ながら基本的に訓読みですが、一部に音読みのものもあります。

あ、第二次大戦後の日本や中国本土で採用されている、漢字の簡素化とは意味が全く違いますので、お断りしておきます。

逆輸出して中国で使われているものもあったり、逆に中国にある漢字を別の意味で使ったり(この場合は国訓と呼ばれますが、魚編のもが非常に多いです)するのも楽しい。

 

峠(とうげ)・榊(さかき)・辻(つじ)・働く(はたらく・音読みでドウ)・畑/畠(主に苗字として中国が逆輸入、畠山とか)・糀(こうじ)・匂う(におう)・搾(しぼる:さく)・凪(なぎ)・凩(こがらし)・梺(ふもと)・毟る(むしる)・塀(へい)。鎹(かすがい)等々

所で、神棚にお祀りする榊に対して、仏壇に供えるのは樒(しきみ)です。この樒という字は梻とも書きこちらは国字です。樒という字にはもともと日本で仏に備える植物としてのしきみを指さず、じんこうという香木を指す漢字です。

 

ついでに申し上げれば、中国では畠も水田も基本的には耕作地は「田」で表すそうです。日本の場合は、米を第一義に弥生時代から耕作しており、他の作物は2級品でありますから、ハタケを白田などと呼び、いつの間にか一緒になって畠となり、畑は焼き畑を表すのではないかと思います。

 

結構日本の漢字文化ってのは楽しいものでございます。

 

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帽子にまつわるエトセトラ

2023-12-18 12:00:03 | 日記

現役時代は営業職ということもあり、現場作業でも国内各地の病院が業務先でしたので、出張が多く、テレビを視る時間は非常に少ない状況でした。

定年を迎え、子供たちもそれぞれ独立して家内と夕食後にテレビを視る機会が、とても多くなっています。

昔から必ず視ているのは、日曜の朝の「遠くに行きたい」「題名のない音楽会」という長寿番組ですが、このところ結構ドラマも鑑賞しています。旅行番組とか歴史系の特集みたいなのが好きな範疇に入ります。

旅行番組とドラマの刑事ものでちょっと違和感のあるのが、帽子の扱いです。

 

若い(中にはそれなりの年齢の)俳優さんやタレントさんが帽子を取らずに食事をしている風景や、訪問先の室内でも帽子を被ったまま、女性でも神社やお寺で帽子を取らずにお詣りしている光景には、違和感というよりも、多少の不快感を感じてしまいます。

 

もう一つは、刑事もので無帽の状態で挙手の敬礼をする場面。

 

そもそも帽子の役割は、頭部の保護。日差し、防寒、落下物などなどから、頭を守るのが本来。そこから宗教上の戒律、ユニフォーム化、おしゃれ、フォーマルに発展したわけです。

日本では烏帽子(えぼし)という頭部の被り物が古くからございまして、これが日本語の帽子の起源かとも。

この烏帽子、薄い絹でできていたものが、黒漆の紙製となり、衣装や身分により厳格に使い分けがされていたようです。庶民は麻糸織ですが、基本的には冠よりも下の格式として、普段着に被っていたとされます。

本来は男性が被るもので、女性は打掛などを外出時は被っています。例外は平安時代の白拍子。平家物語に出てくる仏御前とか、静御前などが被って舞を舞う挿絵などでお馴染みでしょうか。亭主の好きな赤烏帽子なんて言葉もありますが・・・。

鎌倉時代には庶民にも深く浸透し、男性の象徴化してまいりまして、これを脱がされたり取られたりすることは屈辱的かつ恥辱的なこととなり、紛争の発端になりかねませんでしたが、戦国時代以降は髷を露出して被り物を付けないのが普通となりました。江戸初期の町奴の幡随院長兵衛や、歌舞伎の助六は被っていません。烏帽子を被り続けたのは京のお公家さんくらいかもしれません。あ、相撲の行事さんは未だに着用していますねぇ。

 

別の用途としての冠とは何となく一線を引いて感じます。江戸時代までの武家や、公家の正装である衣冠束帯、今でも宮中の行事には皇室の方々や、神主さんのお付けになるのは冠。

 

もう一つは兜。これは戦闘にあたって頭部を保護するものです。これは現在のヘルメットでございます。俗信ではギリシャ神話の伝令の神(泥棒の神ともいわれますが)ヘルメスの被り物から来たとの説もありますが、あくまでも俗説です。

基は兜を現す(隠すとか守る、覆うという意味の)インド・ヨーロッパ祖語のKelmosから、ゲルマン語のHelmaz更にフランク語Helmを経由して現英語のHelmetに15世紀に成立とされています。

 

さて、元のお話に戻って、西洋のことわざに、もしその人物が家の中に入って来て、帽子を脱ぐようなら真の紳士。帽子を脱がないのなら紳士のふりをしている男。
そして帽子をかぶっていない人物は、紳士のふりをすることさえあきらめている男。というのがございまして、烏帽子ではない西洋風の帽子のエチケットして、西洋のマナー同様に室内では脱ぐのが、わが国でも継承された礼儀だと思います。

 

軍隊では(自衛隊も含み)入隊と同時に帽子の扱いを徹底的に叩き込まれます。

わたしの卒業した商船高専でも同様でした。

制帽、略帽(作業帽や、最近のベレー帽)、ヘルメットは室内では外す。挙手の敬礼は着帽時に限り、脱帽時には10度もしくは最敬礼の腰から折る敬礼を行う。屋外でも神社などの拝礼には脱帽し左脇に囲う。公式の別れの儀式として、帽子を右手で振り「ごきげんよう」を連呼する(号令は「帽振れ~」)等々。

元々挙手の礼とか、帽子(兜)を取るというのは武器を持っていない、つまり相手に対して、敵意が無いとか危害を加えないという意味合いがございます。

 

刑事ドラマで頻繁に無帽で挙手の敬礼をするので、警察ではそれが当たり前なのかと思っていましたが、どうやらそうでもないような。良質の刑事ドラマでは、「帽子をかぶっていないときには挙手の敬礼はしない」などとのセリフも耳にしたことがございます。

法的には警察礼式という国家公安員会規則第13号に定められており、やはり挙手注目の敬礼は制帽やヘルメット等着用に限るということのようです。

 

ただこれは男子のエチケットでございまして、女性の場合は帽子は正装の一部とみなされていますので、小さくお辞儀をするとか、カーテシーと呼ばれる、右足を引いて屈んで小さく身を鎮める動作で十分とされます。日中は室内でも食事に際しても女性は帽子を脱ぐ必要はないことになります。ただ夜間の行事では帽子は被らないのが、エチケットとされます。

これは女性皇族の皆様のお仕草でお馴染みのものでございます。

 

これはキリスト教が主流の西洋で発達したのエチケットでございますので、ユダヤ教やイスラム教ではシナゴーグやモスクで帽子を取る必要のないという宗教もございます。

帽子という命題であれば、冠の由来やらハットとキャップの違い、更にベレー帽の起源とか面白いお話は尽きませんが、最近の風潮としての帽子の扱いや、挙手の礼についての違和感を申し上げました。

 

さて、年末となりました。本年一年お付き合いを戴き、誠に有難うございました。

来年は戦火が収まり、穏やかな年となることを心より願い、また皆様に幸多かれとお祈り申し上げます。

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聖書の世界

2023-11-27 15:23:11 | 日記

11月当初の夏日から一転急激な冬日となり、身体が追い付かない季節ではございます。

このところ過度な雨やら暑さやらで異変とも感ぜられますが、やはり四季の移ろいに沿っていく日本の自然は体にも心にも優しく、たおやかな気が致します。

 

そんな日本の神様に随分触れて参りましたが、その反対にある峻厳な一神教に少し触れたいと思います。

 

その神の名はYHWH(ヤハウェ)であり、一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラムに共通の神であります。

 

ユダヤ教の聖典が所謂旧約聖書であり、キリスト教ではそれに新約聖書が加えられます。最も遅く成立したイスラム教でも旧約聖書は重要な経典の一つであり、ローマ無きのちの地中海でイスラムの海賊(ビジネスとしての)がイタリア半島のキリスト教徒に対し、殺戮と略奪そして奴隷とすべく拉致を平然と行った理由として、同一の聖書の解釈が異なる異教徒に対する措置として無神の民以上に残虐になれたことが挙げられます。

いわば近親憎悪でしょうか。

 

さて現代キリスト教では固有名詞ではなく、主または神(英語でGod,ラテン語でデウスとなり、日本でも禁教以前はキリシタンにはそのまま呼ばれていた)と普通は呼ばれ、イスラム教では固有名詞では伝わらず、アッラー(但し、アラビア語の“アッラー”は唯一全能である神に対してのみ使われる神を現すアラビア語で、固有名詞ではなく、したがって日本人が「アラーの神」などと茶化すのは非常に冒涜的なことである)と示されます。

 

ついでに申し上げれば、イエスが会話に使っていたと推定されるアラム語で神を指すELは、ニュアンスや表音としてアッラーに近く、同様にヘブライ語において神を指す様々な言葉“El”や“Elah”、また賛美形あるいは複数形である“Elohim”などにも当てはまるのは全てが同じ起源を持つセム語系であるからでしょう。

因みにこのイエスが活躍したローマ帝国時代のユダヤ属州ではヘブライ語はすでに口語として使われる機会は少なくなっていて、アラム語が普遍的に話されており、イエスもアラム語(のガリラヤ地方方言)を話していた可能性が大きいようです。

イエスの最後の言葉として、マタイ及びマルコの福音書に残る「Eli Eli lema Sabachthani: エリ エリ レマ サバクタニ」はアラム語。 

 

この神の名を、直接呼ぶもしくは語ることは基本的になく、上記の様に“神”とされます。その理由は元々の旧約聖書を現した古代ヘブル語のそれを、BC3世紀頃に当時のユダヤ人が使っていた70人訳聖書と呼ばれるギリシャ語訳(70人の学者が訳した)の誤訳が原因のようです。

即ち、本来の意味が「YHWHのみ名を冒涜する者は必ず殺されなくてはならない」を「YHWHのみ名を呼ぶ者は必ず殺されなくてはならない」と誤訳してしまったことによるものです。

 

旧約聖書というのは、キリスト教側からの表現であり、キリスト(メシアとしての)が誕生し新たに神との契約を交わした故に、十戒で有名なモーゼ(出エジプト記)と神との契約は旧い契約という意味で、旧約聖書と呼ばれます。

 

大乗仏教の徒が、部派仏教徒を小乗仏教と呼ぶのを彷彿させるエピソードではあります。

 

さて、ユダヤ教が一神教として成立し始めたのは、その誕生からではないようにも思えます。

BC587もしくはBC 586年、新バビロニアに滅ばされたユダ王国はダビデ王朝樹立以来400年以上にわたる歴史を閉じ、ユダの人々はバビロニアに連れて行かれ「捕囚時代」が始まりました。

バビロニアはその数十年後にメディアによって滅ぼされ、すぐそのあとにアケメネス朝ぺルシアが西アジアの覇権を握ることになります。

ペルシア王キュロスの宣言により、バビロニアに連行されていたユダの人々が解放されエズラやネヘミアといった預言者を中心にエルサレムに帰還し、バビロニアに破壊された神殿を再建。

 

ペルシア時代のユダは「イェフード」と呼ばれており、のちにこれがヘレニズムを経てローマ時代までには「ユダヤ」と呼ばれるようになり、そこに住む人々のうち特にユダヤ教を信仰する人々をユダヤ人と呼ぶことになったようです。

 

西アジアの国々はシュメールにせよ、バビロンにせよ多神教でありながら、国家(都市)神としての固有の神格を崇拝しており、日本の古代との類似性を感ぜられます。

というより、宗教はもともとローカルな信仰なので、一つの部族の中で一つの神を信じる拝一神教は割に普遍的なのでしょう。戦争で勝者が敗者の神(神像)を自国に持帰るというようなこともあります。それは他の部族は別の神を信じていることが前提であり、部族が統合されると神も統合されてきます。

その中の一つの都市国家として、YHWH国家神として崇拝していた古代ユダヤの民も同様に他国家の神々の存在を前提としていたと考えられています。

新バビロニア(マルドゥク神)やそれ以前のアッシリアの政策として、大帝国の市民としての意識を高めるために、新たに併合した領土の住人を、他の土地に強制移住させ、逆にその土地には他の地域の住人を強制以上させ、生来の土地(神)との結びつきを弱めて、民族のアイデンティティを希薄にする意図のもとの政策です。

実際に北イスラエルの民は他の民族に同化してしまい、のちにはバビロニア人もアッシリア人も歴史から消えてしまい、こうして他の西アジアの神々は大方廃れてしまいました。

 

それに対してイスラエルの神YHWHを崇拝するユダヤの人々が、最初の一神教として本当の意味で誕生したのは、その神殿を失い民族存亡の危機に直面したバビロン捕囚以後と考えられます。

それを可能にしたのは、一つには十戒に代表される厳格な律法遵守による同化の拒否。唯一絶対神から選ばれた民という信念・信仰によるもの。さらに神殿が破壊されるという不幸もしくは惨事が、民の不信仰故に神からもたらせた罰だと捉えること。誤解を恐れずに言えば、そういう方向に民族を先導した当時の預言者と呼ばれた人々のチカラによるものと思われます。

 

具体的には第二イザヤと呼ばれた氏名不詳の預言者が、YHWHはバビロニアの神に敗れたのではなく、YHWHとの契約に背いたイスラエルの民を罰したと説き、バビロニアに捕囚されていたユダの人々が、バビロニアの神への信仰や偶像信仰に陥るのを阻止し、YHWHはイスラエルの神ではなく世界に唯一の神であるという、いわば革命的な発想で信仰をかろうじて継続することができたのだと考えられています。これが一神教の誕生となり、その後の宗教観を支配していくことになります。

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ギターについて

2023-10-30 11:12:00 | 日記

秋深し、隣は何を する人ぞ。

流石の猛暑も区切りをつけて、雲が高い季節になっておりました。美食も秋の実りに沿った季節感ですが、何故か芸術の秋とも申します。芸術にも人それぞれお好みがございますが、今回は音楽、楽器がテーマでございます。

 

音を楽しむのが音楽。聴くのも歌うのも、楽器を演奏するのも楽しいものです。さて楽器にもいろいろな種類がございます。

私が中学校1年の時に友人から買ったのが、中古のギターでした。どうやって弾くのかも判らないままにいじくりまわしているうちに、何とか当時はやりのグループサウンズや、フォークソングを弾き語るようになりました。高校時代は軽音楽同好会で、仲間と文化祭や音楽祭でライブを行うようになりました。

 

結婚したての頃は、家内が何故か持参した結構良いギターで、カラオケ代わりに二人で良く歌ったものでございます。その後子供たちの成長につれて、弾くこともなく。定年を過ぎて再び取り出し、息子が一時興味を持ったエレアコと一緒に買った、エレキギターで、いくつかのバンドを掛け持ちして現在に至っております。

 

ギターは元々リュートに属するスペインに起源をもつ楽器で、ヨーロッパ中世後期のギターラ・ラティーナを基として、16世紀ころに派生したとの説がもっぱらです。

現在の原型である6弦に至ったのは18世紀の終わりころ。元々マンドリン同様の復弦が単元になり、調律も現在の標準のE-A-D-G-B-Eとなり、真ん中のサウンドホールが大きくなり、弦も65㎝に延長され音質も、音量も大きく改善されたのは、10世紀後半のアントニオ・デ・トーレスという名工によるものとされます。

 

これがいわゆるクラシックギターの誕生です。わたくしもスタートはこれで、禁じられた遊びなどを練習したものです。

その後ギターは用途により多様な変化をして参りますが、未だにいわゆるクラシックギターによる演奏は人気を得ております。

似ているけど微妙に異なるのは、例えばフラメンコギター。奏法として激しくかき鳴らしたり、表板を叩くなどの演奏のため、ピックガード(サウンドホール下側に取り付ける薄い板)を取り付けたり、表板が厚くなっていたり。その分重量を減らすためにボディの板材に糸杉を使い、本体そのものが薄く作られています。またカポタストを多用するために、弦長が長めで弦の高さが低めに作られているなどの特徴があります。

 

米国ではバンジョーの影響から、弦がスチールになり、音量が大きくなりカントリーソングやジャズに使用されるようになります。いわゆるフォークギターと呼ばれる、スチール弦のアコースティックギターも、この流れから派生しました。

最も大きな派生はいわゆるエレキギターと呼ばれる弦の振動を、ピックアップと呼ばれる微弱な電気信号として取り出す装置により、それを増幅回路(アンプ)で電気的に増幅して、大音量にするタイプの発明です。1930年代のことです。

この原理はハワイアンやカントリー音楽で採用される、スティールギターも同じです。

逆にアコースティックという呼び方は、エレキギターの登場により、電気的な増幅ではなく、ボディの共鳴によるものという区別をした言葉となります。

アコスティックギター内部にマイクロフォンを取り付けた、エレアコや上記システムのエレアコもあるようです。

 

さて、わたくしの少年時代。ギターは不良の同義語に近いものでした。中学3年で転校した先で当時の音楽の先生がギターに興味をもって戴き、学校に持って行って演奏などをしておりましたが、ある日の帰り際にギターを抱えていると、校長先生にえらく怒られたこともございます。今もって不満ではありますが(笑)、エレキギターなどはもってのほかでした。

 

エレキギターのブームは1965年のザ・ベンチャーズ来日から始まります。いわゆるテケテケテケテの奏法で一世を風靡しました。日本では加山雄三や、寺内タケシが先鞭を付けました。その後ビートルズや、ローリング・ストーンズなどのリバプール・サウンズが日本でも爆発的な人気を誇り、続いてグループ・サウンズの嵐が吹き、その後ロックも海外日本のバンドに限らず多様化してまいります。

ギターテクニックも最近のギタリストは例えばビーズの松本さんとか、本当にすごいとしか言いようのないレベルです。

 

ジャズの世界ではもともとリズム楽器として、コードを弾きならすだけでしたが、ジャズコードというのは非常に難しく、いわゆる不協和音と呼ばれるセブンスコードや、マイナーセブンなどを多用します。それがロックなどにも影響を与えて、ギターテクニックが磨かれてきます。ジャズギターではウエス・モンゴメリーがオクターブ奏法と呼ばれる、短音の1オクターブ上を同時に弾く奏法で、ソロを取り、あたくしの好きなケニー・バレルというソロ奏者などを輩出していきます。

 

ロックでは60年代にジミ・ヘンドリックに代表されるギタリストがヘビー・メタリックと呼ばれるシーンで活躍。エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベッグが三大ギタリスト(この言い方はどうも日本でだけの様ですが)と呼ばれる一世代前のロックシーンをけん引しました。

さて写真は左からエレキギター、エレクトリック・アコスティギター、クラシックギターとなります。

 

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神様の社格

2023-09-26 13:42:38 | 日記

このブログでは幾度か日本の神様や神社をテーマにして参りましたが、今回は神社の格付けについてです。

 

大きな神社には由緒書きや、石柱にその神社の社格が示されていることが多いですね。例えば○○国一の宮とか、旧官幣中社といった類です。更には正一位△△稲荷という幟ですとか。

 

それぞれに時代や時の権力により神社、そして神様自身も挌付けされておりまして、まず古くからでは式内社と式外社(しきげしゃという格付けがあります。

これは平安中期の延長5年(927年)に成立した、延喜式の9巻と10巻(神名帳と呼ばれます)に記載された神社か、されなかったそれ以外の神社かということです。

延喜式自体は律令官制における格式(施行細則と捉えるのが判りやすいかも)であり、醍醐天皇が時の宰相藤原時平に命じて編纂を開始致しました。時平といえば、天神様となった菅原道真のライバルであり、道真大宰府左遷を画策した人物とされており、道真(後天神様)の祟りで39歳(太政大臣)にて病死したとされる敵役であります。時平死後、後に藤原氏主流となり史実として確認される最初の関白となるその弟、藤原忠平が完成させました。お公家さんたち、遊んでばかりかと思いきや、結構仕事もしていたようですねぇ。

 

これに記載された神社は全国で2,861社、鎮座します神々の数は3,132座でございます。

 

この式内社にも格付けがございまして、まず官幣社と国弊社でそれぞれ大小があります。

官幣社とは、朝廷で神社などを主管する官である神祇官から幣、即ち幣帛を毎年2月の祈念祭に受ける神社であることを示します。幣帛とは祭祀において神に奉献する神饌以外のものを言います。

具体的には当時貴重であった布、衣服、武具、神酒などであります。

 

国弊社とは神祇官に代わって国司から幣帛を受ける格式の神社となります。今でいえば国から受けるか県知事から受けるかという違いでしょうか。

現在の感覚からすれば、国幣という方が何となく国立みたいな気もしますが、官は神祇官を示し国は律令の国司をしめすということですね。

 

時代的にその少し後の平安後期~鎌倉時代に成立したとみられるのが、一の宮という格式でこれは旧国内で最も有力(社格が高い)とされる神社で、各(旧)国にあり場合によっては二宮、三宮まで、場合によっては四宮(相模)という地名に残っているところもあります。

起源としては国司が国内諸神社を巡拝するに当たり一番先に参拝する神社ということのようですが、これは上記の官幣大社のように朝廷や国司が決めたのではなく、諸国の信仰が厚く由緒が深い神社が自然発生的に序列化したもののようです。従って一の宮の祭神が必ずしも記紀等の国の正史に記載の、いわば全国的(当時でいえばグローバル?)に有名な神様とは限りません。

 

延喜式以降の特別な各付けとして、平安時代中期以降に京を中心に朝廷から特別の崇敬を受け、国家の重大事などに朝廷より奉幣された神社があります。その数は段階的に増え、平安時代後期に22社となりその数が固定され、それら神社の総称を二十二社と呼びました。
格式の高い順から、上七社、中七社、下八社と分けられていますが、全てが式内社ではなく意外に藤原氏のみならず各氏族の関連する神社が含まれているのは、面白いと感じます。

因みに上7社だけ紹介すると当然筆頭は、伊勢の内宮、外宮であり、別格となります。

次が源氏ゆかりの石清水八幡宮、3番目が山城一の宮の上・下賀茂神社で元々は古代賀茂氏の氏神であります。次がお酒の神様で有名な、古代外来氏族の秦氏の神様松尾大社。

元々は平城京にあり桓武天皇外戚部族の神社が、平安遷都に従い京都の平野に鎮座した平野神社。皇太子守護の神社として、また多くの臣籍降下氏族の氏神として有力視されたのでしょう。

次はこれも秦氏の祖霊神が元々のおこりである、伏見稲荷。言うまでもなく全国稲荷社の総本山です。最後にやっと藤原氏ゆかりの春日大社となり、七社となります。

中七社は奈良県(大和)主体となります。

下八社を含めて、京都(山城)、奈良(大和)以外は大阪の住吉さん(摂津一の宮)と、近江の日吉神社、兵庫(摂津)の廣田神社だけとなります。

廣田神社の祭神は天照大神の荒魂(あらみたま)であり、平安後期より神祇伯を独占する花山(かざん)源氏の白川家とのかかわりの深い神社です。

 

さて、上記は神社の格式となりますが、神様にも格付けがあります。神階と云います。

律令で人臣に授けられた位階と全く同じですが、仕組みとしては文位(狭義の位階)、武位(勲位・勲等)、品位の3種類があります。

さすがに人臣のように初位は無く正六位から正一位までの十五階となっており、良く都内など各地で目にする「正一位 稲荷神」という赤い幟のあれです。江戸はなんせ稲荷社が多い。

勲位については、武勲に対する位階で7世紀から11世紀まで神様にも与えられましたが、以降は授与されていません。

品位は、元々皇族に授けられた位階で、例は殆どなく宇佐八幡の八幡神(応神天皇に比定)に一品、その比売神に二品くらいのようです。何ゆえに八幡さまだけが一品なのかは、別にご紹介したいと考えています。

 

元々は食封や位田を伴い経済的な基盤となっていましたが、権力の移ろいにより朝廷からの給与は滞り、無くなってしまった後は神格よりも社格の方が重視されていくようになります。

 

さて、政治権力は平安から、鎌倉、室町、桃山、江戸と貴族に代わり武家の時代となりますが、基本的には神社、神祇伯個々の栄華衰退はあるものの、格式を含めて大勢に変化はなく明治になって大きく変化しました。

 

律令体制とは中央集権が大きなテーマとして、対外(具体的には新羅・唐に対する)的な挙国的軍事態勢が取れるために、兵士としての人民と経済基盤としての税制を支配するために、当時の中国の体制を元に敷かれましたが、明治政府は更に苛烈な中央集権施策により、この宗教界までもが大きな管理の対象となります。

 

以前にも申し上げましたが、幕末の尊王攘夷エネルギーは徳川幕府を倒しても、更にくすぶり続け明治政府等の官員になれなかった、極端な国学者を中心に廃仏毀釈の大嵐が吹き荒れました。

そのあおりを受け、神仏が習合していた形態は大きく崩れ、中心であった仏教寺院の僧侶は多く神主に代わりましたし、神社自体も大幅に減少し、その一方で尊王攘夷運動で歴史上尊王(勤皇)派と位置付けられた人物(臣下)たちが新たに神となりました。

 

正式には近代社格制度と呼ばれて、明治政府が新たに神社に格式を与えたものです。言い方を変えると神社は国家による非常に厳しい管理を受けることになった訳です。

それに応じて社格も律令の名称を踏襲して、「官社」と「諸社」に大きく分けられ、官社には97社が選択され官幣社(神祇官が祀り官幣大社、中社、小社に分類)と国弊社(地方官が祀り国幣大社、中社、小社に分類)に分類されます。

諸社は府県社、郷社、村社に分類され、それぞれの、府(東京、京都、大坂)県(北海道、樺太庁を含む)等の地方から奉幣を与えられました。

前述の歴史上の勤皇的人物(臣下)などは、分類外として「別格官幣神社(扱いは小社レベル)」という制度が導入されました。

以前に紹介した楠正成を祀る神戸の湊川神社などがこれに当たります。

更に村社にも列せられない神社を無各社とし、終戦時には官社218社、諸社49,715社、無格社59,997社であったと記録されています。

 

敗戦によって政教分離による神社の国家管理廃止に伴い近代社格制度は廃止され(昭和21年2月2日)、以降現在に至るまで当然社格は公的には分類されていません。但し、昭和23年に別表神社として神社本庁が包括している一部の神社に特別な扱いをすることとなりました。

実際の効力などは神職の人事に関する規定(宮司に必要な格式だとか、権宮司を置ける条件だとか)のみですが、選定基準は・由緒、施設、常勤神職数、経済状態、活動状況、氏子数などとなっており、当初は旧官国幣社のみだったのが、現在は300を超える神社が対象となっています。

 

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