goo blog サービス終了のお知らせ 

gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

合戦場郵便局

2025-08-03 17:25:39 | 日記
日光例幣使街道の合戦場宿

現役時代、出張の多い職種をしておりました。その前の職業とも相まって、全都道府県を回っております。
今も続いている土曜朝の関西キーステーションの旅番組で、随分前になりますが、女優(今は俳優と言わなければなんでしょうか?アクトレスだから女優で宜しいのではないでしょうかね?)の名取裕子さんが、訪れた先々で郵便局にて貯金をし、その郵便局の固有のスタンプを記念に集めている模様がございまして、あたくしもやってみたく。
もうちはら台に住んでおりましたので、ちはら台郵便局で早速家内に通帳を作ってもらいました。しばらく忘れていたのですが、たまたま福岡空港の郵便局前を通りかかり、思い出して千円貯金をしてみました。黒の旅客機が郵便局名に並んだスタンプで、それから旅のお供に行く先々で千円貯金を。もちろん窓口の開いている10時から16時までで、平日のみ可能と言うことと、運良く近くに郵便局があるという制約もありましたが、退職するまでの間に97カ所のスタンプが集まりました。

結構面白いのもありまして、観光案内を少し入れた四国香川県「銭形の街・観音寺郵便局」とか「蔵の街 喜多方郵便局」「水晶の街 甲府駅前郵便局」等など、楽しいですね。
マークとしては紅葉マークの広島東郵便局、夕日と日本海の波を組み合わせた、新潟中央郵便局。雷鳥の富山中央郵便局。錨マークで青のスタンプの神戸御幸通郵便局。窓口でセレクトできたのは和歌山中央郵便局で、転々手まりの鞠か、お城をチョイスできて、お城でお願いしました。山口から日本海側は良いですよ。赤スタンプでお花とみすずのふる里と書いてある、仙崎郵便局。家紋があるのが、萩 松陰神社前郵便局。そして「山陰の小京都 に鯉の絵が島根県津和野郵便局」赤のスタンプでございます。
きりが無いので最後に出雲大社では 島根県大社神門前簡易郵便局には大国主が打ち出の小槌を持った大黒天が赤スタンプで。これも赤で鳥居の絵に「日本三景広島県宮島郵便局」。

その中で地図の合戦場を表す日本の刀が差し違えるのが「合戦場郵便局」のスタンプでございます。栃木県のお客様を訪ねるに際し、たまたま一般道を通っておりましたら、信号の下に合戦場という珍しい地名が。まあこれだけでうずうずしてしまうのですが、その先に合戦場郵便局があるではありませんか。運転していた部下の課長にお願いして、止まってもらいそそくさと局内で千円貯金。なんと近くには合戦場小学校までございました。窓口で由来を伺うと、資料を下さいました。この郵便局は明治5年の開局でなんと140年。小学校は明治6年の創立で、創立当時の名称は淑慎学舎、明治14年に合戦場小学校に改称されたとのこと。
さて名前の由来となった合戦は大永3年(1523年)の宇都宮城主、宇都宮忠綱と皆川城主、皆川宗成の激戦が現合戦場駅西部であったことによるそうです。
時代的には室町後期10代将軍足利義植で、この2年前の大永元年に武田信玄が生まれ、翌2年には柴田勝家と千利休が生まれています。いわば戦国の走りでございまして、関東はいち早く戦国大名化した豪族がしのぎを削っていたのでございますなあ。
全国で合戦場という地名は2か所プラス1のみ。もう一か所は長野市合戦場。こちらは源平時代の1181年に平家方の越後の城氏がこの元々の地名である横田が原に攻め込み、木曽義仲に敗退したところから後年命名されたものです。
もう一か所のプラス1は、地名ではなく合戦場のしだれ桜という桜の名称で、福島県二本松にあり、こちらは前三年・後九年の役で八幡太郎源義家と阿倍の貞任の合戦に因み、地名では二本松市東新殿字大林というところになります。

ところで、この合戦場ですが、東武線の駅名にもなっております。そしてこの地は、日光例幣使街道の栃木の次の宿場となっており、江戸時代は往路に用いられ、復路は今市から日光街道を通り、東海道を利用したそうです。
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道でございます。
例幣使とは天皇の代理として、朝廷から神への毎年の捧げ物である、例幣を納めるために使わされる使者です。
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日に駿府で亡くなり、久能山に埋葬されますが、翌元和3年2月に後水尾天皇より、東照大権現の神号が送られます。同年3月に家康の霊柩が久能山から日光に遷座し東照社に。その後正保2年(1645年)11月には後光明天皇より、宮号が宣下されて東照宮に。翌年には三代将軍家光の要請があり、臨時の奉幣使として持明院基定が遣わされ、以降毎年幕末の慶応3年(1867年)まで221年継続いたしました。
毎年3月末か4月1日に京をたち中山道を倉賀宿東の追分から北に入り13番目が栃木宿
で、その次の14番目の宿場が合戦場(かっせんば)となります。鹿沼辺りから有名な杉並木になります。復路は今市から日光街道を通り、江戸で将軍に対面してから東海道を利用したそうです。
ところでこの例幣使、すこぶる評判が悪かった。格式は4位と高く、当時は大名でも5位が殆どでしたから、やたらといばる。しかも当時の公卿の収入は非常に低いものでしたから、お供も実際には○○の大掾やら少掾といった実際には京の出入り商人であり、とんでもないのが多かった。
籠に乗り、金を要求し駕籠かき人足が渋ると籠を揺らし、わざと転げ落ち公儀のお裁き云々と言いがかりをつけ、村役人が詫びて金を渡して納めるといった話が、あちこちに残っており、ゆすり・たかりの語源となったといわれています。
さて、この合戦場郵便局の向かいには、日立製作所の創業者である 小平(おだいら)浪平氏の生誕地という碑がありましたことを鮮明に覚えています。

この日は栃木市内の関連会社に営業に行って、その夜は確か宇都宮で泊まり、行きつけのバーで楽しんだという記憶がございます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しょっぱいお話

2025-06-09 12:48:33 | 日記
塩が今回のお題でございます。塩は体内に体液として浸透圧を保持する役割を担っております。体液となる食塩水ではナトリウムイオンと塩素イオンに乖離しており、ナトリウムイオンは体内で炭酸と結合して、重炭酸塩を形成し血液などの体液のアルカリ性を保持し、一部はリン酸イオンと結合し、緩衝物質として体液の酸-アルカリの大幅な変動を阻止します。同時に体液の胆汁、膵液、腸液などアルカリ性消化液の重要な成分でございます。まあ一言で言えば動物の生命維持に無くてはならない、生理的作用を持っているわけです。
急激な発汗により不足すると、いわゆる熱中症となり、最悪けいれんなどが起こります。実は20代はじめの頃、私サウジアラビアで熱中症(当時は熱射病)になりまして、生死の境を(ちょっと大げさ)さまよいました。暑い中の作業で大量の発汗に至ったためで、全身のけいれんと、吐瀉で経口での水も飲めない状態。3日間寝込みました。賄いで2日目に用意してくれた桃の缶詰で一命を取り留めたという次第です。
人間の体内の塩分濃度は0.76~0.89%で海水の1/4。陸上に生息する哺乳類は、ほぼ同様。対して海中に生息する動物は、ほぼ現在の海水同様のミネラル濃度となります。これをもってすべての生物は海から発生し、陸に上がった頃の海水の塩分濃度は0.8%程度だとし、その後暫時濃度は増加し、現在に至ったと考えられています。
このように塩は生命維持に欠かせない物質であり、最初に交易の用途に使用されていたと考えられます。日本では岩塩が産出しないことから、海辺から内陸へ物々交換として、塩漬けの貝などが用いられたのか、貝塚の大量の貝殻はそれを示しているとも考えられます。
狩猟が主な縄文時代は、魚や獣の肉に塩分が含まれていることから、それなりに食品による体内需給バランスがとれており、貝の塩で十分だったのでしょうが、稲作による植物性食物が主になった場合、植物に多く含まれているカリウムの摂取量が増え。余分になったカリウムを体外に排出する時にナトリウムが必要となります。そうして塩化ナトリウムが身体で必要となり、塩は戦略物質になってきます。
こうして塩は最初の専売物資として、権力の財源となってくるわけです。最初に塩の専売に目をつけたのは、中国の漢だともいわれています。その後唐から宋にいたり,国家財政の基盤ともなってくるわけです。言ってみれば販売に既に税が賦課されており、最初の消費税ということですな。漢の時代はそれほどではなかったものの、唐中期にいたり内乱や騎馬民族の侵入により、農民の流失などで租税が入らなくなる一方で、軍事費が増大してきます。国家の財源を別のものとせねばならないところから、専売制が導入されます。最初の制定は唐の代宗の乾元元年(758年)の塩法であり、これが施行されたとき1斗(日本の1/3 で3升に当たる)10銭の塩が一躍して11倍の110銭に公定されました。この税による総額は600万緡(びん 1緡は銭1,000文)となり国家総収入の50%を閉めたと言われています。10年後の徳宗時代の最高値の時は1斗370銭。総額1800万緡でこれは国家財政の70%となります。当時の中国唐の世帯数は380万戸であり、1戸当りの年額は銭5緡。穀物に換算すると10石となります。以前米の徳川幕府の公定価格は1石1両と申し上げましたから、米で換算いたしますと、10両となり現在の価格で200~300万円が1戸当りの塩の税金となりますから苛酷です。
前述いたしましたように、穀物が主体の一般民衆はカリウムを排出するために、富裕層の肉食に比べると多くの食塩が必要となるわけで、一層庶民や肉体労働者に厳しいということになります。
王朝が宋に代わり、さすがに統一後の平和な時代となりこのときの塩税は1斗200銭で、かなり緩くなりますが、これでも塩法前に比べるとずいぶん重税です。宋は前の五代などに比べると、塩、茶だけで無く酒、香料、鋳銅、明礬なども専売品目に加え、緻密な専売法を実施したため、そこから上がる収入は国家財政の大きな比重を占めるようになります。北宋も後半になってくると役人の増加、兵の増加により塩税は苛烈になって参ります。
さて我が国。塩の専売制度は江戸時代までは、一部の藩以外は行われていません。明治にいたり、1904年に始まった日露戦争の戦費は膨大なものでしたが、その調達のために塩に課税案が出ました。それに反対する連中が塩の専売制を持ち出し、法制化されましたが、塩の価格が高騰し最終的には専売制度は低価格な外国産に対して、国内の製塩業の保護が目的とされるようになりました。
以降人口の増加と工業の発達により国内産塩だけでは需要を賄いきれなくなり、海外からの輸入が開始され、1938年では需要は250万トンにたいし、自給率は20%程度といわれています。
現在はJT(日本たばこ産業)という社名になっていますが、私たちの若い時代は専売公社でございました。3公社5現業ですな。日本国有鉄道(国鉄)、専売公社、日本電信電話公社の親方日の丸の3公社と、国の事業である郵政、造幣、印刷、国有林、アルコール専売の5現業です。
専売公社が専売としていたのはタバコと、塩です。戦後の昭和24年に設立され、塩の専売制が復活されました。それまで入浜式といわれる古式豊かな製塩法が、流下式塩田となり、さらにイオン交換膜製塩でなければ昭和46年(大阪万博の年)以降は製塩ができなくなり、ついでに言えば一般企業による製塩、輸入も禁止されました。いわゆる食塩がこの方式で食用にも販売されたわけです。これは多種のミネラルを含む塩ではなく、塩化ナトリウムでございまして、まずいというか栄養学的にも問題のある化学物質ですな。
これはまずいと言うことになり、「日本自然塩普及会」や「日本食用塩研究会」なる組織が発足し、消費者運動もあいまり、いわゆる自然塩に近いものが一定の制約はあるものの、流通が増えて参りましたが、高価だったという記憶があります。
最終的には昭和60年に専売公社が民営化され、日本たばこ産業に移行し、平成9年には塩の専売制が廃止され、JTの塩事業は財団法人塩事業センターに移管となりました。
ただ現在でも廻りはすべて海という国土でありながら、岩塩などの資源がなく、多雨による天日塩製造には一部地域以外は向かないという我が国では、塩の自給率は11.6%(2013年)となっています。需要は工業用、食用で約800万トンに対して国内生産は93万トンとのことです。食品及び食品加工用としての塩の使用量は15%で、そのうちの80%は未だにイオン交換膜塩というから、笑ってしまいます。
話が前後しますが、流下式、入浜式からイオン交換膜式になったのは、大量に安価に塩が製造できるという理由以外に、工業地帯に向いている海岸線を企業に提供するためという、きな臭い話も残っているようですが、さていかがでしょうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイリッシュウイスキー

2025-04-05 15:00:22 | 日記
以前も記しましたが、日本のオーセンティックな街中のBARのレベルは高く、ちょいと飲み足りない胃と、感性には上等のお酒と上質のバーテンダーさんの癒しが嬉しい。

さて、1杯目はロングドリンクで口中の脂を落として、もう一杯は少しきつめのショートドリンク。その後はわたくし、ウィスキーで仕上げる。

前置きが長くなりましたが、今回はウィスキーのお話。
元々のWHISKYの語源はアイルランド語の uisce beathe(命の水)が由来とか。英国王ヘンリー2世のアイルランド遠征に際し、アイルランドの蒸留酒がイングランド兵によりushky
と伝えられWhiskyに転訛したとのこと。

あたくしの最近の好みはこのアイルランド原産のアイリッシュと呼ばれるウィスキーです。

我々が学生時代、まだ1ドルが360円であり、酒税法が幅を利かせており、もっぱら国産のウィスキーがコンパの主役でした。初任給が4万程度の頃スコッチブレンデッドウィスキー、ジョニー・ウォーカー黒ラベルが1本1万円と、高値の花の代表みたいなものでした。

その後日本の円は相対的にひどく高くなり、酒税も代わり、それなりに所得も増え少しだけ背伸びすれば、12年熟成程度のスコッチウィスキーは飲める範囲になり、日本のBARのウィスキーの品揃えも相応になりました。

サントリーオールドから、リザーブといった銘柄がスナックのボトルキープの主役となり、その後ウィスキーの受難が始まり酎ハイに負けてしまった経緯があります。
その時期に仕込む量が大幅に減少したこともあり、最近のハイボールブームと、かってのNHK朝ドラマと相まって国産ウィスキー人気銘柄の、原酒不足による販売中止のニュースが飛び交っています。

さて、世界の5大ウィスキーというのがありまして、スコッチ、アイリッシュ、バーボン、カナディアンそしてジャパニーズとされております。ジャパニーズが言い出したような気がしますが、最近の日本のウィスキーは確かに人気が高い。

代表格のサントリー。コマーシャルセンスに関しては(山口瞳、開高健両氏を生んだ)、元々国内でも何度も受賞している相当のレベルで、内外の各蒸留所の買収やら、シェリー樽の買い占めを含め、グローバルにも話題の多い会社を筆頭に、確かに品質も個性も十分に5大といえる風格にはなっているのは間違いないとは思います。

伝説はいろいろとあるようですが、アメリカの禁酒法以前の時代には、アイリッシュウィスキーが世界シェアの60%程度を占めていたのは間違いないようです。

18世紀の2000ほど乱立の小規模蒸留所が淘汰、統合により1880年には28が稼働していましたが、1919合衆国禁酒法が実施され、大幅な生産縮小と蒸留所の閉鎖が相次ぎます。
禁酒法そのものに加え、密造酒にアイリッシュのラベルを貼られて品質上の評判を落としたことも挙げられるようです。

更にアイルランド内戦、現共和国の独立によるイングランドの植民地からの締め出し、極めつけは第二次大戦で中立を保持し、アイルランド国内での供給確保のための輸出制限を受けたことにより、ヨーロッパ戦線の米兵にはスコッチが配給され、これらの兵士たちが合衆国帰国後も慣れ親しんだスコッチをセレクトしたことで世界(合衆国の影響は当然高い)シェアを大きく落とすことになりました。

スコッチとアイリッシュの最も大きな違いは、勿論一部に例外はありますが、モルティングにビート(泥炭)を使用するか否かとなります。
つまり、大麦を発芽させてモルト(麦芽)に変えることをモルティングと呼び、その過程でビートではなく、石炭や木材が使われるのがアイリッシュの主流となります。そのために原料の穀物(麦芽と大麦やライ、小麦等)の芳醇な香りが引きだされることとなります。

スコッチのモルトウィスキーの特性である、あのスモーキーと呼ばれる(正露丸のような)香りの元がビートによるものであります。
更にアイリッシュのもう一つの特性は、単式蒸留機による3回の蒸留が主流とであることです。
3回蒸留の理由としては、原料のライ麦などによる穀物臭(フレーバー)を飛ばすために複数回にし、更に生産性を高めるために巨大な蒸留機を使用するようになったとの説が有力です。
この蒸留回数が多いことにより味わいも滑らかになります。

このアイリッシュウィスキーはアイルランド共和国及び、UK(グレードブリテン及び北アイルランド連合王国つまり英国)の北アイルランドが産地となりますが、アイルランド共和国の1980年アイリッシュウィスキー法により、細かに且つ厳格に規定されております。

発酵が同地域におけることや、蒸留も同地域なのに加え、木製の樽により同地域内倉庫にて3年以上の熟成などの条件が規定されています。

製造方法や、同法に更にご興味のある方はWikipediaにてご確認ください。

このように定義されているアイリッシュウィスキーですが、市場には大別して3種類のタイプが出回っています。
まずは大麦麦芽と未発酵の大麦やオート麦を原料として、単式蒸留機にて3回蒸留を行う「ピュアポットスティルウィスキ―」
大麦麦芽(モルト)のみを原料とし、単式蒸留機にて2乃至3回の蒸留回数の「ピュアモルト」
トウモロコシ等の原料で連続式蒸留機により蒸留される『グレーンウィスキー』や何種類かの上記にブレンドして出荷されるブレンデッドウィスキーの3種類です。

製法によることもありますが、アイリッシュをウィスキーの入門と表現されるバーテンダーさんの多いのは事実です。
スコッチのシングルモルトや、ブレンデッドに比べると、香りが華やかで癖が無く、バーボンほどの甘ったるさも無く、カナディアンほど淡泊過ぎないし、ジャパニーズほど高くもない。所謂飲みやすさという点と、コストパフォーマンスでもそれほど高価ではないという点でも。

アイルランドではこの味わいの性格から、ストレートのショット飲みが主流です。水割りやロックだと、この味も香りも抜けて個性が無くなります。

でもあえて、刺激を避けてまろやかな味わいを楽しむために、ツワイスアップという、お酒と同寮の水を加水した飲み方がわたしの好みです。スコッチについても、同様の飲み方が一番おいしいともいわれてはいますが。日本のスナックや女性のハベル店での、大量の氷とミネラルウォーターでの水割りとは異なります。ただし日本人はやはり強いお酒には弱いようで、ミネラルウォーターの普及もこの飲み方に起因しているとの説もあり、あながち否定するものではございません。ただ、この飲み方ではアイリッシュの豊潤な香りと、甘い口当たりは飛んでしまいますので、ご注意申し上げます。

バーも宜しいですが、アイリッシュパブでは主要な日本で出回っているほとんどが揃っておりますので、ビール以外にもお楽しみになっては如何でしょうか。

さて、日本で楽しめる銘柄を上記の大別ごとに少しだけご紹介しましょう。

ブレンデッド
 ・ジェイムソン(Jameson:ミドルトン蒸留所)
 ・タラモア・デュー(Tullamore Dew:ミドルトン蒸留所)
 ・ブッシュミルズスタンダード(Bushmills :ブッシュミルズ蒸留所)
 ・ブラックブッシュ(Black Bush:ブッシュミルズ蒸留所)
  **********************************************************
  いずれもアイリッシュの飲みやすさを備え、コストパフォーマンスにも優れたボトルです。
  私の好みはブラックブッシュかな~。我が家の定番で写真がタラモア・デューとブラックブッシュ。

ピュアポットスティル
 ・ジェイムソン・ピュアポットスティル(Jameson Pure Pot Still:ミドルトン)
 ・グリーンスポット(Green Spot:ミドルトン)
  *********************************************************
  1口含むと、思わず「美味しい」と声に出るような、口当たりの良いウィスキーです。
  少し高いけれども、有名なブレンドスコッチくらいで購入できます。
  ********************************************************
シングルモルト
 ・ブッシュミルズ(10年16年21年)
 ・カネマラ(Cabbemara Peated Malt :Regular・12年:クーリー蒸留所)
  ********************************************************
  ブッシュミルズは10年が入手しやすいようで、他は試したことはございません。カネマラはビートを使ったモルトが特徴であるアイリッシュ唯一の銘柄です。個性的でそれなりに美味しいお酒ですが、スコッチのシングルモルトとの比較だと、あえてセレクトは難しいかもしれませんが、人気はそれなりにあるようです。

 
スコッチ好きの皆様、山崎に代表されるジャパニーズウイスキーの皆様、そして甘いバーボンの香りの好きな皆様、ぜひ一度お試しくださいませ。
いろんなウイスキーを飲み方も変えて楽しむ、夜のひと時が人生を豊かにしてくれるような気がします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野の仏

2025-02-13 12:18:15 | 日記
本年最初のブログとなります。遅ればせながら、本年もよろしく御贔屓の程、お願い申し上げます。

あたくしの青春時代はフォーク全盛期でございまして、井上陽水、かぐや姫などが活躍していました。なかでも広島で15~20歳を過ごしたこともあり、吉田拓郎に傾倒していました。彼の歌のコピーを当時所属していた軽音楽同好会でもずいぶん演りました。彼の「ライブ73」というアルバムがあり、結構ハードなロックともいえるナンバーの中で「野の仏」という唯一アコースティックな曲があります。かぐや姫の南こうせつの釣りをする姿に、間近にあった野の仏がほほ笑むように感じるという状況をうたった歌です。作詞は岡本おさみなので、拓郎が感じたのか多少疑問ではありますが、この歌が好きでした。バックバンドにはハモンドオルガンで松任谷正隆が、そしてギターには高中正義が参加していました。拓郎も引退したし、ちんぺいさんも亡くなり、陽水も久しく見ていませんが、南こうせつは先年末の紅白にミニスカ姿のイルカと一緒にでていましたね。彼を見るたびにこの歌が脳裏に浮かびます。著作権の問題があるため、ここでは紹介できませんので、ユーチューブなどで視聴戴ければと思います。

で、今回のお題は「野のほとけ」でございます。

ここちはら台では宅地開発にあたり、遺跡発掘調査を行いそのあたりにあった野の仏はどのように処分されたのか、少し疑問に思っています。由緒正しい縄文・弥生・飛鳥時代の遺跡・遺物は多分それなりに処遇されて、例えば歴史博物館などに所蔵されていると想像されます。これは宿題でそのうちに調べてみましょう。

明治になり以前何度か紹介したように、神仏分離政策と決して政府主導でないにせよ多くの廃仏毀釈が行われ、神社やお寺に(当時は神仏一体でした)あった非常に多くの仏像は廃却されてしまいましたが、道筋などにおかれていた野の仏たちはそのまま置かれていたり、まとめて集められたりしたようです。いまでもちはら台を一歩出たところには例えば大宮神社の参道とか、草刈公民館に隣接する弁天様を祭る神社の傍らに、まとめて置かれています。
無論京都や鎌倉の寺院にある国宝級の仏師が彫った仏像ではありませんし、円空仏のように価値がべらぼうなものでもありません。またすべてが仏様ではないようです。
多分仏としては、地蔵菩薩(6体のものも含めて)と観音菩薩。それもこの辺りでは圧倒的に多い馬頭観音。そして不動明王などの明王像。仏像以外では村や在所の境界におかれる民間信仰の道祖神や庚申塚が挙げられます。
何が違うのかちょっと興味があり、書籍を中心に調べてみますと、まず仏像。
非常に身近な仏様としてあちこちにあるのが、地蔵菩薩と観音菩薩。

お地蔵様は他の菩薩(特に密教系で絢爛豪華な宝飾品に飾られた、ただし密教の胎蔵界曼荼羅では地蔵菩薩も有髪で表現されます)に比べると頭を丸め(円頂)錫杖と宝珠を左右に持った主に立像として表現されます。釈迦入滅後56億7千万年後に下生する未来仏、弥勒出現までの間、すなわち無仏の時代に衆生の済度を受け持つ菩薩でございます。
修行中(菩薩:ボディ・サッタはもともと修行中の存在ではありますが)に呼ばれたので円頂のままというのが、一般的な解釈です。もともとはバラモンの大地の神から派生したものと言われ、毘沙門天のブログでこの辺りはご紹介しました。

日本では奈良時代から信仰を集めていましたが、平安後期の末法思想の盛んだった時代に広まったといわれています。その中で六地蔵について。
もともとはインドの(仏教というわけでなく)輪廻思想に発していますが、人間は死ぬと地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のいずれかに行き、それを繰り返すということで、その輪廻から脱するのが、涅槃であり悟りであるとされます。この六道それぞれにあって衆生を導くのが地蔵菩薩とされ、それぞれの道の地蔵を表したのが六道地蔵ということです。薬師如来や阿弥陀如来は7体であらわされますが、これは別のお話です。

この信仰は民間で盛んになり路傍や、墓地などに立つことになります。江戸時代にはさらに発展し現世利益としてとげぬき、延命、子育て、身代わりなどとそれぞれに効能がある尊体となっていきます。特に早世した幼児の守り本尊として水子供養や、賽の河原の地蔵(地蔵賛歌)となっても参ります。流行からすれば室町時代に西日本で一般化し、戦国から江戸時代に関東で多くなってまいります。特に冥界に行く死者を救うとして様々な形の六地蔵や丸彫り立像などが、路傍に立つようになります。

(椎名小学校近くの尊像)

次に観音様。こちらはいわゆる大乗仏教で般若経系(特に般若真経では主役ですな)、妙法蓮華経(法華経)で現れますが、現世利益の救済を施す菩薩です。観世音というのが中国語に最初に訳された表記ですが、般若真経を玄奘三蔵が訳したときにアヴァロキティの直訳に近い、観自在菩薩とあらわされました。が、これは一般的にはならなかったようですね。
南海補陀落山にお住いの観世音菩薩の中で、特に東日本で路傍に多いのが、馬頭観音でございます。この辺りは特に多い。観音さまの仏像は聖観音、千手観音、如意輪観音、准堤観音、十一面観音、さらに楊柳観音などと像や絵に描かれますが、唯一憤怒面を表すこともあるのが、馬頭観音です。頂上に馬頭をいただくところから馬頭観音と表されます。
いろいろな形がありますが、本来の形としては4面2臂像で正面は菩薩面左右2面が憤怒面、そして頂上の面の上に馬頭をいただく。正面も憤怒のものがありまありますし、どちらかといえば野の仏にはこちらが多いような気がします。もともとはヒンズー教のビシュヌ神が馬頭に変身して敵を打ち破ったという神話から来ているともいわれます。
草刈公民館奥の弁財天神社の村田川側に何体か集められていたり、大宮神社の参道にも何体か集められている。この観音様は馬に関わる生業(なりわい)に関わるというのは容易に想像できます。例えば中部地方(信州など)に多いのは街道沿いに馬による物品の輸送のためで、いわゆる馬借が多かったことが想像されます。いずれにせよ近世のものですが。農耕には西日本では牛、東日本では馬が多く使役されていたことは周知のことです。もともと東日本では武家が使う戦のための牧場(まきば)が多く、平安時代から東日本から東北にかけて朝廷や将軍に引き出物として重宝されており、軍馬以外は農耕馬として下げ渡されていたのは事実。
東日本は全体的に路傍に馬頭観音の石仏が多いとは言われます。対して西日本では馬小屋、牛小屋に「牛馬安全大日如来」のお札が見られるそうです。
農耕一般の守り神として、これはどちらかといえば仏教よりも民間信仰なのでしょうが、馬頭観音が信仰され、繁殖や豊穣のシンボルである二股大根が供されたことが多いようです。もともとは祖先や祖霊への供物ということなのでしょうか。
もう一つは馬の守り神という信仰です。馬が死ねば馬頭観音の碑を建て、二股塔婆をあげて供養するのですな。東北では厩を母屋と屋根を一緒にする風習もあり、馬は大事な家族なのでしょう。

話は飛びますが、西欧では特に牛については、使役に際し去勢をするのが一般的でしたが、日本では大切な家族として扱い、去勢する文化はなかったようです。実際に昔の絵巻物に出てくる貴族の乗り物である牛車では、暴れている姿が描かれています。結構やばい乗り物であり、生き物であったのかもしれません。日本で馬車の文化がなかったのも、去勢文化がなかったことも、徳川幕府の制度もございますが、それが遠因かもしれません。

さて、馬頭観音に戻り、もう一つは養蚕との関わりです。馬と蚕の関係は東北のイタコ祭文によるとの説もあります。長者夫妻が観音様に願ってできた美しい娘に、長者の飼っていた馬が懸想してしまい、怒った長者が馬を殺すとその皮が娘に巻き付き、天竺に飛び去り馬頭観音が現れた。そのあとに残った桑の葉に白い虫が現れて蚕になったというお話です。おしら様というのもこの系統です。もともとは中国の古書「捜神記」にある、蚕神馬明菩薩という物語からといわれています。
詳細はイタコの口寄せなどを調べると面白いと思いますが、死者の霊が返ってくるときの乗り物もしくは依り代が馬であるというのは、お盆の供え物や絵馬に残っている風習でもございますね。
この辺りに馬頭観音が多いのはさてどの辺りに起因しているのか。ちはら台をウォーキングしていると、北東部のちはら台と瀬又の境界辺りには、桑の木が多いことに気づきます。季節には桑の実が結構見られます。案外ちはら台造形以前は養蚕が盛んだったのかもと、これは根拠のない想像です。
 


(草刈公民館の弁財天神社傍らの馬頭観音)

仏様を離れて、次は道祖神についてです。これは里の結界を表し、村の境界に建てられた塞祭の神(さいのかみ)・道祖神で、地域を悪霊、悪疫が入ってくるのをを防ぐための神様です。信仰はかなり古くからですが、路傍の石像はほとんどが江戸時代のものと言われます。里の結界を示すと同時にそこから出る旅に際しての交通安全や、果ては妊娠、出産、幼児守護といった当時は容易に死に至る出来事に対する、安全祈願が込められていろことも多いようです。形としては男女2神が並んだものや、陽根、女性器などと多種多様です。

 
(椎名小学校入口の道祖伸)

最後が庚申塚。これも形は様々です。
そもそも庚申とは道教にある教えによります。人の体内にある三尸(さんし)と呼ばれる三匹の虫が、60日ごとに巡ってくる庚申(かのとさる)の夜に、人体を抜け出しその罪過を天帝に告げることにより、命を縮めるというのですな。それを防ぐために一晩中起きて言行を慎み健康長寿を祈念するという、いわば遊戯に等しいことが流行ってきたわけです。これに仏教的な要素が加わり、室町時代に庚申待ちをする講が結ばれ、供養塔を模した庚申塚が建てられるようになったとのことです。
夜っぴいて酒食をとることから、講内の連携も強くなり村の連帯につながるようになりました。似たような信仰に13夜月待ちなどもあります。13夜月はほぼ夜明け前に上がる月を飲食をしながら待ち、その姿が仏を見るようだとのまあ、現代のような娯楽の少ない時代の、娯楽の一つとしての信仰です。これも石碑が残っています。永吉の平野神社にある、昔は浜野ゴルフクラブにあったとされる、将門ゆかりの桔梗塚もこれだと、以前紹介しました。
(ちはら台近郊の神社たち)

さて庚申塚ですが、多種多様なものがあるのも特徴。ほぼ江戸時代に多様になったようですが、最も多いのが悪疫を調伏するという、青面金剛(しょうめんこんごう)で、日本固有神では猿田彦大神や山王大権現、仏教系では大日、薬師、阿弥陀の各如来に観音、地蔵の菩薩、不動明王など。さらに言わず聞かざる見ざるの三猿や、仁王、閻魔もあるようです。文字だけのものも多く、庚申・庚申塔というのが最も多く、上記の神仏の名前を彫ったものもあるようです。

というわけで、石像ゆえに年月を経て欠けたり、像がすり減ったりで判然としない石像も多々ございますが、ウォーキングの途中で見かけたら、手を合わせ古の庶民の願いに耳を傾けてみてはいかがでしょうか?

参考文献
 図説 歴史散歩事典  井上 光貞監修 山川出版社
 仏教と民俗 (仏教民俗学入門) 五来 重 角川選書





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

単位の話

2025-01-11 11:34:04 | 日記
単位のお話

すっかり冬らしい気候となって参りました。師走も半ばを過ぎ今年も残り少なくなって参り、何かと気ぜわしい季節でございます。
本年最後のブログとなります。

少々難しそうなお話ですが・・・、

以前私の所属していた会社は、主要な業務の一つとして計測器の校正という仕事をして、糧を得ております。生業(なりわい)でございますな。
さて、計測器とは測定器とも云われ、モノを測る(計る・量る)器具であります。
普通に(家業に限らずという意味で)産まれて最初にお目にかかる測定器はおそらく、小学校で手にする定規であるか、健康診断の体重計、そして時計といったものでしょうか。

センチメートル、キログラムといった単位が最初に覚える対象だと思います。
これを難しく言うと「物象の状態の量」といい、例えば長さはメートル(m)、質量はキログラム(kg)がその単位となります。

このように計量の対象となる量を、具体的に列挙し、併せてそれについて単位を定め「法定計量単位」とし、これを定めた法律がわが国では「計量法:1992制定」であります。
この法の目的は「国際的に計量基準を統一(SI単位)」することと、各種計量器の正確さを維持するための、トレーサビリティ(追跡可能性:標準器の国際標準への繋がり)の維持となっております。要するに商売(国内、そして貿易)に使う質量などを標準化するためのものです。

単位、例えばメートルはもともとギリシャ語のメトロン(ものさし・計る)からの造語であり、地球の赤道と北極点の間の海抜ゼロにおける子午線上の弧の長さの1/10,000,000(早い話が、地球を縦割りにした円周の4分の一の一千万分の一)であり、1960年までは、白金製のメートル原器がフランスにあり、全ての標準とされていましたが、その後遍歴を経て現在は光が299,792,458分の1秒に進む距離として制定されています。

計量法には実は罰則があります。一つには非法定計量単位での取引又は証明に使用することが禁止されており、50万円以下の罰金となります。つまり勝手な単位で、モノを売ったり、サービスしてはいけませんよということ。
もう一つは非計量単位が記された計量器の販売(販売目的の陳列、法定計量単位での併記でも)も同様に、50万円以下の罰金であります。例えば温度の華氏(℉)長さの尺やインチ・Feetの目盛を℃や㎝と併記した場合などです。

さてSIとはフランス語でLe Systeme International d’unites すなわち国際単位系の略で、1960年のメートル条約に加盟する国々による国際度量衡総会で決定された、1つの量に1つの単位とすることを原則として統一し、採用を世界に推奨されていますが、それから60年を経ても採用しない国々が多々あります。
アメリカ合衆国、英国がその最たるものです。いわゆるフート・ポンドと華氏がいまだにかの国でのポピュラー単位であります。そしてかの国の得意分野として、航空機分野ではこれがスタンダードとしてまかり通っており、日本の計量法でも航空機分野に限って、マイル・ヤード・フィート、インチ、ポンドの使用が認められております。英米が発祥となるスポーツであるゴルフも一旦はメートル法を採用しましたが、またヤードに戻っていますね。

航空機の世界では、未だに距離はマイルで、高度はFeetで外気温度は華氏で表現されたりします。他に液体ヘリウム容器などのUSA製のものは、液面対しての換算表はインチを採用しているものが、日本国内でも主流になっていたりします。
このフィート・ポンドに関しては、まあ日本の尺などもそうですが基になるのは、人間由来の寸法が主体となっています。インチは大人の男性の指の巾に由来する、ラテン語の12分の一を意味するunciaから。フィートは大人の足(脛)の長さ(30センチ)に由来し、古代ギリシャ時代から使用されている単位であります。
マイルは元々ラテン語の千であります。すなわち古代ローマ2歩分の長さ(passus)を元として、その千倍をマイルとしたわけです。海里のマイルは本ブログの野分(台風)で紹介しています。
さらにポンド(lb)の由来は1日分として焼くパンの大麦の重さです。すなわち古代メソポタミアにて小麦1粒の重さを1グレーンとし、7,000グレーンをポンドとしたわけです。言葉としては天秤に由来するラテン語(略ではありますが)です。


単位は上記のメートルの様に即物的な転訛によるものがありますが、人名に由来したものが多々あり、自然科学者の有名どころが名を連ねております。今回はこれについて、一部を少しだけ紹介致します。

圧力のSI単位はPa 即ちパスカルであります。単位面積に加わる力であり1Pa=1N(ニュートン)/㎡=1bar となります。力を表すNニュートンはリンゴの木で有名な物理学者でありますが、パスカルも天才であります。
Blaise Pascal(ブレーズ・パスカル 1623~1662)はフランスの、物理学といった自然科学のみならず哲学者でもあり、神学者でもあり、コペルニクスと並ぶ、人類史上に輝く超天才といってよい人物でしょう。
わたくしは彼の著書で哲学書である「パンセ」を何度か途中まで読み、未だ読破に至っておりませんが、物理で習った密閉容器中の液体に関する「パスカルの定理」を発見したパスカルと、「人間は考える葦である」とパンセで記した哲学者パスカルが同一人物であるという認識は当初は全くございませんでした。
かのパスカル、「5ソル(貨幣単位)の馬車」と称する乗合馬車も開発しております。現在のバスに相応するいわば最初の公共交通機関という訳です。

次に電圧、即ち電位差を現す、電気でおなじみのV(ボルト)でありますが、計量単位令では、「1Aの電流が流れる導体の2点間において、消費される電力が1Wであるときの、その2点間の電圧即ち1V」と定義されております。
このボルトも人名から採用された単位で、ⅡConte Alessandro Giuseppa Antonio Anastsio Volta アレッサンドロ ジュゼッペ アントニオ アナスタージオ ヴォルタ2世伯爵という、寿限無並みに長い名前のイタリア人がその人であります。因みに電力の単位であるW(ワット)はお馴染みの、蒸気機関を発明した、英国のジェームズ・ワットに起因しています。
かのヴォルタ伯爵は、世界初の化学電池であるボルタ電池の発明者であり、亜鉛と銅を電極とし硫酸もしくは塩化ナトリウムを混ぜた食塩水を電解液として使用しました。
イタリア北部のコモという国立中等教育機関であるギナジウムの物理学教授であり、電位と電荷を分けて研究する手段の確立と、それらが比例することを発見致しました。
ナポレオン・ボナパルトの崇拝者としても有名なようですが、1745~1827の82歳と当時としては長命な方であったようです。

他の電気に関わる単位では
インダクタンスの単位H(ヘンリー)はJoseph Henry(1979~1878USA):スミソニアン協会初代会長でファラデーと同時期に電磁誘導を発見したものの、発表はファラデーに先を越されました。電動機の発明者でもあり、ベンゼンの発見者としても有名です。このマイケル ファラデー(1791~1867英国)もコンデンサの静電容量の単位F(ファラド)に名を遺しています。

電荷を現す単位C(クーロン)はフランスのクーロンの法則を発見し土木工学者でもあるシャルル オーギャスタン クーロン(1736~1806)から。
電気抵抗の単位Ω(オーム)は、中学で習ったオームの法則R=V/Aの発見者であるGeorg Simon Ohm(ゲオログ ジーモン オーム: 現ドイツであるバイロイト侯爵領エアランゲン出身1789~1854)から取られました。

磁束密度のSI単位はテスラと申します。以前はガウスという単位が主でした。今でも地磁気には使いますね。あまり一般的ではありませんが、磁石を使って人体の透視を行うMRIに使用される超電導磁石などに使用されます。これも人名であり、最近有名なテスラ社同様に、エジソンと同時代の双璧をなす二コラ・テスラという発明家(物理学者)から来ています。

さて、SI単位ではありませんが、国際的な取引に使われる単位で真珠に限りということで、計量法にも認められた我が国固有(?)の単位が匁(正式には、「もんめ」であり、単位記号はmom:3.75g)であります。
元々は中国唐代の銅銭「開元通宝」1枚の質量で中国での単位は銭であり、当初は国内でも銭が一般的な呼称であり文目が語源のようです。字としては、15世紀には銭の異体文字として使われていたようです。

江戸時代には銀の質量イコール貨幣単位として使用されており、元禄時代に換算は金1両が銀60匁と公的に定められましたが、実際には変動相場での取引でした。

真珠が日本の特産品ということで、国際的にも真珠の取引は「もんめ」が使用されていますが、実は現代の穴あき五円玉の重量はきっちり3.75g即ち1匁であります。ここに財務省造幣局の拘りを感じて思わず頬が緩んでしまうのは筆者だけでしょうか?

「はないちもんめ」とは、1匁分のお花を値切った、値切られた。で嬉しい、悔しいと呼び合う童遊びではありますが、この一匁はお花の質量なのか、お金として一匁分のお花なのか、どなたか教えて戴きたいところであります。

今年もお読みいただきありがとうございました。
少なくとも来年3月までは、引き続き担当致しますので、一層のご愛読をお願い致します。
来年が皆様にとって、良い年でございます様、祈念申し上げます。
良いお年をお迎えくださいませ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする