日光例幣使街道の合戦場宿
現役時代、出張の多い職種をしておりました。その前の職業とも相まって、全都道府県を回っております。
今も続いている土曜朝の関西キーステーションの旅番組で、随分前になりますが、女優(今は俳優と言わなければなんでしょうか?アクトレスだから女優で宜しいのではないでしょうかね?)の名取裕子さんが、訪れた先々で郵便局にて貯金をし、その郵便局の固有のスタンプを記念に集めている模様がございまして、あたくしもやってみたく。
もうちはら台に住んでおりましたので、ちはら台郵便局で早速家内に通帳を作ってもらいました。しばらく忘れていたのですが、たまたま福岡空港の郵便局前を通りかかり、思い出して千円貯金をしてみました。黒の旅客機が郵便局名に並んだスタンプで、それから旅のお供に行く先々で千円貯金を。もちろん窓口の開いている10時から16時までで、平日のみ可能と言うことと、運良く近くに郵便局があるという制約もありましたが、退職するまでの間に97カ所のスタンプが集まりました。
結構面白いのもありまして、観光案内を少し入れた四国香川県「銭形の街・観音寺郵便局」とか「蔵の街 喜多方郵便局」「水晶の街 甲府駅前郵便局」等など、楽しいですね。
マークとしては紅葉マークの広島東郵便局、夕日と日本海の波を組み合わせた、新潟中央郵便局。雷鳥の富山中央郵便局。錨マークで青のスタンプの神戸御幸通郵便局。窓口でセレクトできたのは和歌山中央郵便局で、転々手まりの鞠か、お城をチョイスできて、お城でお願いしました。山口から日本海側は良いですよ。赤スタンプでお花とみすずのふる里と書いてある、仙崎郵便局。家紋があるのが、萩 松陰神社前郵便局。そして「山陰の小京都 に鯉の絵が島根県津和野郵便局」赤のスタンプでございます。
きりが無いので最後に出雲大社では 島根県大社神門前簡易郵便局には大国主が打ち出の小槌を持った大黒天が赤スタンプで。これも赤で鳥居の絵に「日本三景広島県宮島郵便局」。
その中で地図の合戦場を表す日本の刀が差し違えるのが「合戦場郵便局」のスタンプでございます。栃木県のお客様を訪ねるに際し、たまたま一般道を通っておりましたら、信号の下に合戦場という珍しい地名が。まあこれだけでうずうずしてしまうのですが、その先に合戦場郵便局があるではありませんか。運転していた部下の課長にお願いして、止まってもらいそそくさと局内で千円貯金。なんと近くには合戦場小学校までございました。窓口で由来を伺うと、資料を下さいました。この郵便局は明治5年の開局でなんと140年。小学校は明治6年の創立で、創立当時の名称は淑慎学舎、明治14年に合戦場小学校に改称されたとのこと。
さて名前の由来となった合戦は大永3年(1523年)の宇都宮城主、宇都宮忠綱と皆川城主、皆川宗成の激戦が現合戦場駅西部であったことによるそうです。
時代的には室町後期10代将軍足利義植で、この2年前の大永元年に武田信玄が生まれ、翌2年には柴田勝家と千利休が生まれています。いわば戦国の走りでございまして、関東はいち早く戦国大名化した豪族がしのぎを削っていたのでございますなあ。
全国で合戦場という地名は2か所プラス1のみ。もう一か所は長野市合戦場。こちらは源平時代の1181年に平家方の越後の城氏がこの元々の地名である横田が原に攻め込み、木曽義仲に敗退したところから後年命名されたものです。
もう一か所のプラス1は、地名ではなく合戦場のしだれ桜という桜の名称で、福島県二本松にあり、こちらは前三年・後九年の役で八幡太郎源義家と阿倍の貞任の合戦に因み、地名では二本松市東新殿字大林というところになります。
ところで、この合戦場ですが、東武線の駅名にもなっております。そしてこの地は、日光例幣使街道の栃木の次の宿場となっており、江戸時代は往路に用いられ、復路は今市から日光街道を通り、東海道を利用したそうです。
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道でございます。
例幣使とは天皇の代理として、朝廷から神への毎年の捧げ物である、例幣を納めるために使わされる使者です。
徳川家康は元和2年(1616年)4月17日に駿府で亡くなり、久能山に埋葬されますが、翌元和3年2月に後水尾天皇より、東照大権現の神号が送られます。同年3月に家康の霊柩が久能山から日光に遷座し東照社に。その後正保2年(1645年)11月には後光明天皇より、宮号が宣下されて東照宮に。翌年には三代将軍家光の要請があり、臨時の奉幣使として持明院基定が遣わされ、以降毎年幕末の慶応3年(1867年)まで221年継続いたしました。
毎年3月末か4月1日に京をたち中山道を倉賀宿東の追分から北に入り13番目が栃木宿
で、その次の14番目の宿場が合戦場(かっせんば)となります。鹿沼辺りから有名な杉並木になります。復路は今市から日光街道を通り、江戸で将軍に対面してから東海道を利用したそうです。
ところでこの例幣使、すこぶる評判が悪かった。格式は4位と高く、当時は大名でも5位が殆どでしたから、やたらといばる。しかも当時の公卿の収入は非常に低いものでしたから、お供も実際には○○の大掾やら少掾といった実際には京の出入り商人であり、とんでもないのが多かった。
籠に乗り、金を要求し駕籠かき人足が渋ると籠を揺らし、わざと転げ落ち公儀のお裁き云々と言いがかりをつけ、村役人が詫びて金を渡して納めるといった話が、あちこちに残っており、ゆすり・たかりの語源となったといわれています。
さて、この合戦場郵便局の向かいには、日立製作所の創業者である 小平(おだいら)浪平氏の生誕地という碑がありましたことを鮮明に覚えています。
この日は栃木市内の関連会社に営業に行って、その夜は確か宇都宮で泊まり、行きつけのバーで楽しんだという記憶がございます。