「9月25日(月)」
「どうする家康」
「徳川家康家臣団列伝」
「西郷局(さいごうのつぼね)」
(於愛の方(徳川家康の側室)
(広瀬アリス)
西郷局(さいごうのつぼね、
天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり)
- 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、
戦国時代・安土桃山時代の女性。
初名はあい、お愛とされるが、
お相が正しいとする説もある。
徳川家康の側室となって以降は西郷局と称した。
院号は宝台院。
贈位を受けた際の名は源昌子。
江戸幕府
第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉を産んだ。
江戸後期に成立した『寛政重修諸家譜』
・『以貴小伝』によれば、
父は戸塚忠春とされる。
母は源姓土岐氏流三河西郷氏とされ、
西郷正勝の娘とされる。
幼少時、父忠春と兄の忠家が討ち死し、
母とともに、祖父・西郷正勝に保護された。
『以貴小伝』・『寛政重修諸家譜』では
母が忠春の死後蓑笠之助正尚に嫁いだために
その養女になり、
その後正勝に引き取られたとしている。
のち、
正勝の嫡孫・西郷義勝と結婚した。
義勝との間に1男1女をもうけている。
元亀2年(1571年)、
武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、
縁戚の菅沼定盈に協力した竹広合戦で、
義勝が落命する。
彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督を継げなかった。
義勝の死後、
藤正尚の屋敷にいた母の元に身を寄せた。
天正6年(1578年)、
家康が同屋敷を訪れた際、
お愛の方を見初め、浜松に連れ帰った。
お愛の方は、
正勝の子であり伯父にあたる西郷清員の養女となり、
家康に仕え、西郷局と改めた。
『柳営婦女伝系』では
西郷清貞の養女となったとされる。
天正7年(1579年)4月に秀忠を、
同8年(1580年)9月に忠吉を産んだ。
天正17年(1589年)5月19日、
駿府で死去した。
28歳(一説に30歳)。
龍泉寺に葬られ、法名は竜泉院殿とされた。
『家忠日記』の
天正17年(1589年)5月21日の記事には
「野田菅沼助兵へ喧嘩にて死去之由」と記され、
『柳営婦女伝系』には
「松平主殿助家忠の家士・稲吉兵衛に害された」
とある。
寛永5年(1628年)5月9日、
従一位が贈られ、
5月19日には法名も
宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼とする宣命が下り、
龍泉寺は宝台院と名を改めた。
当時の将軍・徳川家光は孫、
翌年即位した明正天皇は曾孫に当たる。
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