「11月21日(火)」
「どうする家康」
「徳川家康家臣団列伝」
「本多正純」
(江戸幕府 初代老中)
(井上祐貴)
本多 正純(ほんだ まさずみ)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
江戸幕府の老中。
下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。
本多正信の長男で、正信系本多家宗家2代。
永禄8年(1565年)、
本多正信の嫡男として生まれる。
当時、
正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、
三河国を追放されて
大和国の松永久秀を頼っていたとされるが、
正純は
大久保忠世のもとで母親とともに保護されていた。
父が徳川家康のもとに復帰すると、
共に復帰して家康の家臣として仕えた。
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦に参加した。
戦後、
家康の命令で石田三成の身柄を預かった。
また、
父・正信とともに
徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、
これを推挙した(「大久保家留書」)。
慶長6年(1601年)2月、
従五位下・上野介に叙任。
慶長8年(1603年)、
家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、
家康に重用されるようになる。
慶長10年(1605年)、
家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、
家康と秀忠の二元政治が始まると、
江戸の秀忠には大久保忠隣が、
駿府の家康には正純が、
そして正純の父・正信は両者の調停を務めるかたちで、
それぞれ補佐として従うようになった。
慶長13年(1608年)には
下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。
元和2年(1616年)、
家康と正信が相次いで没した後は、
江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、
年寄(のちの老中)にまで列せられた。
しかし先代からの宿老であることをたのみに権勢を誇り、
やがて秀忠や秀忠側近からうらまれるようになる。
なお、
家康と正信が死去した後、
2万石を加増されて5万3,000石の大名となる。
元和5年(1619年)10月に
福島正則の改易後、
亡き家康の遺命であるとして
下野国小山藩5万3,000石から
宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。
これにより、
周囲からさらなるうらみを買うようになる。
ただし、正純自身は、
さしたる武功も立てていない自分にとっては
過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、
加増を固辞していた。
幕僚の世代交代が進んでいたが、
正純はかわらず、幕府で枢要な地位にあった。
しかし、
後ろ盾である家康や父・正信が没し、
秀忠が主導権を握ったうえに、
秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで
正純の影響力、政治力は弱まっていった。
先代よりの忠勤に免じ、
改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に
5万5,000石を与えるという代命を受けた。
このとき使者として赴いた
高木正次、伊丹康勝らの詰問に
さらに弁明の中で謀反に身に覚えがない正純は
毅然とした態度で応じ、その5万5,000石を固辞した。
これが秀忠の逆鱗に触れることになった。
高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると
秀忠は激怒し、本多家は改易され
知行は1,000石のみとなり、
身柄は佐竹義宣に預けられ、
出羽国由利へ流罪となり、
のちに出羽国横手にて幽閉の身となった。
正純の失脚により、
家康時代その側近を固めた一派は完全に排斥され、
土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。
正純父子は、
牢にこそ入らなかったものの
屋敷からの外出はゆるされず、
その屋敷は逃亡防止のために板戸で囲われて
採光が不十分という、
蟄居や軟禁と呼ぶには過酷な待遇であったといわれる。
寛永14年(1637年)2月29日、
正純は配所の横手で死去した。
享年73。
本多正純の没年月日は
従来寛永14年3月10日(1637年4月5日)とされているが、
横手市での本多上野介正純の墓の現地踏査で、
横手区裁判所職員一同が
明治42年4月に建立した本多上墅介墓に
寛永14年2月29日卒と刻されている。
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「本多正純」
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(井上祐貴)
本多 正純(ほんだ まさずみ)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
江戸幕府の老中。
下野国小山藩主、同宇都宮藩主(第28代宇都宮城主)。
本多正信の長男で、正信系本多家宗家2代。
永禄8年(1565年)、
本多正信の嫡男として生まれる。
当時、
正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、
三河国を追放されて
大和国の松永久秀を頼っていたとされるが、
正純は
大久保忠世のもとで母親とともに保護されていた。
父が徳川家康のもとに復帰すると、
共に復帰して家康の家臣として仕えた。
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦に参加した。
戦後、
家康の命令で石田三成の身柄を預かった。
また、
父・正信とともに
徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、
これを推挙した(「大久保家留書」)。
慶長6年(1601年)2月、
従五位下・上野介に叙任。
慶長8年(1603年)、
家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、
家康に重用されるようになる。
慶長10年(1605年)、
家康が将軍職を三男の秀忠に譲って大御所となり、
家康と秀忠の二元政治が始まると、
江戸の秀忠には大久保忠隣が、
駿府の家康には正純が、
そして正純の父・正信は両者の調停を務めるかたちで、
それぞれ補佐として従うようになった。
慶長13年(1608年)には
下野国小山藩3万3,000石の大名として取り立てられた。
元和2年(1616年)、
家康と正信が相次いで没した後は、
江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、
年寄(のちの老中)にまで列せられた。
しかし先代からの宿老であることをたのみに権勢を誇り、
やがて秀忠や秀忠側近からうらまれるようになる。
なお、
家康と正信が死去した後、
2万石を加増されて5万3,000石の大名となる。
元和5年(1619年)10月に
福島正則の改易後、
亡き家康の遺命であるとして
下野国小山藩5万3,000石から
宇都宮藩15万5,000石に加増を受けた。
これにより、
周囲からさらなるうらみを買うようになる。
ただし、正純自身は、
さしたる武功も立てていない自分にとっては
過分な知行であり、また政敵の怨嗟、憤怒も斟酌し、
加増を固辞していた。
幕僚の世代交代が進んでいたが、
正純はかわらず、幕府で枢要な地位にあった。
しかし、
後ろ盾である家康や父・正信が没し、
秀忠が主導権を握ったうえに、
秀忠側近である土井利勝らが台頭してきたことで
正純の影響力、政治力は弱まっていった。
先代よりの忠勤に免じ、
改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に
5万5,000石を与えるという代命を受けた。
このとき使者として赴いた
高木正次、伊丹康勝らの詰問に
さらに弁明の中で謀反に身に覚えがない正純は
毅然とした態度で応じ、その5万5,000石を固辞した。
これが秀忠の逆鱗に触れることになった。
高木と伊丹が正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると
秀忠は激怒し、本多家は改易され
知行は1,000石のみとなり、
身柄は佐竹義宣に預けられ、
出羽国由利へ流罪となり、
のちに出羽国横手にて幽閉の身となった。
正純の失脚により、
家康時代その側近を固めた一派は完全に排斥され、
土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになる。
正純父子は、
牢にこそ入らなかったものの
屋敷からの外出はゆるされず、
その屋敷は逃亡防止のために板戸で囲われて
採光が不十分という、
蟄居や軟禁と呼ぶには過酷な待遇であったといわれる。
寛永14年(1637年)2月29日、
正純は配所の横手で死去した。
享年73。
本多正純の没年月日は
従来寛永14年3月10日(1637年4月5日)とされているが、
横手市での本多上野介正純の墓の現地踏査で、
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明治42年4月に建立した本多上墅介墓に
寛永14年2月29日卒と刻されている。
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