自転車屋男 2

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変な男の人生色々日記

「どうする家康」関ヶ原の戦い特集」!!「毛利輝元(西軍 総大将)」!!

2023-11-06 13:07:29 | 地域
「11月6日(月)」

「どうする家康」
「関ヶ原の戦い特集」

「毛利輝元」
(西軍 総大将)
(吹越 満)

毛利 輝元(もうり てるもと)は、
戦国時代後期(安土桃山時代)から
江戸時代前期にかけての武将・大名。

安芸の戦国大名・毛利氏の14代当主。

父は毛利隆元、祖父は毛利元就。

豊臣政権五大老の一人であり、
関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。

長州藩の藩祖でもある。

秀吉の死後、
徳川家康が台頭すると、輝元は五奉行と連携し、
これに対抗した。

また、
家康が秀吉の遺命を掲げ、
毛利家中の問題に介入するようになったため、
当主である輝元は家康を脅威と感じるようになった。

慶長5年(1600年)7月に
石田三成が挙兵すると、
輝元もこれに呼応して、西軍の決起に加わった。

輝元は大坂城に入城し、
諸将に西軍の総大将として推挙され、
軍の指揮を取った。

輝元は養子・秀元を大将とする毛利勢を
関ヶ原に送ったほか、
四国や九州にも軍勢を展開した。

だが、
輝元が関知しないところで、
吉川広家らが東軍に内通し、
毛利勢の本戦への不参加を条件に、
毛利氏の所領安堵を約していた。

そして、
9月15日の関ヶ原の戦いでは、
広家や小早川秀秋の裏切りにより、
南宮山に布陣していた毛利勢は
本戦に参戦できずに傍観するのみとなり、
西軍は敗北した。

敗戦後、
輝元は家康の説得を受け入れ、
所領安堵と引き換えに大坂城を退去した。

だが、
輝元が西軍総大将として
積極的に軍勢を指揮してきたことが発覚したため、
家康は約束を反故にし、改易されそうになった。

結局、
広家らの尽力もあって、改易は免れたものの、
祖父以来の領地の多くを削られ、
周防・長門の2か国を領するのみとなった(防長減封)。

その後、
輝元は出家し、形式的には嫡子・秀就に家督を譲ったが、
法体のまま実質的な当主として政務を司り、
二頭体制を取った。

輝元は内政面で能力を発揮し、
萩城を築城したほか、財政の再建、
家中の融和にも努め、江戸幕府との関係も重視した。

他方、
輝元は低下した権威の回復のため、
厳しい家中統制を行い、
張元至や熊谷元直、天野元信、吉見広長ら
家臣を粛清している。

元和9年(1623年)9月、
輝元は正式に秀就へ家督を譲渡し、
60年にわたる治世を終えた。

そして、
寛永2年(1625年)4月27日に萩で病没した。

享年73(満72歳没)。


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