後期高齢者群への加入記念、残念ブログはじめました!

始まりは1965年の春、17歳の僕と1学年下のきみの6年間のダイアリー。緋色のルーズリーフノートの思い出です。

1965年10月5日(火)

2023-09-12 20:14:00 | 日記

体育祭・かがよいで

大事件が勃発

体育祭の花形、団対抗800メートルリレー(体育祭は公認県営陸上競技場で行うので凄い記録を出せば公認されるのだ。もちろんそんな記録が出るわけもないのだが、一応その資格がある競技場)で第一走者として華々しくスタートしたが、これも華々しく転倒した。結果チームは華々しく優勝したが、僕は手のひらと膝に仰々しい包帯が残った。そして夜の"かがよい"を迎える。

運動会の各団の応援デコレーションを学校まで持って帰り、校庭の真ん中に積み上げて燃やす炎の周りでフォークダンスをするというものだが、男女比41の条件下で男として生き残れるかどうかが大きな課題だ。ところが僕は仰々しい包帯でとてもフォークダンスなんかできないので校庭の周りの石垣の上から燃える炎を、付き添ってくれたきみと二人で立ち見していた。曲がオクラホマミクサとなった時、定位置である僕の右側にいるきみが包帯ぐるぐる巻きの僕の右手を取ってきみの右肩へ

初めて手を握り合った瞬間だった。そして最後まで相手を変えることなくその場でダンスを踊り続けた。

怪我の功名、ヤッタネ!


1965年10月2日(土)

2023-09-12 04:38:00 | 日記

三年生を追い出す会をエスケープして、お城の殿様の下屋敷だった楽々園とその東側の回遊式庭園玄宮園へ。お城もお庭も学生証を提示すればフリーパスで、池の畔をふたりで歩けば最強のデートコースだ。

ふたりの通う高校はいわゆる規則校則がほとんどなく生徒の自主性が尊重される。授業がブランクになれば、相当数のクラスメイトが玄宮園に来る。お城は校庭の一部のようなものなんだ。服装も自由で制服はない。それなのに僕は三年間ほとんど詰襟の学生服で通したし、きみも制服然とした紺色の襟のない上着とスカート姿だった。質実剛健?だったのかな。

こんな時はせめて手を繋いで歩きたい、でもクラスメートに見られたら、彼女にイヤなやつと思われたらとか考えるとその一歩が踏み出せず、そんな自分に対して腹立たしくなって彼女に冷たい言葉であたってしまう。結果彼女を泣かせてしまうという悪循環!

そんなモヤモヤを抱えた時期だった。


1965年8月21日(土)

2023-09-11 16:38:00 | 日記

きみの17歳の誕生日に招かれてきみの家へ!

きみがピアノを弾いて聴かせてくれたのはベートーベンの"月光"。

ぼくは小四までヴァイオリンを習っていたが、きみはずっとピアノを続けていた。驚いたことに幼い頃ふたりは発表会で会っていた。僕が小四できみは三年生のときの一枚の写真があるのだがこれはふたりが卒園した幼稚園の講堂でカナリア会という発表会があり、僕は"魔弾の射手より狩人の合唱"を演奏し、きみも楽器こそ違うが同じステージで演奏したときに撮った記念写真。65年前の奇跡の1枚の写真だ。


誕生日だから当然、バースデーケーキとローソクが用意されていた

・・・

この日から10年後の1975年にフォークデュオ"風"でヒットした"22歳の別れ"を聞き驚いた。

 私の誕生日に22本のローソクをたて 

 〜17本目からはいっしょに火を

 つけたのが昨日のことのように

 今はただ5年の月日が 

 永すぎた春といえるだけです ♪

・・・

この日はきみの17歳の誕生日。ローソクに火をつけ、きみが口をとんがらせてローソクの火を消し、ケーキをいただき、つつがなく儀式は終わったが、まさか5年後にあんなことになるなんて知るはずもなかった。


1965年7月20日(火)

2023-09-11 05:29:00 | 日記

交際して初めての長い休みが始まる。日記を交換し出来るだけ情報を共有するためにどうするか悩んだ結果、解決策として日記ノートを二冊にすることにし、二冊を長続きさせるための約束事をひとつだけ決めた。日記をつけない日があってもいい、ということ。結果その後二人とも書かない日がほとんど無く、お互いどんな日常を送っているのか知りたくてノートを交換するため毎週会うという効果もあった。


1965年5月1日(土)

2023-09-10 20:50:00 | 日記
創立年や創立日は知らないが、創立記念日を記念して新艇購入記念のボート大会。

5月1日に行われる一般生徒が参加するクラス対抗ボート大会に向け4月になるとボート部員の指導を受け練習をした。放課後、名門のS大学の艇庫と並ぶ我が校の艇庫に集まり、ボート部員の指示で琵琶湖に漕ぎ出す。 目標は多景島近くの沖の白石。白石の正体は広い琵琶湖で束の間休憩する湖鳥ならぬ野鳥のフンだ。 往復で小一時間。陸にもどるとお尻は皮がズル剥けで真っ赤に。

なお、レース当日の成績は如何?優勝できなかったはずだが、まったく記憶にない。きみも出た貸ボートで行った女子のレースの結果も当然不明だ。




1965年4月29日(木)

2023-09-10 14:50:00 | 日記

ゴールデンウィーク中にきみとふたりで京都の植物園に行く約束をしていた。その時きみがくれたきみの写真はどうやら植物園のバラ園で撮ったものらしい。おさげのきみが可愛く撮れているが誰が撮った写真なのか?

それはさておき、初めて二人一緒に電車に乗って京都へ。どんなことでも二人一緒にすることが新鮮で嬉しかった。ボックス席を二人締めで窓際に向かい合って座る。まだ隣り合い肩寄せあって座るなんて知恵がなかった頃だった。

植物園では好天の芝生に並んで座っておしゃべり。どうやら何か意地悪を言ったか虐めたのか、きみを泣かせてしまったことをきっかけに交換日記をすることになり、梶井基次郎の『檸檬』の舞台となった丸善(舞台は三条通麩屋町にあったが、この日行ったのは移転後の河原町店)で緋色のルーズリーフノートを買った。このノートを一冊目として以後6年間続いた交換日記が始まった。


1965年4月8日(木)

2023-09-10 05:11:00 | 日記

春休みが終わり、高校三年生と二年生になったふたり。新しいクラスが決まり、HRが終わったら図書館で待ち合わせ。初めてのデート、今日はきみが待っていてくれた。少しぎこちない会話をして、初めて一緒に下校。

テニス部のきみは自転車通学をしていた。僕がきみを意識したのは去年の秋、校舎と体育館の連絡通路を自転車に乗ったきみが、風で吹き上げられそうなスカートを懸命に押さえているのを目撃した時だ。一目惚れだった。

閑話休題、帰宅の話。学校の正門を出て左に行くときみの帰り道、右に行くと僕の帰り道。どちらも濠端の道だが当然左に行く。左右にそびえるお城の石垣を抜け、お濠にかかる京橋を渡り右へ。道の端からきみが押す自転車、きみそして僕の順に歩くお濠端。市立病院、きみの母校の中学、僕の志望大学などを通過してきみの家の近くまで20〜30分。どんな話をしていたのか?黙って歩いていたのか?でも心が弾んでいた。

その道で母校の小学校で五・六年の担任だったN先生にバッタリ会ったら、その N先生がきみの中学時代の担任だった。N先生は僕と同じ町内の人で、「なかのいいふたりやね」と冷やかされた。いかにも狭い地方都市らしい話で、N先生は僕の姉の中学時代の担任で、姉はきみの中学の先輩で、ふたりの高校の先輩でもあるというややこしさ。


〜早春の風に背中を押されているようなそんな不思議な高揚感があった。風は僕に語りかけていた。前へ進めと、夢を叶えよと〜



1965年3月24日(水)

2023-09-09 16:08:00 | 日記

高校二年最後の日

つい先ほど全校生〜と言っても一・二年生だけだが〜と校長以下全教員による終業式と最後のHRが終わった。クラスメートはそれぞれに「ほなな」「またな」と帰り、僕はひと気のない図書館で一学年下のきみを待っていた。

そして・・・図書館にきみとふたりだけ

>つきおうてくれへんか

>わたしも

用件はひとことずつで終わり、ふたりの交際は始まった。

・・・

前の年秋の通称「三年生を追い出す会」=文化祭のクラス勝手代表でステージに立ちアコースティックトリオで歌ったら当たった。曲は他愛もなく"高校三年生"とか"俺はお前に弱いんだ"とか… 。その歌を聴いたから、きみが「わたしも」と言ったとか?