写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

連休

2019年04月21日 | 随想

 

混んでいるところには行きたくない。

連休はどこも混む。

だから、連休にはどこにも行かない。

 

・・・・って、ここで終わりゃツイッターと変わらぬ。^^;)

 

一時期、来る日も来る日も毎日が休日、という経験もしたことがあるが、そのときのおぼろ気な記憶では、何か社会から除け者にされているような感じがして、充分すぎる自由な時間があるにもかかわらず思い切った時間の使い方ができなかった、というような苦い思い出がある。まぁ、疎外感、とでも言うのだろうなぁ。周りはそうでもないのだろうが、当人だけが深刻に感じていたというところがヤバい、と今にしていろいろと思うところがある。

 

そんな経験が底にあるからでもなかろうが、働いているときの休日の醍醐味というのは、通常の労働日で「皆が働いているときにこそ休む」、というところにあるのであって、そういう日は、日頃は混むようなところでもゆったりと過ごせるし、「勤労者の皆さん、ご苦労様!」という感謝の念を再確認させてくれたりもすることができる。あっ、決して上から目線での感覚ではない。

みんながみんな休んでいて自分も休みというのでは、結局、みんなと一緒に休まされられているようなものであって、ちっとも面白くも何ともない。

 

連休と言うくらいだから休みが続く、ということで、休みの日というのは何もしない日ではなくて、あくまでも仕事をしない日なので、仕事以外なら何をしても良い日のはずだが、何をする訳でもない、というのなら、ここは一念発起、山にでも籠もってみようか、などとも思ってみたが、籠もるのは自分の部屋でも同じだし、そう言えば一時期、自宅どころか自室警備員が長かったこともあり、いわば筋金入りの引き籠もりみたいなもんだったので、そういうときの過ごし方といえば、これはもう「読書」と相場が決まっている。

ネットのほうがポピュラーになってきた時代とはいえ、やはり本というものを手にとって、ページをめくっていくという作業は、マウスをカチカチっとクリックする作業よりも、どことなく優雅である。いわば、打楽器と弦楽器との違い、あるいはブラスバンドとオーケストラの違いのようなものだ。

最近ではオーディブルという、「朗読で聴く読書」というスタイルも出てきて、ますます「手段」の多様性が増えてきている。・・・・朗読を聞きながらネットの文字を追っているときはどっちつかずだし、ときに、朗読している人は大変だろうなぁ、などと聴きながら他のことばかりが脳裏に浮かんだりする。

(オーディブル)

 

肝心なのは「手段」よりも、何を読むか、ということなのだが、ちゃんとそれを見越しているのだろう、致知出版社から10連休に完全読破! 教養を磨く幻の名著特集のお知らせメールが届いた。

ぅ~む、これはボリューム的にも価格的にも相当に負担が大きい。・・・・と、いう人も多いだろうということを、これも見越してのことであろう、さりげなく御代替わりの今、これだけは知っておきたい日本の歴史も紹介してくれている。

ぅん、これなら何とか手を付けれそう。。。。なのだが、歴史を読むのなら、我がブログ「なんでだろー?(2016年06月26日)」のところで紹介していた『子どもの心に光を灯す 日本の偉人の物語』(白駒妃登美著)が最高にいい。これがイチオシ、である。

今一度、読み直してみたら、なんと、冒頭のテーマが、1,000円札の顔になることになった「北里柴三郎」の話である。ぃやぁ~、またまた感動の連続である。泣けてもくるし、妙な自信みたいなものもわき上がってくるのを実感する。

 

せっかくなので、我がブログからの引用だが、再度、読み起こしてみたい。

 

最初は「北里柴三郎」の話である。北里といえば、今の山中伸弥さんに匹敵というか、たぶん、それ以上の実績と世界への影響力のあった人なのだが、その後継者である志賀潔野口英世を世に出したのも北里だし、福沢諭吉との出会いと恩返しの話(このあたりの話は少々認識を新たにしたが)、そういう史実の紹介のあとに、さらっと著者のコメントが入る。

・・・もしかしたら、私たちの才能や能力は、自分以外の誰かを笑顔にするために授かったものなのかもしれませんね。逆に言えば、大好きな人や大切な人を笑顔にしよう、その人たちの恩に報いようと覚悟を決めたとき、私たちの能力は磨かれ、どんどん自分自身が輝いていくのでしょう。「笑顔にしたヒトの数だけ自分が輝く」・・・・・・あなたは、誰を笑顔にしたいですか?

 

あなたは自分が生きている意味をわかってますか?と問いかけられているようなものだ。

(続きはリンク先で。)

 

若い頃は、連休になればヒゲを伸ばしてみたこともあったものだが、わがヒゲのはえ密度が薄く、みすぼらしいオッサンにしか見えなかったこともあり、落胆してすぐに剃ってしまったというトホホなことがあった。

年老いて、今度はズボラで伸びたヒゲ面を見てみると、これがまた、ごま塩のように黒白入り乱れていて、より一層の惨めさばかりが目立つだけの様相となっていた。これはイカン。

 

連休と聞けば思い出されるのが、モリカケ因縁・イチャモンto閣僚で起こした2018年の「18連休」。そして2019年は、それを大幅に超える「40連休」の可能性、ということで、おぃおぃ、きちんとした議論をしてくれよ、と切に思う訳だが、この件へのネットの反応が秀逸だ。いわく、

・退職前の有休消化でなくて?・・・退職前有給消化の最大日数だもんなぁ。

・ズル休みして憲法改正手続きを滞らせてるってことで、どこぞのお国からよくやったとお小遣いも貰えてるのかもしれませんね。・・・特亜3カ国、ですね。

・彼らに関しては休んでてくれたほうが日本のためっていうねw・・・結果的にはいつもそこに落ち着く。

・サボり方、改革。・・・ぅっまいなぁ、座布団3枚級ですな。

・365連休でもええで〜。・・・・おーっと、究極の連休ですね。

などなど。

 

ところで、致知出版社の読書案内にもある、西郷隆盛や吉田松陰に影響を与えたという「言志四録」(著:佐藤一斎)などの儒教関係の書は、いままで無条件に「いいものだ!」と受け入れてきたが、「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」という本を見てから、その基準感覚がぐらついてきた。

巷では、「K・ギルバート氏の本で心地よくなってはならない」とか、「買ってはいけない「儒教本」お粗末な中身」とかの、主に左寄りの側からの猛反発もあるようだが、一方、「反批判」も結構、活発に行われているようだ。

 

そのあたりを自分なりに掘り下げてみた経緯や自分なりに得た結論などを、次回は展開してみたい。