かぺるん日記

とりあえず。。

とりあえずマト評

2006-03-11 21:23:53 | Weblog
私にとって特別の映画、マトリックス3部作のレビューです。
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マトリックス3部作について
(マトリックス・アルティメット・コレクションのDVDで監督兄弟のイントロダクションと学者2人のコメンタリー付きで改めて鑑賞して感じたこと)

1.マトリックス、ザイオン、機械の関係(matrix, zion, machine)
コメンタリーを行った学者達(コーネル・ウエスト、ケン・ウィルバー)は、マトリックスとは観念の世界、そしてメロビンジアンに象徴される権力(=因果関係による支配)の世界であるとして、そのマトとザイオンと機械の3つの異なる世界をつなぐことがこの映画のテーマであったと言っており、それはそのとおりだと思います。ただ、私は、ザイオンはマトリックスとまったく別のものというわけではなく、むしろ相似形だと思うのです。一定の社会を維持するためのシステムという意味では共通ですから、似たり寄ったりの権力構造があり(例:評議員、司令官、船長の階級と対立)、ドグマもあります(例:機械とは人間にとってインフラであり片や憎むべき敵でもあるという位置づけ―これに疑問を呈した評議員のおじいさんもいましたが。また、ロックの官僚主義とモーフィアスの預言絶対主義)。マトリックスとザイオンとは、異なる立場に立つグループ間の断絶を示すために設定されたのではないでしょうか。重要なのは、いずれも単なる「悪の帝国」「理想的な市民社会」として描かれているわけではないという点だと思います。どんな社会でもその土台としてある程度の権力構造やドグマが発生するのはやむを得ないことであるという理解に立ちつつ、その硬直化によって自らの首を絞めずに生きていくにはどうしたらいいのかということをこの映画は描こうとしたのだと思うのです。ちなみに、社会の硬直化の度合いはその社会の家父長制的色彩に現れると思いますが、マトリックス、ザイオンどちらの社会でも家父長的な存在があり(マトではアーキテクトやメロビンジアン、ザイオンではロックやモーフィアス)、それを「なーにえらそうに言ってんのよ」と突き崩して変化を促していくのは女性であることも描かれています(マトではオラクルやパーセフォニー、ザイオンではナイオビ)。ネオは家父長的な男性ではない(これを演じられるのはキアヌしかいない!)ため、救世主となることができるのですが、それにはやはり「固まり」かけたときに柔らかな生へと呼び戻してくれるトリニティーが必要だったともいえます。
機械の世界というのは、私は、字義どおりの機械にとどまらず、動植物等の自然環境も含めた人間にとってのもの言わぬ異界の象徴であると理解しています。人間は、それを自分たちのための「インフラ」としてしか捉えず搾取し虐待した結果、その復讐にさらされることとなり、それを「敵」と位置づけることとなったわけですが、その本性はどちらでもなく光であったという本作品の理解に感動を覚えます。仏教の中に、人間だけでなく動植物にも、そして石のような無生物にも心があり、それら心の本性はすべて清浄な光だという考え方があります。現実の視力を失ったネオが心眼で見た機械の世界の金色の光は、それを思わせるものがありました。

2.源(source)
それでは、その3つの世界の断絶はどのようにして解消されるのでしょうか、また、社会の硬直化はどのようにして免れうるのでしょうか(これらは表裏一体の問題だと思います)。「ソース」という存在がこれに関わってきます。学者達は、レボでオラクルが言う「救世主の行き先はソース」とはアーキテクトの言っていたのとは異なる本当のソースだと解説していましたが、これは、すべての根源、「私は何の誰兵衛」という小さな自己が融解したときに帰っていく無限の源のことだと思います。それは、必ずしも死んだときに帰る場所というだけでなく、こうして生きている間もつねに心の基盤として活動している無意識のことでもあります。そのような深い場所で事物や世界の根本の姿に触れることこそが「愛」であり、そこに降り立つことによって対立し分断されてきたものを結びつけることが可能だということを監督達は言いたかったのではないでしょうか。
また、学者達は「ネオはエロス(特定の人への愛)でありかつアガペ(普遍的な愛)である点が独特」と解説していました。私の理解では、ソースに降り立って普遍的な愛に達することは、一度特定の人間を愛しぬき、それを失ってこそ可能ということなのかなと思います。失われた恋人を必死に心で求めれば、現実の自我の枠を超えて霊的な次元へと潜行していくことになります。その場所でネオは、世界全体がトリニティであり、自分の愛するものだったことを実感することになったのではないでしょうか。萩尾望都の「スターレッド」というSF漫画の中にも同じような話が出てきた記憶があります。レボを最初に見たときはただただ悲しい2人の別れでしたが、今回そんな風に感じました。
そして、同じくソースに降り立つために必要だったスミスとの合体。スミスはエージェントでなくなってからは、ただひたすら「ネオを乗っ取って一体化する」という目的に憑かれて行動しており、その目的に支配された存在です。自分の分身・自分の盟友は、ときとしてこのような不可解な姿で挑戦してくるというのは、様々なファンタジー(例:アーシュラ=グウィン「ゲド戦記」シリーズ)や心理学(例:ユング、ミンデル)やシャーマンの伝統(例:カスタネダ)においても言われていることです。なぜそのようなことが起こるのか。それは、人間が、自分の意識のダークサイドや死を恐れて、それらにつながる自分自身の一部分を切り捨て、ないことにしようとするからだといいます。そして、そのような扱いをされた部分は、必ず本来の全き自身を回復するべく挑戦してくるということのようです。そのような荒ぶる分身を受け入れてはじめて、分断されていたものを結び付けるための「源」に達することができるということが、スミスとの合体の意味でしょう。
しかし、果たしてひとりの人間がそのような場所に到達したことだけで、分断されていたものたちが結び付けられてめでたしめでたしということになるのでしょうか。アーキテクトも「この平和はいつまで続くのか」と疑問を呈しています。ここで思い出すのは、機械の攻撃が止んでナイオビと抱き合い目をうるませつつドックの天井に空いた穴をじっとみつめるモーフィアスです。あのときモーフィアスは、この闘いには自分が思っていたよりももうひとつ外の意味があったのではないか、ネオはそこに達したのではないかという幽かな感覚を持ったのではないでしょうか。「源」に到達する可能性はすべての人間に開かれてはいるが、それは容易なことではないため、多くの人間は自分が帰属している社会の豊かさや安全を守ることに汲々としてしまう。しかし、本当に世界はそれだけのことなのか疑問を持ち、せめて天井に空いた穴に意識を向けていってほしいというのが、監督達のメッセージではないかと思うのです。天井に空いた穴。その穴の先に源があり、現実の世界はそこから命を汲み上げて存在していること、その穴をふさいで要塞に閉じこもってしまっては生きていけないということを、穴を見上げるたび実感し続けて欲しいと。
そのことから考えると、「matrix」というタイトルにはなかなか深い含蓄を感じます。この言葉の本来の意味は「母体」です。映画の中でのこの言葉は、人間を機械のエネルギー源として利用するためのコントロールシステムに与えられた名前であり、忌まわしくも恐ろしい否定的な意味を帯びています。しかし、現実の世界は源から命を汲み上げて存在しているという世界観に立てば、180度違った見方もできます。人工matrixの外にもうひとつ本当のmatrix(=源)があり、この世にあるものはすべてそこにへその緒がつながった存在だということです。このmatrixは必ずしも否定的な意味合いのものではありません。底知れないおそろしさはあるけれど不思議に心やすらぐ場所でもあり、そこに潜行すれば死んでしまったネオにもトリニティにも会える、機械とも意思疎通ができる、そんな場所であるはずです。
私は一度いわゆる臨死体験的な経験をしたことがあります。自分の名前さえ忘れて深く落ち込んでいったときに見たものは、1作目の最後で蘇生したネオの目に映るマト内の緑の光線の世界、そして、マトレボ最後で視力を失ったネオが心眼で見たマシーンシティの光景と共通するものでした。暗がりの中にクモの巣が張り巡らされたように光線の海があり、そのところどころで息づいている光の塊は「イシキ」です。イシキはそこでずっと息づき、ほかのイシキとクモの糸を通じてつながりあっています。イシキにエネルギーが集まって表面に送り出されてくると現実世界で生きている私たちの意識になるのです。そして、私たちが笑い怒り走り回っているときも、イシキはここではなくあの光の海のただなかに、じっと光ってあるのです。

3「選択」(choice)
 繰り返し出てくる「選択」の意味について。1作目モーフィアスとの最初の出会いで運命を信じるかとたずねられNO,未来は自分で決めるものだと答えるネオ、マトリロでのオラクルとの会話、メロとの会話、そしてマトレボでの「なぜ闘う?」というスミスの問いに対するネオの答えと、「選択」がこのストーリーのキーとなる概念であることはわかっています。しかし、その意味はストーリーの展開にしたがって深化してくるようです。
マトリロで選択がすべてだと言い切るモーフィアスに対し、メロは、自由な選択などというものは幻想に過ぎず、因果関係こそがすべてであり、それを支配する者が権力を持つのだと喝破します。それに対して再反論する根拠は、その時点のモーフィアスやネオにはないはずなのです。なぜならその時点で彼らが認識している「選択」はまだ外から与えられた役割に拠り所を置くものであるからです。キーメーカーはなぜ「ソース」への行き方を詳しく知っているのかと訊かれ「知るべきだから知っている。」と答えていますが、言い換えればそれがプログラムとしての彼の役割だということです(「目的」=役割のないプログラムは削除されることになる)。そして、プログラム同様人間もまた、通常はそのような「目的」=役割意識に準拠して行動します。キーメーカーの誘導に従ってネオを「ソース」に送り込むための闘いを指揮するモーフィアスは、自己陶酔的に「我々は今夜の闘いのために生きてきた。我々は兵隊だ(”We are soldiers.”-主体的に闘う「戦士」とは異なる「駒」たる概念ですね)。これは宿命だ。」と自らの選択の拠り所を外側の宿命に帰しています。
しかし、その後ネオは、それとは別のいわば無意識レベルに根ざした選択というものがあることを知ることになります。センティネルの攻撃を生身で防いだ後、彼が機械の世界とマトリックスとをつなぐ「駅」に迷いこんだのは、学者達の解説にもあったように、ほんとうのソースに向かわねばという意思とトリニティの元にもどりたいという願望との間で引き裂かれたためでしょう。社会的な役割等によって条件づけされた目的ではなく、彼の内面で起きたことが、彼の居場所を決めたのです。しかし、これはまだ「選択」ではありません。無意識のエネルギーに導かれたに過ぎません。そのようなエネルギーが一定の方向にまとまったものとして自分自身の知覚にはっきりと浮上し、なおかつ、それを自分自身の目的として意識的に引き受けたときに、本当の意味の「選択」がなされることになるのです。
機械の主(デウス・エクス・マキナ)になにが望みか問われて「peace」と答え、スミスになぜ闘うと問われて「選択したからだ」と答えるネオは、だんだんと扉へ近づいてきていますがまだ完全には選択の意味を理解していません。最後の最後にスミスの口から漏れたオラクルが語ったのと同じ言葉「始まりのあるものにはすべて終わりがある」(注:これが4で述べるrevolution=「回帰」のキーワードかと思います。)を耳にした瞬間、ネオは、全き自身を回復するとともに分断されたものたちを結びつけるという自分の無意識の願いこそが自分の目的であったことを悟り、闘いを放棄してスミスを受け入れるという「選択」へと至ったのです。「You’re right Smith, this is inevitable. 」というネオのセリフは、一見敗北宣言のようですが、執拗に一体化を求めてきたスミスの行為の意味するところを理解し、それが自分の究極の目的にどうつながるかを理解した、という趣旨だと思います。
ここから遡って考えると、スミスの必死さがいじらしく思えてしまいます。ネオと百人のスミスとの闘いの前に「我々の関係を知っているか?」という問いかけで始まるスミスのセリフがありましたが、そこでは「目的」という言葉が繰り返されています。「目的に縛られているから自由ではない。」「目的が我々を結びつける。」「今度はお前をもらう。それが目的だ。」ここでいう「目的」は先ほど述べたような役割意識ではなく、スミスの心からの純粋な(笑)願いなんですね。
強調しておきたいのは、ネオの最期は単に「世界のために自分を犠牲にした」というものではないということです。繰り返しになりますが、彼は、全き自身を回復するとともに分断されたものたちを結びつけるという自分の究極の願いを実現したのです。それは言い換えれば、世界そして自分自身に対する恐怖から自分を解き放つことでもあります。「平和」はその場所にある、ネオが最後にたどりついたのは、その確信だったのだと思います。

4 革命(revolutions)
revolutionという単語の本来の意味は、天文学用語で天体が回転して元の位置に戻るという意味の「回帰」だそうです。ドイツからフランスに亡命し後にアメリカに渡ったユダヤ人の政治思想家ハンナ・アレントの著作「革命について」の中で、フランス革命の折にルイ16世が「これは反乱(revolte)だ。」と叫んだところ、使者が「いいえ、これは革命(revolution)です。」と正した、という史実が述べられています。つまり、失われていた本来あるべき秩序が回復された、というわけです。アレントによれば、革命の本質はすべての主体が公的な空間に参加を果たすことを実現することであり、アメリカ革命(アメリカ建国)の精神はまさにそういうものでした。
けれども、このような革命精神を持続することは容易なことではなく、いったんは成功したアメリカ革命においてさえ革命精神はまたたく間に失われていったことを、彼女は指摘しています。アメリカ革命の渦中にあってその問題を自覚していたジェファーソンは、今後も革命の過程を繰り返すことが必要だと考えて「反復革命」という計画をあえて提起したりもしていたそうです。
すべての主体の参加、その実現のために繰り返し行われる革命―。ここに「revolutions」という複数形で掲げられた映画のタイトルが重なってきます。これからも、ネオは生まれ、革命は起こるだろう。何度でも何度でも。無視された存在を浮上させ、隔絶した世界の絆を回復するために…。監督達はタイトルにそのような意味合いを込めたのかなどと想像するのは楽しいことです。

5 おわりに
私はこの3部作の映像と思想の両面に魅了されてきました(そしてキアヌにも!)。何度も見直し、心の中で反すうし、様々な解釈や仮説を考え、人と議論し、大いに楽しんできました。日常生活や思想面で何か気づいたことがあると、それとの関連でこの作品についてあらためて考え、解釈をリロードしたりする楽しみもあります。これからもずっと私を刺激し続けてくれることでしょう。このような楽しみを与えてくれたこの作品に出会えたことを幸せに思います。