かぺるん日記

とりあえず。。

内田樹のフェミニズム論その2

2008-09-02 02:52:45 | Weblog
内田氏がショシャナ・フェルマンというフェミニズム言語論者やフロイトのトラウマ論をとりあげて解説している部分がおもしろかった。

フロイトが発見したように、トラウマというのは、語られ、承認されることを必要としている物語であるという。
語られる内容が事実であったかどうかということは、問題ではない。「偽りの記憶」あるいは「空想」であっても、それが言語化され、聞き手に承認されたときに癒されるようなものなのだという。
聞き手(分析家)の仕事は、自らの口では語ることのできない語り手(患者)のために「他人の物語」を提供することであり、トラウマは、つねに、自分についての物語ではなく他人の物語を起動させて、そこで終わる。だから、そこで語られているのは、「十全に語られることを切望しているなにかがあること」そして「語られ、承認されることでそのなにかが消えるとともに私が生き延びることができたということ」なのだという。
そして内田氏は、そのような構造は、トラウマだけでなく言語表現一般に共通すると考えているようだ。なぜなら、言語表現を行う目的は、すべからく、他者からの応答・認知であるからだという。
内田氏は、フェルマンが安易にイデオロギッシュな議論に流れず言語表現のそのようなむずかしい性格に目をこらし続けた点をとても尊敬しているようだ。
と同時に、彼女がそのようなすぐれた洞察を示したにもかかわらず、それが女性についてだけ生ずる事柄であると論じ、男性についての可能性をまったく考慮していなかった点が理解できないとしている。
でも、私が思うには、それこそがまさにトラウマの構造を示すものなのではないだろうか。「私は(私たちは)これを体験した」ということを語ることが、その時点のフェミニズム論者である彼女には必要だったのだと思う。
現在フェミニズムが役割を終えたということは、そこで語られるべきなにかがある程度十分に語られたということなのかもしれない。あとは、彼女たちの業績(そこで語られたもの)のなかから男性を含めたより広い射程をもつ「私たちの物語」を拾ってくることができればよいのであり、内田氏もそのような作業を行おうとしているのだなと思った。