京都市の小学校も、きょうが入学式です。
お天気が崩れなくて良かったです。
上の孫は、家からJRと自転車で1時間くらいかかる高校へ進学しました。
いっしょにサッカーをしていた友だちと、またいっしょに通い、
サッカーも続けるということです。
下の孫は、兄が卒業した中学校へ、自転車で通います。
校門まで長い坂道を登って行きます。
サッカーもするし、足腰が鍛えられるでしょうね!
ふたりとも体には気をつけて、がんばってほしいです。
さて、原種のチューリップのその後です。
三番目に咲いてきたのは、赤色でした。
背丈は低いです。
陽を浴びて、わあっと開いてますね!
四番目は内側が黄色。
これも背丈が低くて、外側は白いです。
少し控えめに開いています。
二番目の黄色は、背丈が高かったです。
潮流 (4月8日)
一年間連日、放送された「おしん」、足かけ30年500回を超えた「渡る世間は鬼ばかり」。多くの人々に
愛され、テレビ史に刻まれるドラマの数々を手がけた橋田壽賀子さんが亡くなりました。▼俳優が格闘した台本
10ページにも及ぶ長ぜりふは、橋田さんならではのもの。「私は二流でたくさん。一流の人ならひとことで
済むようなせりふを私は10行書いてきた」と。丁寧な日本語にこだわり、わかりやすく伝えたたいとの気持ち
がこもっていました。脚本家を志して松竹に入社。しかし、10年間、脚本を書く機会はあまりなく、お茶汲み
扱いでした。フリーになってテレビ局に台本を持ち込むも採用されず、目立つように赤いリボンでとじたことも
ありました。▼25歳で母を、30歳で父を亡くし、結婚したのは41歳のとき。家族をえたことで、夫や姑を
はじめ身辺に題材を取り、ホームドラマを描き続けました。「人殺しや不倫は書かない」が信条でした。
▼作品の根底にあったのは自身の戦争体験。修学旅行が皇居の清掃だったような時代、米兵が上陸してきたら
死ぬ覚悟だったといいます。戦闘場面ではなく、戦争の悲惨さを欠く責任を痛感します。本誌日曜版のインタビュ
ーで「戦争になったら、すべてが壊れてしまう。平和っていいな」と答えていました。▼「橋田文化財団」を設立、
新人脚本家の発掘や放送文化の育成にも努めてきました。「渡る世間」の最新作は、コロナ禍を生きる家族の物語
になると関係者の間で取りざたされていただけに残念です。 (しんぶん赤旗より)
95歳ということは、父と生年がいっしょなんだと思いました。(大正14年です)
父は92歳で逝きましたが、19歳の時に出征し、もし沖縄に行く船があったら
生きてはいなかっただろうと、生前に話していました。
通学だけで大変も部活のトレーニングになりますね。
日中は暖かいも時折暖房稼働です。
何時も訪問ありがとうございます。
おめでとうをありがとうございます。
新しい生活を始める孫たちに、遠くから声援を送るしか
ありません。
若さで乗り切っていってくれると思います。
時折寒くなりますから、お互いに気をつけて過ごしましょう。
わたしも、暖房をときどき使っています。