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NOBUの独り言日記

暇にまかせて、つまらないことを呟いています。

いつか終わる

2024-09-14 14:49:45 | 日記

小川洋子の小説には、不思議な優しさがある。

 

「博士の愛した数式」「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」「猫を抱いて象と泳ぐ」等、読んだ後に残るのは、作者の限りない優しさだ。

 

もちろん、小説家などという者が、優しさだけで本を書ける訳がない。人の心の中には、得体の知れない闇があり、人知れず育ててしまった妄想やコンプレックスもある。そうしたものも意識しなければ、小説などは書けないであろう。

 

そう言った意味では、彼女の初期作品である「揚羽蝶が壊れる時」などは尖った作品だが、小川洋子の作品は基本的に優しい。なぜそれ程優しくなれるのか。優しくなるためには、本人がよっぽど強くなくてはならないと思うのだが。

 

ところで、彼女のエッセイ集「遠慮深いうたた寝」の中の「いつか終わる」という作品に次のような文章がある。

 

「世の中の、すべてのことはいつか終わる。恋人との楽しいデートも、夫婦喧嘩も、つまらない仕事も、病気の苦しみも、本人の努力とはまた別のところで、何ものかの差配により、終わりの時が告げられる。だから、別に怖がる必要などないのだ。どっしり構えておけばいい。終わりが来るのに最も適した時を、示してくれる何ものかが、この世には存在している。その人に任せておこう。そう思えば、いつか必ず尽きる寿命も、多少は余裕を持って受け入れられる気がする。」

 

この言葉に、妙に納得しているこの頃である。

 




 


振り返る

2024-08-20 15:30:41 | 日記

古希を過ぎて、自分の人生を振り返って見ると、後悔と恥多き人生なれど、我は我、誰でもない私という人生を、それなりに正直に生きてきたと思っている。

 

奥浩平の「青春の墓標」にいたく感動し、二十歳までには死にたいと思っていた若き頃。

 

大学を卒業し、4月からある企業に勤めることになっていたにもかかわらず、3月31日に断りの電話を入れてしまったあの日。

 

仕事が終われば、駅前の屋台で焼酎をあおり、3畳1間のアパートに帰って死んだように眠るアルバイトの日々。

 

親の勧めで公務員の試験を受け、30歳までには辞めてやると思いながら、定年まで勤めてしまった公務員生活。

 

定年後は、平凡で穏やかな生活を想像していた矢先、突然去っていった妻と娘達。

 

一人暮らしだった母が病気になり、やがて老人ホームに入り、93歳で亡くなった朝。

 

今では、全てのしがらみから解き放され、自由気ままと思える半面、目的のない浮遊したような生活のなかで、明日は何を食べに行こうかくらいしか楽しみがない。

 

「人は何のために生きるのか」については若い頃から随分考えてきたが、「結局のところ、人が生きることに意味などはない。ただそれぞれの人生を経験するのみ」というのが現在の心境だ。

 

 

本棚を整理していたら、学生時代のノートがあって、そのノートに以下のような幼い若気に満ちた詩が残されていた。

 

醜悪な魂をつり革にぶら下げて 走る電車は幻想の精神病棟

窓から垣間見る風景は散り散りにちぎれ 瞳の中に鋭い痛みを与える

苦痛から逃れようと閉じた目には 欲望の先端が微かに忍び寄る

 

人は時に満員電車の中で孤独な犯罪者となり

干からびた映像の中に自己を解き放つ

それだけが精神の自由な意思だ 生まれたばかりの赤子の無垢だ

そう呟く名前を持たぬ精神病患者

あなた自身の内部のスクリーンに流された血の色が鮮やかだ

 

何食わぬ顔をした乗客の表情に殺意を感じ取ったとしても不思議はない

乗客もまたナイフを振りかざした犯罪者にすぎぬ

それに気づくのはお前自身の傷の痛み 

焼き尽くされた生の裂け目のせいかも知れぬ

 

人々は今走る監獄の中 狂気の炎に向かって走る精神病棟の中

時代の流れが謀反をおこし 人々の頭に黒い川をそそぎこむ

風景が変わり 映像が変わる

醜悪な顔をした魂が 電車の窓から飛び降り自殺をする

 

 





友は歌う

2024-07-14 16:25:26 | 日記

 

カフェの1階を貸し切った会場で、友が歌を歌っている。

 

古希を過ぎた彼が、最初で最後かも知れない歌の発表会を開いたのは、歌を習っていた先生が背中を押してくれたからとのこと。癌で余命宣告され、手術ができず、抗がん剤治療を受けている彼が、生きた証として企画したらしい。聴衆はごく親しい知人のみで、約30名。

 

抗がん剤の影響を隠すためか、帽子をかぶり、椅子に座ったままのコンサートながら、歌う声には張りがあった。若い頃聞きなれた声とは、幾分違っているものの、最近も1週間入院していたとは思えない声であった。

 

私は、一番後ろの席に座り聴いていたが、歌う彼の姿を見ずに、壁に掛けられた絵ばかり見つめていた。歌は、英語の歌詞のものも含め、よく知られたものであったが、私には歌ってほしいものがあった。学生の頃、彼とよく歌っていた拓郎の曲であった。「マークⅡ」や「雪」「ある雨の日の情景」など、拓郎の曲の中では幾分マイナーな曲。「ある雨の日の情景」では彼がギターを弾いて主旋律を歌い、私はハモるよう促されたが、どうしてもうまくハモれなかった思い出がある。

 

そんなことを考えながら、聴いていると、私の隣に座っていた彼の妻が「今日は生き生きしている」と小さく呟く声が聞こえた。

 

コンサートは盛会の内に終わり、帰り間際、私は「次回またな」と言ったが、彼は笑っているだけで、答えなかった。

 


山椒の木

2024-06-01 18:30:03 | 日記

庭に生えている山椒の木に、黒くて鳥のフンのような形をしたアゲハチョウの幼虫を見つけたのは、1か月ほど前のことであろうか。やがて緑のイモムシになるのだろうと思っていたが、その後幼虫は姿を見せず、鳥にでも食べられてしまったかと案じていた。

 

その山椒の木は、私が植えたものではなく、鳥によって運ばれでもしたのか、数年前知らないうちに芽を出していた。最初のころは、ひょろりとした木で、2~3匹のイモムシが付くと、僅かばかりの葉は食べ尽くされ、丸坊主になっていた。

 

今年は、山椒の木もだいぶ育ってきて、葉も生い茂り、イモムシが付いても食べ尽くされることはないだろうと思っていたが、肝心のアゲハの幼虫は姿を消したままだった。

 

今日、何気なく庭に出て、山椒の木を見ていると、黄色い蜂が木のまわりを飛んでおり、やがて木の枝に止まって動かなくなった。何をしているのか不思議に思って見てみると、蜂は何かに噛みついているようであった。用心しながら、注意深く見てみると、蜂が噛みついているのは、緑色のアゲハの幼虫であった。蜂はがっちりと幼虫を捕らえ、やがて息絶えた幼虫から黒い体液が滴り落ちた。私はそれ以上見ることができず、家の中に入ってしまった。

 

しばらく経ってから、先ほど幼虫のいた枝の部分や地面をくまなく探したが、何の痕跡も見当たらなかった。すべては何事もなかったかのように元のままであり、静寂だけが漂っていた。

 





本を聴く

2024-01-27 13:55:15 | 日記

最近、本を読んでいると、途中で眠くなってしまい、いつの間にか手から本が滑り落ちているということが多くなってきた。そこで、アマゾンのオーディオブックを試してみることとした。1か月の無料体験、どの様なものか試してみても悪くないだろうと思い、申し込んでみた。

 

アプリをインストールし、どの本にしようかと思案したが、とりあえず沢木耕太郎の「深夜特急1」を聴いてみることとした。ナレーターは斎藤工で、長さは7時間44分。ちょっと長いかとも思われたが、内容が旅の話とすれば、そんなに疲れはしないだろうと判断し、聴き始めた。ぼーとしながら聴き始めたが、次第に引き込まれて面白くなり、途中何度か中断しながら、3日で聴き終えた。

 

聴き終わった感想からすれば、「本を聴く」のも悪くはないというのが正直な感想だ。実際に読んでいる時のように、眠くなることは無かったし、斎藤工の朗読もまずまずだ。声だけでは、実際に文章を追っていくのに比べ、感じるものに若干の軽さは否めないものの、気軽に聴き始められる利点は大きい。次は、何を聴こうかと楽しみになってくる。

 

「深夜特急」は沢木の体験に基づくノンフィクションで、「深夜特急1」はその旅のはじめである香港・マカオ編である。若者の無計画で好奇心旺盛な旅の様子は楽しいし、全てが本当かどうかは分からないが、かつてバックパッカーのバイブルと言われたのはよくわかる。

 

聴き終わったあと、自分の「旅」を思い返してみた。自分には沢木のような冒険の旅はないが、大学1年の夏休みに、アルバイトで金を作り、寝袋持参で京都・金沢を旅したことがあった。なんのあてもなく京都に向かったが、最初に訪れた東本願寺で一人旅の女の子と出会い、一緒に京都の名所を巡った。彼女も宿の予約は無かったが、女性一人で泊まれる宿をやっと探し、宿まで送り届け、自分は野宿した。翌日、たまたま入った喫茶店で、大学の演劇部の先輩女性に偶然出会い、彼女から金沢の話を聞き、急遽金沢に向かった。金沢では卯辰山にある学生の下宿を兼ねた民宿に泊まった。夕食時に、そこに下宿している学生の一人と知り合い、彼の部屋で夜遅くまでいろいろな話をした。翌日一緒に喫茶店に行った際、関西方面では「アイスコーヒー」を「レイコ」というのを初めて知った。米軍試射場のあった内灘海岸までは一人で行ったが、内灘駅から海岸までの道は誰もおらず、夏の日に照らされた細い道が、白く長く続いていたことを鮮明に覚えている。

 

社会人になってからの旅は、ほとんど仕事がらみ、いわゆる出張がほとんどで、そのせいか記憶に強く残っている旅がほとんどない。特にひどいのが、人を引率しての旅で、訪ねた場所を全く覚えていないところがある。例えば、ブラジルからの研修生を連れた「研修旅行」では、奈良の唐招提寺や薬師寺を訪ねたにもかかわらず全く覚えていない。行程表には、広島、伊勢神宮、京都、奈良とあり、唐招提寺や薬師寺が明記されているので訪ねたことは間違いないのだが、全く記憶にない。

 

国内ばかりでなく、海外でも引率した旅行ではそうしたことがある。20数名を連れたアメリカ西海岸の旅で、添乗員は1名いたが、事務局は私ひとり。ロサンゼルスのディズニーランドやナッツベリーファームを訪ね2泊した後、サンフランシスコに向かう旅であったが、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを訪ねた記憶が全く抜け落ちている。有名な観光名所であるにもかかわらず、訪ねた記憶がないのだ。先日、当時の写真を見返して見たら、私の撮った写真にはゴールデンゲートブリッジが堂々と映っている。ゴールデンゲートブリッジを背景に団員たちが映っている写真は、私が写したものに間違いないのだが、なんとも不思議である。モントレーやカーメルもほとんど覚えていない。

 

引率という責任感から余裕がなかったのかも知れないが、自分で計画を立てたわけでもなく、自分のお金を出したわけでもない旅行とは、所詮そのようなものなのかも知れない。