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NOBUの独り言日記

暇にまかせて、つまらないことを呟いています。

日本の原風景(2022年記事の再掲)

2025-04-13 14:43:14 | 日記

最近、「日本の原風景」という使いかたをよく目にする。しかし、私はそれを見て、なにか引っかかるものを感じてしまう。原風景とは、元々個人的なものではなかったのか?

「日本の原風景」といった場合は、農村や里山の風景に使われることが多いが、人によっては漁村の風景が原風景かもしれないし、あるいは炭鉱町が、あるいは都会の街並みが原風景という人もいるであろう。「日本の原風景」と一括りにされても困ってしまう。また、昔の懐かしい風景という意味でも、昔とはいつなのか。昭和なのか、明治なのか、江戸なのか、あるいは縄文、弥生なのか、漠然としていて分かりづらい。

ウキペディアでは、「原風景は人の心の奥にある原初の風景。懐かしさの感情を伴うことが多い。また、実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。個人のものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼすことがある」となっている。また、心理学における原風景とは、「極めて個人的な幼年期の記憶の中にある風景または青年期の自己形成における深層意識に貼りついた心のイメージ」(ネットから引用)とされている。

そもそも、「原風景」という言葉は、奥野健男が「文学における原風景」の中で初めて使ったものとされ、その後心理学や文化人類学、人文地理学、建築学などの立場からも論じられるようになったようだ。

それでは、奥野は「文学における原風景」の中でどう言っているのか。奥野は幾人かの作家を例にとり「これらの作家たちは、文学のライトモチーフとも言うべき鮮烈で奥深い原風景を持っている。それは旅行者の眺める風土や風景ではなく、自己形成とからみあい血肉化した、深層意識ともいうべき風景なのだ。彼らはたえずそこにたち還り、そこを原点として作品を書いている」とし、また、原風景を「作家を形成して来た時空間であり、風土であり、作家の美意識や作品のイメージやモチーフを支える深層意識的な舞台である」とも書いている。

このように、元々は全く個人的であった「原風景」だが、「原風景には、個人に固有のものもあれば、民族や風土に共通したものも存在する」という考え方もあるようだ。奥野も「文学における原風景」の中で、「ぼくにははたして日本民族が心の中に共通して持っている原風景のようなものがあるかどうかはわからない」としながら「言葉や風土と結びついた、多くの人間が思い浮かべる風景やパターン化したイメージは確かにある」と書いている。

いずれにしても、言葉は生き物であり、時代とともに使われ方や意味合いが変わってくることもある。しかし、単なる「字ずらのよさ」だけで言葉を使うのではなく、その言葉に込められた思いや成り立ちについて考えてみることも必要なのではないだろうか。環境問題が騒がれ、仮想現実が当たり前になりつつある現在、これからの個人の、日本の原風景とはどのようなものになっていくのであろうか。

 




 

 


春の6句

2025-04-01 15:00:36 | 日記

 

新年度、今年はどんな年になるのでしょう。 春の6句です。

 

 

フィルウッズ アルトの音の あたたかき 

 

春めくや 膝の痛みも 軽くなり

 

歳を経て 有難み増す 春の暖

 

人ひとり いなくなっても 春は春

 

クロッカス じっと見ている 老婆かな

 

災害の 予言ばかりで 春の鬱

 

 


缶切不要

2025-02-18 18:24:48 | 日記

ある缶詰の側面、内容表示欄の下に、内容表示の文字より大きめの文字で「缶切不要」の表示があった。缶切不要? 確かにこの缶詰はプルトップ式(イージーオープンエンド)の缶詰で、缶切りは必要ない。必要はないけれど、今時プルトップ式の缶詰は当たり前で、わざわざ「缶切不要」などと書いてあるのは見たことがなかった。私の認識不足かも知れないが、このような表示は他の缶詰にもされているのであろうか。

 

私の子供の頃は、缶詰は「缶切り」で開けるのが当たり前だった。缶詰の上部面に刃を食いこませ、ぐいぐいと金属を切り裂いていく。結構コツがいるもので、小さい子供は上手くいかず、缶切りが上手くできるようになったときは、少し得意な気分になったものだ。しかし今では、プルトップ式の缶詰が当たり前。台所の缶切りも使われないまま、引き出しの奥に眠っている。

 

缶切りも、シンプルなものばかりでなく、ネジ付きのちょっと高級なものもあった。缶詰の上部面に刃を食いこませた後、脇のネジを回して切っていくもので、スムーズに切れるのだが、缶の縁の形状によっては上手くいかないものもあり、シンプルな缶切りも欠かせないものであった。

 

そういえば、コーンビーフの缶は、付いている鍵で側面を細長く切っていくのが当たり前だったが、これも最近は簡単にあけられるものに変わっているようだ。

 

すべてが簡単で便利になっていくのは、ありがたいことかも知れないが、一抹の不安も覚える。缶切りを使えない子供、マッチを使えない子供、小刀で鉛筆を削れない子供が増え、彼らはインターネットの世界で生き、AIがすべてを答えてくれる。そんな世の中で、必要ないものは消えていくだけなのであろうか。

 




 

 


箱庭クロニクル

2024-12-26 15:00:00 | 日記

 

 

坂崎かおるの「箱庭クロニクル」、表紙絵が気に入って買いました。

 
 
中の小説は、私の苦手な部類です。女性の心理は解りません。わからないなりに、読んでいて、泣きそうになりました。死者への想い、生きている人達の想い。怨念がおんねん。
 
 
新しい才能なのでしょうか。私には、わかりません。
 



 

病院にて

2024-12-14 14:00:31 | 日記

体調が悪くなって、癌の手術以来定期健診を受けている総合病院に行った。

 

定期検診はいつも午後だったが、予約のない受診は午前中に受付をしなければならない。病院の駐車場に着いたのは、10時ちょっと過ぎ。病棟に近い駐車場は1台も空きがなく、警備員の指示に従い向かったのは、病棟から一番離れた駐車場。従来の駐車場では足りず増設された部分だが、ここも満車のようで、入り口には車が列をなしている。警備員が空きを確認しながら1台ずつ呼び込んでいるが、なかなか前に進まない。受付は11時までなので、間に合うだろうかと気があせる。

 

なんとか時間までに受付を済ませ、診察室に向かうと、広い廊下に人が溢れ、お祭りのようだ。指定された診察室の前で待っていると、看護師さんから血液と尿検査を指示された。出がけにトイレに行ってしまったので、血液検査を先に受けることにしたが、血液採取を行う部屋も人で溢れている。順番待ち用のイスは満席で、立ったまま待っている人も多い。午後であれば、血液採取のブースは3~4つ利用しているのが通常だが、今日はすべてのブースを使って患者を捌いている。子供連れもいれば若いカップルもいる。当然年寄りも多く、中には車椅子に乗って家族に押してもらっている人も1人や2人ではない。

 

どうしてこんなに病人が多いのか。やっと空いた順番待ち用のイスに座って、その様子を眺めながら、自分もその中の一人だと気づき茫然とした。「生老病死」とはよく言ったもの、私もいつか、あのように車椅子に乗って、折れそうに細い腕を差し出すようになるのであろうか。この歳になれば、いつ死んでもかまわないとは思っているものの、苦痛の中で死ぬことは避けたい。しかし、老人にとって身体機能の低下は避けられないし、認知症といった問題もある。安逸な余生を願っていても、思い通りにはならないことがほとんどなのだ。すべてを受け入れる覚悟こそ必要なのかも知れない。そんなことを考えているうちに、自分の受付番号が呼ばれ、採血が終わった。

 

その後、採尿も行い、再度診察室の前で待ち、実際に診察を受けたのは12時過ぎ。抗生物質を処方され、近くの調剤薬局で薬を受け取ったのは午後1時であった。診察を受け、薬をもらい、幾分体調も良くなったように思ったのは当日だけ。本日もすっきりしない体調が続いている。