NOBUの独り言

暇にまかせて、つまらないことを呟いています。

盆栽の実が・・・

2024-10-28 15:22:50 | 日記

玄関前に置いてある「カマツカ」の盆栽。毎年今の時期は赤い実を付け、楽しみにしていたのだが、今年はちょっとした異変が。

今月の半ばには多数の赤い実を付けていたはずが、次第に少なくなり、下旬にはほとんど無くなってしまったのだ。熟れて落ちたとか、風で落ちたのであれば、周りに実が何個か落ちているはずであるが、周りには全く見当たらない。

いろいろ考えてみたのだが、どうやら小鳥が実を食べてしまったらしい。玄関前の小さい盆栽の実まで食べるのだろうかとは思ったが、何日か前に盆栽の近くに鳥のフンが落ちていることがあった。その時には、なんでこんなところに鳥のフンがと思っただけで、まさか「カマツカ」の実を食べにきていたとは思わなかった。

今年は小鳥の餌になるものが少なかったのか、あるいは盆栽の実のおいしさに小鳥が気づいてしまったのか。いずれにしても、少々残念ではあるが、「カマツカ」の実が小鳥の生きていく役に立ったと思えば、それはそれで良かったのかも知れない。

10月中旬




10月下旬








いつか終わる

2024-09-14 14:49:45 | 日記

小川洋子の小説には、不思議な優しさがある。

 

「博士の愛した数式」「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」「猫を抱いて象と泳ぐ」等、読んだ後に残るのは、作者の限りない優しさだ。

 

もちろん、小説家などという者が、優しさだけで本を書ける訳がない。人の心の中には、得体の知れない闇があり、人知れず育ててしまった妄想やコンプレックスもある。そうしたものも意識しなければ、小説などは書けないであろう。

 

そう言った意味では、彼女の初期作品である「揚羽蝶が壊れる時」などは尖った作品だが、小川洋子の作品は基本的に優しい。なぜそれ程優しくなれるのか。優しくなるためには、本人がよっぽど強くなくてはならないと思うのだが。

 

ところで、彼女のエッセイ集「遠慮深いうたた寝」の中の「いつか終わる」という作品に次のような文章がある。

 

「世の中の、すべてのことはいつか終わる。恋人との楽しいデートも、夫婦喧嘩も、つまらない仕事も、病気の苦しみも、本人の努力とはまた別のところで、何ものかの差配により、終わりの時が告げられる。だから、別に怖がる必要などないのだ。どっしり構えておけばいい。終わりが来るのに最も適した時を、示してくれる何ものかが、この世には存在している。その人に任せておこう。そう思えば、いつか必ず尽きる寿命も、多少は余裕を持って受け入れられる気がする。」

 

この言葉に、妙に納得しているこの頃である。

 




 


振り返る

2024-08-20 15:30:41 | 日記

古希を過ぎて、自分の人生を振り返って見ると、後悔と恥多き人生なれど、我は我、誰でもない私という人生を、それなりに正直に生きてきたと思っている。

 

奥浩平の「青春の墓標」にいたく感動し、二十歳までには死にたいと思っていた若き頃。

 

大学を卒業し、4月からある企業に勤めることになっていたにもかかわらず、3月31日に断りの電話を入れてしまったあの日。

 

仕事が終われば、駅前の屋台で焼酎をあおり、3畳1間のアパートに帰って死んだように眠るアルバイトの日々。

 

親の勧めで公務員の試験を受け、30歳までには辞めてやると思いながら、定年まで勤めてしまった公務員生活。

 

定年後は、平凡で穏やかな生活を想像していた矢先、突然去っていった妻と娘達。

 

一人暮らしだった母が病気になり、やがて老人ホームに入り、93歳で亡くなった朝。

 

今では、全てのしがらみから解き放され、自由気ままと思える半面、目的のない浮遊したような生活のなかで、明日は何を食べに行こうかくらいしか楽しみがない。

 

「人は何のために生きるのか」については若い頃から随分考えてきたが、「結局のところ、人が生きることに意味などはない。ただそれぞれの人生を経験するのみ」というのが現在の心境だ。

 

 

本棚を整理していたら、学生時代のノートがあって、そのノートに以下のような幼い若気に満ちた詩が残されていた。

 

醜悪な魂をつり革にぶら下げて 走る電車は幻想の精神病棟

窓から垣間見る風景は散り散りにちぎれ 瞳の中に鋭い痛みを与える

苦痛から逃れようと閉じた目には 欲望の先端が微かに忍び寄る

 

人は時に満員電車の中で孤独な犯罪者となり

干からびた映像の中に自己を解き放つ

それだけが精神の自由な意思だ 生まれたばかりの赤子の無垢だ

そう呟く名前を持たぬ精神病患者

あなた自身の内部のスクリーンに流された血の色が鮮やかだ

 

何食わぬ顔をした乗客の表情に殺意を感じ取ったとしても不思議はない

乗客もまたナイフを振りかざした犯罪者にすぎぬ

それに気づくのはお前自身の傷の痛み 

焼き尽くされた生の裂け目のせいかも知れぬ

 

人々は今走る監獄の中 狂気の炎に向かって走る精神病棟の中

時代の流れが謀反をおこし 人々の頭に黒い川をそそぎこむ

風景が変わり 映像が変わる

醜悪な顔をした魂が 電車の窓から飛び降り自殺をする

 

 





友は歌う

2024-07-14 16:25:26 | 日記

 

カフェの1階を貸し切った会場で、友が歌を歌っている。

 

古希を過ぎた彼が、最初で最後かも知れない歌の発表会を開いたのは、歌を習っていた先生が背中を押してくれたからとのこと。癌で余命宣告され、手術ができず、抗がん剤治療を受けている彼が、生きた証として企画したらしい。聴衆はごく親しい知人のみで、約30名。

 

抗がん剤の影響を隠すためか、帽子をかぶり、椅子に座ったままのコンサートながら、歌う声には張りがあった。若い頃聞きなれた声とは、幾分違っているものの、最近も1週間入院していたとは思えない声であった。

 

私は、一番後ろの席に座り聴いていたが、歌う彼の姿を見ずに、壁に掛けられた絵ばかり見つめていた。歌は、英語の歌詞のものも含め、よく知られたものであったが、私には歌ってほしいものがあった。学生の頃、彼とよく歌っていた拓郎の曲であった。「マークⅡ」や「雪」「ある雨の日の情景」など、拓郎の曲の中では幾分マイナーな曲。「ある雨の日の情景」では彼がギターを弾いて主旋律を歌い、私はハモるよう促されたが、どうしてもうまくハモれなかった思い出がある。

 

そんなことを考えながら、聴いていると、私の隣に座っていた彼の妻が「今日は生き生きしている」と小さく呟く声が聞こえた。

 

コンサートは盛会の内に終わり、帰り間際、私は「次回またな」と言ったが、彼は笑っているだけで、答えなかった。

 


山椒の木

2024-06-01 18:30:03 | 日記

庭に生えている山椒の木に、黒くて鳥のフンのような形をしたアゲハチョウの幼虫を見つけたのは、1か月ほど前のことであろうか。やがて緑のイモムシになるのだろうと思っていたが、その後幼虫は姿を見せず、鳥にでも食べられてしまったかと案じていた。

 

その山椒の木は、私が植えたものではなく、鳥によって運ばれでもしたのか、数年前知らないうちに芽を出していた。最初のころは、ひょろりとした木で、2~3匹のイモムシが付くと、僅かばかりの葉は食べ尽くされ、丸坊主になっていた。

 

今年は、山椒の木もだいぶ育ってきて、葉も生い茂り、イモムシが付いても食べ尽くされることはないだろうと思っていたが、肝心のアゲハの幼虫は姿を消したままだった。

 

今日、何気なく庭に出て、山椒の木を見ていると、黄色い蜂が木のまわりを飛んでおり、やがて木の枝に止まって動かなくなった。何をしているのか不思議に思って見てみると、蜂は何かに噛みついているようであった。用心しながら、注意深く見てみると、蜂が噛みついているのは、緑色のアゲハの幼虫であった。蜂はがっちりと幼虫を捕らえ、やがて息絶えた幼虫から黒い体液が滴り落ちた。私はそれ以上見ることができず、家の中に入ってしまった。

 

しばらく経ってから、先ほど幼虫のいた枝の部分や地面をくまなく探したが、何の痕跡も見当たらなかった。すべては何事もなかったかのように元のままであり、静寂だけが漂っていた。