偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書274 二十二夜塔(埼玉県本庄市児玉町)

2024年03月19日 | 里山石神端書

埼玉県本庄市児玉町秋山・薬師堂裏の二十二夜塔

 秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ薬師堂の裏庭に石造物が並んでいました。一か所に集められたといった感じです。


 「猿田彦大神」、「庚申塔」、青面金剛庚申塔、墓石2基、石祠型墓石、宝篋印塔型墓石、二十二夜待供養塔、卵塔2基。庚申関係の石造物が3基ありますから、庚申信仰が継続して行われてきたのでしょう。卵塔は僧侶の墓石、石祠型墓石は江戸時代初期のものです。二十二夜塔には「二十二夜待供養/延享二年乙丑(1745)十二月廿二日/女人十一人」銘がありました。



 『日本石仏事典』(注1)には月待塔として十三夜塔から二十六夜塔まで解説され、これらが近世の造立で、地域により偏りがあり、造立者が男か女か、信仰の具体的例なども紹介されていて、実にさまざまな願いが込められての信仰だったことがわかります。そして二十二夜についは、ほとんど女人講であり、如意輪観音の像や二十二夜の文字を刻むものが多いとし、埼玉の北西部や群馬の中・西部に濃密であると解説されています。
 ところで近世以前の月待行事についてはあまり資料がなく、『日本の石仏』№22(注2)を参考に要約すると、まず月を見る行事は古くからあり、これに仏教がかかわって月待信仰に引き継がれていったことがわかります。仏教の月の仏は月天(月天子)。月天子の本地仏が勢至菩薩で、月の信仰の本尊として勢至菩薩が信仰されたようです。また勢至は中国の五大十国(907~960)のころ生まれた三十日仏の二十三日が有縁日の仏。こうして月待信仰は二十三日に勢至菩薩を本尊として信仰として定着していったことが指摘されています。これとは別に仏教では十七夜から二十三夜までの月待を行う〝七夜待〟の行法が行われていました。その本尊は『修験深秘行法符咒集』(注3)によると17夜聖観音、18夜千手、19日馬頭、20日十一面、21夜准胝、22夜如意輪、23夜勢至菩薩(ここに並ぶ六観音は准胝が入るので真言系)。後にこの七夜待の行事は一般にも広まり、さらにこれを一夜ずつ独立させたのが、近世に行われた十九夜・二十三夜などの月待信仰ではないかともいわれていす。これを主導したと思われるのが修験者で、『修験深秘行法符咒集』は修験が相伝した秘法をまとめたもので、月待のそれぞれの日ごとの本尊と行う行法が記されていて、先にも書きましたが二十二夜の本尊は如意輪観音となっています。
(注1)『日本石仏事典』庚申懇話会、1975年
(注2)『日本の石仏』№22、日本石仏協会、1982年
(注3)『修験深秘行法符咒集』日本大蔵経編纂会偏、2010年
(地図は国土地理院ホームページより)


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