大館・薬師森(やくしもり) 穴空き石(あなあきいし)、山の薬師(やまのやくし)
【データ】 大館・薬師森 313メートル(国土地理地図に山名無し。一通集落の南西313.3メートルピーク)▼最寄駅 JR花輪線・扇田駅▼登山口 秋田県大館市比内町の一通集落▼石仏 薬師森の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより
【独り言1】 穴空き石 一通集落の南西に見える円錐形の山が薬師森で、国土地理院の地図にはない小さなピークです。集落から奥に続く道がこの山の肩を通って南の国道へ下っていて、肩にある鳥居が登山口です。穏やかな登りははじめだけで、ほとんどが直登です。山頂には石祠が一つ、そのなかに小さな鰐口と、古い木札が納められていました。木札に少し残る墨書きは「少名彦命」と読めました。祠の前に置かれているのが穴空き石です。穴空き石を奉納するのは耳の病の治癒を祈願するもので、納める先のほとんどが医薬の仏・薬師如来が鎮座する薬師堂です。これは各地にみられる風習です。石の穴は自然に空いたものと、自分で穴をあけたものがあります。薬師森の穴空き石は河原で見つけた石を納めたものでした。
少名彦命は少彦名命(すくなびこなのみこと)。記紀では国造りを手伝う神であり、医薬の神でもあるところから、薬師が担う国家鎮護、医薬と同じとして祀ったのでしょうか。
【独り言2】 東北の山の薬師 先に案内した達子森もそうでしたが、大館地方には山に薬師を祀るところがいくつかありました。これまで山を登ってきて薬師如来の石仏は新潟から東北地方の山に多いという印象があります。薬師岳や薬師山などもこの地方に多いようです。薬師と名がつく山で山頂に薬師堂が建ち、薬師石仏を祀っていることがあるのもこの地方です。どうしてこの地方の山に薬師が多いのでしょうか。この疑問に答える明快な解答はありませんが、五来重氏編集の『薬師信仰』(注1)を参考に東北の山の薬師を少し考えてみました。
五来氏は、薬師如来の造立は飛鳥時代から続き、民衆宗教の上では王座にありながら薬師信仰に関する研究がほとんどないことを嘆いて、この本を編集したと『薬師信仰』の冒頭に記しています。確かに東北地方を見るかぎり、古刹の本尊は古い薬師が目立ちます。東北の三大薬師像といわれる宮城県栗原市の双林寺、福島県会津若松市の常勝寺、岩手県奥州市の黒石寺の薬師は、いずれも坂上田村麻呂が蝦夷を征伐した後の9世紀末・平安時代初期の造立です。では薬師がどういう過程を経て東北に入ったのでしょうか。
藤田定興氏は「東北地方南部の薬師信仰」(注2)で、古代における薬師への願いは病気の除去と国家鎮護にあって、まずこの願いを担った国分寺建立をきっかけに東北地方にも受け入れられていったとし、その例として、東北地方南部に多い作神であり先祖が眠る山でもある葉山の本地仏が薬師になったことを紹介しています。そして葉山と薬師を結びつけたのは、葉山の本山で天台・真言を合わせ持つ山形県寒河江市の慈恩寺であると比定しています。葉山の修験者が薬師をひろめたというのです。
では東北北部の薬師信仰はどのように広まったのでしょうか。それを紹介する資料はありませんが、このブログで青森・岩手・秋田の山に薬師石仏がある背景には、平安時代末期から伝わった熊野信仰があると案内しました。新宮(病治癒の薬師)、那智(現世利益の観音)、本宮(極楽往生の阿弥陀を祀る)の熊野三山信仰です。東北北部にはこの三尊の石仏を祀る山がいくつかあることも案内しました。想像するに、東北北部にも古くから作神が住む山であり、先祖が眠る山でもある葉山的な山が各集落にあって、ここに熊野信仰が入り、薬師信仰を持つ慈恩寺の修験あるいは出羽三山の羽黒修験(慈恩寺の奥ノ院・葉山は中世に出羽三山の一つだった)が入った痕跡はあります。
しかし東北南部の葉山に薬師の石仏は見当たりません。東北北部の山に薬師の石仏があるのは、新潟の里山に米山薬師が勧請されたように、熊野や葉山の信仰にもう一つ何かがあったはずです。薬師の石仏が多い秋田の太平山なども考えられます。それらが混じり合い、近世になっても薬師信仰は廃れることなく、お堂が建てられ薬師の石仏が造られ、今に伝わっているのではないでしょうか。
(注1)五来重編『薬師信仰』民衆宗教史叢書⑫昭和61年、有山閣
(注2)藤田定興著「東北地方南部の薬師信仰」は『薬師信仰』に収録
*
この作文をしているとき訪ねた千葉県佐倉市の国立民俗歴史博物館で、「慈恩寺の宗教と仏像展」のパンフを見つけました。今月14日までです。