偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏番外 国安・要害山(茨城)石祠

2017年03月20日 | 登山

国安・要害山(ようがいさん) 石祠(せきし)


【データ】要害山 185メートル▼最寄駅 JR水郡線・常陸太田駅▼登山口 茨城県常陸太田市棚谷町の出羽集落▼石仏 要害山山頂、地図の赤丸印。青丸は日吉神社▼地図は国土地理ホームページより

【独り言】NHK大河ドラマ「真田丸」では〝国衆〟という言葉が使われていました。時は戦国時代、大名・武田氏と起請(神仏に誓って約束をすること)を交わして配下になった土地の支配者を国衆とした設定でした。その起請文が長野県上田市の生島足島神社に83も残っているそうです。大名と国衆は知事と村長といった関係でしょうか。この村長も規模の大小があって、それなりに館をつくり、見通しがきく山に見張りのための砦を造りましたから、戦国期の里山は館や砦でにぎやかだったと想像します。これが江戸時代にはほとんど無用になって森や林に戻ってしまいますが、里人が信仰する神々の鎮座するところになった山もありました。
 国安の要害山には国安城があった、と城跡に立つ案内にありました。国安の国衆は山入氏。大名は佐竹氏でした。想像するに佐竹は中世にこの常陸を支配したベテラン知事のような存在、一方の山入は佐竹と同族で村長より大きな市長クラスでしょうか。ところがこの両者は百年に渡って戦を繰り返したことも案内にありました。戦国時代が始まったころの話で、佐竹という大きな組織に戦いを挑む山入には、引き下がれない理由があったのでしょう。


 その城跡の山頂入り口に手水鉢が一つ、頂きに石祠が4基並んでいました。石祠のうち3基は屋根だけ。銘もなく祭神もわかりませんが、廃城になって2、3百年過ぎてから祀られた神々のはずです。山入りは滅び、佐竹が秋田に転封となった江戸時代に、里人の信仰の山として落ち着いたのでしょう。

 城跡へは出羽の集落から中腹まで林道が通じています。林道終点から左が城跡、右は日吉神社への道。日吉神社=写真上=は佐竹が天台宗とともの常陸の山に祀って保護してきた神社です。


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