偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏697朝房山(茨城)

2016年12月02日 | 登山

朝房山(あさぼうやま) 晡時臥山の神(くれふしやまのかみ)


【データ】 朝房山 201メートル▼最寄駅 JR水戸線・笠間駅▼登山口 茨城県笠間市池野辺▼石仏 朝房山の山頂、地図の赤丸印▼地図は国土地理ホームページより



【案内】 笠間市と城里町を結ぶ街道から朝房山への車道は、池野辺の集落を通り山頂下の鳥居まで続いている。鳥居の手前には山頂まで続くこれも車でも入れそうな道まである。その山頂は、中央にいくつかの樹木を残して草原の広場になっている。中央樹木の中には石祠と大きな石碑。石祠は「昭和三十七年」の造立で祭神は不明。脇に立つ「常陸名山浅房山」銘の石碑は少し古く「紀元二千六百一年(昭和16年)」の造立である。その碑文に石祠の祭神に関わる記述がある。


 「浅房山又は朝房山に作る 常陸古風土記に茨城の里此より北に高丘あり 晡時臥山と名くとある即ち是なり 祠は国造本紀に茨城國造筑波刀禰の後 額田部連の子努賀直之の祖也」とあり、古くは山頂の祠は努賀氏の先祖を祀ったものだったことがわかる。その先祖は【独り言】で紹介するが、蛇である。碑文はさらに「康平五年三月初酉の日 八万太郎義家亦東征の途次大橋八幡祠に詣で(略)これ毎年三月初酉に日に里人の登山する由来なりとす」と続いて終わる。大橋八幡祠は笠間・城里を結ぶ街道から朝房山への道に入ってすぐ左手にある神社。山頂までの道は3月祭礼の日に、里人のだれもが登れるようにと造られたのであろう。朝房・浅房・晡時臥の名がある小さな里山には大きな言い伝えがあったこの地方の名山であった。

【独り言】蛇神 奈良時代の和同六年(713)、朝廷から各国ごとに風土記撰進の詔が出ました。国内の地名・土地の様子・産物・伝承などを報告させるものでした。各国から報告が上がったはずです。しかし今日まで残ったのは、出雲・豊後・播磨・肥前とここに案内する『常陸国風土記』だけでした。さらに『常陸国風土記』の存在が知られたのは江戸時代、遠く離れた加賀藩に伝わっていたものだったそうです。その「那珂郡」のところに晡時臥山に祀られた神が取り上げられているので、秋本吉徳著『常陸国風土記』(注)から要約します。
 晡時臥山のふもとに努賀毗古(ぬかひこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の兄妹がいました。その妹に求婚するため、名もわからない男が毎晩訪れ、やがて結婚します。ところが夫婦になると一夜にして身ごもり、やがて小さな蛇を生んだそうです。しかしその子は、日のあるうちは口をきかず、夜になると母と話をするという不思議な様子をみて、神の子であろうと思ったそうです。そこで器(杯)に入れ、祭壇を設けて安置したところ一晩で大きくなり、大きな器(瓮)にいれてもすぐいっぱいに成長するのを見て子供に、お前は神の子であるのでこれ以上我々の手で育てることはできないから、父のものへ行きなさいといいました。すると子供は泣き悲しみましたが、帰りますから一人の童を従者として添えてほしいとたのみました。しかしここにいるのは努賀の母と伯父の二人だけですからできませんと答えると、神の子は怒りだして伯父を震殺(落雷で殺す)して天に昇ろうとしました。これに驚いた母が瓮をとって投げると神の子に当たって、昇天できなくなってしまったそうです。そこで神の子は晡時臥の峰にとどまり、努賀の子孫たちは社を建てて神の子の祀り、代々祭りを絶やさず続けている-と。
(注)秋本吉徳著『常陸国風土記』講談社学術文庫、2001年


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