偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏799横隈山(埼玉) 御嶽座王大権現、御嶽大神

2018年06月22日 | 登山

横隈山(よこがいさん) 御嶽座王大権現(おんたけざおうだいごんげん)、御嶽大神(おんたけのおおかみ)


【データ】 横隅山 593メートル(国土地理院地図に山名なし。平沢集落の北西593.5三角点)▼最寄駅 JR八高線・児玉駅▼登山口 埼玉県本庄市児玉町平沢集落、地図の黒丸印▼石仏 横隅山山頂の西の肩、地図の赤丸印。青丸は峠の道標▼地図は国土地理院ホームページより
【案内】 横隅山の登山口は児玉町の平沢集落。集落奥の車道が終わるところから登山道が始まり、沢沿いの道を離れてひと登りすると小さな道標が立つ峠に出る。道標は「立太子記念」として「太駄部青□(青年団か)」が建てたものである。立太子は皇嗣(こうし=天皇の跡継=皇太子)、太駄は平沢から北に尾根を一つ越えたところの集落。これらの銘から、大正時代に昭和天皇の立太子を祝って建てたものと推察する。
 峠から横隅山へは北の尾根をたどる。途中で林道が入るが踏み跡をそのまま北上すると御嶽信仰の石塔が立つ横隅山の一角に出る。はじめに出会うのが二つに折れた「御嶽座王大権現」。次に「武尊大権現 明治四年」、そして「御嶽大神 国常立尊 明治五年」が立つ。
 明治政府が元年に出した神社から仏教色を廃除する神仏判然の通達は、神社の神号に権現・天王などの仏語を用いるのもふさわしくないとした。これにより御嶽山も「御嶽座王権現」から「御嶽大神」にしたのは明治二年、以後御嶽山中の権現・天王も通達にそった神号に変更していった。これは各地に組織されていた御嶽講でも順次行われ、横隅山には明治以前の造立と思われる「御嶽座王大権現」と、明治5年造立の「御嶽大神」の新旧二つの石塔が並ぶことになった。国常立尊も御嶽大神と同じ御嶽座王権現山の別称で、御嶽に古くから祀られていた大己貴命、少名彦命などの神号の一柱。
 武尊大権現は、群馬県奥利根地方の名山・武尊山の神で、御嶽信仰では御嶽三座神(御嶽山座王大権現、八海山大頭羅神王、三笠山刀利天宮)に、この武尊山、埼玉県秩父旧大滝村の意波羅山を加えて御嶽五神と称している。いずれも御嶽山の王滝口を開いた普寛行者がかかわった山である。
(参考書)生駒勘七著『御嶽の歴史』昭和41年、木曽御嶽本教

【独り言】 児玉町の山で御嶽信仰の石塔を見て思い出したのが上の写真です。昭和50年に新潟の八海山で写したものです。43年前の写真ですから、肖像権も時効でしょうからここに掲載しました。写っているのは児玉町の御嶽講の皆さんです。登山中に二峰の不動岳で修行中の皆さんに出会って、御嶽講の話を聞いた人たちでした。皆さんの出で立ちは、白装束に白足袋・草鞋もあれば、トレーニングパンツに運動靴とまちまちで、額にしめた白手ぬぐいだけが、山印に三の講紋が入ったお揃いのものでした。先達の話では、毎年春に秩父の両神山に登り、夏に木曽御嶽山、秋に八海山の登るのだそうです。当時は山でカメラを持ち歩く人は少なく、出会って写したら住所を聞いて送ってあげるというのが普通でした。このときは人数分焼き増しして送りました。
 デジカメや自撮り棒が普及したいまでは考えられないことですが、昔の山ではカメラをきっかけとした交流がたくさんありました。

 


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