偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏800猿倉山(新潟)西国三十三所観音

2018年06月25日 | 登山

猿倉山(さるくらやま) 西国三十三所観音(さいごくさんじゅうさんしょかんのん)

【データ】 猿倉山 687メートル▼最寄駅 JR上越線・五日町駅▼登山口 新潟県南魚沼市下出浦、地図の黒丸印▼石仏 登山口から中腹の薬師堂跡までの尾根、地図の赤丸印は薬師堂跡▼地図は国土地理院ホームページより


【案内】下出浦集落奥の貯水池の東側、観音や庚申などの石造物が並んでいるところが猿倉山の登山口。歩き出してすぐ「四番」銘のある聖観音が立つ。その先の水路に突き当たったところには「五番」聖観音。猿倉山へはこの五番から尾根に取り付き、中腹のお堂跡まで急坂ではあるがしっかりした道が続く。六番から二十一番まではいくつか欠けるが立っている。しかし尾根がやせて急になるところでは見つからず、傾斜がゆるくなってくると再び見いだせる。そしてお堂跡に2体とその近くで「三十一番」が立つ。石仏の状態はいろいろで、尾根上部になるほど悪くなっている。石仏にとって豪雪地帯の尾根の座所は厳しい。
 登山口に並ぶ石造物のなかに「昭和四年 西国三十三番観音」の石碑が立つ。表と裏に賛同者の芳名が高額寄附の順に並ぶ。金額は十五円を筆頭に五十錢まで。山麓にあった榮久院や常楽院の寺銘もあるので、これらの寺も含めた山麓の大勢の人たちの願いが込められた三十三所観音である。石工として「田辺冨治 服部弾」銘がる。この石仏を西国三十三所の本尊に照らすと、一致しないものが多い。石質も悪く像容も単純である。西国だけにある十一番の准胝らしき石仏もあるが、風化がすすんでいる。不空羂索と馬頭は見当たらなかった。
 猿倉山がある魚沼地方は修験の寺が多かったところで、登山口の石碑にあった常楽院も真言宗の修験寺だった。近世に魚沼で山岳信仰が盛んになったのは、これらの修験が関係しているとみている。その一つである八海山をはじめ、修験の山だったとみられる苗場山巻機山金城山坂戸山坊谷山などには多くの石造物が造立されていて、このブログでも案内した。魚沼は三十三所観音石仏も多いところで、これも修験寺が多かったことに関係があったのではとみている。
 お堂跡の先で道は二分する。左は沢に降りる道、左は猿倉山への道である。
 
【独り言】 猿倉山の登山口にイノシシを捕まえる檻が置かれていました。餌をみるとサツマイモです。私が住む千葉の房総半島のイノシシ捕獲檻のエサは米ぬかと決まっていましたから、サツマイモはごちそうのはずです。登山口の石仏を調べていると、運よくこの檻を仕掛けた男が見回りにきました。聞くとサルを捕える檻だそうです。米どころのサルは何をたべるのか尋ねると、最近のサルは、稲を倒して座布団代わりに座って米を食べるのだそうです。多少の米は仕方ないとしても、倒されると稲刈りのとき面倒になるとのことでした。
 登山口に倒れていた「左やくし道」の道標についても尋ねてみました。すると、猿倉山の中腹には薬師堂があって、昭和20年代まで春と秋のお祭りに登ってお籠りをしたそうです。その薬師堂は昭和34年の伊勢湾台風で倒壊してしまい、本尊薬師如来は集落のある家に降ろしたとか。また、集落にいた行者がこの薬師堂に籠って修業をしていたとも。西国三十三ヶ所観音石仏が置かれた道は、お堂跡に建っていた薬師堂への道だったのでした。それから、観音の石仏は薬師堂からさらに奥、沢に下ったところにあるのが最後だそうです。雨上がりの夏草がしげった薬師堂への道ですから、もう一度登る元気はありませんでした。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石仏799横隈山(埼玉) 御嶽... | トップ | 石仏801風谷山(新潟)三十三... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。