偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏214那須・大峠(福島・栃木)

2009年09月18日 | 登山

大峠(おおとおげ) 六地蔵(ろくじぞう)

214_2【データ】大峠 1450メートル▼25000地図 甲子山、那須岳▼最寄駅 会津鉄道・養鱒(ようそん)公園駅▼登山口 福島県下郷町野際新田▼石仏 大峠

2141 【案内】会津と下野を結ぶ道といえば田島(南会津町)から今市(日光市)に出る山王峠、いわゆる「南山通り」が本道である。江戸時代の初期・天和ころ、この道が地震の土砂崩れで通行不能になったとき急遽開削されたのが那須の山中を通るこの大峠越えの道だった。後にこの道は茶臼岳山中に開かれた白湯山への信仰の道、あるいは三斗小屋温泉の湯治の道として、本道が復旧しても利用されたという。峠には流石山を2142 背に地蔵菩薩が立ち=写真中=、三本槍岳側には五体のこれも地蔵菩薩が立つ。三本槍岳側の五体はいずれも風化がすすみ、満足な姿のものは一つもない。像容もはっきりしないので尊名の判断はむずかしいが、わずかに残る杖や宝珠から地蔵菩薩とした。そして同じような大きさからかつては六体、つまり六地蔵として祀られたものと思われ2143_2 る。会津からの白湯山信者は、峠に立ってはじめてこれからたどる三斗小屋・志津・白湯山・茶臼岳など信仰の山の全容を見ることができた。そのコースは茶臼岳から流れ出す御沢沿いに開かれた厳しい道だった。そのような人達をこの六地蔵は見送り、また帰りには迎えてくれるのが役目だったに違いない。帰り際、石を地蔵に見立てて六地蔵らしく祀ってみた=写真下=。

2144_2 【独り言】会津の里山を歩くとき欠かせないのが『会津の峠・上下』(昭和51年、会津史学会編集)です。この本のすばらしいところは地図と写真をふんだんに使っている点で、なかでも石仏の写真がたくさん紹介されているのが気にいっています。大峠の項では野際新田や三斗小屋の当時の貴重な写真が掲載され、「この街道は、江戸廻米の運送以外にも、物資の輸送、人馬の往来に利用されて、南山通りの替え道として活気を呈し、会津藩主三代目の松平正容も、参勤交代でこの道を通行している」とありました。その松平正容が馬を返したという「奥州駒返坂」の碑が、峠道からすこし入った山中に立っていま2145 2146 した。自然石に刻まれた文字碑で「元禄八年」の年号がはっきり読み取れます。『会津の峠』によると、この道が開かれたのはくしくも元禄八年。この碑は街道の開通を記念しての建立なのだろうか。それとも後世のものなのか。いづれにしても300年前に立てられたものとは思2147 えない鮮やかな文字でした。活気を呈したこの峠道でしたが、本道が復旧するとあっという間に荒廃し、「開通後わずか九年目の宝永元年には脇街道に編入」、口留番所まで置かれた野際新田も衰退したようです。写真下は野際新田集落にあった庚申塔の石仏です。

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