偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏356田野入・天神峠(山梨)

2012年01月06日 | 登山

田野入・天神峠(てんじんとうげ) 天神(てんじん)

356【データ】天神峠 360メートル▼国土地理院25000地図 上野原(地図に峠名なし。田野入集落の北側、トンネルの上)▼最寄駅 JR中央本線・上野原駅▼登山口 山梨県上野原市鶴島の田野入集落▼石仏 天神峠の西側(地図の赤丸)

35613562【案内】田野入の天神峠は甲州街道の上野原から秋山村への入口。この峠道、かつては馬も通ったのであろう、田野入からの道の途中と峠に馬頭観音が祀られていた。しかしこの道は「阪路険峻にして行歩甚だ艱なり(略)雪降らば即ち峻路は氷結し道は険を倍にして人馬の交通全く絶え」という難路だったことが、峠の上野原側に立つ「天神隧道記念碑」に記されていた。ここにトンネルができたのは明治43年、10年に及ぶ難工事だったことも記念碑にあった。このトンネルにより上野原側からの峠道は消滅したが、3563 田野入からの道は残っていて、入口には「路供養」の石塔=写真下がある。この道は信仰の道としていまでも歩かれている。その一つが天神様。峠の西側の一段あがった場所に天神社の石祠がある。天神は菅原道真を祀る天満宮をいうが、古くは天にいる火雷天神で、雨を乞う農耕神として祀られた神とされている。京都の北野の地にある天神=もこの神で、これに菅原道真の怨霊を鎮めるための社が造られたのは平安時代の中頃。火雷天神には祟り神の性格があり、それに雷神と化した道真の怨霊が結び付けられたという。この社は後に菅原氏の氏神となり、菅原家が儒教の家柄だったことから一般儒家の神となり、詩文の神となって、鎌倉時代には学問の神としての天神が確立されたようである。この学問の神としての天神が中世末期か近世にかけて各地に勧請された(参考文献『民衆宗教史叢書4天神信仰』昭和58年、雄山閣)。田野入の天神祠には勺を持つ天神の神が祀られていた。天神の基本的な像容である束帯姿に比べると、あっさりしていて物足りない田野入の天神である。この天神を含め山梨県の東部地方の天神の多くが峠に祀られている。峠に祀るということは、学問の神としての他に、この神本来の雨を乞う農耕神としての目的もあったようにみえる。

【独り言】山梨県東部の道志や御坂の山に、天神峠という名称や天神社を祀る峠が多いというので探したことがありました。それはどこも里近い低い峠で、確かに天神社がありました。しかしほとんどは石祠や木祠の小さいもので、期待した天神の御神体3564 を祀ったものはこの田野入と御坂峠=写真=と大月の岩殿山だけでした。祭にしても子どもたちが天神社に集まって遊ぶ天神講はかつてのことで、いまではその行事も途絶えて久しく、峠にあるのでは不便と麓に下ろされた天神もありました。それにしてもこの地方に天神が多いのはどうしてなのでしょうか。その疑問に答えてくれたのが『禅と天神』(2000年、吉川弘文館)でした。そのなかの相沢正彦氏の「東国画人の渡唐天神像」によると、「鎌倉幕府政権も、貞永式目の追加法において、必ずや京都・北野神社で起請文を書く規定を定めている」とあり、鎌倉幕府が天神を重んじていたことがわかります。これは関東の御家人に天神信仰をひろめる機運となり、その結果「束帯天神の画像や彫像、また天神縁起絵巻なども各地に点在している」ことを紹介しています。そのなかで特に残っているのが甲州で、武田家では信玄の五代前の重信が京より求めた作品が代々珍重されたようです(この作品は焼失し、写本が甲府市の一蓮寺に残る)。この武田氏の天神信仰は家臣にもひろがり、武田滅亡後に甲州各地に帰農した家臣たちは、この地方にみられるイッケと呼ぶ一族組織の守護神の一つとして天神を祀ってきたようです。天神に託したのは学問に関することばかりでなく、健康や機織りなどさまざまで、信玄が生まれたとされている甲府市の要害山の中腹にある積翠寺には「産湯天神」の石祠がありました。

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