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真夜中の2分前

時事評論ブログ
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“核の傘”など本当に存在するのか

2016-11-01 23:21:45 | 安全保障
 少し前の話しになるが、国連で核兵器禁止条約の交渉開始にむけた決議が採択された。
 しかし、米ロ英仏の核保有国などがこれに反対し、日本も反対にまわったことが批判されている。核保有国である中国さえ棄権だったなかで、唯一の被爆国である日本が核廃絶にむけた動きに反対する――というこの恥ずべき事態を、当ブログでも強く批判しておきたい。

 さて、そうすると、保守派は「これが現実路線だ」というだろう。「日本の安全保障のためには“核の傘”が必要だ」というおなじみの理屈を持ち出して。
 そこで今回は、そもそも核抑止力なるものが本当に存在するのか、という根本的な問いを投げかけておきたい。
 それはすなわち、「核兵器をもっていれば攻撃されない」といえるのか、という問題である。
 アメリカを中心とする核保有国は核抑止力というものを信じて疑っていないようだが、私はどうも「核をもっていれば攻撃されない」などということはないのではないかという気がしてならないのだ。


■核をもっていれば攻撃されない?
 たとえば、アメリカは核兵器をもっているが、攻撃されたことはないのだろうか。
 答えはノーだろう。
 ベトナム戦争の発端とされるトンキン湾事件では、哨戒作戦に従事していたアメリカの艦船に対して北ベトナムが攻撃してきた。アメリカの挑発行動という側面がたぶんにあるにせよ、核抑止力というものがもし本当に存在するのなら北ベトナムは米艦船への攻撃を思いとどまるはずだし、ベトナム戦争もあそこまで拡大することはなかったはずではないのか。
 さらに、2001年の同時多発テロはどうなのか。
 あれがタリバン政権下のアフガニスタンによる攻撃だとするなら、やはりここでも核抑止力は働かなかったことになる。
 さらにアメリカ以外の国のことでいえば、イスラエルは核兵器をもっているが、武装勢力から攻撃を受けている。インドとパキスタンは核兵器をもっているが、それでもときどき武力衝突を起こしている。中国と旧ソ連は、核保有国同士であるが軍事衝突したことがある……このような例をみていれば、「核抑止力」という発想が私にはきわめて疑わしく思えてくるのである。

 最初にあげたベトナム戦争の例は、特に重要だと思うのでもう少し詳しく書いておく。
 「日本が“核の傘”に守られている」というのは、「日本自体は核保有国ではないが、アメリカという核保有国が後ろ盾についているから核抑止力が機能している」という意味だろう。
 しかし、その理屈はベトナム戦争という史実を考えれば成り立たない。
 その理屈が正しいのなら、「南ベトナム自体は核保有国ではないが、アメリカという後ろ盾がついているから核抑止力が機能している」、それゆえに、安全が保障される……ということになるはずである。ところが実際には、南ベトナムは北ベトナムとの激しい戦争のすえに敗戦し、事実上北に吸収されて消滅した。

■核が抑止力にならない理由
 では、核という強大な力が抑止にならないとしたら、それはなぜか。
 一つの理由として考えられるのは、核兵器は基本的に「使えない兵器」であるということだ。
 広島・長崎の経験から、核兵器を使用すれば悲惨な事態が生じることは知られている。そこまでの経緯がどうであれ、核を使用した時点で「非人道的な大量破壊兵器を使用した」として歴史に悪名を刻むことになるのは間違いない。だから、実際に核兵器を使うことにはみな二の足を踏む。
 その状況が続くと、「核兵器は実際には使えない」という認識が一般的なものになる。朝鮮戦争のような激しい戦争であっても、核兵器は使われなかった。あれだけの戦争でも、核は使えない。ということは、「たとえ核保有国を攻撃しても核で報復してくることはまずありえない」という見通しが立つことになる。ゆえに、核は抑止力として機能しなくなる。

 それ以前に、もっと根本的な問題として、そもそも核にかぎらず「抑止力」というもの自体の存在が疑わしいということもある。
 当ブログでは、軍事的な力が抑止力として働くという考え方自体に疑念を呈してきた。それは、核に関してもあてはまるのではないだろうか。
 世間には、「第二次大戦後は、核兵器が抑止力となっていたために大戦争が起きなかった」というような言説があるようだが、私にはそうは思えない。先述したように、核保有国が攻撃されたり戦争に関与している例はあるのだ。以前書いたことの繰り返しになるが、第二次大戦後の世界で大きな戦争が起きなくなったのは政治的・経済的な理由が大きいと私は考えている。


■核開発は安全保障上のリスクを高める
 さらに、核保有は抑止力どころか攻撃を受けるリスクを高める理由にさえなりうる。
 すでに核を保有している国はともかく、非核保有国が核兵器を持とうとすれば、それ自体が攻撃されるリスクを呼び込むことにもなるのだ。

 たとえば北朝鮮が核開発をするとなれば、周辺国はそれを脅威ととらえる。そこで、「核を開発する前に先制攻撃してしまおう」という発想が出てくることになる。実際、北朝鮮の核開発に対して、アメリカは先制攻撃も一つのオプションとして検討していた。
 これは結局断念したが、そのような先制攻撃が実際に行われた例はある。
 1981年にイスラエルがイラクに対して行ったいわゆる、“オシラク・オプション”がそれだ。
 このとき、イスラエルはイラクのバグダッド近郊にあるオシラク原子炉を攻撃した。イスラエル空軍のF16がイラク領空に侵入し、原子炉に不意打ちの爆撃をくわえたのだ。これは核兵器を保有しようとしたことが実際に攻撃される事態につながった例である。核開発を進めるイランに対してもイスラエルは同じことをやろうと計画しているという話があった。イランは自国の安全保障のためといって核開発を進めていたわけだが、むしろそれにって攻撃を受けるリスクを高めていたのである。
 このように、核開発はそれ自体が攻撃されるリスクを高めることになる。保守派のなかには北朝鮮の核開発に対して日本も核開発するべきだという声があるようだが、核開発によるリスクを考えれば、それはまったくの愚行である。


■“核の傘”より“非核の傘”を
 このように、核抑止力という考え方は、よくよく考えてみれば非常に疑わしい。
 核保有国が後ろ盾についているから安全が保障されるなどということはないし、ではみずから核を保有しようとすればそれ自体が攻撃を受けるリスクを高めることになりかねない。現実に起きた事例を考えれば、実際に核を保有したとしてもそれで攻撃されないという保障はない。

 ある地域の国々が合意して非核地帯を作る“非核の傘”という考え方があるが、“核の傘”よりも、この“非核の傘”のほうが、より現実的で確実な安全保障であるように私には思える。唯一の被爆国として、日本はその動きをこそ主導していくべきではないか。

「土人」という暴言――沖縄を植民地扱いする本土の差別意識

2016-10-24 00:19:07 | 沖縄
 沖縄のヘリパッド移設工事をめぐる問題で、機動隊員が反対派の住民に対して「土人」という言葉を使ったことが問題になっている。

 当ブログでは沖縄の基地問題についても過去に何度か記事を書いてきた。
 その一環として、今回はこの暴言問題について書きたい。

 まず「土人」という、日常ではあまり使わない言葉について。
 これは、開拓地などに住んでいる先住民に対して“未開の民族”といった意味合いで使う言葉だろう。手持ちの国語辞典で引いてみると、「その国土に生まれ住んでいる人」という意味についで2番目に、「未開地の土着民。未開人」とある。かつて、日本政府がアイヌ民族のことを「土人」と呼んで「北海道旧土人保護法」などという法律を作っていたことを思い起こせば、この言葉の奥底には差別意識が潜んでいるのが感じられるだろう。
 今回「土人」という暴言を発した本人は「侮蔑的な意味合いがあることは知らなかった」と釈明しているそうだが、それはかなり疑わしい。侮蔑的な意味合いを知らずに、あの文脈でこの言葉が出てくるものだろうか?

 当ブログでは、政府の沖縄に対する姿勢はまるで植民地政策だと批判してきたが、今回の「土人」発言でそれがあきらかになったと思う。

 日本に近代国家ができる過程での沖縄は植民地として編入された。そして、いまでも、宗主国が植民地にむける差別意識が一部の人間に染み付いているのではないだろうか。

 その差別意識は、沖縄に対する踏んだり蹴ったりの仕打ちにみてとれる。

 太平洋戦争中の日本軍は、沖縄戦において、現地住民を守らなかった。
 守るどころか、「人間の盾」として利用し、住民が助けを求めてきてもそれを拒否して見殺しにし、場合によってはスパイ扱いさえした。そして戦後は、そこにアメリカの基地が集中する状況を黙認し、沖縄がどれだけ抗議しても頑として聞き入れようとしない――そういう姿勢の行き着く先として、今回の「土人」発言があるわけだろう。

 ちなみに、 今回の件に関する報道によれば、「土人」という言葉はネットスラングとして福島県の人を指して使われることも多いらしい。福島の人のことを、原発事故後の「補助金で生活している人」ときめつけて、侮辱の意味をこめてそう呼ぶのだそうだ。

 これもまさに、植民地主義だろう。
 首都圏のための電気をつくる施設を押し付けておいて、それを反省するどころか、さらに罵声を浴びせかける。かつてアメリカが先住民に対してとってきた態度と瓜二つだ。
 

 最後に、当ブログ休止中にあった動きとして、国と沖縄県との法廷闘争についても触れておこう。
 今年の三月、国と沖縄県は、いったん和解した。これについて当ブログでは、参院選にむけて沖縄を争点化させないための「参院選シフト・沖縄隠し」だと指摘した。
 案の定、参院選が終わって半月も経たない7月の22日、国は沖縄県を相手どって新たな訴訟を起こした。
 予想していたことではあるが、まさかこうまで露骨なことをするとは……と開いた口がふさがらない。参院選の選挙期間中だけ和解しておいて、参院選が終わったら「さあ、もう隠す必要はなくなったぞ」と訴訟を起こす。いまの日本政府に居座っているのは、こんなにも冷酷非道で卑劣な連中なのである。

原発は民主主義と相いれない―—新潟県知事選によせて

2016-10-19 19:49:41 | エネルギー問題
 新潟県知事選において、原発再稼働慎重派の米山隆一氏が当選した。
 反原発を掲げる社民・自由・共産(と民進)の野党共闘によって、自公の推す候補が敗れた。明確に反原発の民意が示された形である。
 そこで今回は、当ブログ再開第一弾の原発関連記事を書く。

 今回のテーマは、原発の「非民主性」だ。

 原発に関する意思決定には、とかく非民主的なうさんくさいものがある。この点について、いくつかの事例を紹介しよう。

■民意無視
 たとえば、今回の新潟県知事選で注目された柏崎刈羽原発である。
 この原発では、プルサーマルの是非をめぐって立地自治体である刈羽村での住民投票があったのだが、そこにいたる過程において、原発の非民主性がフルに発揮された。
 住民が署名を集めて請求したのを議会が否決したり、村長が事実上の拒否権を行使するなどして、住民投票が実施されるまでにはかなりの年数を要した。さらに、住民投票で反対多数という結果が出てからも、村は東電とともにそれを骨抜きにしようとさまざまな工作を行っていたといわれる。結局、プルサーマルの受け入れが取り消されたのは、東電の不祥事隠しが発覚してからのことだった。
 このように原発においては非民主的なプロセスが日常茶飯事になっている。まるで、原発に関しては民意など一切無視してかまわないというような態度がまかりとおっているのだ。
 今年は鹿児島でも原発に厳しい姿勢を打ち出した三反園訓氏が知事に当選しているわけだが、このように、現地の民意では反対が示されているにもかかわらず、電力会社側がそれを無視して原発を稼働し続けているというのが実態なのである。

 おそらく、原発推進派は、民意など聞く必要はないというだろう。
 原発ムラの住民はきっとこういう。「民衆は愚かだから、まともな判断はできない。あいつらは科学的な知識ももたずにただ情緒的に反原発といってるだけさ。だから、そんな愚かな民衆に代わって俺たちが正しい判断をしてやるんだ」と。
 しかし、そんな彼らの判断の末にあったのが福島の事故であり、その後始末に莫大な費用がかかっているという現実がいま目の前にあることを忘れてはならない。
 福島第一原発の事故は、発生から五年以上が経ついまも収束のめどがたたず、頼みの凍土壁も空振りに終わり、日ごとに膨大な量の汚染水が溜まり続けている。メルトダウンを起こした原子炉に関しては、いまだ核燃料がどういう状態になっているのかさえわかっておらず、当然それを取り出す手立てもまったく見えていない。
 また、賠償や廃炉の費用は最終的に10兆円を超える可能性が高く、東電だけではそれをまかないきれないために、その費用を新電力にも負担させようという意見が最近出てきている。そのぶんのコストを新電力に負担させれば、結局それは電気料金に転嫁され、国民負担となるだろう。さんざん原発は安全で低コストだと宣伝しておきながら、大事故を起こしたすえにその後始末の費用を原発を使わないことを選んだ人たちにまで負担させようというのだから、開いた口がふさがらない。

■隠蔽体質
 非民主性ということでいうと、原発業界の隠蔽体質も問題である。
 これに関しての実例はもう枚挙にいとまがないわけだが、やはり刈羽原発の例でいうと、たとえば断層の問題がある。
 刈羽原発の沖合いにある断層について、東京電力が2007年に「20キロの活断層の可能性がある」という見方を発表したのだが、じつは東電は2003年にすでにこのことを把握していたという。しかしそれを公表せず、表向きには「活断層ではない」といい続けていたのである。そして、そのことを公表したのと同じ日に、東電は新潟県に30億円を寄付すると発表しているのだが、この二つの発表が同じ日に重なった点について東電は「偶然」としている。
 また、同じ2007年には、新潟で中越沖地震というのがあった。この地震によって刈羽原発では放射能漏れ事故が起きたのだが、このとき放射能の測定値が実際よりも低かったことがあきらかにされている。この点について、東電は「間違って低く測定してしまった」といっている。さらには、この件についてIAEAが調査を打診したのを、日本政府は拒否している(その後、当時の泉田知事が要請して調査は行われた。ちなみに、IAEAの調査を日本政府が拒否したそのときの首相は安倍晋三現総理だった)。
 刈羽原発以外の例もみれば、原発やその関連施設に隠蔽体質が染み付いていることはいっそうはっきりする。
 もんじゅでナトリウム漏れ事故が起きたときには大した事故ではないかのようにみせかけようと偽造写真が公表されたし、北陸電力は志賀原発で起きた臨界事故を8年にわたって隠蔽していた。また、東海村で火災事故が起きたときには、嘘の通報をして、現場に駆けつけた消防士を被曝させたりもしている。


■司法をも蹂躙
 そして、原発の非民主性は、立法、行政だけでなく司法にまで及びかねない。
  今年の7月、関西電力の前会長で関西経済連合会の会長である森詳介氏が、原発の運転差し止めを求める仮処分の申し立てを起こさせないようにする法改正を政府に求めていくという考えを示した。
 電力会社にしてみれば、稼働差し止めの訴訟を起こされてそのたびに原子炉停止に追い込まれたのではたまらない。そこで、司法も原発には手出しできないようにしようというのである。これが実現する見通しは低い(と思いたい)が、こんなことを堂々と主張するということがそもそもおかしい。彼らはまるで、自分達が司法も立法も行政も超越した絶対権力であるかのように振舞おうとしている。これは、そうでもしないと原発は推進できないということであり、逆にいえば、原発そのものが根本から民主主義と相容れないということなのだ。

■学問の自由までも侵害
 さらには、原発の非民主性は学問の領域にまで及ぶ。
 福島第一原発の事故が起きたときに、SPEEDIによる放射性物質の拡散予測がすぐに公表されなかったという問題があった。これも、情報をすぐに公開しない隠蔽体質の一環ととれるが、これにからんで日本気象学会が会員の研究者らに研究成果の自粛をもとめたというのも問題になった。
 あの事故が起きたとき、多くの研究者らが、放射性物質がどのように大気中に拡散するかを独自に研究していた。それにたいして、気象学会はそのような研究の結果の公表を自粛するよう会員らに求めたのである。そういうデータが公表されると国民の間に動揺が広がるなど影響が大きいから……ということなのだろうが、これには学問の自由を侵害するものと批判が相次いぎ、「みずから情報統制するのは学会の自殺行為」という声もあったという。
 ふつうに考えれば、研究の成果を公表しないように学会が研究者にもとめることなど考えられない。ところが、原発に関してはそういうことがおきてしまうのである。 

 このように、原発というのはそれ自体が民主主義と根本的に相容れない。
 多数決を無視し、司法を踏みにじり、学問の自由を封殺しなければ成立しないのが原子力発電なのだ。逆にいえば、原子力発電を続けていくということは、そのような非民主的な社会システムを温存していくということになる。真に民主的な社会であるためには、原発と訣別しなければならないのだ。

真夜中の2分前

2016-10-16 18:26:35 | 政治
 お久しぶりです。
 少し休憩が長くなりましたが、そろそろ当ブログを再開しようと思います。
 再スタートするにあたって、まずブログタイトルを「真夜中の2分前」に変更することをおしらせします。
 思い返せば、2年ほど前に開設した当初は、このブログは「真夜中の5分前」というタイトルでした。
 この国が危険な状態に陥りつつあるのではないか、ほうっておくと闇に覆われてしまうのではないかという危機感をこめて、そういうタイトルをつけたわけです。
 そうこうしているうちに、去年のあの安保国会がありました。その安保法可決に際して、危機はさらに進んだということでタイトルを「真夜中の3分前」に変更したのがちょうど一年ほど前のことです。そしていま、危機はさらに進行していると私は考えています。そこで、時計の針をさらに進めて、「2分前」としました。
 それほど多くの記事を投稿することはできないと思いますが、細々とやっていこうと思います。どうぞ、お見知りおきを。

参院選、残念な結果に終わる

2016-07-13 21:01:24 | 政治

 いまさらの話ではあるが、参院選が残念な結果に終わった。
 自公の勝利で、改憲勢力を集めれば参院でも三分の二を占めることになった。

 不特定多数のことを批判するのは気が引けるが、しかしそれにしても、なぜこうなってしまうのか。
 自分の生活に実害が及ばなければ気がつかないのか……と、暗澹たる気持ちにさせられる。自分の生活に実害が生じてから何かしようとしても手遅れなのだが。

 おそらく、これから経済状況はじりじりと悪化していくと思われる。
 なにしろ、好転する要素がなにも見当たらないのだ。
 「デフレからの脱却」もいつまでたっても達成できず、むしろ経済全体がデフレの方向に進んでいく。急激な円高で輸出企業の業績も悪化し税収も減少する。あらゆる数字が悪化していき、アベノミクスのめっきが剥がれ落ち、いよいよ国民も騙されていたことに気づく――そういうことになるのではないか。
 そうなったときに安倍総理がいったいどんな珍妙な言い訳をひねり出すか、今からせいぜい楽しみにしておくか――と、なかばやさぐれたようなことも言いたくなってしまう今回の参院選だった。

 しかし、かすかながら希望をもてる要素もなかったわけではない。

 野党共闘については、十分に機能したとはいいがたいが、それなりの成果はあった。
 もし共闘していなかったらもっとひどいことになっていたはずだ。ダイレクトに自民単独で過半数になっていたかもしれないし、いろいろな制約なしで改憲勢力が三分の二を超えていたかもしれない。今はとりあえず、それを阻止したというところで満足するしかないのだろう。


 さて当ブログだが、参院選前にはかなりのハイペース(このブログとしては)で記事を投稿してきた。
 その疲れもあるので、このあたりでしばらく休止することにしたい。
 また一、二ヶ月たって、安倍政権に対する危機感が高まってきたら再開するつもりである。
 ではまた、その日まで。その間に何かのスキャンダルでもおきて安倍政権が崩壊してくれるのがベストだが……